パルティアの勇士スレナス




スレナスのものと思われる像


スレナスはパルティアの七大氏族のうちの一つスーレーン氏族の出身である。オロデス2世に仕え、主君の弟にして最大の政敵であったミトラダテス3世を攻め滅ぼした。
スレナスの属するスーレーン氏族はパルティアの七大氏族と言われる大貴族のうちの一つであり、その権力は王に匹敵するものであった。

スレナスの名があらわれるのは、ローマとの戦いにおいてであった。当時のローマは共和政時代の末期であり、カエサルやポンペイウスなどが活躍した時代であった。
三頭政治の一角であったクラッススは彼らの活躍に焦り、自らも軍事的成功を収めて名声を得ようと図った。
紀元前54年、クラッススは精強を誇るローマの歩兵軍団を率いてパルティアに向けて進軍した。当時パルティアは政争が終わった直後であり、ローマの派遣してきた5万の軍勢に匹敵するだけの兵力を整える余裕はなかった。
そこでスレナスは焦土戦術を用い、ローマ軍を自国内に引き入れながら機会をうかがった。
ローマ軍はやがてシリア砂漠を横断してメソポタミアに侵攻しようとした。スレナスはこれを好機と判断し、砂漠でローマ軍に襲い掛かった。
スレナスの手勢は1,000の重装騎兵と9,000の軽装騎兵のみであったが、スレナスは大量のラクダを用意して矢筒を積ませて戦陣の後方に配置した。
パルティア軍はパルティアンショット戦法で攻め、ローマ軍はいつものように防御陣形を組んだ。今までのパルティアとの戦いでは、ローマはパルティア騎兵が矢を打ちつくした時点で反撃を開始するのが通例であったからである。
しかし、この日のパルティア軍の弓攻撃はいつまで経っても終わらなかった。矢を打ちつくした騎兵は後方でラクダ部隊から新たな矢筒を受け取ってすぐさま戦場に戻ったからである。
ローマ軍は強烈な日差しと、足の沈み込むような砂漠によって疲労を蓄積させ、やがて日射病で倒れていった。
パルティア軍には大きな損害もないままに、日没とともにこの日の戦いは終了したが、ローマ軍はすでに壊滅状態であった。
ローマ軍は撤退を開始したが、スレナスもそれを追撃した。指揮官クラッススは息子プブリウスと共に戦死し、捕虜となった1万の兵士を除いてローマ軍は全滅した。
これがローマの大敗北のひとつに数えられるカルラエの戦いである。

スレナスは最強とされたローマ軍を5分の1の兵力で破り、権力と名声を得た。しかしやがて主君オロデス2世に警戒されるようになり、最後には粛清された。

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最終更新:2013年09月01日 20:49