マリリン・マンソン (英語: Marilyn Manson、本名:ブライアン・ヒュー・ワーナー(Brian Hugh Warner)、1969年1月5日 - )は、アメリカ合衆国のミュージシャン。ロックバンド「マリリン・マンソン」のリードヴォーカリスト。




●生い立ち
1969年1月5日、オハイオ州のカントンに生まれる。父親はカトリック教徒であり、母親は米国聖公会の教会員であった。『マリリン・マンソン自伝 – 地獄からの帰還 – 』によると、父方はドイツ人とポーランド人を先祖に持つという。母親の信仰でカントンの教区学校に通い、のちに転校するが、1987年に高校を卒業した。

両親によってカトリックの私立中学校に入学させられ、ハルマゲドンやイエス・キリストについて嫌というほど教え込まれた。使用していたノートに、「こんな生活やだ」との一文を何度も繰り返し書き続けたらしく、そのノートを見た親や教師に幾度も殴られたという。その反発から麻薬や煙草に手を出し、さらにタトゥーを入れるなどして素行不良になった結果、退学処分を受けた。それが現在の反キリスト的な歌詞などを書くようになった原因の一つと言われている。周囲には「変態ポルノを見せつけてくる年上の親戚」や、「服を脱がせて囚人ゲームに興じる隣人」、「ベトナム戦争中に秘密部隊に属し、無辜の一般市民を多数殺害した父親」、「地下に自身のアブノーマルなマスターベーション専用の部屋を設けていた祖父」など、常軌を逸した人間が多かった。これがボンテージファッションを嫌いになった原因である。それによって受けた形而上的な虐待、迫害から孤独になるも、そこからの現実逃避としてロックに出会ったという。

1990年頃に二年制大学でジャーナリズムと劇文学を専攻していた。その大学でバンドを結成することになる仲間らと出会い、バンド活動を始動。ジャーナリストの地位を目指して努力し、南フロリダの『ライフスタイル』や『25thパラレル』などの雑誌で音楽記事を書いて野外で経験を積んだ。この頃にナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーなどと出会った。


●音楽活動
1989年にフロリダ州にて「マリリン・マンソン&ザ・スプーキー・キッズ」を結成。1992年にこのバンド名を短縮し、「マリリン・マンソン」とした。

このバンドが1993年の夏にトレント・レズナーからの注目を受け、1994年〜マリリン・マンソンのデビューアルバムとしてナッシング・レコードより「ポートレイト・オブ・アン・アメリカン・ファミリー」を発売。1995年に「スメルズ・ライク・チルドレン」を発売したことで、バンドはカルト的な人気を獲得し始めた。1983年のユーリズミックスのヒット曲「スウィート・ドリームズ」をコンパクト盤でカバーした。トレント・レズナーと共同製作し、1996年に「アンチクライスト・スーパースター」を発売したことでより大きな成功を得た。アメリカ単独でプラチナレコード(ゴールドディスク)に認定され、3枚のアルバムのうちの2枚がトップテンに入っている。

マンソンは初め、ジャック・オフ・ジルの設立者として働いた。バンド名を付けた彼はバンドの初期の記録作成を手伝い、『マイ・キャット』をギターで演奏した。南フロリダの大部分でショーを開いている。

DMXというラッパーのアルバム「フレッシュ・オブ・マイ・フレッシュ,ブラッド・オブ・マイ・ブラッド」と、マンソンが立ち上げたレーベル「ポストヒューマン」で唯一活動していたゴッドヘッドのアルバム「2000イヤーズ・オブ・ヒューマン・エラー」のゲストパフォーマーとして出演している。1993年に公開され、2007年に3D化された『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の音楽に使われているダニー・エルフマンの『ディス・イズ・ハロウィーン』をカバーしており、それは2008年発売のカバーアルバム『ナイトメア・リヴィズィテッド』に収録されている。

●映画とテレビ出演

マンソンはデヴィッド・リンチの映画『ロスト・ハイウェイ』にて俳優デビューを行ってもいる。以来『パーティ★モンスター』、当時の婚約者であったローズ・マッゴーワン主演の『ハード・キャンディ』、アーシア・アルジェントの『サラ、いつわりの祈り』、『ブラッド』などといった作品にて、様々な脇役での出演および特別出演でその姿を見せた。

マイケル・ムーアの政治ドキュメンタリー『ボウリング・フォー・コロンバイン』にて扱われているコロンバイン高校銃乱射事件について、マンソンの曲が原因ではないかという申し立てがなされたことについて、ムーアのインタビューに答えていた。『クローン・ハイ』というアニメに出演し、MTVの『セレブリティ・デスマッチ』にて、ショーの非公式の優勝者とマスコットに扮して参加している。クレイアニメによる操り人形を用いて声を演じ、サウンドトラックアルバムに「アストニッシング・パノラマ・オブ・ジ・エンドタイムズ」を寄贈している。

2005年7月、マンソンはローリング・ストーンに「僕は音楽から映画製作に焦点を移してきた。現在、世界が音楽に価値があるとみなしているとは思わない。もはやほかの人間による芸術;特にレコード会社を反映したものは作りたくない。自分の芸術を作りたい」と述べた。俳優のジョニー・デップは、映画『チャーリーとチョコレート工場』にてウィリー・ウォンカ役として出演した際に、マンソンのパフォーマンスにひらめきを得て演技に利用した。マンソンは映画のウィリーウォンカ役のデップの演技に興味を示した[29]。「不思議の国のアリス」の作者ルイス・キャロルの映画『ファンタズマゴリア:ザ・ビジョンズ・オブ・ルイス・キャロル』の監督を務めた。この映画では監督/主演/音楽を自ら手掛け、アリス役にはファッションモデルのリリー・コールを起用した。[30]


●芸術活動

2004年、マンソンは『i-D』という雑誌のインタビューにて、1999年から水彩活動を始めたことを語った。2002年9月13日から14日にかけて、ロサンジェルスの現代画展センターにて、マンソン初の水彩画の展示会「ゴールデン・エイジ・オブ・グロテスク」が開かれた。「アート・イン・アメリカ」のマックス・ヘンリーは、マンソンの作品を「精神病患者が芸術療法として物質援助を受けた」作品にたとえて、著名人として描いたその絵の価値を「彼の作品は美術作品として真剣に受け止められることはないだろう」と述べた[31]。

2004年9月14日から翌15日にかけて、フランスのパリおよびドイツのベルリンにて、2回目の展示会が開かれた。展示品の中心の題名でもある『Trsismegistus』と名付けられた展示会では、大きな3つの頭のキリストが、持ち運び可能な死体防腐処理者のテーブルからアンティークの木の羽目板の上に塗られている。マンソンは自身の芸術運動を「セレブリタリアン・コーポレーション」と称した。この運動のために「俺たちはそこにいる奴らに(俺たちの)恐れを売る」という標語を作った。2005年、マンソンは「セレブリタリアン・コーポレーション」が正確には1998年に何らかの形で始まっており、7年間培養させていたことを示している、と述べた[32]。

「セレブリタリアン・コーポレーション」は、3度目の展示会が開催されたロサンゼルスにあるマンソンの美術館と同名であり、「セレブリタリアン・コーポレーション・ギャラリー・オブ・ファイン・アート」と呼んだ。2007年4月2日から17日にかけて、彼の最近の作品がフロリダ州のある美術館に展示されている。この展示会での40作品はドイツケルンのブリギッテ・シェンクという美術館へと移されたうえで、2007年6月28日から2007年7月28日にかけて公的に展示された。マンソンは展示会の初日の夜に出席するために同地にいたが、ケルン大聖堂への入場を拒絶された。化粧が原因であったが、別の情報源では複数の理由が挙げられた[33]。


●ビデオゲーム

マンソンは、『エリア51』というテレビゲームにて、「エドガー」という名のグレイ役として出演している。『クルシ・フィクション・イン・スペース』という楽曲は『ザ・ダークネス (ゲーム)|ダークネス』というゲームのコマーシャルにて使用された。テレビゲーム『セレブリティ・デスマッチ』にはマンソンの似顔絵が使われており[34]、2003年に彼がサウンドトラックにレコーディングした歌が使われている。『ユーズ・ユア・フィスト・アンド・ノット・ユア・マウス』という楽曲は、ゲーム『コールド・フィアー』ならびに『スポーン:アルマゲドン』にクレジット名で入っている。


●アブサン

スイスで作られているリキュールのアブサンを、マンソンの自社ブランド『Mansinthe』として作ることにも着手している。匂いを汚水と比較したり、味を「小便なみに酷い」と酷評した批評家など賛否両論を受け、アブサンの「Versinthe」が、上位5つのうち2位となり、2008年のサンフランシスコ・ワールド・スピリッツ・コンペティションで金メダルを勝ち取った。
最終更新:2012年01月08日 21:25