+ ロバート・セシルと王ジェームズ6世の「円滑な王位継承の準備」
1601年2月王ジェームズ6世は「次のイングランド王にしてね♥」とマー伯 J. Erskine をイングランドへ送ります。
でもお目当ての交渉相手エセックス伯 ロバート・デヴァルー (女王エリザベス1世の重臣)が処刑( エセックスの反乱 )。げっ!
3月なんとかロバート・セシル(女王エリザベス1世の重臣)の信頼をゲト。王位継承の交渉が始まります。
wikipedia

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Van de Passe family 画「James I and his royal progeny」(1622年)

ちなみに王ジェームズ6世の娘 エリザベス は女王エリザベス1世へ敬意を表した命名です。次のイングランド王にしてね♥
娘エリザベスとボヘミア王 フリードリヒ5世 の娘 ゾフィー 王ジョージ1世 ハノーヴァー朝 )の母親。
21世紀のイギリス王室( ウィンザー朝 )も娘エリザベスの家系に繋がってます。 系図 を見た方が分かりやすいかも。

ロバート・セシルと王ジェームズ6世の「円滑な王位継承の準備」(Secret correspondence:秘密の手紙)

ロバート・セシルは「円滑な王位継承の準備」のために王ジェームズ6世へ「段取り八分仕上げ二分」を徹底させます。
  • イングランド議会 へ王位継承の承認を求めないコト。
  • ロバート・セシルと王ジェームズ6世(名代マー伯たち)の王位継承に関する手紙のやりとりは絶対に女王エリザベス1世に悟られないコト。
「秘密の手紙」は1601年5月~1603年3月までコッソリ続きます。偽名やアレコレ経由( 外交用郵袋 とか)をご利用。
手紙に登場する個人名には番号をご利用。
John Bruce 著「Correspondence of James VI with Cecil」(1861年)によると登場する番号はこんな感じです。

イングランド スコットランド
0 ノーサンバーランド伯 Henry Percy 8 キンロス卿 Edward Bruce (王ジェームズ6世の名代)
2 ウォルター・ローリー (おそらく) 9 Mr. David Foulis(王ジェームズ6世の名代)
3 ノーサンプトン伯 Henry Howard
7 コバム男爵 Henry Brooke
10 ロバート・セシル 20 マー伯J. Erskine(王ジェームズ6世の名代)
24 女王エリザベス1世 30 王ジェームズ6世
40 ロバート・セシルの仲間(名前が解明されてない)

「秘密の手紙」がやりとりされてる間、女王エリザベス1世と王ジェームズ6世の関係に特別な変化はありません。
でも1602年6月頃までには女王エリザベス1世の印象は良くなってるっぽい。
歴史家 John Duncan Mackie 曰く「前年より王ジェームズ6世への手紙が親しげだし年金の支給も増額してる」そうです。

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ロバート・セシルの手紙「Letter from Robert Cecil, Earl of Salisbury, to Henry Griffen, calling upon him to contribute to the war against the rebels in Ireland, 1602 Oct. 13.」

こちらの画はロバート・セシルの直筆です(内容は本文とはぜーんぜん関係ないの)。ロバートってこんな字を書くのね。
女王エリザベス1世が「秘密の手紙」に気が付いてたかは不明。
後に元・エセックス伯の秘書 H. Wotton (エセックス伯が処刑されたので海外へ逃亡中)が語った逸話があります。

ある日女王エリザベス1世はスコットランドから到着した手紙に気が付きました。
女王エリ「ロバート、お前の肩掛けカバンの中をお見せ」
ロバート「陛下、このカバンは不潔だし臭います」
その後ロバート・セシルは女王エリザベス1世に風通してニオイの取れた手紙(別モノ?)を見せましたとさ。


+ ロバート・セシルと王ジェームズ6世の「王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世に即位」
晩年の女王エリザベス1世は親しい友人たちの死で鬱状態。1603年3月病に倒れると明らかに死の影が忍び寄ってきます。
ロバート・セシルは王ジェームズ6世へ「イングランド王位継承の同意書」を送付。
3月24日夜2-3時女王エリザベス1世が リッチモンド宮殿 (女王エリザベス1世の大好きな自宅)で亡くなります。享年69。
wikipedia

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Paul Delaroche 画「The Death of Elizabeth I, Queen of England」(1828年:ルーヴル美術館)

「イングランド王ジェームズ1世の王位継承」の宣言

女王エリザベス1世が亡くなった数時間後、ロバート・セシルと枢密院は予め準備してた計画を実行します( 秘密の手紙 )。
ロンドンで「イングランド王ジェームズ1世の王位継承」を宣言。
数日後女王エリザベス1世のご遺体は ホワイトホール宮殿 へ運ばれます。4月28日 ウェストミンスター寺院 に埋葬。

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M. Boudreau画「Funeral of Queen Elizabeth I, 28th of April, 1603」

女王エリザベス1世のご遺体は鉛で包んだ木製棺に納棺されました。棺の上には彩られた木製の 葬儀彫像 (funeral effigy)。
紫色のビロードで覆った棺は4頭の 葦毛馬 に引かれた チャリオット でウェストミンスター寺院へ。
王ヘンリー7世 (女王エリザベス1世の祖父)の 埋葬室 に埋葬されます。1606年女王メアリー1世(〃の異母姉)のお墓へ移葬。
Westminster Abbey (Elizabeth I)さんより~

王ジェームズ1世の上洛

4月5日王ジェームズ1世はエディンバラを発ってロンドンへゆっくり南下します。新しい王様を各地が大歓迎。
王ジェームズ1世は「石製ベッド(couch)がフワフワな羽毛ベッド(bed)に代わった」と豊かなイングランドにビックリ。
女王エリザベス1世の葬儀が終わった5月7日ロンドンへ入城。7月25日イングランド王の 即位式 が行われます。

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作者不明「Coronation of James I」(1831年)

ちなみに新しい王様を大歓迎のハネムーン期間はあっという間に終了します。最初の試練は イングランド議会 の態度。
なにかと「王様って所詮はスコットランド人。イングランド人じゃない。」と言われちゃうの。
王ジェームズ1世は グレートブリテン (同君連合)の王様のつもりだったけど、皆さんにとって2国は別モノです。
wikipedia

ちなみにちなみに王ジェームズ1世はスコットランドに「3年毎に戻るからね」と約束してイングランドへ旅立ちました。
でも実際に戻ったのは1617年の1回だけ。
スコットランドの統治は王様の名代 スコットランド高等弁務官 にお願いしてます。


+ 女王エリザベス1世と元・女王メアリー(王ジェームズ1世の母親)のお墓の引っ越し
1587年元・女王メアリーは ピーターバラ大聖堂 、1603年女王エリザベス1世は 王ヘンリー7世 埋葬室 に埋葬されました。
王ジェームズ1世は女王エリザベス1世の棺を女王メアリー1世のお墓へ移葬。
その後元・女王メアリー(王ジェームズ1世の母親)の棺も ウェストミンスター寺院 へ移葬します。2人はお向かいさん。

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歴代の王が眠るウェストミンスター寺院(ロンドン)

女王エリザベス1世と元・女王メアリーのお墓はウェストミンスター寺院の東側 Henry VII Chapel にあります。
ちなみに正面 聖母礼拝堂 は1940年 バトル・オブ・ブリテン で損壊。
空軍元帥トレンチャード子爵 H. Trenchard の働きで修復。勇敢に戦ったパイロット1,497人の栄誉名簿が奉納されてます。
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女王エリザベス1世のお墓の引っ越し

1606年王ジェームズ1世は女王エリザベス1世の棺を女王メアリー1世(女王エリザベス1世の義母姉)のお墓へ移葬します。
白い大理石のモニュメントも建築。
ちなみにこちらの4頭のライオン像は金メッキされてました。 宝珠 王笏 は数世紀前に盗まれたのでレプリカ。
Westminster Abbey (Elizabeth I)さんより~

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女王エリザベス1世と女王メアリー1世のお墓

モニュメントにはラテン語の墓碑も付いてます(訳は超テキトー)。2人のお墓なのに女王メアリー1世は完全スルー。
復活したとき険悪にならない?
っていうか、そもそもなんで王ジェームズ1世は2人を一緒にしたんでしょね。

天蓋の墓碑(頭側)

Memoriae Aeternae
Elizabethae, Angliae, Franciae, & Hi∣berniae* Reginae R. Henrici VIII. fil. R. Hen. VII. nept. R. Edw. IV. pronept. Pa∣triae, Parenti, Religionis, & honorum Artium altrici, plurimarum linguarum pe∣ritia, praeclaris tum animi tum corporis dotibus regiisque virtutibus supra sexum Principi incomparabili
Jacobus Magnae Britanniae, Franciae, & Hiberniae Rex virtutum & Regnorum haeres bene merenti pie posuit.
イングランド、フランス及びアイルランドの女王、王ヘンリー8世の娘、王ヘンリー7世の孫娘、王エドワード4世のひ孫娘。信仰の擁護者、教養と全ての言語、優雅な天分と豪壮な美徳を備えたる国の母エリザベス1世。
彼女の美徳と王国を受け継ぐ グレートブリテン 同君連合 )、フランス及びアイルランドの王。信心深く公正なジェームズ1世によりモニュメントを建造する。

天蓋の墓碑(足側)

Memoriae Sacrum.
Religione ad primaevam sinceritatem re∣staurata, pace fundata, moneta ad justum valorem reducta, rebellione domestica vin∣dicata, Gallia malis intestinis praecipiti sublevata, Belgio sustentato, Hispanica classe profligata, Hibernia pulsis Hispanis & Rebellibus ad deditionem coactis pa∣cata, redditibus utriusque Academiae lege Annonaria plurimum adauctis, toto de∣nique Anglia ditata, prudentissiméque annos 45. administrata:
Elizabetha Re∣gina victrix, triumphatrix, pietatis stu∣diosissima, foelicissima, placida morte Septuagenaria soluta, mortales reliquias dum Christo jubente resurgant immorta∣les, in hac Ecclesia celeberrima ab ipsa conservata, & denuo fundata, deposuit. Obiit 24. Martii, anno salutis. M. DC. II. Regni XLV. Aetatis LXX.
45年の君臨において本来の宗教への回復(英国国教会)、平和の確立、大改鋳( グレシャムの法則 )、国内反乱を鎮圧、分断されたフランスへの救援( ユグノー戦争 )、ネーデルラントへの支援( 八十年戦争 )、無敵艦隊を撃破( アルマダ海戦 )、スペインに支援されたアイルランド反乱軍をほぼ鎮圧( ティロン伯の反乱 )、法整備によるboth universitiesの増収、そしてイングランドを繁栄へ導いた最も慎重な支配者。
勝利の栄光に輝き、最も厳しく信心深く、最も幸福な…(中略)…女王エリザベス1世。70年の人生と45年の君臨を終えて アンノ・ドミニ(主の誕生元年) 1602年3月2(=西暦1603年)死の眠りに就く。

モニュメント下の墓碑

Regno consors & urnâ hic obdormimus Elizabetha & Maria sorores in spe resurrectionis.
王座とお墓のパートナー、姉妹エリザベス1世とメアリーは 復活 のときまでここに眠る。

元・女王メアリー(王ジェームズ1世の母親)のお墓の引っ越し

1606年王ジェームズ1世は元・女王メアリーの棺をウェストミンスター寺院へ移葬します。女王エリザベス1世の南側。
白い大理石のモニュメントも建築。
女王エリザベス1世のモニュメントより高いんだって。足元には スコットランド王の紋章 「赤いライオン」が立ってます。
Westminster Abbey (Mary Queen of Scots)さんより~

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元・女王メアリーのお墓

ちなみにお隣は マーガレット・ダグラス のお墓。棺で息子ダメ夫ダーンリー卿 ヘンリー・ステュアート が跪いてます。
ダメ夫ダーンリー卿は元・女王メアリーの2番目の夫(王ジェームズ1世の父親)。
もしかしたら元・女王メアリーは「 ダメ夫ダーンリー卿殺害事件 の共犯者」かもしれません( 小箱の手紙 )。

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マーガレット・ダグラスのお墓

モニュメントにはラテン語の墓碑も付いてます(訳は超テキトー)。女王の偉業を讃える記載はまったくナシ。
とにかくイングランドとの血統の繋がりを強調してるっぽい。
アレコレやらかした陰謀の「共犯はウソ」で、「ウソ」のせいで処刑されたと主張してるっぽいです。

天蓋の墓碑かしら?

スコットランド及びフランスの女王、スコットランド王ジェームズ5世の娘、唯一の王位継承者。イングランド王ヘンリー7世のひ孫-彼の長女マーガレット・テューダーを通して-、イングランド王エドワード4世の玄孫-彼の長女エリザベス・オブ・ヨークを通して-。フランス王フランソワ2世の王妃、そして生前のイングランド王位継承者。グレートブリテンの王ジェームズ1世の母メアリー。…(中略)…20年間の勾留中も勇敢かつ壮健であり、アホアホたちからの誹謗と戦い、そして敵の斧に倒れる。…(中略)…後生の全てがこの不幸な殺人の目撃者である。46年の人生を終えてキリスト紀元1587年2月8日死の眠りに就く。あーたらかーたら

後生の人々は彼女の身の潔白( ダメ夫ダーンリー卿殺害事件 バビントン事件 、…)を証明し、この世から不当な処刑人、拷問、投獄、絞首台を消し去らなければならない。…(中略)…彼女の人生は神より幸福と受難のときを与えられた。そして吉兆の運命である アテーナー ミューズ ディアーナ 、運命の三女神(the Fates revere)の恩寵を受けた王ジェームズ1世を産み落とした。偉大なる婚姻、偉大なる血統、最も偉大なる彼女の後継者。ウソが娘、花嫁、王ジェームズ1世の母親を奪い去った。あーたらかーたら

H.N(ノーサンプトン伯 ヘンリー・ハワード )ここに謹んで哀悼の意を表する。

最終更新:2017年01月19日 12:43