「【共通】個人秘書フアン・デ・エスコベドの暗殺」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら
追加された行は緑色になります。
削除された行は赤色になります。
スペイン宮廷には2つの派閥「主戦派[[アルバ党>https://es.wikipedia.org/wiki/Albistas]]([[中央集権主義>https://en.wikipedia.org/wiki/Centralized_government]])」「和平派エボリ党([[連邦主義>https://es.wikipedia.org/wiki/Federalismo]])」があります。
1573年「和平派エボリ党」のエボリ大公[[ルイ・ゴメス・デ・シルバ>https://en.wikipedia.org/wiki/Ruy_G%C3%B3mez_de_Silva]]が死亡。
リーダを引き継いだ秘書官[[アントニオ・ペレス>https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_P%C3%A9rez_(statesman)]]は自分の立場を利用して利益を得ようとアレコレ裏工作します。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_P%C3%A9rez_(statesman)]]
&ref(相関図.png)
#blockquote(){&u(){&bold(){個人秘書フアン・デ・エスコベドの暗殺}}
秘書官ペレスは「王フェリペ2世がネーデルラント総督[[ドン・フアン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_of_Austria]]の野望に不審を抱いてる」をご利用します。
信頼する[[フアン・デ・エスコベド>https://en.wikipedia.org/wiki/Juan_de_Escobedo]]を総督ドン・フアンの個人秘書にして監視。
でも個人秘書エスコベドは総督ドン・フアンに本気で仕えて身も心も捧げちゃいました。あちゃー!
ってことで、秘書官ペレスは王フェリペ2世が2人に不審を抱くようにアレコレ裏工作します。
個人秘書エスコベドの報告書を改ざん。
1578年3月裏切り者の個人秘書エスコベドを暗殺します。アレコレ裏工作に騙された王フェリペ2世も暗殺に同意。
&ref(【共通の画】スペイン_アントニオ・ペレスとフアン・デ・エスコベド.jpg,【共通】共通の画)アントニオ・ペレスとフアン・デ・エスコベド
10月総督ドン・フアンの死亡で王フェリペ2世は個人秘書エスコベドの暗殺に疑問を抱きます。1579年秘書官ペレスを逮捕。
なかなか尻尾を掴めなかったけど1584年「横領と王様に送られる書類の改ざん」で起訴。
1585年秘書官ペレスに「役職の剥奪」「宮廷から10年間追放」「懲役2年」「罰金」の判決が下ります。
}
#blockquote(){&u(){&bold(){エボリ大公夫人アナ・デ・メンドーサも一緒に逮捕}}
隻眼のエボリ大公夫人[[アナ・デ・メンドーサ>https://en.wikipedia.org/wiki/Ana_de_Mendoza,_Princess_of_Eboli]]は華やかで魅力的なスペイン宮廷の有名人でした。
1553年王フェリペ2世の重臣エボリ大公[[ルイ・ゴメス・デ・シルバ>https://en.wikipedia.org/wiki/Ruy_G%C3%B3mez_de_Silva]]と結婚。
王妃[[エリザベート・ド・ヴァロワ>https://en.wikipedia.org/wiki/Elisabeth_of_Valois]]と仲良し。夫や王妃との繋がりで王フェリペ2世の「[[Valido:お気に入り>https://en.wikipedia.org/wiki/Favourite]]」です。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Ana_de_Mendoza,_Princess_of_Eboli]]
&ref(【共通の画】スペイン_メディナ・シドーニア公爵とエボリ大公夫人.jpg,【共通】共通の画)メディナ・シドーニア公爵とエボリ大公夫人
1573年「和平派エボリ党」の夫エボリ大公が死亡。未亡人になったエボリ大公夫人は修道院で生活しました。
その頃リーダを引き継いだ秘書官ペレスはアレコレ裏工作。
1576年俗世に戻ったエボリ大公夫人は秘書官ペレスと同盟を結びます。2人は愛情豊かな関係だったのかも。
1578年秘書官ペレスが裏切り者の個人秘書エスコベドを暗殺しちゃいます。
暗殺の動機は不明。
2人の愛情豊かな関係を暴露しようとしたのかも。そして2人はこんな陰謀を企んでたのかもしれません。
・[[ポルトガル王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Portugal]]をスペインから切り離そうとしてた(エボリ大公夫人の息子Diego de Silva y Mendozaを[[ポルトガル王>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Portuguese_monarchs]]にするっぽい)。
・ネーデルラント総督ドン・フアンの「僕はイングランドの王様になりたい」に反対してた。
&ref(【共通の画】スペイン_パストラーナ城.jpg,【共通】共通の画)鉄格子の窓とエントランス上のバルコニー(パストラーナ城)
1579年王フェリペ2世は秘書官ペレスと一緒にエボリ大公夫人も「国家機密漏洩」で逮捕します。
[[Pinto城>https://es.wikipedia.org/wiki/Torre%C3%B3n_de_Pinto]](マドリード)、その後[[Torremocha城>https://es.wikipedia.org/wiki/Castillo_de_Torremocha_(Santorcaz)]](〃)に幽閉。
1581年[[パストラーナ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Ducal_Palace_of_Pastrana]](エボリ大公夫人の息子Ruy II Gómez de Silva y Mendozaの公爵領[[パストラーナ>https://en.wikipedia.org/wiki/Pastrana,_Spain]])に移されます。
幽閉生活のエボリ大公夫人は1日1時間だけバルコニー(Plaza de la Hora)に出ることが許されます。
1590年元・秘書官ペレスが刑務所(マドリード)を脱獄。
王フェリペ2世の命令でエボリ大公夫人の部屋のドアと窓に鉄格子がセット。幽閉生活13年目の1592年死亡します。
}
#blockquote(){&u(){&bold(){王フェリペ2世vs元・秘書官アントニオ・ペレス}}
1587年王フェリペ2世は元・秘書官ペレスを「個人秘書エスコベドの暗殺」で逮捕します。
「王様が暗殺に関与してる証拠の書類」を回収したかったの。
1590年4月19日拷問に負けなかった元・秘書官ペレスは仲間の手助けで刑務所(マドリード)を脱獄します。
4月23日王フェリペ2世は脱獄した元・秘書官ペレスを提訴します。
・個人秘書エスコベドを暗殺するために王様にウソの情報を与えた。
・自分の利益のために職権乱用した。
・あろうことか取り調べ中に逃げ出した。
7月1日マドリード裁判所は死刑判決します。元・秘書官ペレスを身柄確保したら即刻処刑しちゃうぜー!
&ref(王フェリペ2世vs元・秘書官アントニオ・ペレス.jpg)1850年の[[スペイン執行官の管轄区域>https://en.wikipedia.org/wiki/Bailiwick]]
元・秘書官ペレスはマドリード([[カスティーリャ王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Castile]])から[[サラゴサ>https://en.wikipedia.org/wiki/Zaragoza]]([[アラゴン王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Aragon]])に逃げました。
父親Gonzalo Pérezが有力者だったアラゴン王国には支援者が多いの。
速攻で[[フエロ(王様の暴挙への防御権)>https://en.wikipedia.org/wiki/Fuero]]をゲト。王フェリペ2世はアラゴン裁判所の許可ナシに身柄確保できませーん。
アラゴン裁判所は元・秘書官ペレスを王フェリペ2世から護るために刑務所(prison of manifestados)に匿います。
王フェリペ2世からの起訴も却下。
9月1日王フェリペ2世は「アラゴン王」の名においてアラゴン裁判所に元・秘書官ペレスを再度起訴します。
&ref(王フェリペ2世vs元・秘書官アントニオ・ペレス:Alteraciones de Aragón.jpg)[[Alteraciones de Aragón>https://es.wikipedia.org/wiki/Alteraciones_de_Arag%C3%B3n]]
アラゴン裁判所のダラダラ裁判にイライラした王フェリペ2世は元・秘書官ペレスを[[異端審問>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Inquisition]]に起訴します。
異端審問はカスティーリャ王国とアラゴン王国で共通の教会管轄。
1591年5月13日アラゴン王国の皆さんが「王フェリペ2世が我々の司法を侮辱した」と暴動を起こします。
王フェリペ2世はカオス化したアラゴン王国の鎮圧にカスティーリャ軍を送ります。アラゴン裁判所も軍隊には勝てない。
11月10日元・秘書官ペレスはサラゴサの刑務所から逃亡。
アラゴン王国はあっという間に鎮圧。12月20日王フェリペ2世は裁判長Juan de Lanuza y Urreaを裁判ナシで処刑します。
}
#blockquote(){&u(){&bold(){元・秘書官アントニオ・ペレスの逃亡生活}}
1591年11月23日の夜羊飼いに化けた元・秘書官ペレスは大雪のピレネー山脈を超えて[[ナバラ王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Navarre#Independent_Navarre_north_of_the_Pyrenees]]に行きます。
その後[[ベアルン>https://en.wikipedia.org/wiki/B%C3%A9arn]](フランス:[[カトリーヌ・ド・ブルボン>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_de_Bourbon]]の領地)へ。
イングランドに「僕が知ってる秘密の情報」を売り込んで生計を立てようとします。でも女王エリザベス1世からの反応ナシ。
1593年[[Anthony Bacon>https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Bacon_(1558%E2%80%931601)]](哲学者[[フランシス・ベーコン>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Bacon]]の兄)の招待でイングランドに行きます。
イングランドで何度か暗殺の標的に。
1594年女王エリザベス1世の毒殺未遂で処刑された女王の主治医[[Roderigo Lopez>https://en.wikipedia.org/wiki/Roderigo_Lopez]]も彼を標的にしてたっぽいです。
&ref(元・秘書官アントニオ・ペレスの逃亡生活.jpg)[[Levinus Hulsius>https://en.wikipedia.org/wiki/Levinus_Hulsius]]画「Lopez speaking with a Spaniard」(1627年)
1595年フランス王[[アンリ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_IV_of_France]]のご招待でフランスへ行きます。ちなみにご家族はマドリードの刑務所でずーっと監禁生活。
王フェリペ2世が死亡した1598年解放されたっぽい。
その後元・秘書官ペレスは妻[[Juana Coello>https://en.wikipedia.org/wiki/Juana_Coello]]と一緒に生活したっぽい。1611年パリで死亡します。
}
スペイン宮廷には2つの派閥「主戦派[[アルバ党>https://es.wikipedia.org/wiki/Albistas]]([[中央集権主義>https://en.wikipedia.org/wiki/Centralized_government]])」「和平派エボリ党([[連邦主義>https://es.wikipedia.org/wiki/Federalismo]])」があります。
1573年「和平派エボリ党」のエボリ大公[[ルイ・ゴメス・デ・シルバ>https://en.wikipedia.org/wiki/Ruy_G%C3%B3mez_de_Silva]]が死亡。
リーダを引き継いだ秘書官[[アントニオ・ペレス>https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_P%C3%A9rez_(statesman)]]は自分の立場を利用して利益を得ようとアレコレ裏工作します。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_P%C3%A9rez_(statesman)]]
&ref(相関図.png)
#blockquote(){&u(){&bold(){個人秘書フアン・デ・エスコベドの暗殺}}
秘書官ペレスは「王フェリペ2世がネーデルラント総督[[ドン・フアン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_of_Austria]]の野望に不審を抱いてる」をご利用します。
信頼する[[フアン・デ・エスコベド>https://en.wikipedia.org/wiki/Juan_de_Escobedo]]を総督ドン・フアンの個人秘書にして監視。
でも個人秘書エスコベドは総督ドン・フアンに本気で仕えて身も心も捧げちゃいました。あちゃー!
ってことで、秘書官ペレスは王フェリペ2世が2人に不審を抱くようにアレコレ裏工作します。
個人秘書エスコベドの報告書を改ざん。
1578年3月裏切り者の個人秘書エスコベドを暗殺します。アレコレ裏工作に騙された王フェリペ2世も暗殺に同意。
&ref(【共通の画】スペイン_アントニオ・ペレスとフアン・デ・エスコベド.jpg,【共通】共通の画)アントニオ・ペレスとフアン・デ・エスコベド
10月総督ドン・フアンの死亡で王フェリペ2世は個人秘書エスコベドの暗殺に疑問を抱きます。1579年秘書官ペレスを逮捕。
なかなか尻尾を掴めなかったけど1584年「横領と王様に送られる書類の改ざん」で起訴。
1585年秘書官ペレスに「役職の剥奪」「宮廷から10年間追放」「懲役2年」「罰金」の判決が下ります。
}
#blockquote(){&u(){&bold(){エボリ大公夫人アナ・デ・メンドーサも一緒に逮捕}}
隻眼のエボリ大公夫人[[アナ・デ・メンドーサ>https://en.wikipedia.org/wiki/Ana_de_Mendoza,_Princess_of_Eboli]]は華やかで魅力的なスペイン宮廷の有名人でした。
1553年王フェリペ2世の重臣エボリ大公[[ルイ・ゴメス・デ・シルバ>https://en.wikipedia.org/wiki/Ruy_G%C3%B3mez_de_Silva]]と結婚。
王妃[[エリザベート・ド・ヴァロワ>https://en.wikipedia.org/wiki/Elisabeth_of_Valois]]と仲良し。夫や王妃との繋がりで王フェリペ2世の「[[Valido:お気に入り>https://en.wikipedia.org/wiki/Favourite]]」です。
[[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Ana_de_Mendoza,_Princess_of_Eboli]]
&ref(【共通の画】スペイン_メディナ・シドーニア公爵とエボリ大公夫人.jpg,【共通】共通の画)メディナ・シドーニア公爵とエボリ大公夫人
1573年「和平派エボリ党」の夫エボリ大公が死亡。未亡人になったエボリ大公夫人は修道院で生活しました。
その頃リーダを引き継いだ秘書官ペレスはアレコレ裏工作。
1576年俗世に戻ったエボリ大公夫人は秘書官ペレスと同盟を結びます。2人は愛情豊かな関係だったのかも。
1578年秘書官ペレスが裏切り者の個人秘書エスコベドを暗殺しちゃいます。
暗殺の動機は不明。
2人の愛情豊かな関係を暴露しようとしたのかも。そして2人はこんな陰謀を企んでたのかもしれません。
・[[ポルトガル王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Portugal]]をスペインから切り離そうとしてた(エボリ大公夫人の息子Diego de Silva y Mendozaを[[ポルトガル王>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Portuguese_monarchs]]にするっぽい)。
・ネーデルラント総督ドン・フアンの「僕はイングランドの王様になりたい」に反対してた。
&ref(【共通の画】スペイン_パストラーナ城.jpg,【共通】共通の画)鉄格子の窓とエントランス上のバルコニー(パストラーナ城)
1579年王フェリペ2世は秘書官ペレスと一緒にエボリ大公夫人も「国家機密漏洩」で逮捕します。
[[Pinto城>https://es.wikipedia.org/wiki/Torre%C3%B3n_de_Pinto]](マドリード)、その後[[Torremocha城>https://es.wikipedia.org/wiki/Castillo_de_Torremocha_(Santorcaz)]](〃)に幽閉。
1581年[[パストラーナ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Ducal_Palace_of_Pastrana]](エボリ大公夫人の息子Ruy II Gómez de Silva y Mendozaの公爵領[[パストラーナ>https://en.wikipedia.org/wiki/Pastrana,_Spain]])に移されます。
幽閉生活のエボリ大公夫人は1日1時間だけバルコニー(Plaza de la Hora)に出ることが許されます。
1590年元・秘書官ペレスが刑務所(マドリード)を脱獄。
王フェリペ2世の命令でエボリ大公夫人の部屋のドアと窓に鉄格子がセット。幽閉生活13年目の1592年死亡します。
}
#blockquote(){&u(){&bold(){王フェリペ2世vs元・秘書官アントニオ・ペレス}}
1587年王フェリペ2世は元・秘書官ペレスを「個人秘書エスコベドの暗殺」で再逮捕します。
「王様が暗殺に関与してる証拠の書類」を回収したかったの。
1590年4月19日拷問に負けなかった元・秘書官ペレスは仲間の手助けで刑務所(マドリード)を脱獄します。
4月23日王フェリペ2世は脱獄した元・秘書官ペレスを提訴します。
・個人秘書エスコベドを暗殺するために王様にウソの情報を与えた。
・自分の利益のために職権乱用した。
・あろうことか取り調べ中に逃げ出した。
7月1日マドリード裁判所は死刑判決します。元・秘書官ペレスを身柄確保したら即刻処刑しちゃうぜー!
&ref(王フェリペ2世vs元・秘書官アントニオ・ペレス.jpg)1850年の[[スペイン執行官の管轄区域>https://en.wikipedia.org/wiki/Bailiwick]]
元・秘書官ペレスはマドリード([[カスティーリャ王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Castile]])から[[サラゴサ>https://en.wikipedia.org/wiki/Zaragoza]]([[アラゴン王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Aragon]])に逃げました。
父親Gonzalo Pérezが有力者だったアラゴン王国には支援者が多いの。
速攻で[[フエロ(王様の暴挙への防御権)>https://en.wikipedia.org/wiki/Fuero]]をゲト。王フェリペ2世はアラゴン裁判所の許可ナシに身柄確保できませーん。
アラゴン裁判所は元・秘書官ペレスを王フェリペ2世から護るために刑務所(prison of manifestados)に匿います。
王フェリペ2世からの起訴も却下。
9月1日王フェリペ2世は「アラゴン王」の名においてアラゴン裁判所に元・秘書官ペレスを再度起訴します。
&ref(王フェリペ2世vs元・秘書官アントニオ・ペレス:Alteraciones de Aragón.jpg)[[Alteraciones de Aragón>https://es.wikipedia.org/wiki/Alteraciones_de_Arag%C3%B3n]]
アラゴン裁判所のダラダラ裁判にイライラした王フェリペ2世は元・秘書官ペレスを[[異端審問>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Inquisition]]に起訴します。
異端審問はカスティーリャ王国とアラゴン王国で共通の教会管轄。
1591年5月13日アラゴン王国の皆さんが「王フェリペ2世が我々の司法を侮辱した」と暴動を起こします。
王フェリペ2世はカオス化したアラゴン王国の鎮圧にカスティーリャ軍を送ります。アラゴン裁判所も軍隊には勝てない。
11月10日元・秘書官ペレスはサラゴサの刑務所から逃亡。
アラゴン王国はあっという間に鎮圧。12月20日王フェリペ2世は裁判長Juan de Lanuza y Urreaを裁判ナシで処刑します。
}
#blockquote(){&u(){&bold(){元・秘書官アントニオ・ペレスの逃亡生活}}
1591年11月23日の夜羊飼いに化けた元・秘書官ペレスは大雪のピレネー山脈を超えて[[ナバラ王国>https://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Navarre#Independent_Navarre_north_of_the_Pyrenees]]に行きます。
その後[[ベアルン>https://en.wikipedia.org/wiki/B%C3%A9arn]](フランス:[[カトリーヌ・ド・ブルボン>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_de_Bourbon]]の領地)へ。
イングランドに「僕が知ってる秘密の情報」を売り込んで生計を立てようとします。でも女王エリザベス1世からの反応ナシ。
1593年[[Anthony Bacon>https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Bacon_(1558%E2%80%931601)]](哲学者[[フランシス・ベーコン>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Bacon]]の兄)の招待でイングランドに行きます。
イングランドで何度か暗殺の標的に。
1594年女王エリザベス1世の毒殺未遂で処刑された女王の主治医[[Roderigo Lopez>https://en.wikipedia.org/wiki/Roderigo_Lopez]]も彼を標的にしてたっぽいです。
&ref(元・秘書官アントニオ・ペレスの逃亡生活.jpg)[[Levinus Hulsius>https://en.wikipedia.org/wiki/Levinus_Hulsius]]画「Lopez speaking with a Spaniard」(1627年)
1595年フランス王[[アンリ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_IV_of_France]]のご招待でフランスへ行きます。ちなみにご家族はマドリードの刑務所でずーっと監禁生活。
王フェリペ2世が死亡した1598年解放されたっぽい。
その後元・秘書官ペレスは妻[[Juana Coello>https://en.wikipedia.org/wiki/Juana_Coello]]と一緒に生活したっぽい。1611年パリで死亡します。
}