ガレオン船ゴールデン・ハインド号


フランシス・ドレイク (サーはまだ)は、1577年女王エリザベス1世から「マゼラン海峡経由で南米調査するのぢゃ」と任命されます。
ってわけで、ゴールデン・ハインド号(黄金の雌ジカ)で史上2番目の世界一周を達成。
元の名前は ペリカン号 。改名は出資者 クリストファー・ハットン卿 (女王と踊った羊ちゃん)の紋章にちなんだお名前です。
wikipedia

進水 1577年
排水量 300t
積載量 100~150t
乗組員 海軍士官:20名
水夫:40~60名
甲板員:10~12名
マスト 3檣
横帆:5~6枚
縦帆:1枚
帆の総面積:386平方米
帆を張った時のスピード 15km/h(8ノット)
ママチャリの速さくらい
大砲 22門

船の大きさは排水量…うーん、ちんぷんかんぷん。サイズで比べてみたらJALやANAの飛行機よりちっちゃかったです。
水夫は「俺たちは強いんだぜ」と効果を出すために背の高い人を採用。
現地の人に舐められないようにってこと?この時代の平均身長は165cm(5'4")。サー・フランシスは約170cm(5'6")だそうです。

+ 断面図


ゴールデン・ハインド号の公開展示


1580年9月26日世界一周したゴールデン・ハインド号はプリマスに帰港します。生還した乗組員は56/80人。
女王エリザベス1世は船を デットフォード王立造船所 (ロンドン)に移動。
F&B時代には珍しい公開展示で「イングランド女王の歴史的な意義」を世間にアピールします。残念ながら1660年朽ち果てて解体。

デットフォード王立造船所(1581年)

+ ゴールデン・ハインド号は朽ち果てちゃったけど


フランシス・ドレイクのログブック


南米調査の1つは、出資者(Sponsorship)の情報によると「北緯32°~50°で大西洋と太平洋を結ぶ海峡を探す」だったようです。
航海の詳細な記録 ログブック はとーぜん国家最高機密!ロンドン塔に厳重保管されてナイショ。
ゴールデン・ハインド号の牧師 フランシス・フレッチャー でさえ、 カリフォルニア 周辺の記録はお茶を濁してます。

点検修理するゴールデン・ハインド号(カリフォルニア)

ってわけで、21世紀になっても南米調査の航海は謎だらけ。えっ!ロンドン塔のログブックはどうなっちゃったの?


チャリンチャリンとナイト


フランシス・ドレイクが女王エリザベス1世に献上した金銀財宝は£30万以上。当時のイングランド国庫歳入よりも多いです。
出資者への配当は4,700%。
なーんと!1万円が47万円になっちゃうんです。

女王が剣でドレイクの肩をポンポンするナイトの授爵式(ゴールデン・ハインド号)

1581年4月4日女王は絶賛公開中ゴールデン・ハインド号でドレイクと一緒にお夕飯を食べ、ナイトの授爵式をしました。
サー・フランシス・ドレイクの誕生に見物人がいっぱい。
Nicola van Sype著「La herdike enterprinse faict par le Signeur Draeck」(1581年)によると「見物人100人いた木製橋が崩壊」です。


レプリカ


ゴールデン・ハインド号は朽ち果てちゃったけど2隻のレプリカが造られてます。
デヴォン州ブリクサムのレプリカ The Golden Hind は1963年復元。
ロンドンのレプリカ Golden Hinde II は1973年忠実に復元。1979年アメリカTVドラマ「 SHOGUN 」の撮影で日本にも来てます。

ゴールデン・ハインドII号の航海経験は世界5周分


世界一周のルート


ルートの日付や地名は資料によってびみょーに違います。
地図と航海年表はこちら The Golden Hind (Voyage of the Golden Hind)を参考にさせて頂きました。


+ ざっくり航海年表


マゼラン海峡


マゼラン海峡は、スペインの援助で1520年史上初の世界一周を達成した フェルディナンド・マゼラン が発見しました。
21世紀になっても熟練者じゃないと通過に苦労する難所で、1914年 パナマ運河 が開通するまで太平洋~大西洋の最重要な近道航路。
なーんと、食糧不足だったマゼランはペンギンを捕まえて食べていたそうです。
wikipedia

マゼラン海峡 住人


ドレーク海峡


ドレーク海峡は、南太平洋で暴風雨に遭ったゴールデン・ハインド号がホーン岬付近に漂着して大西洋へ出たことで発見しました。
荒れっぷりが世界屈指の「絶叫する60度(南緯60度にあるから)」の海域。
偏西風や海流をさえぎる陸地がないから風速や波が絶好調になっちゃうんです。ナイジェル!近づかないでー!
wikipedia

絶好調のドレーク海峡 ホーン岬

ホーン岬 にはニセモノがあるのでご注意。 偽ホーン岬 は西からの航海だとホンモノに誤解されやすい位置にあります。
「わーい、ホーン岬を通過したあ♥」と誤解した船は東へ。
そしてウォラストン諸島に出くわして難破。帆船時代にはこういう船がいっぱいあったそうです。

+ あとちょびっとで南極


スペイン商船ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン(我らが聖母マリア)


スペイン商船ヌエストラはペルー~パナマ間を貿易するガレオン船(120t)です。通称Cagafuego(英語:fireshitter)。
カヤオ港で情報ゲトしたドレイクは、エスメラルダス沖でお目当てのスペイン商船を発見!
あーっという間に制圧して36kgの金・26tの銀・金製の 十字架 ・宝石・王族の食器(チェスト13箱)を強奪しました。ウハウハ。
wikipedia

ウハウハのドレイクはスペインの士官や貴族達をお夕飯にご招待

+ なんであーっという間だったの?


クローブ


クローブはローマ帝国の頃にはナツメグやコショウと共に知られていた香辛料です。
15世紀後半ポルトガルは モルッカ諸島 から大量に輸入。16世紀マゼランを支援したスペインが参入。17世紀オランダが支配。
とにもかくにも高価で貴重な香辛料で、17~18世紀イングランドではクローブの価値が金の重さと一緒でした。
wikipedia

ポマンダー (16世紀:イタリア)

18世紀フランスはモーリシャス(アフリカ)でのクローブ植樹に成功。
ヨーロッパの人達はギアナ・ブラジル・西インド諸島・ザンジバル…っとあちこち植えまくってます。


関係ないけどセルクナム族


フエゴ島の先住民セルクナム族は、スペイン人の入植で20世紀中頃に絶滅した狩猟民族です。
牧場の牛や羊を狩猟したために殺されてしまった。
スペイン人の感覚では「私有財産」、セルクナム族の感覚ではそこら辺にいるフツーの「獲物」だったんです。そーゆー時代なのね。
wikipedia

儀式?


そしてイギリス東インド会社


世界一周に成功したイングランドは世界の海へ進出開始。1600年アジアと貿易する勅許会社 イギリス東インド会社 を創設します。
あっちこっちに商館をガンガン開設。
ジャック・スパロウ も東インド会社の商業用大型船ウィキッド・ウェンチ号(Wicked Wench)の元・船長です。

東インド会社は清(中国)から紅茶を輸入

+ 勅許会社ってなに?


そして紅茶


最初にヨーロッパで紅茶を楽しんだのは16世紀貿易の先進国ポルトガル。イングランドに紅茶が登場したのは17世紀中頃です。
1662年ポルトガル王女 キャサリン・オブ・ブラガンザ が紅茶持参で イングランド王 に嫁いだのが始まり。
毎日ガブガブ飲んでいた。っといっても紅茶は超高級品。平民の皆様は17世紀末イギリス東インド会社が輸入するまでお待ち下さい。
wikipedia


東インド会社の社員 トーマス・トワイニング Twinings 創設者)は、1706年世界初の紅茶店トムズ・コーヒーハウスをオープン。
この時代の コーヒーハウス は女人禁制が一般的で、どんな階級の女性も出入り自由なお店は大人気。
紅茶習慣が平民の皆様にもどんどん浸透して、1717年にはイギリス初の紅茶専門店ゴールデン・ライオンもオープンします。
~トワイニングさんHPより~

+ イギリスの紅茶への道のり

+ 紅茶といえばアフタヌーン・ティー


そしてティーバッグ


ティーバッグは、勘違いした誰かが紅茶の袋詰めサンプルをそのまま煮出しちゃったのが始まりだそうです。こりゃ楽チンだ!
1904年頃には世間に出回って、ニューヨークのコーヒー貿易商Thomas Sullivanが大々的に販売。
作法にこだわるイギリスは1953年 テトレー が販売。こりゃ楽チンだ!と、あーっという間に人気者になりました。
wikipedia

ティーバッグ1100袋入り

テトレーは1837年創設のイギリス紅茶会社。イギリス、アメリカ、オーストラリア…40ヶ国以上で販売してます。
2000年インドのタタ財閥 タタ・グローバル・ビバレッジズ の傘下へ。
昔のCM動画はこちらhttp://www.youtube.com/watch?v=g1gUxFXqcG8(1989年)をどうぞ。出演は Tetley Tea Folk の皆様。


サー・フランシス・ドレイク


フランシス・ドレイク(1540頃–1596年)は船長、 私掠船 、海洋探検家、奴隷商人です。
El Draque(悪魔の竜)と恐れられ、スペイン王フェリペ2世はお尋ね者ドレイクに20,000 ダカット (≒7億円)の賞金を出したらしい。
最終階級はイギリス海軍 中将 。ドレイク一族の子孫 Francis William Drake (1724–1788年)も中将です。
wikipedia

作者不明「 Thomas Cavendish , Sir Francis Drake and Sir John Hawkins」(17世紀)


ドレイク船長の誕生


ドレイクは1540年頃 タビストック で誕生。12人兄弟の長男。名付け親はベドフォード伯 フランシス・ラッセル らしいです。
父エドマンド・ドレイクはプロテスタントの農民。
1549年 祈祷書反乱 で一家は ケント に避難。ドレイクは近所でフランス貿易をしてる船長の下で働きます。

Samuel Fisher画「タヴィストック修道院」(1830年)

子供がいなかった船長はドレイクの仕事っぷりに大満足して、自分の バーク 船をドレイクに遺産相続。
ぱんぱかぱーん♪ドレイク船長の誕生であーる。


奴隷貿易


23歳になったドレイクは、従兄 ジョン・ホーキンス (デットフォード王立造船所の人)の奴隷貿易に参加します。
イングランドの奴隷貿易は1554年 John Lok 、1557年William Towersonに続いて3番目。
もっちろん誘拐や強制連行は法律で禁止されてるけど、奴隷・プロテスタント以外・犯罪者は対象外です。そーゆー時代なのね。

ディエゴ・リベラ 画「スペインの コンキスタドール 」(1945年:メキシコ)

ざっくり従兄ジョン・ホーキンスの履歴書
1562–1563年
第1回奴隷貿易
ドレイクと一緒に船団3隻で出港。
ポルトガルの奴隷船を拿捕。西インド諸島で奴隷301人を売買。 サントドミンゴ で奴隷を売却。
スペイン当局に仲間2隻が捕まる。
・1562年10月スペイン王フェリペ2世は スパニッシュ・メイン でイングランド船の貿易を禁止。
1564–1565年
第2回奴隷貿易
ドレイクと一緒に船団4隻で出港。女王エリザベス1世がJesus of Lubeck号(700t)を提供。
どっかの商船を拿捕。西アフリカ奴隷400人と商品(商船のやつ?)を バルブラタ (ベネズエラ)で売却。
スペイン当局の公認会計士Diego Ruiz de Vallejoは Almojarifazgo税 7.5%を支払うことで許可してる。
その後 リオ・デ・ラ・ハチャ (コロンビア)へ。
スペイン当局がとんでもない税金で奴隷売却を妨害。「そんなの払わん。街焼くぞ」と脅して強引に売却。
出資者への配当は60%(?)。
1567–1569年
第3回奴隷貿易
ドレイクと一緒に船団7隻(?)で出港。
ポルトガル奴隷船Madre de Deusを拿捕。 ドミニカ マルガリータ島 、バルブラタでアフリカ奴隷400人を売却。
その後 サン・フアン・デ・ウルア でメキシコ独立運動を調査するスペイン海軍に遭遇。
仲間5隻を失って死者500名の大敗。( サン・フアン・デ・ウルアの戦い )。
1571年 リドルフィ事件 (女王エリザベス1世の暗殺計画)で女王を裏切るフリをして在英スペイン大使に接近。
すっかり信用させて、計画者やスペインの侵入計画をゲト。もちろんぜーんぶ女王に報告。
プリマス 立法府? の庶民院議員。
1582年1月1日 イングランド海軍会計係 に任命。水夫達のお給料・造船技術・船の装備…ビシバシ改善。
ちなみにホーキンスは1567年イングランド海軍会計係 Benjamin Gonson の娘キャサリンと結婚してます。
1588年7月26日 ナイトを授爵。


ドレイクとホーキンスの最後の航海


ドレイクとホーキンスは サン・フアン (プエルトリコ島)に停泊中の2百万ダカット相当を積んだ商船の略奪に向かいます。
でもスペインのインディアス艦隊に苦戦。
ケチョンケチョンにやられてる最中、2人は病(ドレイクは 赤痢 )に倒れて亡くなります。
wikipedia

1595年8月28日 プリマスを出航
1595年10月 ラス・パルマスの戦い 。イングランド負け
1595年11月8日 グアドループの戦い 。イングランド負け
1595年11月12日 ジョン・ホーキンスが死亡。遺体は ポルト・ベロ (ブラジル)の沖合に埋葬
1595年11月22日 サン・フアンの戦い 。イングランド負け
1596年1月27日 フランシス・ドレイクが死亡(享年55歳くらい)。遺体は ポルトベロ (パナマ)の沖合に埋葬
1596年3月11日 ピノスの戦い 。イングランド負け
1596年5月 プリマスに帰港

+ ドレイクの埋葬