初めに...

Total War: ATTILAの発売が間近に迫っていますが本タイトルのキャンペーンスタート時期、紀元395年とはどういった時代だったのでしょうか。
アッティラという人物自体、日本では知名度の低い人物なので少なからず疑問に思っている人もいるかと思います。
そこでこのページではTotal War: ATTILAに向けて紀元395年という年がどういった時代だったのかを軽く解説していこうと思います。


東西に分割されたローマ帝国

時のローマ皇帝、テオドシウスはその死に際して帝国を東西に分割し二人の息子に与えました。
紀元395年はテオドシウス帝が死去し、ローマ帝国が東西に分割された年であり、それ以降ローマ帝国が再統一されることはありませんでした。

これ以後、西ローマ帝国は次男のホノリウス、東ローマ帝国は長男であるアルカディウスによって統治されることになります。


紀元395年のローマ帝国の現状

この頃のローマ帝国はほぼ完全にキリスト教国化されており、キリスト教の司祭や司教が絶大な権力を振るうようになっていました。
帝国の首都はもはやローマではなく長きに渡って栄華を誇った永遠の都ローマもその重要性を徐々に失っていきました。
西ローマ帝国はゲルマン民族大移動の影響をもろに受ける結果となり、確実に滅亡への道を歩むことになります。
東ローマ帝国も繰り返されるササン朝ペルシアとの戦争、フン族の侵攻により徐々に疲弊していきます。

最後のローマ人、スティリコ

スティリコは西ローマ帝国の軍人であり、滅亡に向かって突き進む西ローマ帝国を支えた最後のローマ人とも名高い人物です。
スティリコはテオドシウス帝のもとで頭角を現し、紀元394年にはローマ軍の総司令官にまで上り詰めました。
そしてテオドシウス帝の死に際し、10歳という若さで西ローマ帝国を継いだホノリウス帝の後見人を勤めることになります。

しかし長い治世の間、ホノリウス帝は宮廷に篭りきりとなり、帝務に全く関心を示さなかった為にスティリコは事実上のローマ帝国軍の最高指揮官として帝国の防衛に奔走することになります。
彼の活躍は目覚しく北アフリカで勃発した反乱の鎮圧、当時帝国領土を荒らしまわっていたアラリック率いる西ゴート族軍を幾度も打ち破るなど絶大な功績を誇りました。
しかしそんな活躍をよそ目に父が蛮族の出身であるスティリコを快く思わない東西ローマ帝国の官僚は彼を半蛮族と差別し、幾度となく妨害工作を謀りました。

ホノリウス帝が成人し、後見人であったスティリコとの関係が疎遠になるにつれ、皇帝側近のオリンピウスが権力を伸ばすと官僚とスティリコとの対立関係はますます激化していくことになります。
そして当時西ローマ正規軍の宿営地が置かれていたパヴィアにてオリンピウスの謀略により蛮族と内通したとしてスティリコ派の一掃がなされると対立は決定的となります。
これに対しスティリコには軍を起こし進軍することも可能でした。実際にボローニャに滞在していた軍団はスティリコ側に立つとも宣言していたのです。

しかし幼少の頃からホノリウスを知るスティリコには皇帝がこの件に関わっているとは信じられず、ラヴェンナにいるホノリウス帝のもとへ弁明に向かいます。
しかしラヴェンナに到着するも、皇帝の居室の扉は彼の前に閉ざされたままでした。ホノリウス帝は自身の治世が始まってから13年間にも渡り、帝国の防衛に奔走した忠臣に会おうともしなかったのです。
代わりにスティリコの前に現れたのはあのオリンピウスで彼は皇帝の下した死刑宣告を読み上げました。内容は蛮族と共謀して帝国の転覆を図った罪、でした。
裁判も行われることすらなくスティリコの処刑は紀元408年8月23日に執行されました。
長年に渡って皇帝に忠誠を誓い、最後まで帝国の防衛に貢献した蛮族出身のローマ帝国軍司令官の生涯はこうして幕を閉じたのです。

彼は間違いなくこの時代の主人公であり、古き良きローマ人のスピリットを宿した「最後のローマ人」と呼ばれるに相応しい人物でした。
彼の死から68年後の紀元476年、西ローマ帝国はついに滅亡することになります。

フン族とは

本作品のタイトルにもなっているアッティラという人物ですが、実は彼の治世はフン族の歴史においては短期間の、それも末期に属する一エピソードでしかありません。
彼の生年は定かではありませんが紀元406年頃と言われているのでゲーム開始時の紀元395年時点ではまだ生まれてすらいないわけですね。

フン族が何者であるのか、その具体的な事は殆どの部分が謎に包まれています。
ただ確実に言える事はフン族は4世紀になって初めてヨーロッパに現れ、彼らがアジアをルーツとした遊牧民の一団であるということだけです。

このフン族とローマ帝国が最初に接触したのは紀元395年、フン族が東ローマ帝国へ大規模な攻撃を仕掛けたのが始まりでした。
それ以降、フン族は断続的にローマ帝国領(主に東ローマ帝国)へ侵攻を繰り返します。
一方では、ゲルマン民族との戦闘に際し、西ローマ帝国側に傭兵として参加したりもしています。

ゲルマン民族の大移動

紀元376年、フン族に押された西ゴート族がドナウ河を渡りローマ帝国領へ侵入したのが始まりとされています。
それに続いて東ゴート族、アラン人、さらにはフン族を裏切ったフン人などが次々とローマ帝国領内に侵入していきました。
この帝国内を移動する軍・民混合となったゴート・アランの集団は後のローマ帝国に甚大な影響を与えることになります。

プレイアブルとして登場する各勢力


ササン朝ペルシア


ササン朝ペルシアは長年ローマ帝国の仮想敵国的な存在であった大国パルティアを滅ぼし、紀元226年頃に台頭してきたペルシア系の国家です。
ゾロアスター教を国教にした最後の国であり、首都はパルティアと同じクテシフォン。
アケメネス朝ペルシャの再興を旗印にローマ帝国と幾度となく衝突しました。

過去にはシャプール一世が時のローマ皇帝を捕虜にするなどの大戦果を上げました。

西ゴート族


西ゴート族はゲルマン系の部族であり、紀元376年にダキアを経てドナウ河を渡り、ローマ帝国領内に侵入した部族です。
ゲルマン民族の大移動の先駆けとして知られていますが、もともとは傭兵や農耕に従事することを条件にローマ皇帝の許可を得た上での移住計画でした。
しかし予想を遥かに超えた数の西ゴート族がドナウ河を渡ったこと、それに乗じたアラン人や東ゴート族の侵入が重なりそれが後にゲルマン民族の大移動と呼ばれるようになりました。
西ゴート族は一向に改善されないローマ帝国領内での待遇を不満とし、武器を取り東ゴート、アラン人と連携して遂には紀元378年に、ハドリアノポリスの戦いでローマ帝国軍を打ち破りました。
これにより以後、西ゴート族は軍事力を保持したまま帝国内に居座る結果となり、後のローマ帝国の歴史に甚大な影響を与えることになりました。

西ゴート族はその後、フランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配した西ゴート王国を建国することになります。

東ゴート族


東ゴート族は元々は現在のウクライナ、モルドバあたりに農耕定住民として定着していたゲルマン系の部族です。
紀元375~376年頃に東方から侵攻してきたフン族と衝突し、その際に王であるエルマナリクを殺され、フン族の支配下に入りました。
その際に難を逃れた多数の東ゴート族の民が西ゴート族のもとへ潰走したことでパニックを引き起こし、これがゲルマン民族の大移動のきっかけとなりました。

東ゴート族はその後、イタリア半島全域からパンノニアまでを支配する東ゴート王国を建国することになります。

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最終更新:2015年02月14日 21:11