女王エリザベス1世の系図




王様と国教


王ヘンリー8世が決めた王位継承順は①息子エドワード6世→②娘メアリー1世→③娘エリザベス1世です(1543年: 第三王位継承法 )。
スコットランド女王 メアリー は除外。
クーデタを起こしてあっという間に失脚した女王ジェーン・グレイはたぶん英国国教会だと思います。
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#ref error : ファイルが見つかりません (【共通の画】王様と国教.png) C:カトリック教会(旧教)、P:英国国教会(新教、プロテスタント)

紋章 在位 王様
1509-1547年
(38年)
父親 王ヘンリー8世
(1491-1547年)
●カトリック教会を捨てて英国国教会を新設(1534年: 国王至上法
●取り急ぎ英国国教会初の公式英訳聖書 大聖書 を出版(1539年)
1547-1553年
(6年)
異母弟 王エドワード6世
(1537-病死:1553年)
●9歳で即位
護国卿 の伯父サマセット公 エドワード・シーモア が実権を握る
●ノーサンバランド公 ジョン・ダドリー がサマセット公を反逆で処刑
●まだテキトーな英国国教会をアレコレ統一(1549年: 礼拝統一法
1553年
(9日)
親戚 女王ジェーン・グレイ
(1537–斬首刑:1554年)
●ノーサンバランド公の画策で王位継承順を無視して即位
●失敗してみんな処刑
1553-1558年
(5年)
異母姉 女王メアリー1世
(1516-卵巣腫瘍:1558年)
●カトリック教会を復活(1553年: 第一次宗教法の廃止
●熱烈なカトリック教徒のスペイン王フェリペ2世と結婚(1554年)
●英国国教会の聖職者達を処刑しまくり(1554年: 異端排斥法
1558-1603年
(45年)
女王エリザベス1世
(1533-1603年)
1603-1625年
(22年)
親戚 王ジェームズ1世
(1566-1625年)
●スコットランド女王 メアリー の息子
●イングランドに住みながらイングランド王とスコットランド王を兼任
●正式な英国国教会初の公式英訳聖書 欽定訳聖書 を出版(1611年)


女王エリザベス1世をとりまく状況



王ヘンリー8世(女王エリザベス1世の父親)


後半はたただのエロオヤジっぽいけど…王ヘンリー8世は跡継ぎの男児を求めて身勝手に6回も結婚します。
①妻キャサリン・オブ・アラゴンと離婚のために英国国教会も新設。
数年かけてジワジワと英国国教会へ移行していきます。ジワジワの詳細はこちら【キリスト教】16世紀のキリスト教をどうぞ。
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#ref error : ファイルが見つかりません (【共通の画】ヘンリー8世と妻.jpg) 王ヘンリー8世と6人の妻(○:離婚、×:処刑、△:病死)

結婚期間 王妃
1509-1533年 スペイン王フェリペ2世の大叔母
キャサリン・オブ・アラゴン
(1487-1536年)
●王ヘンリー8世がスペインとの同盟を目論んで結婚
●①愛人アン・ブーリンに心移りされて離婚
子供
女児(1510年)、男児(1511年)(1513年)(1515年)
イングランド女王メアリー1世 (1516年2月18日-1558年11月17日)
女児(1518年)
1533-1536年 ①キャサリンの侍女
アン・ブーリン
(1507-刑死:1536年)
●③愛人ジェーン・シーモアに心移りされて処刑
子供(流産は諸説あります)
イングランド女王エリザベス1世 (1533年9月7日-1603年3月24日)
流産(1534年)、男児を流産(1536年1月)
1536-1537年 ①キャサリンと②アン・ブーリンの侍女
ジェーン・シーモア
(1509-産褥死:1537年)
●出産12日後に死亡
子供
イングランド王エドワード6世 (1537年10月12日-1553年7月6日)
1540-1540年 ベルク公ヨハン3世の娘
アン・オブ・クレーヴズ
(1515-1557年)
●王ヘンリー8世がプロテスタント ベルク公国 との同盟を目論んで結婚
●肖像画(ハンス・ホルバイン画)ほど美人じゃなくて半年で離婚
●離婚後の扱いは「国王最愛の姉妹」。王室行事にも参加
1540-1542年 ②アン・ブーリンの従妹で侍女
キャサリン・ハワード
(1521?-刑死:1542年)
●元・恋人 トマス・カルペパー との不義密通をタレ込まれて処刑
1543-1547年 トーマス・シーモアの恋人
キャサリン・パー
(1512-1548年)
●王ヘンリー8世が恋人 トーマス・シーモア を強制海外赴任して結婚
●王ヘンリー8世が死亡した6ヶ月後に恋人トーマス・シーモアと再婚

+①妻キャサリン・オブ・アラゴンと離婚して②愛人アン・ブーリンと結婚するために英国国教会を新設するぞよ(子供のお話なのでご注意ください)
①キャサリン・オブ・アラゴン(スペイン王フェリペ2世の大叔母)はもともと王太子 アーサー (王ヘンリー8世の兄)の妻です。
ヘンリー7世 (王ヘンリー8世の父親)の「フランスを牽制するためにスペインと同盟」で結婚。
でも結婚翌年にアーサーが死亡。ってことで、スペインとの同盟継続を望む王ヘンリー8世は①キャサリンと結婚します。
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1489年 3月27日 王太子アーサーと①キャサリンが婚約( メジナデルカンポ条約
1501年 11月14日 王太子アーサー(15歳)と①キャサリン(16歳)が結婚 。持参金は20万クラウン(21世紀:£500万)
1502年 4月2日 王太子が 粟粒熱 で死亡
1503年 6月23日 王太子ヘンリー8世と①キャサリンが婚約
1509年 4月21日 王ヘンリー7世が死亡。王ヘンリー8世が即位
6月11日 王ヘンリー8世(18歳)と①キャサリン(24歳)が結婚
1516年 2月18日 ①妻キャサリンが娘メアリー1世を出産
1533年 5月23日 カンタベリー大司教 トマス・クランマー が「王ヘンリー8世と①妻キャサリンの結婚」を無効宣言
5月28日 王ヘンリー8世(41歳)が②愛人アン(26歳?32歳?)と結婚
9月7日 ②妻アンが娘エリザベス1世を出産
1534年 11月 王ヘンリー8世が「 国王至上法」を宣言
1535年 2月 修道院の解散を開始
1536年 1月7日 ①キャサリンが心臓ガン(21世紀の診断)で死亡

英国国教会を新設して②愛人アン・ブーリンと結婚するぞよ

①妻キャサリン・オブ・アラゴン(スペイン王族)は娘メアリー1世を生みます。男児が欲しい王ヘンリー8世はイライラ。
よーし!高齢の①妻キャサリンと離婚して若い②愛人アン・ブーリンと結婚するぞよ!
でもローマ教皇 クレメンス7世 は強国スペインに気を遣って特免「 結婚無効 :結婚してなかったことにする」を拒否します。
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Emanuel Leutze 画「The Great Matter」(1846年)

熱心なカトリック教徒の王ヘンリー8世は「離婚でローマ教皇に振り回されるのウゼー!」と考えるようになります。
ってことで、1534年カトリックを捨てて 英国国教会 を新設( 国王至上法 )。
ローマ教皇の反対をスルーして①妻キャサリンと離婚(結婚無効)。強行突破で②愛人アン・ブーリンと結婚します。

ついでにカトリック教会の修道院も解散ぞよ

イングランドのカトリック修道院は権力がなくてもお金持ちです。王ヘンリー8世は権力があってもお貧乏。
よーし!修道院の土地とお金を頂くぞよ!
ってことで、修道院を解散してぜーんぶ没収。土地は貴族達に販売して王様との関係強化、お金は沿岸防衛に使います。
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John Leech 画「Henry VIII monk hunting」(1847年頃:the Comic History of England)

離婚後の①キャサリン・オブ・アラゴン

①キャサリンは「王ヘンリー8世と結婚してなかった」になったので「王太子アーサーの未亡人」として扱われます。
キンボルトン城 で訪問客も手紙も禁止の軟禁生活。
王ヘンリー8世から「②妻アンを新しい王妃として認めるなら娘メアリー1世との面会オケ」と提案されたけど拒否します。
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Charles Robert Leslie 画「Katherine Of Aragon In Her Bed Chamer At Kimbolton Castle」

①キャサリンは最後まで「私は法に基づき結婚したイングランド唯一の王妃です」と離婚を認めずに亡くなります。
王ヘンリー8世は葬儀に不参加。
巷では「王ヘンリー8世が8ダ カット Gregory di Casale を雇って毒殺した」なんて噂が立ちました。

王ヘンリー8世は娘メアリー1世(①キャサリンの娘)にも葬儀への参列を禁止してます。
その後のその後娘メアリー1世は女王に即位。
女王メアリー1世は速攻で「両親の結婚は有効です」と母親の名誉を回復します(1553年: First Statute of Repeal )。


+②妻アン・ブーリンと離婚して③愛人ジェーン・シーモアと結婚するぞよ(子供のお話なのでご注意ください)
②アン・ブーリン(ウィルトシャー伯爵 トマス・ブーリン の娘)は知的で明るいフランス仕込みの洗練された女性です。
フランス留学の帰国後は①キャサリン・オブ・アラゴンの 女官
社交界でも注目の的で王ヘンリー8世もメロメロ。焦らし作戦「愛人なんてお断り」で王ヘンリー8世の妻の座を射止めます。
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1509年 6月11日 王ヘンリー8世(18歳)と①キャサリン(24歳)が結婚
1516年 2月18日 ①妻キャサリンが娘メアリー1世を出産
1522年 ②アン・ブーリンがフランスから帰国。①妻キャサリンの女官になる
1533年 5月28日 王ヘンリー8世(41歳)が②愛人アン(26歳?32歳?)と結婚
9月7日 ②妻アンが娘エリザベス1世を出産
1535年 ②妻アンが男児を流産
1536年 1月29日 ②妻アンが男児を死産
5月2日 ②妻アンがロンドン塔へ収監
5月12日 ②妻アンの不倫相手4人が裁判。不倫で有罪
5月14日 カンタベリー大司教トマス・クランマーが「王ヘンリー8世と②妻アンの結婚」を無効宣言
5月15日 ②アンがロンドン塔で裁判。不倫、近親相姦、大逆罪で有罪
②アンの兄弟ジョージ・ブーリンが裁判。近親相姦で有罪
5月19日 ②アンがロンドン塔で斬首刑
5月30日 王ヘンリー8世(44歳)が③愛人ジェーン(28歳?)と結婚
1537年 10月12日 ③妻ジェーン・シーモアが息子エドワード6世を出産
10月24日 ③妻ジェーンが 産褥熱 (21世紀の診断)で死亡

②アン・ブーリンの流産と死産

②妻アン・ブーリンは娘エリザベス1世を生みます。男児が欲しい王ヘンリー8世はガッカリ。
よーし!次は男児をヨロシクぞよ!
男児を産まない王妃の末路は①キャサリン・オブ・アラゴンが実証済み。その後②妻アンは男児を流産します。

「Anne Boleyn receiving proof of Henry’s passion for Jane Seymour」(1842年: William Harrison Ainsworth 著「Windsor Castle」)

王ヘンリー8世は③愛人ジェーン・シーモアに心移りし始めます。③愛人ジェーンも王妃の座を奪う気マンマン。
瀬戸際の状況で②妻アンは再び妊娠。
そして①キャサリン・オブ・アラゴンの埋葬日に残念ながら男児を死産(流産かも?)します。死産の原因は
  • 王ヘンリー8世が 馬上槍試合 で落馬して2時間気を失った。心配した②妻アンはその5日後に死産。
  • ②妻アンが部屋に入ると③愛人ジェーンが王ヘンリー8世の膝に座ってた。②妻アンは激怒のショックで死産。
原因はなんであれ②妻アンは最後のチャンスを失ったの。
神聖ローマ帝国駐英大使 Eustace Chapuys は「彼女は彼女の救世主を失ってしまった」と報告してます。

②アン・ブーリンの不倫、近親相姦、大逆罪

王ヘンリー8世は「②妻アンは魔術で俺を誘惑して妻の座を射止めたんだぞよ」と言い出します。捨てる気マンマン。
そして③愛人ジェーンを私室(royal quarters)へ招待。
ジョージ・ブーリン (②妻アンの兄弟)が貰うはずの ガーター勲章 も②妻アンを嫌う Nicholas Carew へ行っちゃいます。

Édouard Cibot 画「Anne Boleyn in the Tower」(1835年:フランス)

王ヘンリー8世は②妻アンと離婚(結婚無効)して不倫、近親相姦、大逆罪で訴えます。処刑する気マンマン。
お相手はこちらの皆さん。
王位継承者を生む王妃の不倫は「 大逆罪 (Treason Act of Edward III)」。近親相姦は「道徳的に問題アリ」の烙印です。

不倫 ②アンの楽師 Mark Smeaton 拷問または無罪放免の約束で是認 処刑
王ヘンリー8世の 宮内官 Henry Norris 否認
王ヘンリー8世の 私室使用人 Francis Weston 否認
王ヘンリー8世の宮内官 William Brereton 否認
②アンの友人 トマス・ワイアット たぶんカンタベリー大司教トマス・クランマーと親しい 無罪
王ヘンリー8世の私室使用人 Richard Page 更なる調査で証拠ナシ
近親相姦 ②アンの兄弟 ジョージ・ブーリン 否認 処刑

裁判は トマス・ブーリン (②アンの父親)、ノーフォーク公 トマス・ハワード (②アンの伯父)、ノーサンバーランド伯 ヘンリー・パーシー (②アンの元婚約者)が陪審員をしてます。皆さん保身に走って有罪に同意。
まるで絵を描くような裁判。
ジョージ・ブーリンの裁判に出席したEustace Chapuysは「皆が無罪を確信したが満場一致で有罪になった」と報告してます。

②アン・ブーリンを処刑して③愛人ジェーン・シーモアと結婚するぞよ

②アンの判決は 火刑(魔女の処刑) 。良心が痛んだ王ヘンリー8世は判決書を 斬首刑(貴族の処刑) に変更します。
わざわざフランスから熟練の剣士を召喚。
イングランドの斬首刑は一般的に斧だけど剣でスパッとやってもらうんだって。うーん、良心のかけ方が間違ってます。

死によって苦しみから解放される詩「 おお死よ、われを眠りに 」は ロンドン塔 に収監中の②アンが書いたと言われてます。
そして処刑日。
夜明け前、②アンは ロンドン塔管理長官 聖餐式 を依頼。神に「私は決して王を裏切らなかった」と誓います。

Jan Luyken 画「Onthoofding van Anna Boleyn, 1536」(1699年)

朝、②アンは赤色の ペティコート 、灰色の ダマスク織 ガウン、白テンのマントを纏って ホワイト・タワー ロンドン塔 )の北側へ向かいます。
処刑場に立つと群衆へ短くスピーチ「私のために祈って下さい」。
決して王ヘンリー8世を非難せず、少しだけ無実の訴えを含めたスピーチです。娘エリザベス1世と家族の今後を考えたの。

②アンのお墓(ロンドン塔: 聖ピーター・アド・ヴィンキュラ教会

②アンを処刑した王ヘンリー8世は速攻で③愛人ジェーン・シーモアと結婚。③妻ジェーンは息子 エドワード6世 を生みます。
待望の男児♥待望の跡継ぎ♥やったぞよ!
でも③妻ジェーンは産後の肥立ちが悪くて死亡。王妃の中で唯一「女王の葬儀」「王ヘンリー8世の隣に埋葬」されてます。



+⑥キャサリン・パーと結婚して娘メアリー1世と娘エリザベス1世の王位継承権を復活したぞよ
⑥キャサリン・パー( トマス・パー の娘)は エドワード・ボロー 、ラティマー男爵 ジョン・ネヴィル の未亡人です。
未亡人になった⑥キャサリンはメアリー1世のお家へ(母親同士がお友達)。
それがキッカケで王ヘンリー8世はメロメロ。邪魔な恋人スードリー男爵 トーマス・シーモア を強制海外赴任させて結婚します。
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1509年 6月11日 王ヘンリー8世(18歳)と①キャサリン(24歳)が結婚
1516年 2月18日 ①妻キャサリンが娘メアリー1世を出産
1533年 5月28日 王ヘンリー8世(41歳)が②愛人アン(26歳?32歳?)と結婚
9月7日 ②妻アンが娘エリザベス1世を出産
1534年 3月 第一王位継承法 」で娘メアリー1世は庶子(正妻でない女性の生んだ子)だから王位継承権はナシ
1536年 5月19日 ②アンがロンドン塔で斬首刑
5月30日 王ヘンリー8世(44歳)が③愛人ジェーン(28歳?)と結婚
6月 第二王位継承法 」で娘エリザベス1世も娘メアリー1世も庶子だから王位継承権はナシ
1537年 10月12日 ③妻ジェーン・シーモアが息子エドワード6世を出産
1543年 2月16日 ⑥キャサリンがメアリー1世との同居を解消
5月 王ヘンリー8世がスードリー男爵トーマス・シーモアをイングランド大使としてネーデルラントへ赴任
7月12日 王ヘンリー8世(52歳)が⑥キャサリン・パー(31歳?)と結婚
7月 第三王位継承法 」で娘エリザベス1世も娘メアリー1世も王位継承権が復活
1547年 1月28日 王ヘンリー8世が死亡。王エドワード6世が即位
2月20日 王エドワード6世が即位式( 戴冠式
4月?5月? ⑥キャサリンとスードリー男爵トマス・シーモアが結婚
1548年 ⑥キャサリンが娘エリザベス1世と同居
3月 ⑥キャサリンが妊娠
5月 ⑥キャサリンが娘エリザベス1世を追い出す
9月5日 ⑥キャサリンが産褥死
1549年 3月20日 スードリー男爵トーマス・シーモアが処刑

娘メアリー1世と娘エリザベス1世の王位継承権を復活するぞよ

王ヘンリー8世は離婚した①妻キャサリンの娘メアリー1世、処刑した②妻アンの娘エリザベス1世を庶子として扱います。
庶子は「正妻でない女性の生んだ子」なので王位継承権ナシ。
もし法律をスルーして女王になろうとしたら反逆罪です。王位継承権アリの子供は③妻ジェーンの息子エドワード6世だけ。
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Francesco Bartolozzi 画「Henry VIII with His Children Edward, Mary and Elizabeth with Jester Will Sommers 」(17世紀頃)

王ヘンリー8世と結婚した⑥妻キャサリンは娘メアリー1世、娘エリザベス1世、息子エドワード6世と仲良くなります。
ついでに王ヘンリー8世と2人の娘の間も仲裁。
ってことで、仲直りした王ヘンリー8世は娘メアリー1世と娘エリザベス1世の王位継承権を復活します(第三王位継承法)。

⑥皇太后キャサリンと元恋人スードリー男爵トーマス・シーモアの結婚

⑥妻キャサリンは王ヘンリー8世と小難しい議論できる知的な女性です。娘エリザベス1世、息子エドワード6世の教育に注力。
後に女王となる娘エリザベス1世の「品格、尊厳、強さ」に大いに影響。
王ヘンリー8世は死の床で「 皇太后 となる⑥妻キャサリンに女王の尊敬と年給£7,000を与えること」を約束します。


イングランド有数のお金持ち女性になった⑥キャサリンは元恋人スードリー男爵トーマス・シーモアと密かに結婚します。
皆さんに反対されたので娘メアリー1世に応援を要請。
でも娘メアリー1世も「無遠慮で悪趣味なダメ男との結婚」を反対。妹エリザベス1世にも「ダメ男に係わるな」と頼みます。

⑥皇太后キャサリンと娘エリザベス1世の決別

⑥キャサリンは娘エリザベス1世とジェーン・グレイを スードリー城 へ迎え入れて「素敵な貴婦人」の教育をします。
妊娠もして順風満帆♥…のはずが。
娘エリザベス1世と夫ダメ男がイチャイチャ。エリザベス1世の家庭教師 Kat Ashley がイチャイチャを目撃しちゃいます。

St Mary's Chapel(スードリー城)

イチャイチャに怒った⑥キャサリンは娘エリザベスをスードリー城から追い出します。
娘エリザベス1世は Anthony Denny邸 へお引っ越し。
とーっても後悔して「最愛の継母⑥キャサリン」へ謝罪の手紙を送ります。でも二度と会えぬまま⑥キャサリンが死亡。



王エドワード6世(女王エリザベス1世の異母弟)


王ヘンリー8世は「幼い息子を 16人の顧問団 で補佐してくれぞよ」と遺言して死亡。王エドワード6世が9歳で即位します。
でもサマセット公 エドワード・シーモア (王エドワード6世の伯父)は遺言スルー。
王エドワード6世の 護国卿(後見人) になって実権を握っちゃいます。顧問団のノーサンバランド公 ジョン・ダドリー がこれを阻止。
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作者不明「Edward VI and the Pope」(1547年頃)

+サマセット公エドワード・シーモア「子供の王様は俺が操るぜ!」
シーモア家 はもともと田舎の ジェントリ 荘園 の衰退で土地をいっぱい持った上層農民 ヨーマン )です。
ジェーン・シーモア が王ヘンリー8世と結婚して激変。
息子エドワード6世を産んでもっと激変。宮廷でガンガン出世して 公爵 (貴族で最高位の爵位)の地位まで上り詰めます。


サマセット公エドワード・シーモアのガンガン出世

サマセット公エドワード・シーモアはもともと王ヘンリー8世の宮廷に係わるモブキャラな若者の1人です。
③ジェーン・シーモア(サマセット公の妹)のおかげで出世のチャンスをゲト。
スコットランドやフランス(スコットランドの同盟国)との戦争を指揮して誰も疑う余地のないスキルを発揮します。
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③ジェーン・シーモア サマセット公エドワード・シーモア
1532年 ①キャサリン・オブ・アラゴンの 女官 1514年 メアリー・テューダー (王ヘンリー8世の妹)の 従者
1529年 王ヘンリー8世の 寝室付き護衛官(Esquire of the Body)
1536年 王ヘンリー8世と結婚 1536年 ビーチャム子爵(Viscount Beauchamp)を拝受
1537年 エドワード6世を出産
産褥熱(21世紀の診断)で死亡
1537年 ハートフォード伯爵 (Earl of Hertford)を拝受
1542-?年 スコットランド辺境 監督官に就任
1542-1543年 海軍卿 に就任
1543-1549年 式部長官 に就任
1544-?年 北部総督(Lieutenant General in the North)に就任
(1543–1551年: ラフ・ウーイングの戦い
1547年 王ヘンリー8世が死亡
王エドワード6世が即位
1547-1549年 護国卿 に就任
1547-1549年 大蔵卿 に就任
1547-1551年 御馬伯 に就任
1547年 サマセット公爵 を拝受

1547年1月28日王エドワード6世が即位。2月4日サマセット公は「16人の顧問団」から護国卿を承認されます。
顧問団16人中13人が賛成…どうやら袖の下があったっぽい。
3月王エドワード6世から 特許状 「全部サマセット公にお任せ。皆さん彼に従ってね」をゲト。独裁政治の完成です。

あーっ!スコットランド女王メアリーがフランスへ逃げた!

王ヘンリー8世は皇太子エドワード6世とスコットランド女王 メアリー を婚約させました(1543年: グリニッジ条約 )。
2人の結婚で「スコットランドを実質的支配しちゃうぜ!」の目論見。
スコットランドは猛反発。ってことで、王ヘンリー8世は実力行使に出ます(1543–1551年: ラフ・ウーイングの戦い )。

女王メアリーの亡命

護国卿になったサマセット公エドワード・シーモアも「スコットランドを実質的支配しちゃうぜ!」の方針を引き継ぎます。
スコットランドをガンガン攻撃。
フランス出身の メアリ・オブ・ギーズ (女王メアリーの母親)は危険が迫った女王メアリーをフランスへ逃がします。

フランスはイングランドの敵(1558年:スコットランド女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚)

ちなみにフランス王 アンリ2世 は女王メアリーと皇太子 フランソワ2世 を婚約させます(1548年: ハディントン条約 )。
1558年2人は結婚。
ついでに「女王メアリーが死んだらスコットランドとイングランドの王位継承権はフランスに譲る」と密約を結びます。


+スードリー男爵トーマス・シーモア「兄ちゃんばっかズルイ!ダメ男も権力が欲しい!」(トマス・シーモア事件)
ダメ男トーマス・シーモア(サマセット公の弟)は⑥キャサリン・パー(王ヘンリー8世の未亡人)と結婚しました。
そしてエリザベス1世とイチャイチャ。
妻⑥キャサリン・パーが死亡すると再度エリザベス1世に猛プッシュ。でも賢くなったエリザベス1世に完全スルーされます。
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兄ちゃんばっかズルイ!ダメ男も権力が欲しい!

ダメ男はガンガン出世するサマセット公に嫉妬。「兄ちゃんばっかズルイ!ダメ男も権力が欲しい!」と言い出します。
サマセット公はダメ男を 男爵 、海軍卿、 枢密院 にして懐柔。
これに満足しないダメ男は「兄ちゃんに代わってダメ男が護国卿になるぞー!」と王エドワード6世に近づきます。


海軍卿のダメ男は海軍や海賊に「ダメ男が護国卿になるぞー!反乱起こしたら支持してね」と大っぴらにアピールします。
ブリストル造幣局の William Sharington とも手を結んで資金を集めてたっぽい。
枢密院はとーぜん警戒。心配したサマセット公が議会を召集して弁明のチャンスを作ったけどダメ男はバックレちゃいます。

1549年1月16日の夜ダメ男は王エドワード6世の住居 ハンプトン・コート宮殿 に侵入。犬に吠えられてバレちゃいます。
どうやら王エドワード6世を誘拐しようとしたっぽい。
2月22日議会はダメ男を33件の容疑で起訴。有罪になったダメ男は3月20日反逆罪で処刑されます(トマス・シーモア事件)。

トマス・シーモア事件の後遺症

顧問団はトマス・シーモア事件にエリザベス1世も100%共謀してると疑います。エリザベス1世の使用人達を逮捕。
数週間かけてエリザベス1世も尋問。
エリザベス1世は下手したら処刑される可能性もあったけど、厳しい尋問を賢明な供述と不屈の精神で乗り越えます♥

William Scrots ?画「Portrait of Elizabeth I as a Princess」(1546年頃)

ちなみに⑥キャサリン・パーの遺産を相続したダメ男はイングランド有数のお金持ちでした。
王エドワード6世は処刑になったダメ男の全財産を没収。
無一文になった7ヶ月の Mary Seymour (ダメ男の娘)はサフォーク公爵夫人 Catherine Brandon がイヤイヤ引き取ります。


+ノーサンバランド公ジョン・ダドリー「サマセット公をぶっ潰す!」
ノーサンバランド公ジョン・ダドリーはもともと王ヘンリー8世の宮廷に係わるモブキャラな若者の1人です。
王ヘンリー8世は将軍としての能力を高く評価。
神聖ローマ帝国駐英大使 Eustace Chapuys は「次世代を担える若者はノーサンバランド公とサマセット公の2人」と報告してます。



女王メアリー1世(女王エリザベス1世の異母姉)


女王メアリー1世は①母キャサリン・オブ・アラゴンを不幸にした②義母アン・ブーリンとその娘エリザベス1世が大嫌いです。
妹エリザベス1世に王位継承させるものか!
ってことで、スペイン王フェリペ2世と結婚と結婚して子供を産もうと決意。でも跡継ぎの子供は授かりませんでした。
wikipedia

Lucas de Heere 画「The Family of Henry VIII:An Allegory of the Tudor Succession」(1572年頃)

ちなみにこちらの画は女王エリザベス1世から秘書官長 フランシス・ウォルシンガム へのプレゼントです。
  • 女王メアリー1世と王フェリペ2世が従えてるのは戦の神 マールス
  • 王エドワード6世は王ヘンリー8世から剣を授受。
  • 女王エリザベス1世は平和の女神(剣と盾を踏んでる)と手を繋ぎ、豊穣の象徴 コルヌー・コピアイ を従えてます。

+カトリック教会に戻してスペイン皇太子フェリペ2世と結婚しちゃいました
王エドワード6世が亡くなって 女王ジェーン・グレイ が暴走した後、熱烈なカトリック教徒の女王メアリー1世が即位します。
イングランドは英国国教会からカトリック教会に逆戻り。
ついでに熱烈なカトリック教徒スペイン皇太子フェリペ2世と結婚すると国民の支持が急落しちゃいます。

1553年 7月 王エドワード6世が死亡。女王メアリー1世が即位
9月 女王メアリー1世がスペイン皇太子フェリペ2世の肖像画をゲト
1554年 1月26日-2月 ワイアットの乱
3月18日 エリザベス1世がロンドン塔へ収監
4月 「女王メアリー1世の結婚法」が制定
5月22日 エリザベス1世がウッドストック宮殿へ移監
7月25日 女王メアリー1世がスペイン皇太子フェリペ2世と結婚
スペイン王カルロス1世がナポリ王を退位。スペイン皇太子フェリペ2世がナポリ王に即位
9月 女王メアリー1世が妊娠の兆候
1555年 4月17日 女王メアリー1世がエリザベス1世を「王位継承する子供の出産立ち会い人」として宮廷へ召喚
7月 女王メアリー1世が想像妊娠と判明
10月 軟禁を解かれたエリザベス1世がハットフィールド宮殿へ帰宅
1556年 1月16日 スペイン王カルロス1世が退位。スペイン王フェリペ2世が即位
1558年 11月17日 女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位

スペイン皇太子フェリペ2世と結婚しちゃいます

女王メアリー1世は「大嫌いな妹エリザベス1世に王位継承させるものか!王位継承する子供産むぞ!」と結婚を決意します。
従兄弟スペイン王 カルロス1世 は「俺の息子と結婚しない?」とプッシュ。
女王メアリー1世へ息子スペイン皇太子フェリペ2世の肖像画を送ります。結婚交渉はお互いに肖像画を送るっぽい。


左側: Antonis Mor 画「La reina María Tudor, reina de Inglaterra, segunda esposa de Felipe II」(1554年)
右側: Titian 画「Philip II in Armour」(1551年)

イングランドは「イングランドが ハプスブルク家 の属国になるかも!?イングランド人と結婚して!」と結婚反対します。
女性の資産とタイトルは結婚すると夫のものになっちゃうの( 妻の権利 )。
でも女王メアリー1世はノリノリ。ってことで、属国化防止の法律が制定されます(1554年: 女王メアリー1世の結婚法 )。
  • 夫フェリペ2世のタイトルは「イングランド王フェリペ2世」でイングランドを共同統治する。ただし 女王メアリー1世と結婚(=生きてる)してる間だけオケ
  • 公文書は2人で連名、議会は2人で召集すること。
  • 女王メアリー1世の子供はイングランドと王フェリペ2世の領地を受け継ぐ。ただし王フェリペ2世の領地は カルロス (王フェリペ2世と前妻の息子)が死亡した場合のみ受け継ぐ。
なんやかんやで「イングランドを王フェリペ2世の好き勝手にさせないぜ!」の内容です。

1556年頃のハプスブルク家の領地

スペイン王カルロス1世は女王メアリー1世と結婚する皇太子フェリペ2世に ナポリ王 を譲ります。
女王の結婚に相応い相手にランクアップしたの。
皇太子フェリペ2世は「オバチャンとの結婚はスペインが ネーデルラント を維持するための戦略的結婚」と割り切ってます。

「ワイアットの乱」で妹エリザベス1世をロンドン塔へ送っちゃいました

トマス・ワイアット 達は「女王メアリー1世とスペイン人の結婚反対!エリザベス1世を女王に!」と反乱を計画します。
イングランドとスペインの結びつきを嫌うフランスも参加。
神聖ローマ帝国の駐英大使 シモン・ルナール が事前に計画を察知したので反乱はあーっという間に鎮圧されます。
wikipedia

George Cruikshank画「Sir Thomas Wyatt attacking the By-ward Tower, 1554」(1840年)

スペイン駐英大使 シモン・ルナール は「エリザベス1世が生きてる間、女王の王座は決して安全じゃない」と主張します。
ってことで、女王メアリー1世はエリザベス1世をロンドン塔へ収監。
エリザベス1世は下手したら処刑される可能性もあったけど、厳しい尋問を賢明な供述と不屈の精神で乗り越えます♥

Robert Alexander Hillingford画「The Princess Elizabeth in the Tower of London」

一部の政治家達から「反乱共謀の証拠が出なかったエリザベス1世を解放して下さい」と声が上がります。
でも女王メアリー1世は解放する気ナシ。
エリザベス1世は ウッドストック宮殿 へ軟禁されます。移監される道中で群衆が「エリザベス1世頑張ってね♥」と応援。

想像妊娠しちゃいました

王フェリペ2世と結婚した女王メアリー1世はすぐ妊娠します。
議会は「もし女王メアリー1世が産褥死した場合は王フェリペ2世が 摂政 でオケ」を可決( Treason Act 1554 )。
産気づくとエリザベス1世を「王位継承する子供の出産立ち会い人」として宮廷へ呼びます。

Anastasio Fontebuoni 画「The marriage of Philip II to the English queen Mary Tudor in Winchester, summer 1554」(1598年)

でも結局出産しないまま妊娠の兆候が終わります。王フェリペ2世の子供が欲しかった女王メアリー1世はメチャクチャ落胆。
これってイングランドの異教徒(=英国国教会)を黙認した神の罰なの!?
次の女王に近づいたエリザベス1世は軟禁を解かれて ハットフィールド宮殿 へ帰宅します。

跡継ぎがいないと王フェリペ2世も困る

もし女王メアリー1世もエリザベス1世も子供ナシだとスコットランド女王 メアリー が王位継承者の1人です。
スコットランド女王メアリーはフランス皇太子フランソワ2世と婚約中(1558年:結婚)。
王フェリペ2世はエリザベス1世に従兄弟サヴォイア公 エマヌエーレ・フィリベルト との結婚を勧めたけど断られちゃいます。

フランスはスペインの敵(1551–1559年: イタリア戦争

その後のその後、女王メアリー1世は子供ナシのまま死亡。女王エリザベス1世が即位します。
王フェリペ2世のイングランド共同統治も終了。
女王エリザベス1世に「結婚しない?」と持ちかけたけど断られちゃいます。カトリック教徒とは結婚できないもんね。


+英国国教会を迫害しちゃいました
即位した女王メアリー1世は「イングランドの皆さんがカトリック教徒になることを強要しません」と宣言します。
でも主要な英国国教会の聖職者達を逮捕。
イングランドはカトリック教会に逆戻りします( 第一次宗教法の廃止 第二次宗教法の廃止 )。もちろん王フェリペ2世も協力。

1553年 7月 王エドワード6世が死亡。女王メアリー1世が即位
9月 主要な英国国教会の聖職者達を逮捕
10月 「王エドワード6世が制定した英国国教会の宗教法」を廃止(第一次宗教法の廃止)
1554年 7月25日 女王メアリー1世がスペイン王フェリペ2世(皇太子)と結婚
11月 異端排斥法を復活
1555年 「王ヘンリー8世が制定した英国国教会の宗教法」を廃止(第二次宗教法の廃止)
2月4日 最初の火あぶり(異端者1人目:聖職者 ジョン・ロジャーズ
1556年 1月16日 スペイン王カルロス1世が退位。スペイン王フェリペ2世が即位
1558年 11月15日 最後の火あぶり(異端者284人目: Katherine Knight/Tynley
11月17日 女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位

皆さんから「ブラッディ・メアリー:血まみれのメアリー」と呼ばれちゃいます

女王メアリー1世は王ヘンリー8世が廃止した「 異端排斥法 :異端者(=英国国教会)の 火あぶり オケ」を復活します。
ローマ教皇から許可されると迫害を開始。
約300人が火刑、裕福な人達800人が海外へ亡命。迫害は女王メアリー1世が死亡するまで続きます。
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「The burning of Hugh Latimer and Nicholas Ridley in 1555」(1563年:John Foxe著「Foxe's Book of Martyrs」)

王フェリペ2世の側近 シモン・ルナール 達は「やり過ぎは反感を生む」と警告します。でも女王メアリー1世は止まらない。
イングランドの中で「反カトリック!反スペイン!」がどんどん悪化。
ってことで、女王メアリー1世は「Bloody Mary:血まみれのメアリー」と呼ばれちゃいます。

ブラッディ・メアリー

「Bloody Mary:血まみれのメアリー」は John Foxe 著「 Foxe's Book of Martyrs 」(1563年)で命名されたそうです。
John Foxeも迫害中に海外へ亡命した1人。
カクテル ブラッディ・メアリー のお名前は女王メアリー1世の「Bloody Mary」が由来の1つです。

ブラッディ・メアリー中に女王エリザベス1世の重臣はどうしてたの?

大蔵卿バーリー男爵ウィリアム・セシルは王エドワード6世の 秘書官長 (任期:1550–1553年)でした。
皆さん「次の秘書官長もバーリー男爵だよね」とウワサ。
でも女王メアリー1世はバーリー男爵を秘書官長に指名しませんでした。

バーリー男爵は リンカンシャー 州選出議員 もやってました。1555年の議会で「プロテスタントの地所没収」に反対。
女王メアリー1世が望む議員は「慎重で敬虔なカトリック教徒」。
ってことで、1558年の議会にバーリー男爵の席は無かったそうです。

バーリー男爵はエリザベス1世のthe administration of the lands(土地管理人?)もやってました。
これがご縁でエリザベス1世を支援する「old flock of Hatfield」のメンバー。
ってことで、即位した女王エリザベス1世は信頼するバーリー男爵を秘書官長(任期:1558–1572年)に任命します。

William Faithorne 画「Queen Elizabeth I; Sir Francis Walsingham; William Cecil, 1st Baron Burghley」(1655年:イングランド)

秘書官長 フランシス・ウォルシンガム は裕福な弁護士ウィリアム・ウォルシンガムの息子です。
ブラッディ・メアリー中はスイスやイタリアの大学へ留学(=避難)。
ちなみに父親ウィリアムは1530年王ヘンリー8世の「大法官 トマス・ウルジー の私財剥奪」の地所調査委員会の1人でした。


+カレー(フランス)を失っちゃいました
1360年 百年戦争 でフランスに勝ったイングランド王 エドワード3世 はフランス領土(含む カレー )をドーンとゲトします。
その後なんやかんやで16世紀のカレーは大陸で唯一残った地。
イングランドにとって「大陸への一番近い貿易拠点」。もしフランスと戦争になったら「重要な軍事拠点」になります。
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William Robert Shepherd 画「Central Europe about 1477」(1926年:The Historical Atlas)

スペインはフランスと イタリア戦争 中です。女王メアリー1世は「スペイン頑張って♥」と愛する王フェリペ2世を応援。
頭に来たフランスがカレーを襲撃。
ってことで、1558年イングランドはカレーを失っちゃいます。
wikipedia

それでもカレーはイングランドのもの!

フランスに勝った王エドワード3世は称号に「フランス王」を追加しました。その後の王様達も「フランス王」をご使用。
カレーを失っても「フランス王」をご使用。
1800年 連合法 で称号を更新した王ジョージ3世は300年以上続いた「見せかけのフランス王」を止めます。
wikipedia

1340–1397年 王エドワード3世
王リチャード2世
King of England and of France and Lord of Ireland
1521–1535年 王ヘンリー8世 By the Grace of God , King of England and France ,
Defender of the Faith( 信仰の擁護者 :1521年ローマ教皇が付与。1533年取り消し)
and Lord of Ireland
1535–1536年 By the Grace of God, King of England and France ,
Defender of the Faith, Lord of Ireland,
and of the Church of England in Earth Supreme Head(英国国教会の長:国王至上法で王様が英国国教会の 首長
1536–1542年 By the Grace of God, King of England and France ,
Defender of the Faith, Lord of Ireland,
and of the Church of England and of Ireland in Earth Supreme Head
1542–1555年 王ヘンリー8世
王エドワード6世
女王メアリー1世
By the Grace of God, King of England, France and Ireland ,
Defender of the Faith,
and of the Church of England and of Ireland Earth Supreme Head
1554–1556年 女王メアリー1世
王フェリペ2世
By the Grace of God, King and Queen of England and France, Naples, Jerusalem and Ireland ,
Defenders of the Faith, Princes of Spain and Sicily, Archdukes of Austria, Dukes of Milan, Burgundy, and Brabant,
Count and Countess of Habsburg, Flanders, and Tyrol
1556–1558年 By the Grace of God, King and Queen of England, Spain, France, Jerusalem, both the Sicilies and Ireland ,
Defenders of the Faith, Archduke and Archduchess of Austria, Duke and Duchess of Burgundy, Milan and Brabant,
Count and Countess of Habsburg, Flanders and Tyrol
1558–1603年 女王エリザベス1世 By the Grace of God, Queen of England, France and Ireland ,
Defender of the Faith,
etc.(その他:国王至上法で女王が「首長→ 統治者 」に格下げしたので回復の余韻を残した表現)
1603–1689年 王ジェームズ1世
王チャールズ1世
王チャールズ2世
王ジェームズ2世
By the Grace of God, King of England, Scotland, France and Ireland ,
Defender of the Faith,
etc.
1714–1801年 王ジョージ1世
王ジョージ2世
王ジョージ3世
By the Grace of God, King of Great Britain, France and Ireland ,
Defender of the Faith, Archtreasurer and Prince-Elector of the Holy Roman Empire, Duke of Brunswick-Luneburg
1801–1814年 王ジョージ3世 By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland King ,
Defender of the Faith, Arch-treasurer and Prince-Elector of the Holy Roman Empire, Duke of Brunswick-Luneburg



女王エリザベス1世


+大蔵卿バーリー男爵や秘書官長フランシス・ウォルシンガムと一緒にイングランドを統治するぢゃ(政府)
16世紀の王様はアレコレな国政を決める最終決定者です。従わない人を 反逆罪 で処刑できちゃう力があるの。
女王エリザベス1世は 閣僚 と一緒にイングランドを統治。
良きアドバイザーを選び、議会を尊重し、宗教や政治の問題に対して譲歩もできる。イングランドの最良君主の1人です。
wikipedia

こんな感じ?

女王エリザベス1世の片腕「閣僚」(21世紀の日本でいう大臣って感じ?)

女王エリザベス1世は 主要閣僚 (女王エリザベス1世が指名)と一緒にアレコレ決定してイングランドを統治します。
閣僚のまとめ役はバーリー男爵 ウィリアム・セシル
ロバート・セシル (バーリー男爵の息子)は1596年から秘書官長。1598年バーリー男爵の死亡後はまとめ役を引き継ぎます。
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William Faithorne 画「Queen Elizabeth I; Sir Francis Walsingham; William Cecil, 1st Baron Burghley」(1655年:イングランド)

主要閣僚 枢密院
大法官 1587–1591年 クリストファー・ハットン 1577年(1577年: ナイト を拝受)
国璽尚書
大蔵卿 1572–1598年 バーリー男爵 ウィリアム・セシル 女王エリザベス1世が即位した頃
王璽尚書 1576–1590年 フランシス・ウォルシンガム 1573年(1577年:ナイトを拝受)
秘書官長 1573–1590年
Chancellor of the Exchequer 1566–1589年 Walter Mildmay 1549年(1546年:ナイトを拝受)
海軍卿 1585–1619年 エフィンガム男爵 チャールズ・ハワード ?年
Master-General of the Ordnance 1560–1590年 ウォリック伯 Ambrose Dudley 1573年
宮廷執事卿 1587–1588年 レスター伯 ロバート・ダドリー 1562年
侍従卿 1585–1596年 ハンスドン男爵 ヘンリー・ケアリー 1577年
Cofferer of the Household 1582-1597年 Gregory Lovell
主馬頭 1558–1587年 レスター伯ロバート・ダドリー 1562年
1587–1601年 エセックス伯 ロバート・デヴァルー 1593年

女王エリザベス1世のアドバイザー「枢密院」(21世紀の日本でいう内閣って感じ?)

女王エリザベス1世は 枢密院 (女王エリザベス1世が指名した19人)の多様なアドバイスを聞いてアレコレ決定します。
枢密院のまとめ役はバーリー男爵ウィリアム・セシル。
ちなみに枢密院もアレコレ決定できるけど女王エリザベス1世はアッサリ却下できちゃいます。

枢密院のお仕事は宗教、軍事、経済、福祉、…イングランドの国政です。アレコレ決定がちゃんと施行されてるかも監督。
会合は週3回くらい。
女王エリザベス1世の支配が終わる頃は毎日やってたの。 ロバート・セシル は1591年から枢密院のメンバーです。

作者不明「 サマセット・ハウス会議 」(1604年)

枢密院の手が回らない 地方(カウンティ) はロイヤル代表 統監 長官 治安判事 が監督します。
地方のそれぞれの市は 市長 が監督。
フランシス・ドレイク は1581年から プリマス市長 。妻Elizabethの父親George Sydenhamは Somerset地方の長官 です。

貴族と庶民の代表「議会」(21世紀の日本でいう国会って感じ?)

枢密院が出した法案は 議会 (女王エリザベス1世が議会を招集)で承認します。議会は法案を否決してもオケ。
在位中に招集したのは13回(11回は税の徴収について)。
438の法律を可決。ちなみに女王エリザベス1世は議会をスルーして ロイヤル布告(Royal Proclamations) できちゃいます。

Queen Elizabeth in Parliament(1682年:Sir Simonds D'Ewes著「Journals of all the Parliaments during the Reign of Queen Elizabeth」)

議会は貴族の代表 貴族院(上院) と庶民の代表 庶民院(下院) 二院制 です。貴族院の方が庶民院より力があるの。
貴族院のメンバーは貴族と高位聖職者( 主教 大主教 )。
世襲貴族 はもれなく貴族院のメンバー。第2代バーリー男爵 トマス・セシル (バーリー男爵の息子)は1598年から貴族院です。

庶民院のメンバーは立候補者(地元の有力者)を選挙で選びます。投票するのはそれなりの年収がある男性だけ。
任期があるっぽい。
ロバート・セシル は1584、1586年 ウェストミンスター 、1589、1593、1597、1601年 ハートフォードシャー で当選してます。

貴族と庶民を裁く「法廷」

星室庁 はお金持ち(貴族とか)を裁く法廷の1つです。普通の裁判所にはお金持ちに有罪判決を下す力がなかったんだって。
判決を下すのは主に枢密院のメンバー。
ちなみに女王エリザベス1世も法を重んじなくちゃいけません。でも従わない人を法廷へ送っちゃう力があるの。

星室庁(1873年: George Walter Thornbury 著「Old and New London」)

星室庁の手が回らない地方(カウンティ)は年2回の 巡回裁判 と年4回の 四季裁判所 でカバーします。
巡回裁判は過酷な刑罰を下すので有名。
小粒の犯罪や民事訴訟は町にあるアレコレの裁判所で扱います。



王ジェームズ1世(女王エリザベス1世の遠縁)


女王エリザベス1世は即位してる間ずーっと王位継承「次のイングランド王」の指名を嫌がります。でも王位継承する子供も兄弟もナシ。
1603年女王エリザベス1世が死亡。
ロバート・セシル (女王エリザベス1世の重臣)の働きで円滑にスコットランド王 ジェームズ6世 が王ジェームズ1世に即位します。
wikipedia

同君連合の国旗

ってことで、イングランドとスコットランドは 同君連合 (1人の王様が複数の国を統治)になります。
王ジェームズ1世の 花紋 も合体。
1606年 セント・ジョージ・クロス セント・アンドリュー・クロス も合体しての国旗 ユニオン・フラグ になります。
wikipedia

+「次のイングランド王」の候補者
王位継承の議論はずーっと続いてました。ちなみに1572年議会が「王位継承の順位」を可決したけど女王エリザベス1世は却下。
1601年頃からロバート・セシルたちは王位継承候補をコッソリ検討。
書記官 T. Wilson 著「The State of England, Anno Domini 1600」によると16世紀末の「競争者」の予想はこちらの12人です。

テューダー家
マーガレット・テューダー
スコットランド王ジェームズ6世 ・母親(女王メアリー)がしつこく王位継承を主張
・プロテスタントの現役の王様
アラベラ・ステュアート
テューダー家
メアリー・テューダー
ビーチャム卿 エドワード・シーモア ・両親は女王エリザベス1世の許可ナシで結婚
・結婚無効だから息子2人は庶子(王位継承権ナシ)
トマス・シーモア
ダービー伯 ウィリアム・スタンリー ・母親が王位継承者(1543年: Third Succession Act
ヨーク家 ハンティンドン伯 ジョージ・ヘイスティングズ ・ハンティンドン伯 ヘンリー・ヘ〃 が王位を主張
  「 王ヘンリー7世 は強奪者(15世紀: 薔薇戦争 )」
カトリック教会 ウェストモーランド伯 チャールズ・ネヴィル ジョン・オブ・ゴーント の子孫
アントニオ・デ・ポルトゥガル
スペイン王女 イサベル・クララ・エウヘニア ジョン・オブ・ゴーント の子孫
・王フェリペ2世が宣言(1588年: アルマダ海戦
  「娘イサベルが本当の女王であーる♥」
ノーサンバランド伯 ヘンリー・パーシー ・ランカスター伯 エドマンド の子孫
スペイン王 フェリペ3世
パルマ公 ラヌッチョ1世・ファルネーゼ



+ロバート・セシルと王ジェームズ6世の「円滑な王位継承の準備」
1601年2月王ジェームズ6世は「次のイングランド王にしてね♥」とマー伯 J. Erskine をイングランドへ送ります。
でもお目当ての交渉相手エセックス伯 ロバート・デヴァルー (女王エリザベス1世の重臣)が処刑( エセックスの反乱 )。げっ!
3月なんとかロバート・セシル(女王エリザベス1世の重臣)の信頼をゲト。王位継承の交渉が始まります。
wikipedia

Van de Passe family 画「James I and his royal progeny」(1622年)

ちなみに王ジェームズ6世の娘 エリザベス は女王エリザベス1世へ敬意を表した命名です。次のイングランド王にしてね♥
娘エリザベスとボヘミア王 フリードリヒ5世 の娘 ゾフィー 王ジョージ1世 ハノーヴァー朝 )の母親。
21世紀のイギリス王室( ウィンザー朝 )も娘エリザベスの家系に繋がってます。 系図 を見た方が分かりやすいかも。

ロバート・セシルと王ジェームズ6世の「円滑な王位継承の準備」(Secret correspondence:秘密の手紙)

ロバート・セシルは「円滑な王位継承の準備」のために王ジェームズ6世へ「段取り八分仕上げ二分」を徹底させます。
  • イングランド議会 へ王位継承の承認を求めないコト。
  • ロバート・セシルと王ジェームズ6世(名代マー伯たち)の王位継承に関する手紙のやりとりは絶対に女王エリザベス1世に悟られないコト。
「秘密の手紙」は1601年5月~1603年3月までコッソリ続きます。偽名やアレコレ経由( 外交用郵袋 とか)をご利用。
手紙に登場する個人名には番号をご利用。
John Bruce 著「Correspondence of James VI with Cecil」(1861年)によると登場する番号はこんな感じです。

イングランド スコットランド
0 ノーサンバーランド伯 Henry Percy 8 キンロス卿 Edward Bruce (王ジェームズ6世の名代)
2 ウォルター・ローリー (おそらく) 9 Mr. David Foulis(王ジェームズ6世の名代)
3 ノーサンプトン伯 Henry Howard
7 コバム男爵 Henry Brooke
10 ロバート・セシル 20 マー伯J. Erskine(王ジェームズ6世の名代)
24 女王エリザベス1世 30 王ジェームズ6世
40 ロバート・セシルの仲間(名前が解明されてない)

「秘密の手紙」がやりとりされてる間、女王エリザベス1世と王ジェームズ6世の関係に特別な変化はありません。
でも1602年6月頃までには女王エリザベス1世の印象は良くなってるっぽい。
歴史家 John Duncan Mackie 曰く「前年より王ジェームズ6世への手紙が親しげだし年金の支給も増額してる」そうです。

ロバート・セシルの手紙「Letter from Robert Cecil, Earl of Salisbury, to Henry Griffen, calling upon him to contribute to the war against the rebels in Ireland, 1602 Oct. 13.」

こちらの画はロバート・セシルの直筆です(内容は本文とはぜーんぜん関係ないの)。ロバートってこんな字を書くのね。
女王エリザベス1世が「秘密の手紙」に気が付いてたかは不明。
後に元・エセックス伯の秘書 H. Wotton (エセックス伯が処刑されたので海外へ逃亡中)が語った逸話があります。

ある日女王エリザベス1世はスコットランドから到着した手紙に気が付きました。
女王エリ「ロバート、お前の肩掛けカバンの中をお見せ」
ロバート「陛下、このカバンは不潔だし臭います」
その後ロバート・セシルは女王エリザベス1世に風通してニオイの取れた手紙(別モノ?)を見せましたとさ。


+ロバート・セシルと王ジェームズ6世の「王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世に即位」
晩年の女王エリザベス1世は親しい友人たちの死で鬱状態。1603年3月病に倒れると明らかに死の影が忍び寄ってきます。
ロバート・セシルは王ジェームズ6世へ「イングランド王位継承の同意書」を送付。
3月24日夜2-3時女王エリザベス1世が リッチモンド宮殿 (女王エリザベス1世の大好きな自宅)で亡くなります。享年69。
wikipedia

Paul Delaroche 画「The Death of Elizabeth I, Queen of England」(1828年:ルーヴル美術館)

「イングランド王ジェームズ1世の王位継承」の宣言

女王エリザベス1世が亡くなった数時間後、ロバート・セシルと枢密院は予め準備してた計画を実行します( 秘密の手紙 )。
ロンドンで「イングランド王ジェームズ1世の王位継承」を宣言。
数日後女王エリザベス1世のご遺体は ホワイトホール宮殿 へ運ばれます。4月28日 ウェストミンスター寺院 に埋葬。

M. Boudreau画「Funeral of Queen Elizabeth I, 28th of April, 1603」

女王エリザベス1世のご遺体は鉛で包んだ木製棺に納棺されました。棺の上には彩られた木製の 葬儀彫像 (funeral effigy)。
紫色のビロードで覆った棺は4頭の 葦毛馬 に引かれた チャリオット でウェストミンスター寺院へ。
王ヘンリー7世 (女王エリザベス1世の祖父)の 埋葬室 に埋葬されます。1606年女王メアリー1世(〃の異母姉)のお墓へ移葬。
Westminster Abbey (Elizabeth I)さんより~

王ジェームズ1世の上洛

4月5日王ジェームズ1世はエディンバラを発ってロンドンへゆっくり南下します。新しい王様を各地が大歓迎。
王ジェームズ1世は「石製ベッド(couch)がフワフワな羽毛ベッド(bed)に代わった」と豊かなイングランドにビックリ。
女王エリザベス1世の葬儀が終わった5月7日ロンドンへ入城。7月25日イングランド王の 即位式 が行われます。

作者不明「Coronation of James I」(1831年)

ちなみに新しい王様を大歓迎のハネムーン期間はあっという間に終了します。最初の試練は イングランド議会 の態度。
なにかと「王様って所詮はスコットランド人。イングランド人じゃない。」と言われちゃうの。
王ジェームズ1世は グレートブリテン (同君連合)の王様のつもりだったけど、皆さんにとって2国は別モノです。
wikipedia

ちなみにちなみに王ジェームズ1世はスコットランドに「3年毎に戻るからね」と約束してイングランドへ旅立ちました。
でも実際に戻ったのは1617年の1回だけ。
スコットランドの統治は王様の名代 スコットランド高等弁務官 にお願いしてます。


+女王エリザベス1世と元・女王メアリー(王ジェームズ1世の母親)のお墓の引っ越し
1587年元・女王メアリーは ピーターバラ大聖堂 、1603年女王エリザベス1世は 王ヘンリー7世 埋葬室 に埋葬されました。
王ジェームズ1世は女王エリザベス1世の棺を女王メアリー1世のお墓へ移葬。
その後元・女王メアリー(王ジェームズ1世の母親)の棺も ウェストミンスター寺院 へ移葬します。2人はお向かいさん。

歴代の王が眠るウェストミンスター寺院(ロンドン)

女王エリザベス1世と元・女王メアリーのお墓はウェストミンスター寺院の東側 Henry VII Chapel にあります。
ちなみに正面 聖母礼拝堂 は1940年 バトル・オブ・ブリテン で損壊。
空軍元帥トレンチャード子爵 H. Trenchard の働きで修復。勇敢に戦ったパイロット1,497人の栄誉名簿が奉納されてます。
wikipedia

女王エリザベス1世のお墓の引っ越し

1606年王ジェームズ1世は女王エリザベス1世の棺を女王メアリー1世(女王エリザベス1世の義母姉)のお墓へ移葬します。
白い大理石のモニュメントも建築。
ちなみにこちらの4頭のライオン像は金メッキされてました。 宝珠 王笏 は数世紀前に盗まれたのでレプリカ。
Westminster Abbey (Elizabeth I)さんより~

女王エリザベス1世と女王メアリー1世のお墓

モニュメントにはラテン語の墓碑も付いてます(訳は超テキトー)。2人のお墓なのに女王メアリー1世は完全スルー。
復活したとき険悪にならない?
っていうか、そもそもなんで王ジェームズ1世は2人を一緒にしたんでしょね。

天蓋の墓碑(頭側)

Memoriae Aeternae
Elizabethae, Angliae, Franciae, & Hi∣berniae* Reginae R. Henrici VIII. fil. R. Hen. VII. nept. R. Edw. IV. pronept. Pa∣triae, Parenti, Religionis, & honorum Artium altrici, plurimarum linguarum pe∣ritia, praeclaris tum animi tum corporis dotibus regiisque virtutibus supra sexum Principi incomparabili
Jacobus Magnae Britanniae, Franciae, & Hiberniae Rex virtutum & Regnorum haeres bene merenti pie posuit.
イングランド、フランス及びアイルランドの女王、王ヘンリー8世の娘、王ヘンリー7世の孫娘、王エドワード4世のひ孫娘。信仰の擁護者、教養と全ての言語、優雅な天分と豪壮な美徳を備えたる国の母エリザベス1世。
彼女の美徳と王国を受け継ぐ グレートブリテン 同君連合 )、フランス及びアイルランドの王。信心深く公正なジェームズ1世によりモニュメントを建造する。

天蓋の墓碑(足側)

Memoriae Sacrum.
Religione ad primaevam sinceritatem re∣staurata, pace fundata, moneta ad justum valorem reducta, rebellione domestica vin∣dicata, Gallia malis intestinis praecipiti sublevata, Belgio sustentato, Hispanica classe profligata, Hibernia pulsis Hispanis & Rebellibus ad deditionem coactis pa∣cata, redditibus utriusque Academiae lege Annonaria plurimum adauctis, toto de∣nique Anglia ditata, prudentissiméque annos 45. administrata:
Elizabetha Re∣gina victrix, triumphatrix, pietatis stu∣diosissima, foelicissima, placida morte Septuagenaria soluta, mortales reliquias dum Christo jubente resurgant immorta∣les, in hac Ecclesia celeberrima ab ipsa conservata, & denuo fundata, deposuit. Obiit 24. Martii, anno salutis. M. DC. II. Regni XLV. Aetatis LXX.
45年の君臨において本来の宗教への回復(英国国教会)、平和の確立、大改鋳( グレシャムの法則 )、国内反乱を鎮圧、分断されたフランスへの救援( ユグノー戦争 )、ネーデルラントへの支援( 八十年戦争 )、無敵艦隊を撃破( アルマダ海戦 )、スペインに支援されたアイルランド反乱軍をほぼ鎮圧( ティロン伯の反乱 )、法整備によるboth universitiesの増収、そしてイングランドを繁栄へ導いた最も慎重な支配者。
勝利の栄光に輝き、最も厳しく信心深く、最も幸福な…(中略)…女王エリザベス1世。70年の人生と45年の君臨を終えて アンノ・ドミニ(主の誕生元年) 1602年3月2(=西暦1603年)死の眠りに就く。

モニュメント下の墓碑

Regno consors & urnâ hic obdormimus Elizabetha & Maria sorores in spe resurrectionis.
王座とお墓のパートナー、姉妹エリザベス1世とメアリーは 復活 のときまでここに眠る。

元・女王メアリー(王ジェームズ1世の母親)のお墓の引っ越し

1606年王ジェームズ1世は元・女王メアリーの棺をウェストミンスター寺院へ移葬します。女王エリザベス1世の南側。
白い大理石のモニュメントも建築。
女王エリザベス1世のモニュメントより高いんだって。足元には スコットランド王の紋章 「赤いライオン」が立ってます。
Westminster Abbey (Mary Queen of Scots)さんより~

元・女王メアリーのお墓

ちなみにお隣は マーガレット・ダグラス のお墓。棺で息子ダメ夫ダーンリー卿 ヘンリー・ステュアート が跪いてます。
ダメ夫ダーンリー卿は元・女王メアリーの2番目の夫(王ジェームズ1世の父親)。
もしかしたら元・女王メアリーは「 ダメ夫ダーンリー卿殺害事件 の共犯者」かもしれません( 小箱の手紙 )。

マーガレット・ダグラスのお墓

モニュメントにはラテン語の墓碑も付いてます(訳は超テキトー)。女王の偉業を讃える記載はまったくナシ。
とにかくイングランドとの血統の繋がりを強調してるっぽい。
アレコレやらかした陰謀の「共犯はウソ」で、「ウソ」のせいで処刑されたと主張してるっぽいです。

天蓋の墓碑かしら?

スコットランド及びフランスの女王、スコットランド王ジェームズ5世の娘、唯一の王位継承者。イングランド王ヘンリー7世のひ孫-彼の長女マーガレット・テューダーを通して-、イングランド王エドワード4世の玄孫-彼の長女エリザベス・オブ・ヨークを通して-。フランス王フランソワ2世の王妃、そして生前のイングランド王位継承者。グレートブリテンの王ジェームズ1世の母メアリー。…(中略)…20年間の勾留中も勇敢かつ壮健であり、アホアホたちからの誹謗と戦い、そして敵の斧に倒れる。…(中略)…後生の全てがこの不幸な殺人の目撃者である。46年の人生を終えてキリスト紀元1587年2月8日死の眠りに就く。あーたらかーたら

後生の人々は彼女の身の潔白( ダメ夫ダーンリー卿殺害事件 バビントン事件 、…)を証明し、この世から不当な処刑人、拷問、投獄、絞首台を消し去らなければならない。…(中略)…彼女の人生は神より幸福と受難のときを与えられた。そして吉兆の運命である アテーナー ミューズ ディアーナ 、運命の三女神(the Fates revere)の恩寵を受けた王ジェームズ1世を産み落とした。偉大なる婚姻、偉大なる血統、最も偉大なる彼女の後継者。ウソが娘、花嫁、王ジェームズ1世の母親を奪い去った。あーたらかーたら

H.N(ノーサンプトン伯 ヘンリー・ハワード )ここに謹んで哀悼の意を表する。