1950年代中盤から現在に至るまで「アメリカのセックスシンボル」と称される。モンローというステージネームは彼女の母親の姓である。
身長166.4cm、体重53.5kg。スリーサイズはB94 W61 H86。トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の髪の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。



●生い立ち
ノーマは片親家庭に生まれた。アメリカ合衆国には戸籍がないので、出産直後に医者が書く出生証明書が法的な意味をもつことになっている。彼女の出生証明書には、父:エドワード・モーテンセン、母:グラディス・モンロー・ベイカー、氏名:ノーマ・ジーン・モーテンセンと記載されていて、彼女の本名がノーマ・ジーン・モーテンセンであることに異論はないが、母と同じアパートに住んでいたスタンリー・ギフォードという男性が本当の父親であるという説もある[1]。 後年大人になったノーマがギフォードに電話したことがあるが、会うことは拒否されている。モンローは正式な書類にサインするときはモーテンセンの姓を使ったが、そうでないときは母親の姓を使ってノーマ・ジーン・ベイカーと名乗ることが多かった。
ノーマという本名の由来は、映画好きな母グラディスが当時好きだった女優ノーマ・タルマッジからとったとされる。ジーンは1930年代のセックス・シンボル、ジーン・ハーロウに由来する。母グラディス・ベイカー(旧姓モンロー)は「モンロー宣言」で知られるジェームズ・モンロー大統領が先祖であると周囲にもらしていたが、娘のモンロー自身は一笑に付したとされる。
日本語訳されている評伝のなかには、モンローは孤児だったと記されているが、母親がいたのだから日本語では孤児と呼ぶことは出来ない。これは彼女が孤児院(orphanage)や養子として育てられたために受けた誤解である。またモンローには父親違いの7つ年上の姉が居る。姉とは女優になってからも気にかけていて、手紙をやりとりし互いに訪ね合うほど親交があった。その姉はモンローの葬儀に参列している。ジョー・ディマジオと共に葬儀の準備にあたり、マリリンの死装束を選んだのも他ならぬこの姉であった[2]。
モンローの母親は大手映画製作会社のRKOでフィルムカッターの仕事をしていたが、精神病を患っていて職場の同僚グレース・マッキー(後に結婚してGoddard「ゴダード」)が彼女の保護者になった。マッキーが1935年に結婚した後、モンローはロサンゼルスの孤児院へ、その後伝えられるところでは性的虐待及びネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うようになってしまった。当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、モンローもいくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えなかった。

●最初の結婚

第二次世界大戦下の1942年、16歳のときに半年で高校を中退しグレース・ゴダードの叔母で母の友人アナ・ロウアーのすすめで、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。ジムはロッキード航空機製造会社に整備工として勤務していたが、その後海軍に徴兵され輸送船団に乗り組むことになった。独りになったノーマは航空機部品工場レイディオ・プレーン社に就職し、自活の道を歩き始めた。

●受賞歴
ゴールデングローブ賞
受賞
   1954年 ヘンリエッタ賞:
   1960年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『お熱いのがお好き』
   1962年 ヘンリエッタ賞:

ノミネート
   1957年 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『バス停留所』
最終更新:2012年01月08日 21:35