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#contents_line(level=2,sep=/) *イギリス海軍をお手本にした日本海軍 鎖国の日本(江戸:1603–1868年、明治:1868–1912年)は、アメリカからやって来た[[ペリーの黒船>http://en.wikipedia.org/wiki/Perry_Expedition]]で1854年世界デビュー。 世界は弱肉強食な[[帝国主義>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperialism]]の時代でございます。 こりゃヤバイ!富国強兵だ!っと、イギリス海軍をお手本に[[大日本帝国海軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Navy]](1872-[[GHQ>http://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Commander_for_the_Allied_Powers]]指令第一号:1945年)を設立。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Military_history_of_Japan]] &ref(日本海軍.PNG)[[大日本帝国海軍の軍服>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%9C%8D_(%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D)]](士官:時代不明、兵学校生:1939年頃) 日本海軍がお手本にイギリス海軍を選んだのは、世界の海を制する最強海軍だったからだそうです。 頑張ったのが初代海軍卿[[勝海舟>http://en.wikipedia.org/wiki/Katsu_Kaish%C5%AB]]。 ちなみに[[大日本帝国陸軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Army]](1871–1945年)のお手本はフランス陸軍。その後[[普仏戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Prussian_War]](1870–1871年)に勝利したドイツ陸軍に変更。 &ref(日本海軍(日本陸軍).JPG,,height=200)[[大日本帝国陸軍の軍服>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%9C%8D_(%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D)]](1937年) この頃の日本を一言で言うと「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている(司馬遼太郎著「[[坂の上の雲>http://en.wikipedia.org/wiki/Saka_no_Ue_no_Kumo]]」より)」です。 イギリスは日本の開化に貢献。 この小説の日本海軍は、ストイックでめちゃくちゃカッコイイですわよ♥ #region(close,ユーモアを解せざる者は海軍軍人の資格なし) 日本海軍は「過酷な長期航海でも耐え忍ぶ」ために、イギリス海軍の[[ユーモアの精神>http://en.wikipedia.org/wiki/British_humour]]もお手本にしてます。 たぶん「心に余裕を」ってことじゃないかと。 こちらは南極に行ったイギリス海軍[[HMSプロテクター>http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Protector_(A173)]]のメリー・クリスマス。うーん、日本人には無理っぽそう…? &ref(日本海軍_ユーモア.JPG,,height=200)これがイギリス海軍のユーモアだあ♥ #blockquote(){&u(){&bold(){海上自衛隊の素敵なユーモア}} 2000年ニューヨーク港はアメリカ独立記念日の洋上式典で大混雑。 大型のイギリス客船[[クイーン・エリザベス2号>http://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Elizabeth_2]]が、海上自衛隊の練習艦[[かしま>http://en.wikipedia.org/wiki/JDS_Kashima_(TV-3508)]]にちょびっとだけ接触しちゃいました。 謝罪に来た船長代理さんに対して、かしまの艦長さんのお返事は「女王陛下にキスされて光栄に思っております」。 &ref(日本海軍_ユーモア(海上自衛隊).JPG,,height=200)どこでも人気者のQE2。奥はQM2(シドニー) このアメリカ独立記念日は、大規模な「[[Operation Sail 2000>http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Sail]]:色んな国から船をご招待ミレニアム作戦」でお祝いしてます。 港には大型帆船150隻、軍艦40隻。見学する船が70,000隻。 こんな大混雑の中で大型のQE2を運転するのはとっても大変だし、難しかったそうです。 }   #endregion #region(close,みんなで一緒にお勉強の「観戦武官」) 観戦武官は「中立国の軍人が戦争を見学」する不思議なシステム。戦場だからアブナイ。 1898年[[米西戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish%E2%80%93American_War]]で海軍大尉[[秋山真之>http://en.wikipedia.org/wiki/Akiyama_Saneyuki]]は、アメリカ海軍の運送船セネカに乗って見学。全滅したスペイン艦の調査もしてます。 後日アメリカ勝利の理由を分析した「サンチャゴ・ヂュ・クバ之役(極秘諜報第百十八号)」を日本海軍に報告。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E6%88%A6%E6%AD%A6%E5%AE%98]] &ref(日本海軍_観戦武官.JPG,,height=200)軍事参議官[[黒木為楨>http://en.wikipedia.org/wiki/Kuroki_Tamemoto]]と観戦武官のイギリス士官(1904年:日露戦争) 1904年日露戦争で日本軍を見学したのは、イギリス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン=ノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、トルコ。 なーんと第二次世界大戦の最高司令官[[ダグラス・マッカーサー>http://en.wikipedia.org/wiki/Douglas_MacArthur]]もお父さんと一緒に見学してます。 #blockquote(){&u(){&bold(){祇園精舎の鐘リンゴーン♪のスペイン}} 秋山真之が見学したのは[[サンチャゴ・デ・キューバ海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Santiago_de_Cuba]]です。 キューバの独立を阻止するスペインと、キューバの産業を食べたいアメリカの戦い。スペインの負け。 太陽の沈まぬ帝国スペインも明治時代になると欧米列強からの脱落組。フェリペ2世が知ったらビックリしちゃいますね。 &ref(日本海軍_観戦武官(米西戦争).PNG)スペインから独立する中南米 フェリペ2世もビックリとはいえ、中南米の公用語は赤色=スペイン語、桃色=ポルトガル語のままです。 宗教もカトリックがダントツ。 あと割合は少ないけど、先住民族[[インディヘナ>http://en.wikipedia.org/wiki/Indigenous_peoples_in_South_America]]の皆さんがいます。グアテマラの地域によって違う民族衣装は圧巻♥ &ref(日本海軍_観戦武官(民族衣装).JPG,,height=200)[[サン・アンドレス>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Andr%C3%A9s_Xecul]]の民族衣装(グアテマラ) } #endregion #region(close,船の中では片手でご飯?) 映画「海軍兵学校物語 あゝ江田島」を観てたら、主人公が片手で食事するシーンがありました。 艦内はお茶碗を持つ余裕がないくらい狭いし、揺れるので食器がテーブルから落ちないように押さえなくちゃいけないらしい。 こちらは海上自衛隊のお夕飯。お味噌汁以外は片手で大丈夫っぽいかも。 &ref(日本海軍_ご飯.JPG,,height=200)護衛艦[[あたご>http://en.wikipedia.org/wiki/JDS_Atago_%28DDG-177%29]]のお夕飯([[第3護衛隊群ホームページ>http://www.mod.go.jp/msdf/ccf3/index.html]]さんより) #blockquote(){&u(){&bold(){イギリス海軍を参考にした海軍カレー}} 海上自衛隊は金曜日に海軍カレーを食べます。 イギリス海軍のカレー味シチュー([[Burgoo>http://en.wikipedia.org/wiki/Burgoo]]、[[Madras curry>http://en.wikipedia.org/wiki/Madras_curry_sauce]]かなぁ?)を改良したもので、脚気の予防に1908年から採用。 お肉と野菜がタップリ摂れるし、船上では分からなくなっちゃう曜日のメリハリもできます。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC]] &ref(日本海軍_ご飯(海軍カレー).JPG,,height=200)船は揺れるからお家のカレーよりトロトロ イギリスのカレーは1747年料理研究家[[ハンナ・グラス>http://en.wikipedia.org/wiki/Hannah_Glasse]]著「[[Art of Cookery>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Art_of_Cookery]]」で初めて紹介。カレー粉もイギリスが開発。 こちらは日本海軍の海軍割烹術参考書(1908年)のレシピです。 海上自衛隊の護衛艦しらゆきのカレーレシピの動画はこちらhttp://www.youtube.com/watch?v=NLtmCGBZQvIをどうぞ。 初メ米ヲ洗ヒ置キ牛肉(鶏肉)玉葱、人参、馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細ク切リ 別ニ「フライパン」ニ「ヘッド」ヲ布キ麥粉ヲ入レ狐色位ニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄トロノ如ク溶シ 之レニ前ニ切リ置キシ肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ(馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ンド煮エタルヲ入ル可シ)弱火ニ掛け煮込ミ置キ 先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ 之ヲ皿ニ盛リ前ノ煮込ミシモノニ塩ニテ味ヲ付ケ飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス } #blockquote(){&u(){&bold(){脚気に悩んだ日本海軍}} 脚気を激減させたのは、イギリス留学した海軍軍医[[高木兼寛>http://en.wikipedia.org/wiki/Takaki_Kanehiro]]。1884年「タンパク質の不足だ!」と洋食+[[麦飯>http://en.wikipedia.org/wiki/Orzotto]]を採用。 正解はビタミンB1の不足。 でもお肉(洋食)や大麦(麦飯)からちゃーんと摂取できてました。ビタミンB1は1911年[[カジミール・フンク>http://en.wikipedia.org/wiki/Casimir_Funk]]が発見。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%84%9A%E6%B0%97%E5%8F%B2]] &ref(日本海軍_ご飯(脚気).JPG,,height=200)日本とアメリカの海軍士官(1908年:アメリカ戦艦の甲板) 明治時代の日本陸軍は、麦飯スゲーと知りつつも「不味い麦飯」より「美味しい白米」を採用。脚気が続きます。 白米は庶民憧れのご馳走。 エライ人達には「死地に赴く兵士に白米を食べさせてあげたい」という心情があったそうです。 } #endregion #region(close,軍艦はお名前が綺麗) 日本海軍の船名は、国名(藩名)、山岳、河川、天象気象、名所古蹟から付けてます。イギリス海軍みたいな人名は使用不可。 海上自衛隊に引き継がれてるお名前(表記はひらがな)もあります。 ちょびっとだけ日本海軍が持ってた軍艦を。初の国産軍艦は1875年[[横須賀海軍工廠>http://en.wikipedia.org/wiki/Yokosuka_Naval_Arsenal]]建造の「清輝(触礁:1888年)」。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_ship-naming_conventions]] &ref(日英同盟_春日.JPG,,height=200)巡洋艦「春日」 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:軍艦|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:進水-除籍|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:建造|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:由来|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海上自衛隊| |戦艦&br()[[三笠>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Mikasa]]|1900-1923年|イギリス|神道の神が宿る神体山「三笠山」(奈良県、通称:春日山)から。|| |戦艦&br()[[敷島>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Shikishima]]|1898-1900年|イギリス|[[崇神天皇>http://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Sujin]]の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)が置かれた地から。&br()和歌「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」[[柿本人麻呂>http://en.wikipedia.org/wiki/Kakinomoto_no_Hitomaro]]|巡視船&br()[[しきしま>http://en.wikipedia.org/wiki/Shikishima_(PLH_31)]]| |戦艦&br()[[富士>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Fuji]]|1896-1945年|イギリス|日本の最高峰で神道の神が宿る神体山「富士山」から。|| |戦艦&br()[[朝日>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Asahi]]|1899-1942年|イギリス|朝、東から昇る太陽から?&br()和歌「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」[[本居宣長>http://en.wikipedia.org/wiki/Motoori_Norinaga]]|| |巡洋艦&br()[[春日>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Kasuga]]|1902-1945年|イタリア|分かりませんでした。&br()昔、薩摩藩の軍艦「[[春日丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_Kasuga_(1862)]]」(購入:1867-1894年、イギリス建造)がありました。|| |巡洋艦&br()[[日進>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Nisshin]]|1903-1935年|イタリア|分かりませんでした。&br()昔、佐賀藩の軍艦「[[日進丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_Nisshin]]」(1869-1892年、オランダ建造)がありました。|| |通報艦&br()[[龍田>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Tatsuta_(1894)]]|1894-1916年|イギリス|多くの和歌で詠まれた「竜田川」(奈良県)から。&br()和歌「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」[[在原業平>http://en.wikipedia.org/wiki/Ariwara_no_Narihira]]|| #endregion #region(close,軍艦旗) 軍艦旗は海軍の軍艦が掲げる旗で、国ごとに違う。 [[戦時国際法>http://en.wikipedia.org/wiki/Laws_of_war]]で「この旗を掲げてる船は戦争になったら、参加できる・敵の軍艦を攻撃できる・敵の軍艦を拿捕できる」そうです。 攻撃しちゃいけない軍艦([[病院船>http://en.wikipedia.org/wiki/Hospital_ship]]とか)は、見分けられるように特別な軍艦旗を掲げるから大丈夫。 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[日章旗>http://en.wikipedia.org/wiki/Flag_of_Japan]]&br()(1854-1889年)|&ref(日本海軍_軍艦旗(日章旗).PNG,,height=60)|幕府海軍|1854年日米和親条約を結んで、外国の船と区別するために決めた国旗。&br()他に「大中黒・新田一つ引&ref(日本海軍_軍艦旗(大中黒).PNG,,height=30)」なんて候補もあったみたい。&br()初めてこの軍艦旗を掲げたのは、1855年軍艦[[昇平丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_Shohei_Maru]]。| |~|~|大日本帝国海軍|~| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[旭日旗>http://en.wikipedia.org/wiki/Rising_Sun_Flag]]&br()(1889-1945年)|&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=60)|大日本帝国海軍|1870年大日本帝国陸軍が陸軍御国旗&ref(日本海軍_軍艦旗(陸軍御国旗).PNG,,height=30)を決定。&br()その後、海軍もこの陸軍御国旗を採用。太陽がちょびっと左寄りです。| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:警備隊旗&br()(1952-1954年)|&ref(日本海軍_軍艦旗(警備隊旗).PNG,,height=60)|保安庁警備隊|第二次世界大戦に負けて大日本帝国海軍は解体。&br()警備隊は日本の領海を警備するための組織。海上自衛隊の前身です。| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:旭日旗&br()(1954年-現在)|&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=60)|海上自衛隊|海上自衛隊の発足で旭日旗も復活。&br()ちなみに陸上自衛隊は&ref(日本海軍_軍艦旗(陸上自衛隊).PNG,,height=30)。航空自衛隊は&ref(日本海軍_軍艦旗(航空自衛隊).PNG,,height=30)です。| #blockquote(){&u(){&bold(){海上自衛隊が軍艦旗を掲げる場所}} 軍艦旗&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=30)を掲げる場所は船尾だったり、メインマストだったり。軍艦によって違います。 この軍艦の船尾はヘリコプターが出入りするっぽいからメインマスト? 航海中はずっと、停泊中は午前8時~日没まで掲揚。外国の港に停泊中は、夜中でも掲揚できる準備しとかないとダメです。 &ref(日本海軍_軍艦旗.JPG,,height=200)左:海上自衛隊、右:アメリカ海軍([[海上自衛隊>http://www.mod.go.jp/msdf/]]さんより) 停泊中は船首に国籍旗&ref(日本海軍_軍艦旗(日章旗).PNG,,height=30)も掲げます。 航海中は、指揮官が「この軍艦が日本だってお知らせしなくちゃ」と判断した時だけメインマストに掲揚。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでに潜水艦が軍艦旗を掲げる場所}} 航海中はセールに軍艦旗&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=30)を掲げます。お隣は「1等海佐の司令官が乗ってます」って合図の代将旗&ref(日本海軍_軍艦旗(代将旗).PNG,,height=30)。 潜るときはお片付け。海の中は真っ暗で互い何も見えないもんね。 停泊中は船首に国籍旗&ref(日本海軍_軍艦旗(日章旗).PNG,,height=30)を掲げるようです。 &ref(日本海軍_軍艦旗(潜水艦).PNG)潜水艦は潜舵と横舵(上下)、縦舵(左右)で3Dに動く 何も見えない潜水中は、音紋(潜水艦の機器が出す音)で相手を識別します。音紋のカタログデータで艦名まで判別。 カタログデータは非売品。 新しい潜水艦が誕生すると、各国の潜水艦が近所にコッソリ潜んで音紋を収拾します。 } #endregion #region(close,まったく個人的な意見だけど、アロンソは髭剃って欲しいの) 明治の海軍軍人はエラくなると髭生やしてます。髭は威厳の象徴。 大正になると髭ブーム下火、日中戦争になると髭ブーム再来…自衛隊は上官の許可があればオケ。イラク派遣の[[ヒゲの隊長>http://en.wikipedia.org/wiki/Masahisa_Sato]]が有名。 ヒゲは場所によって「くちヒゲ=髭」「あごヒゲ=鬚」「ほおヒゲ=髯」です。 &ref(日本海軍_髭.PNG)明治時代のスタイルはこんな感じらしい #endregion **イギリス海軍をお手本にした海軍士官学校 世界デビューした日本はオランダ海軍、その後イギリス海軍をお手本に士官を養成する海軍兵学校も設立。 最初がオランダなのは、鎖国の日本が唯一交易してた国だから。右往左往してるは、[[明治維新>http://en.wikipedia.org/wiki/Meiji_Restoration]]で日本がバタバタしてるからです。 受験生は16~19歳。海軍兵学校に入学するための海軍予備校も誕生。 &ref(海軍士官学校.JPG,,height=200)江田島兵学校(1942年頃じゃないかと) |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:お手本|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海軍士官学校|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:| |BGCOLOR(lightgrey):オランダ|>|[[長崎海軍伝習所>http://en.wikipedia.org/wiki/Nagasaki_Naval_Training_Center]]&br()(1855-財政難:1859年)|オランダ商館長[[ヤン・ドンケル・クルティウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Janus_Henricus_Donker_Curtius]](滞日:1852-1860年)の勧めで設立。&br()オランダ海軍から先生を[[ご招待>http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_government_advisors_in_Meiji_Japan]]。練習艦[[観光丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_barque_Kank%C5%8D_Maru]]も頂いてます。| |~|>|[[築地軍艦操練所>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E6%93%8D%E7%B7%B4%E6%89%80]]&br()(1857-海軍所:1866年)|先生は長崎海軍伝習所の卒業生[[勝海舟>http://en.wikipedia.org/wiki/Katsu_Kaish%C5%AB]]や漂流した[[ジョン万次郎>http://en.wikipedia.org/wiki/Nakahama_Manjir%C5%8D]]など。| |BGCOLOR(lightgrey):イギリス|海軍兵学校|[[築地軍艦操練所>http://en.wikipedia.org/wiki/Kobe_Naval_Training_Center]]&br()(1869-1870年)|| |~|~|築地海軍兵学寮&br()(1870-1876年)|イギリス海軍から先生[[ダグラス教官団>http://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Lucius_Douglas]](滞日:1873-1875年)をご招待。&br()[[台湾出兵>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_invasion_of_Taiwan_%281874%29]](1874年)のアドバイザーもお願い。サッカーも教えてもらったらしい。| |~|~|[[江田島海軍兵学校>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Naval_Academy]]&br()(1876-1945年)|「一に海兵、二に陸士([[陸軍士官学校>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Army_Academy]])、三・四がなくて、五に東大」の超難関校。&br()卒業生の階級は[[尉官>http://en.wikipedia.org/wiki/Junior_officer]]。| |~|>|[[海軍大学校>http://en.wikipedia.org/wiki/Naval_War_College_(Japan)]]&br()(1888–1945年)|実務経験10年くらいの海軍士官(海軍兵学校の卒業生)から生徒を選抜。| #region(close,海軍兵学校のハンモックナンバー) ハンモックナンバー(釣床番号)は、戦艦のハンモック(釣床)に書かれた番号。 例えばハンモック「三一八四」の持ち主は「第三分隊・第十八班・第四部員」。この番号で戦闘配置が決まってるそうです。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC]] &ref(海軍士官学校_ハンモックナンバー.JPG,,height=200)海軍飛行予科練習生(映画「ハワイ・マレー沖海戦(1942年)」より) ハンモックナンバーのもう1つの意味は、「海軍兵学校の卒業席次」「同期生間の先任順位」のスラングです。 ただし卒業後の勤務成績で上下あり。 毎年「現役海軍士官名簿」でハンモックナンバーを公開。指揮系統の序列や式典の整列もハンモックナンバー順に並びます。 #endregion #region(close,海軍三校) 日本は海軍兵学校の他に、[[海軍機関学校>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E9%96%A2%E5%AD%A6%E6%A0%A1]](1881年-1945年)と[[海軍経理学校>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%B5%8C%E7%90%86%E5%AD%A6%E6%A0%A1]](1907-1945年)も設立してます。 海軍機関学校は機械工学(エンジニア)・科学技術(火薬の調合)・設計をお勉強。 海軍経理学校は庶務・会計・被服・糧食をお勉強。 同期生はお互いに「海軍機関学校○○期 海兵○○期[[コレス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%B9]](Correspond:一致)」と呼び合ったそうです。 &ref(海軍士官学校_海軍三校.JPG,,height=200)江田島兵学校(1942年頃じゃないかと) 海軍三校は、たぶん第二次世界大戦の[[ポツダム宣言>http://en.wikipedia.org/wiki/Potsdam_Declaration]]後に発布された「海軍省令第35号(1945年11月30日)」で廃校。 詳しくは分かりませんでした。 日本はいろいろ失っちゃったけど、裾の短いジャケットはしっかり21世紀の防衛大学校に引き継がれてるから大丈夫♥ #endregion *強くなって対等にならなくちゃの「富国強兵」 世界デビューした日本は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダと1858年[[不平等な安政五カ国条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Ansei_Treaties]]を結びます。 その後もスペインとかアッチコッチが要求。 欧米列強に「イヤだ」とも言えず「強くなって対等にならなくちゃ」と決意。もし「イヤだ」と言ったら[[兵庫開港要求事件>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%96%8B%E6%B8%AF%E8%A6%81%E6%B1%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6]]です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Fukoku_ky%C5%8Dhei]] &ref(富国強兵.PNG)アジアを食べる欧米列強(20世紀はじめ頃) 条約を締結した日はこんな感じ。それぞれに有効期限があるようで、執行は前の条約が終了(たまに破棄)してからみたいです。 日本は欧米列強の親日度もチェックしながら、外交で条約改正を交渉。 最初に成功した日英通商航海条約は「日清戦争するぜ!」を後押ししてます。イギリスもロシアの南下政策を邪魔したかったの。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3]] |BGCOLOR(lightgrey):|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:和親条約と修好通商条約|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:通商航海条約|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:新・通商航海条約| |BGCOLOR(lightgrey):日米|1854年3月31日|1858年7月29日|1894年11月22日|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日清戦争&br()1894年7月25日&br()|&br()1895年11月30日||BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日露戦争&br()1904年2月8日&br()|&br()1905年9月5日|1911年2月21日| |BGCOLOR(lightgrey):日英|1854年10月14日|1858年8月26日|1894年7月16日|~||~|1911年4月3日| |BGCOLOR(lightgrey):日仏||1858年10月9日||~|1896年8月4日|~|1911年8月19日| |BGCOLOR(lightgrey):日露|1855年2月7日|1858年8月19日||~|1895年6月8日|~|1907年7月23日| |BGCOLOR(lightgrey):日蘭|1856年1月30日|1858年8月18日||~|1896年9月8日|~|1912年7月6日| |BGCOLOR(lightgrey):|>|●港を開港する&br()●外国人の犯罪を裁けない(領事裁判権)&br()●輸入関税率を決められない(関税自主権)&br()●各外国の待遇を平等に扱う(最恵国待遇)|>|>|●領事裁判権の撤廃&br()●関税自主権の一部回復&br()●日本と外国が対等の最恵国待遇&br()●外国人居留地の廃止(内地雑居)|>|●関税自主権の完全回復| #region(close,欧米列強ってなに?) 欧米列強は政治・経済・軍事をリードする国々。明治時代は赤色のみなさんです。 アメリカはまだ新参者。 戦争に負けると賠償金や領地取り上げでケチョンケチョンにされる「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代でございます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Great_power]] &ref(富国強兵_G5.PNG)七転八起の日本とドイツ(1975年:[[イタリア乱入の第一回G5>http://en.wikipedia.org/wiki/1st_G6_summit]]) |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[ウィーン会議>http://en.wikipedia.org/wiki/Congress_of_Vienna]]&br()1815年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[アフリカ分割>http://en.wikipedia.org/wiki/Scramble_for_Africa]]&br()&color(red){1880年頃}|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[義和団の乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Boxer_Rebellion]]&br()1900年頃|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[ヴェルサイユ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Versailles]]&br()1919年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[WW2>http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II]]&br()1939年頃|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[国際連合憲章>http://en.wikipedia.org/wiki/United_Nations_Charter]]&br()1946年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[G5>http://en.wikipedia.org/wiki/G8]]&br()1975年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:21世紀| |BGCOLOR(lightgrey):列強|||日本|日本|日本||日本|日本| |~|イギリス|&color(red){イギリス}|イギリス|イギリス|イギリス|イギリス|イギリス|イギリス| |~|||アメリカ|アメリカ|アメリカ|アメリカ|アメリカ|アメリカ| |~|ロシア|&color(red){ロシア}|ロシア||ロシア|ロシア||ロシア| |~|フランス|&color(red){フランス}|フランス|フランス|フランス|フランス|フランス|フランス| |~|ドイツ|&color(red){ドイツ}|ドイツ||ドイツ||ドイツ|ドイツ| |~||&color(red){イタリア}|イタリア|イタリア|イタリア|||| |~|オーストリア|&color(red){オーストリア}|オーストリア|||||| |~||||||中国||中国| |BGCOLOR(lightgrey):|●[[五国同盟>>http://en.wikipedia.org/wiki/Quintuple_Alliance]]の国々|||●WW1の戦勝国||●WW2の戦勝国&br()●国連の常任理事国|●先進5ヶ国|| #endregion #region(close,日本人は泣き寝入り「領事裁判権」) 領事裁判権は「日本は外国人の犯罪を裁けない([[治外法権>http://en.wikipedia.org/wiki/Extraterritoriality]])」です。 欧米列強は「非文明国で身を守るとーぜんの権利」とアジアの国々で絶賛実施中。とっても失礼だけど、しょうがない。 ってことで、日本は[[外国人居留地>http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_settlement_(Japan)]]の限定で日本人と外国人のトラブルを回避。それにも文句言ってます。バカぢゃないの!? |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:学校でお勉強したような記憶がある治外法権の事件(イギリスがらみだけ)| |&ref(富国強兵_領事裁判権(生麦事件).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):[[生麦事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Namamugi_Incident]](1862年)| |~|薩摩藩の大名行列で、敬意を払わなかったイギリス人が藩士に殺傷された事件。&br()日本の法律ならイギリス人は有罪。でも治外法権があるから裁けない。&br()それどころか、逆ギレした欧米列強は軍艦を出動して日本を脅迫。&br()&space(2)イギリス「日本が悪い。賠償金払え」&br()&space(2)江戸幕府「戦争ヤバイ。賠償金払うから許して」&br()&space(2)薩摩藩「無礼千万。賠償金なんて払わん」&br()&space(2)民衆「いいぞー!薩摩!」&br()1863年[[薩英戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Bombardment_of_Kagoshima]]が勃発。薩摩藩はイギリスに賠償金を払います。| |&ref(富国強兵_領事裁判権(ハートレー事件).PNG)|BGCOLOR(lightgrey):ハートレー事件(1877年)| |~|商人ジョン・ハートレーが日英修好通商条約で禁止のアヘン9tを密輸した事件。&br()日本の法律ならイギリス人は有罪。でも治外法権があるから裁けない。&br()裁いたのはイギリスの領事裁判所。&br()&space(2)ハートレー「これは薬でーす」&br()&space(2)裁判法廷「判決は無罪」&br()&space(2)民衆「バカ言ってんじゃねー!」&br()日本人は怒り心頭。それに応えた日本はイギリスと外交交渉。&br()でも逆にイギリスから「薬のアヘンはオケにしろ」と迫られて泣き寝入り。| |&ref(富国強兵_領事裁判権(ノルマントン号事件).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):[[ノルマントン号事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Normanton_Incident]](1886年)| |~|紀州沖でイギリス貨物船が沈没。外国人は多数生還、日本人は多数溺死の事件。&br()日本の法律ならイギリス人は有罪。でも治外法権があるから裁けない。&br()裁いたのはイギリスの海難審判。&br()&space(2)ドレーク船長「日本人を救命ボートに誘導したけど、英語が通じなかったの」&br()&space(2)海難審判「判決は無罪」&br()&space(2)民衆「バカ言ってんじゃねー!」&br()日本人は怒り心頭。あまりにも腹が立って「ドレーク船長=奴隷鬼」と命名。&br()それに応えた日本は[[イギリス領事裁判所>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Court_for_Japan]]に告訴。&br()ドレーク船長は有罪になったけど、たった禁固刑3か月で犠牲者への賠償金ナシ。| #endregion **ロシアの南下政策が取り持った日本とイギリスのご縁 日本が世界デビューした頃のロシアは、南下政策でヨーロッパを征服中です。 皇帝は[[ファベルジェ・エッグ>http://en.wikipedia.org/wiki/Faberg%C3%A9_egg]]で有名な[[ニコライ2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_II_of_Russia]](在位:1894-1917年)の祖父[[アレクサンドル2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_II_of_Russia]](在位:1855-1881年)。 アレクサンドル2世はアジアでも南下政策を開始。ってことで、宿敵イギリスは日本を使って阻止を目論みます。 &ref(南下政策.PNG)地図(1914年:熊=[[ロシア帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Empire]]、豚=[[清>http://en.wikipedia.org/wiki/Qing_Dynasty]]) #region(close,南下政策ってなに?) ロシアは冬になると港が凍るのが悩みの種。港が凍れば海軍も凍る。あっ!だったら凍らない港を奪っちゃえばいいんだわ♥ ってことで、最初のターゲットはヨーロッパの南側。 でもあっちこっちの国に阻止されてけっこう大変。一番頑張ったのがイギリスです。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B8%8B%E6%94%BF%E7%AD%96]] &ref(南下政策_ヨーロッパ.PNG)ヨーロッパを食べる巨大タコ=ロシア ヨーロッパの南下政策に限界を感じたロシア。うーん…あっ!だったらアジアの凍らない港を奪っちゃえばいいんだわ♥ ってことで、お次のターゲットは中国と韓国。 ちなみにイギリスは中国から紅茶を大量に輸入中。アヘンでの支払いに怒った中国を[[阿片戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Opium_War]](1839–1842年)で黙らせてます。 #endregion #region(close,偶然生まれた日本とイギリスのご縁「日英和親条約」) 1854年イギリスはロシアと[[クリミア戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Crimean_War]](1853–1856年)の真っ最中です。 ある日「長崎にロシア艦隊が出没」のお知らせをキャッチ。 ロシア艦隊を拿捕しようと[[中国艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Commander-in-Chief,_China]](中国にいるイギリス艦隊)は長崎へ…でもロシア艦隊は帰っちゃってました。 &ref(南下政策_日英和親条約.JPG,,height=200)日本にやって来たイギリス艦隊[[HMSウィンチェスター>http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Winchester_(1822)]] 日本は長崎にやって来たイギリス艦隊を「げっ!今度はイギリスが和親条約しに来た」と誤解して交渉を始めます。 イギリス艦隊は「せっかくだから御言葉に甘えて♥」と[[日英和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Friendship_Treaty]]にサイン。 実はそんな権限なかったけど、イギリスも「日本海でロシアと戦争になったら日本は補給基地に便利かも♥」と事後承認してます。 #blockquote(){&u(){&bold(){ロシアってヤバイんだよぉ}} 日本が誤解したのは[[日米和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Convention_of_Kanagawa]]を結んだばっかりだし、ロシア艦隊も[[日露和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Shimoda]]のお願いで長崎に来てたから。 うっかりさんは長崎奉行[[水野忠徳>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%BE%B3]]。 イギリス艦隊はうっかりさんに「ロシアは樺太と千島列島を狙ってるかも」「ロシアの味方しちゃダメよ」と忠告してます。 &ref(南下政策_日英和親条約(日本人).JPG,,height=200)この頃の日本人はお侍さん(1867年頃) } #endregion #region(close,ロシア「ぱんぱかぱーん!南下政策でシベリア鉄道も作りました♥」) 南下政策で外満州と遼東半島をゲトしたロシアは、ロシア海軍[[太平洋艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Pacific_Fleet_(Russia)]]を配備。シベリア鉄道を東へ延長します。 これがもー大変。 バイカル湖南岸鉄道は凍った湖上に線路(夏はフェリー)を敷いて、アムール鉄道は東清鉄道に迂回して1904年完成します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Trans-Siberian_Railway]] |&ref(南下政策_シベリア鉄道.PNG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:シベリア鉄道|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:工事期間| |~|&tooltip(西シベリア鉄道){チェリャビンスク~ノヴォシビルスク}|1892-1895年|| |~|&tooltip(中央シベリア鉄道){ノヴォシビルスク~イルクーツク}|1893-1898年|| |~|&tooltip(バイカル湖南岸鉄道){バイカル湖の南岸}||1901-1904年| |~|&tooltip(ザバイカル鉄道){ムイソヴァヤ~スレチェンスク}|1895-1900年|| |~|&tooltip(アムール鉄道){スレチェンスク~ハバロフスク}||1908-1916年| |~|&tooltip(ウスリー鉄道){ハバロフスク~ウラジオストク}|1891-1897年|| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:東清鉄道|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:工事期間| |~|&tooltip(満洲支線){カリムスカャ~満洲里~綏芬河~ウスリースク}|1898-1902年|| |~|&tooltip(南満洲支線){ハルビン~旅順}|~|~| |BGCOLOR(lightgrey):アロー戦争&br()(1856-1860年)|1860年|中国から外満州をゲト。(ロシアと中国の[[北京条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Convention_of_Peking]])| |~|1871年|ウラジオストクに凍らない港を建設。&bold(){ウラジオストクに太平洋艦隊を配備}。| |BGCOLOR(lightgrey):日清戦争&br()(1894-1895年)|1895年|日本から旅順をゲト。(ロシア、フランス、ドイツが日本へ[[三国干渉>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Intervention]])| |~|1896年|中国から満州の鉄道建築権をゲト。(ロシアと中国の[[露清密約>http://en.wikipedia.org/wiki/Li%E2%80%93Lobanov_Treaty]])| |~|1897年|&bold(){旅順に太平洋艦隊を配備}。| |BGCOLOR(lightgrey):義和団の乱&br()(1900-1901年)|1901年|&bold(){出兵したロシア軍を撤退しないで満洲を占拠}。イギリスや日本の抗議をスルー。| |~|1903年|東清鉄道・満洲支線(チタ~ウラジオストク)が完成。| |~|~|東清鉄道・南満洲支線(ハルビン~旅順)が完成。| |BGCOLOR(lightgrey):日露戦争&br()(1904-1905年)|1904年|バイカル湖南岸鉄道が完成。&br()シベリア鉄道(モスクワ~ウラジオストク)が&bold(){全線開通して、兵士や物資をビシバシ輸送}。| |~|1905年|日本が勝って南満州支線(その後の[[南満州鉄道>http://en.wikipedia.org/wiki/South_Manchuria_Railway]])をゲト。(ロシアと日本の[[ポーツマス条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Portsmouth]])| #endregion 日清戦争するぜ!の「日英通商航海条約」 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Treaty_of_Commerce_and_Navigation]] &ref(南下政策_日英通商航海条約.PNG)Udo Keppler画「裏庭の復活祭」(1895年:オーストリア) **条約改正への道のり この頃の[[日本の仮想敵国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E9%98%B2%E6%96%B9%E9%87%9D]]はロシア。日露戦争の後は1位ロシア、2位アメリカ、3位ドイツ、4位フランスだそうです。 |&ref(条約改正(不平等条約).PNG)&br()作者不明「黒船来航」(たぶん横浜市の茶屋)|BGCOLOR(lightgrey):[[黒船来航>http://en.wikipedia.org/wiki/Perry_Expedition]](1853年)| |~|アメリカの黒船4隻が浦賀に来航。1隻は軍艦[[プリマス>http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Plymouth_(1844)]]。&br()幕府は「みんな外異を見ちゃだめよ」禁令を発布。とーぜん民衆はスルー。&br()●アメリカの目論見&br()&space(2)近所で捕鯨するから港を使わせてね♥| |~|BGCOLOR(lightgrey):開国(1854年)| |~|アメリカと日米和親条約を結んで開国。日本の夜明けぜよ♥| |~|BGCOLOR(lightgrey):欧米列強との[[不平等条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Ansei_Treaties]](1858年)| |~|強くなって対等にならなくちゃ♥| |&ref(条約改正(日清戦争).PNG)&br()[[ジョルジュ・ビゴー>http://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Ferdinand_Bigot]]画「日清戦争」|BGCOLOR(lightgrey):[[日清戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Sino-Japanese_War]](1894–1895年)| |~|韓国は権力闘争、鎖国派×開国派、親中派×親日派×親露派で混乱中。&br()怒った農民の[[甲午農民戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Donghak_Peasant_Revolution]]で更に大混乱。&br()この大混乱をチャンス!と思った日本と中国が韓国を取り合うことに。&br()●日本の目論見&br()&space(2)韓国がロシアの植民地になると日本がヤバイ!韓国を親日にするわ♥&br()●中国の目論見&br()&space(2)韓国は中国の[[子分>http://en.wikipedia.org/wiki/Tributary_state]]!日本にはあげないわよ♥| |~|勝った日本は中国から[[韓国独立>http://en.wikipedia.org/wiki/Independence_Gate]]、[[遼東半島>http://en.wikipedia.org/wiki/Liaodong_Peninsula]]と台湾をゲト。&br()でも遼東半島は[[ロシア、フランス、ドイツの大反対>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Intervention]]で放棄…ロシアがゲト。| |&ref(条約改正(義和団の乱).PNG)&br()[[ジョセフ・ケプラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Keppler]]画「義和団の乱」|BGCOLOR(lightgrey):[[義和団の乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Boxer_Rebellion]](1899-1901年)| |~|中国は欧米列強に連戦連敗。国民は「外国人>>>中国人」の待遇に不満MAX。&br()武装蜂起したのが義和団。外国人を追い出せー!と在外公館を襲撃。&br()中国も積年の恨みで欧米列強にヤケクソ宣戦布告。&br()●日本の目論見&br()&space(2)中国をギャフンと言わせて欧米列強に「極東の憲兵」と認めて貰うわ♥&br()●ロシアの目論見&br()&space(2)南下政策のチャンスだわ♥| |~|負けた中国は欧米列強の半植民地に転落(中国分割)。もうボロボロ。&br()ロシアは[[東三省>http://en.wikipedia.org/wiki/Northeast_China]](満州のあたり)をゲト。日本ヤバイ!とってもヤバイ!| |&ref(条約改正(日露戦争).PNG)&br()ジョルジュ・ビゴー画「日露戦争」|BGCOLOR(lightgrey):[[日英同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Alliance]](1902-1923年)| |~|ロシアが迷惑な日本とイギリスが同盟。| |~|BGCOLOR(lightgrey):[[日露戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Russo-Japanese_War]](1904-1905年)| |&ref(条約改正(条約改正).JPG)&br()日英博覧会(武器会社[[ヴィッカース>http://en.wikipedia.org/wiki/Vickers]]の展示場)|BGCOLOR(lightgrey):[[韓国併合>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88]](1910-1965年)| |~|日清戦争で中国から独立した韓国は、相変わらず混乱中で自立できない。&br()日本は「韓国ダメだ」と判断。1910年[[日韓併合条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Japan%E2%80%93Korea_Treaty_of_1910]]で統治下に。&br()英(日英同盟)、米([[桂タフト協定>http://en.wikipedia.org/wiki/Taft%E2%80%93Katsura_Agreement]])、露([[ポーツマス条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Portsmouth]])も承認済み。| |~|1907年韓国の反対勢力が抗議([[ハーグ密使事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Hague_Secret_Emissary_Affair]])したけど欧米列強スルー。&br()1909年ナショナリスト安重根が韓国統監[[伊藤博文>http://en.wikipedia.org/wiki/It%C5%8D_Hirobumi]]を射殺。| |~|BGCOLOR(lightgrey):欧米列強との条約改正(1911年)| |~|強くなって対等になったわ♥| |~|1910年ロンドンで[[日英博覧会>http://en.wikipedia.org/wiki/Japan%E2%80%93British_Exhibition]]を開催。&br()1912年北大西洋でイギリス客船[[タイタニック号>http://en.wikipedia.org/wiki/RMS_Titanic]]が氷山にぶつかって沈没。| |&ref(条約改正(第一次世界大戦).PNG)&br()[[ルイ・グラッケン>http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Glackens]]画「終わらない軍拡ゲーム」|BGCOLOR(lightgrey):[[第一次世界大戦>http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_I]](1914-1918年)| |~|日本は日英同盟で参戦。ドイツから植民地の[[中国山東省>http://en.wikipedia.org/wiki/Shandong]]と南洋諸島をゲト。&br()欧米列強はだんだん「日本のアジア進出」が商売の邪魔に…。| |~|1922年[[ワシントン海軍軍縮条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Washington_Naval_Treaty]]で軍艦保有率を英5:米5:日3に決定。| |~|BGCOLOR(lightgrey):[[ロシア革命>http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Revolution]](1917年)| |~|パンも満足に食べられない国民の不満爆発。テロやデモでロシア大混乱。&br()1917年皇帝[[ニコライ2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_II_of_Russia]]が退位。| *色々ありがとうございましたの「日英同盟」 ロシアのアジア進出に困っていた日本とイギリスは日英同盟(1902-1923年)を結んでます。 [[日露戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Russo-Japanese_War]](1904-1905年)では日本に資金援助とヨーロッパ情報を提供、日本にやって来る[[バルチック艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Baltic_Fleet]]の妨害とアレコレ援護。 1921年アメリカとフランスを追加した[[四カ国条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Four-Power_Treaty]]を結んで終了。 こちらは日英同盟の超ザックリ相関図。なんと!昼ドラも真っ青な利害関係でございます。大人の世界は複雑なんだねぇ。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Alliance]] |&ref(日英同盟.PNG)|BGCOLOR(lightgrey):独:[[三国同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Alliance_(1882)]]| |~|・[[独露再保障条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Reinsurance_Treaty]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):露:[[三国協商>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Entente]]| |~|・[[露仏同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Russian_Alliance]]&br()・[[英仏協商>http://en.wikipedia.org/wiki/Entente_cordiale]](1904年)&br()・[[英露協商>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Russian_Entente]](1907年)| |~|BGCOLOR(lightgrey):英:[[栄光ある孤立>http://en.wikipedia.org/wiki/Splendid_isolation]]| |~|・3B政策、3C政策&br()・[[グレートゲーム>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Game]]&br()・[[ボーア戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Boer_Wars]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):日:[[下関条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Shimonoseki]]| |~|[[西・ローゼン協定>http://en.wikipedia.org/wiki/Nishi%E2%80%93Rosen_Agreement]]&br()・龍岩浦事件(1903年)| |~|日露協商&br()・日露協約(1907年)| |~|BGCOLOR(lightgrey):米:[[門戸開放政策>http://en.wikipedia.org/wiki/Open_Door_Policy]]| **日本「えーん、お金がないよぉ」イギリス「よーし、まかせろ」 もうすぐ日露戦争の日本はお金が足りない。そして世の中には[[外債>http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_bond]](外国に売る債券)という資金調達手段がありました。 でも世界の投資家は「日本は負けるから資金回収できないもーん」と判断。日本外債は超不人気。 そんな中で最初に£500万を引き受けてくれたのが[[ボーア戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Boer_Wars]]でボロボロのイギリス。アメリカも£500万を引き受けてくれてます。 &ref(日英同盟_外債.JPG,,height=200)日本の外債はこんな感じ(1904年発行の見本らしい) お金が足りないのは財政赤字のロシアも一緒。シベリア鉄道もフランスの[[融資>http://en.wikipedia.org/wiki/Loan]](超お貧乏なソ連になって焦げ付いた模様)です。 ってことで、フランスとドイツに融資をお願い。 フランスとドイツは戦況が日本が有利になると「もしかして日本は負けないかも」と日本外債にも参加してます。 #region(close,戦争ってお金がいっぱい必要なのね) 日本が日露戦争で使ったお金は19億8,613万円(当時の推定国民所得は約26億円)です。もー想定外の想定外の想定外。 この金額は日清戦争の7.9倍。戦場が広範囲だから軍隊、戦艦、新鋭の武器がたくさん必要だったの。 資金調達の82%は借金。もし戦争が長引いたら、もし負けたら日本は破産でございました。あぶない、あぶない。 ~[[日本銀行>http://www.boj.or.jp/]]さんより~ |>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:収入|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:支出| |BGCOLOR(lightgrey):国債・一時借入金|1,418,731千円(82.4%)|BGCOLOR(lightgrey):国庫債券|434,886千円(25.3%)|BGCOLOR(lightgrey):人件費|168,293千円(11.2%)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):臨時事件費公債|294,251千円(17.1%)|BGCOLOR(lightgrey):物件費|1,165,113千円(77.2%)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):英貨公債|689,595千円(40.1%)|BGCOLOR(lightgrey):機密費|4,049千円(0.3%)| |BGCOLOR(lightgrey):一般会計から繰入れ|182,430千円(10.6%)|||BGCOLOR(lightgrey):一時賜金|164,600千円(10.9%)| |BGCOLOR(lightgrey):特別会計資金繰替え|69,312千円(4.0%)|||BGCOLOR(lightgrey):亡失金|516千円(0.0%)| |BGCOLOR(lightgrey):軍資献納金|2,331千円(0.1%)|||BGCOLOR(lightgrey):従軍記章費|647千円(0.0%)| |BGCOLOR(lightgrey):官有私物払下げ代|18,875千円(1.1%)|||BGCOLOR(lightgrey):その他|5,253千円(0.4%)| |BGCOLOR(lightgrey):その他|29,533千円(1.7%)|||BGCOLOR(lightgrey):|| |BGCOLOR(lightgrey):合計|1,721,212千円|||BGCOLOR(lightgrey):合計|1,508,473千円&br()(+212,740千円)| #blockquote(){&u(){&bold(){お金を借りまくって戦争した日本}} 日本はお金を手に入れるまで開戦できない状態でした。 でも旅順にいるロシア太平洋艦隊の出動を聞いて「ひーもうそんなコト言ってられないわ」と2月8日日露戦争に突入。 頑張ったのが日銀副総裁[[高橋是清>http://en.wikipedia.org/wiki/Takahashi_Korekiyo]]。2月24日イギリスに行ってなんとか英貨公債の発行(①②)に成功します。 |>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日露戦争| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):明治37年2月8日|BGCOLOR(lightgrey):明治37年4月30日|BGCOLOR(lightgrey):明治37年10月9日|BGCOLOR(lightgrey):明治38年3月1日|BGCOLOR(lightgrey):明治38年5月27日| |~|[[旅順口攻撃>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Port_Arthur]]|[[鴨緑江会戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Yalu_River_(1904)]]|[[河会戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Shaho]]|[[奉天会戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Mukden]]|[[日本海海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tsushima]]| |>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イギリスとニューヨークで販売した国債(英貨公債)| |BGCOLOR(lightgrey):募集期間|BGCOLOR(lightgrey):明治36年12月24日|BGCOLOR(lightgrey):①明治37年5月12日|BGCOLOR(lightgrey):②明治37年11月14日|BGCOLOR(lightgrey):③明治38年3月29日|BGCOLOR(lightgrey):④明治38年7月11日| |BGCOLOR(lightgrey):発行額|2,000万ポンド&br()(1億9,526万円)|1,000万ポンド&br()(9,763万円)|1,200万ポンド&br()(1億1,716万円)|3,000万ポンド&br()(2億9,289万円)| 3,000万ポンド&br()(2億9,289万円)| |BGCOLOR(lightgrey):最低発行価格|閣議決定したけど&br()募集の見通したたず&br()発行を断念|93ポンド10シリング|90ポンド10シリング|90ポンド|90ポンド| |BGCOLOR(lightgrey):償還期間(年利)|~|7年(6%)|7年(6%)|20年(4.5%)|20年(4.5%)| |BGCOLOR(lightgrey):最終利回り|~|7.41%|8.13% |5.56%|5.56%| |BGCOLOR(lightgrey):担保|~|関税収入|関税収入|煙草専売収入|煙草専売収入| |>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日本で販売した国債(国庫債券)| |BGCOLOR(lightgrey):募集期間|BGCOLOR(lightgrey):①明治37年3月1日|BGCOLOR(lightgrey):②明治37年6月10日|BGCOLOR(lightgrey):③明治37年10月31日|BGCOLOR(lightgrey):④明治38年3月25日|BGCOLOR(lightgrey):⑤明治38年5月1日| |BGCOLOR(lightgrey):発行額|1億円|1億円|8,000万円|1億円|1億円| |BGCOLOR(lightgrey):最低発行価格|95円|92円|92円|90円|90円| |BGCOLOR(lightgrey):償還期間(年利)|5年以内(5%)|7年以内(5%)|7年以内(5%)|7年以内(6%)|7年以内(6%)| |BGCOLOR(lightgrey):最終利回り|6.32%|6.68%|6.68%|8.25%|8.25%| } #endregion #region(close,ご親切は無償の愛じゃない「アメリカの門戸開放政策」) アメリカはイギリスを超える経済大国。そして大規模な市場の中国はイギリス、フランス、ロシア、ドイツ、日本が独占中です。 ってなわけで、なんとか中国に新規参入しようと1900年「ジョン・ヘイの三原則」を勝手に宣言。 三原則を盾に日本にも干渉。古参の列強国も日本もスルーしたけど、1922年ワシントン会議の[[九カ国条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Nine-Power_Treaty]]で承認します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Open_Door_Policy]] &ref(日英同盟_外債(門戸開放).PNG)門戸開放の風刺画 |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ジョン・ヘイの三原則(1899年国務長官[[ジョン・ヘイ>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hay]]提案)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:本音| |BGCOLOR(lightgrey):門戸開放|中国の市場を古参の列強国だけ独占はズルイ。みんな貿易オケにしましょう。|アメリカにも中国と貿易させろ。| |BGCOLOR(lightgrey):機会均等|中国の貿易をある国だけ特別扱いはズルイ。みんな平等にしましょう。|~| |BGCOLOR(lightgrey):領土保全|中国の領土分割はカワイソウ。みんな半植民地([[租借地>http://en.wikipedia.org/wiki/Concession_(territory)]])は止めましょう。|~| #blockquote(){&u(){&bold(){ご親切は無償の愛じゃない}} 中国を食べてるイギリスも、中国を食べたいアメリカも「ロシアの南下政策(アジア進出)がウザイ」です。 資金援助するだけで日本がロシアを追い出してくれたらラッキー♥ なんか書いてて悲しくなってくるけど、日本もロシアが近づいてくるとヤバイのでお互い利害一致なの。 &ref(条約改正(日露戦争).PNG)ジョルジュ・ビゴー画「日露戦争」 アメリカで日本にバンバン資金援助したのは、ユダヤ系アメリカ人の銀行家[[ジェイコブ・シフ>http://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_Schiff]]です。 ロシアのユダヤ人迫害[[ポグロム>http://en.wikipedia.org/wiki/Pogrom]]への報復らしい。 シフのオススメでユダヤ系イギリス人の銀行家[[ナサニエル・ロスチャイルド>http://en.wikipedia.org/wiki/Nathan_Rothschild,_1st_Baron_Rothschild]]([[ロンドン家>http://en.wikipedia.org/wiki/Rothschild_family]]当主)も資金援助に参加します。 } #endregion **日本「えーん、船がないよぉ」イギリス「よーし、まかせろ」 もうすぐ日露戦争の日本は船が足りない。そしてイタリアにはアルゼンチンがキャンセルした「リヴァダヴィア」がありました。 これを教えてくれたのがイギリス。同じく船が欲しかったロシアと競った末に日本が落札。 イタリアから日本に運ぶ時もイギリス海軍が護衛して、あわよくば撃沈しようとするロシアの邪魔してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Kasuga-class_cruiser]] &ref(日英同盟_春日.JPG,,height=200)イタリア製の装甲巡洋艦[[春日>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Kasuga]](昔は「リヴァダヴィア」) 春日が煙出してるのは石炭で動くから。 **日本「ロシアと戦うぞ」イギリス「日本が2国以上と戦うことになったら参戦するね」 フランス([[露仏同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Russian_Alliance]])はロシアと仲良し。ドイツも儲かるならロシアに協力。中国([[露清密約>http://en.wikipedia.org/wiki/Li%E2%80%93Lobanov_Treaty]])もロシアからの一方的な仲良し。 でも「日本の背後にイギリスがいるしなぁ」ってことで日露戦争に参戦してません。 もし最初からイギリスが参戦する同盟だったら、この3国も自動的に参戦してたのかも。大人の世界は複雑なんだねぇ。 &ref(日英同盟_条約.JPG,,height=200)日英同盟の風刺画 日本にやって来るバルチック艦隊の燃料は石炭。イギリスは良質な石炭を持ってたけど、もっちろん売ってあげません。 フランスやドイツにも「イヤガラセしろ」と依頼して道中での石炭補給を邪魔。 味方になったら頼もしく、敵になったら恐ろしい国でございます。 #region(close,モンテネグロ公国が日本に宣戦布告してた?) 1905年ロシアの同盟国[[モンテネグロ公国>http://en.wikipedia.org/wiki/Principality_of_Montenegro]]は日本に宣戦布告。満州に軍隊を派遣してたようです。 でも交戦しなかったし、日露戦争の[[ポーツマス講和会議>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Portsmouth]]にも招待されてない。 日本はその後もずーっと宣戦布告スルー。2006年[[モンテネグロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Montenegro]]に独立承認と戦争終了宣言の文書を届けてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Japan%E2%80%93Montenegro_relations]]([[交戦状態のまま放置リスト>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_wars_extended_by_diplomatic_irregularity]]) &ref(日英同盟_条約(ポーツマス講和会議).PNG)ポーツマス講和会議(1905年:アメリカの[[ポーツマス海軍造船所>http://en.wikipedia.org/wiki/Portsmouth_Naval_Shipyard]]) #endregion **日本「どぞどぞ勲位菊花章頸飾」イギリス「どぞどぞガーター勲章」 日露戦争が終わった1906年、イギリスは明治天皇にガーター勲章を贈ってます。 イギリス王[[エドワード7世>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VII]]の名代コノート公[[アーサー>http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Arthur,_Duke_of_Connaught_and_Strathearn]]が来日して奉呈。これがイギリス王室で初めての日本公式訪問。 ちなみに日本もエドワード7世(1902年)とコノート公(1912年)に大勲位菊花章頸飾を贈ってます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_the_Garter]] &ref(日英同盟_ガーター勲章.JPG,,height=200)ガーター勲章のローブを纏った大正天皇(1912年頃) イギリスは日露戦争のお祝いに、イギリス海軍の英雄[[ホレーショ・ネルソン提督>http://en.wikipedia.org/wiki/Horatio_Nelson,_1st_Viscount_Nelson]]の遺髪も贈ってます。 江田島兵学校の遺髪室(非公開)に奉納。 ここには[[東郷平八郎>http://en.wikipedia.org/wiki/T%C5%8Dg%C5%8D_Heihachir%C5%8D]](日露戦争は司令長官)や[[山本五十六>http://en.wikipedia.org/wiki/Isoroku_Yamamoto]](日露戦争は少尉候補生)の遺髪も奉納されてるそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Legacy_of_Horatio_Nelson,_1st_Viscount_Nelson]] ---- ----
#contents_line(level=2,sep=/) *イギリス海軍をお手本にした日本海軍 鎖国の日本(江戸:1603–1868年、明治:1868–1912年)は、アメリカからやって来た[[ペリーの黒船>http://en.wikipedia.org/wiki/Perry_Expedition]]で1854年世界デビュー。 世界は弱肉強食な[[帝国主義>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperialism]]の時代でございます。 こりゃヤバイ!富国強兵だ!っと、イギリス海軍をお手本に[[大日本帝国海軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Navy]](1872-[[GHQ>http://en.wikipedia.org/wiki/Supreme_Commander_for_the_Allied_Powers]]指令第一号:1945年)を設立。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Military_history_of_Japan]] &ref(日本海軍.PNG)[[大日本帝国海軍の軍服>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%9C%8D_(%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D)]](士官:時代不明、兵学校生:1939年頃) 日本海軍がお手本にイギリス海軍を選んだのは、世界の海を制する最強海軍だったからだそうです。 頑張ったのが初代海軍卿[[勝海舟>http://en.wikipedia.org/wiki/Katsu_Kaish%C5%AB]]。 ちなみに[[大日本帝国陸軍>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Army]](1871–1945年)のお手本はフランス陸軍。その後[[普仏戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Prussian_War]](1870–1871年)に勝利したドイツ陸軍に変更。 &ref(日本海軍(日本陸軍).JPG,,height=200)[[大日本帝国陸軍の軍服>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E6%9C%8D_(%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%99%B8%E8%BB%8D)]](1937年) この頃の日本を一言で言うと「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている(司馬遼太郎著「[[坂の上の雲>http://en.wikipedia.org/wiki/Saka_no_Ue_no_Kumo]]」より)」です。 イギリスは日本の開化に貢献。 この小説の日本海軍は、ストイックでめちゃくちゃカッコイイですわよ♥ #region(close,ユーモアを解せざる者は海軍軍人の資格なし) 日本海軍は「過酷な長期航海でも耐え忍ぶ」ために、イギリス海軍の[[ユーモアの精神>http://en.wikipedia.org/wiki/British_humour]]もお手本にしてます。 たぶん「心に余裕を」ってことじゃないかと。 こちらは南極に行ったイギリス海軍[[HMSプロテクター>http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Protector_(A173)]]のメリー・クリスマス。うーん、日本人には無理っぽそう…? &ref(日本海軍_ユーモア.JPG,,height=200)これがイギリス海軍のユーモアだあ♥ #blockquote(){&u(){&bold(){海上自衛隊の素敵なユーモア}} 2000年ニューヨーク港はアメリカ独立記念日の洋上式典で大混雑。 大型のイギリス客船[[クイーン・エリザベス2号>http://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Elizabeth_2]]が、海上自衛隊の練習艦[[かしま>http://en.wikipedia.org/wiki/JDS_Kashima_(TV-3508)]]にちょびっとだけ接触しちゃいました。 謝罪に来た船長代理さんに対して、かしまの艦長さんのお返事は「女王陛下にキスされて光栄に思っております」。 &ref(日本海軍_ユーモア(海上自衛隊).JPG,,height=200)どこでも人気者のQE2。奥はQM2(シドニー) このアメリカ独立記念日は、大規模な「[[Operation Sail 2000>http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Sail]]:色んな国から船をご招待ミレニアム作戦」でお祝いしてます。 港には大型帆船150隻、軍艦40隻。見学する船が70,000隻。 こんな大混雑の中で大型のQE2を運転するのはとっても大変だし、難しかったそうです。 }   #endregion #region(close,みんなで一緒にお勉強の「観戦武官」) 観戦武官は「中立国の軍人が戦争を見学」する不思議なシステム。戦場だからアブナイ。 1898年[[米西戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish%E2%80%93American_War]]で海軍大尉[[秋山真之>http://en.wikipedia.org/wiki/Akiyama_Saneyuki]]は、アメリカ海軍の運送船セネカに乗って見学。全滅したスペイン艦の調査もしてます。 後日アメリカ勝利の理由を分析した「サンチャゴ・ヂュ・クバ之役(極秘諜報第百十八号)」を日本海軍に報告。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E6%88%A6%E6%AD%A6%E5%AE%98]] &ref(日本海軍_観戦武官.JPG,,height=200)軍事参議官[[黒木為楨>http://en.wikipedia.org/wiki/Kuroki_Tamemoto]]と観戦武官のイギリス士官(1904年:日露戦争) 1904年日露戦争で日本軍を見学したのは、イギリス、アメリカ、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン=ノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、トルコ。 なーんと第二次世界大戦の最高司令官[[ダグラス・マッカーサー>http://en.wikipedia.org/wiki/Douglas_MacArthur]]もお父さんと一緒に見学してます。 #blockquote(){&u(){&bold(){祇園精舎の鐘リンゴーン♪のスペイン}} 秋山真之が見学したのは[[サンチャゴ・デ・キューバ海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Santiago_de_Cuba]]です。 キューバの独立を阻止するスペインと、キューバの産業を食べたいアメリカの戦い。スペインの負け。 太陽の沈まぬ帝国スペインも明治時代になると欧米列強からの脱落組。フェリペ2世が知ったらビックリしちゃいますね。 &ref(日本海軍_観戦武官(米西戦争).PNG)スペインから独立する中南米 フェリペ2世もビックリとはいえ、中南米の公用語は赤色=スペイン語、桃色=ポルトガル語のままです。 宗教もカトリックがダントツ。 あと割合は少ないけど、先住民族[[インディヘナ>http://en.wikipedia.org/wiki/Indigenous_peoples_in_South_America]]の皆さんがいます。グアテマラの地域によって違う民族衣装は圧巻♥ &ref(日本海軍_観戦武官(民族衣装).JPG,,height=200)[[サン・アンドレス>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Andr%C3%A9s_Xecul]]の民族衣装(グアテマラ) } #endregion #region(close,船の中では片手でご飯?) 映画「海軍兵学校物語 あゝ江田島」を観てたら、主人公が片手で食事するシーンがありました。 艦内はお茶碗を持つ余裕がないくらい狭いし、揺れるので食器がテーブルから落ちないように押さえなくちゃいけないらしい。 こちらは海上自衛隊のお夕飯。お味噌汁以外は片手で大丈夫っぽいかも。 &ref(日本海軍_ご飯.JPG,,height=200)護衛艦[[あたご>http://en.wikipedia.org/wiki/JDS_Atago_%28DDG-177%29]]のお夕飯([[第3護衛隊群ホームページ>http://www.mod.go.jp/msdf/ccf3/index.html]]さんより) #blockquote(){&u(){&bold(){イギリス海軍を参考にした海軍カレー}} 海上自衛隊は金曜日に海軍カレーを食べます。 イギリス海軍のカレー味シチュー([[Burgoo>http://en.wikipedia.org/wiki/Burgoo]]、[[Madras curry>http://en.wikipedia.org/wiki/Madras_curry_sauce]]かなぁ?)を改良したもので、脚気の予防に1908年から採用。 お肉と野菜がタップリ摂れるし、船上では分からなくなっちゃう曜日のメリハリもできます。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC]] &ref(日本海軍_ご飯(海軍カレー).JPG,,height=200)船は揺れるからお家のカレーよりトロトロ イギリスのカレーは1747年料理研究家[[ハンナ・グラス>http://en.wikipedia.org/wiki/Hannah_Glasse]]著「[[Art of Cookery>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Art_of_Cookery]]」で初めて紹介。カレー粉もイギリスが開発。 こちらは日本海軍の海軍割烹術参考書(1908年)のレシピです。 海上自衛隊の護衛艦しらゆきのカレーレシピの動画はこちらhttp://www.youtube.com/watch?v=NLtmCGBZQvIをどうぞ。 初メ米ヲ洗ヒ置キ牛肉(鶏肉)玉葱、人参、馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細ク切リ 別ニ「フライパン」ニ「ヘッド」ヲ布キ麥粉ヲ入レ狐色位ニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄トロノ如ク溶シ 之レニ前ニ切リ置キシ肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ(馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ンド煮エタルヲ入ル可シ)弱火ニ掛け煮込ミ置キ 先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ 之ヲ皿ニ盛リ前ノ煮込ミシモノニ塩ニテ味ヲ付ケ飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス } #blockquote(){&u(){&bold(){脚気に悩んだ日本海軍}} 脚気を激減させたのは、イギリス留学した海軍軍医[[高木兼寛>http://en.wikipedia.org/wiki/Takaki_Kanehiro]]。1884年「タンパク質の不足だ!」と洋食+[[麦飯>http://en.wikipedia.org/wiki/Orzotto]]を採用。 正解はビタミンB1の不足。 でもお肉(洋食)や大麦(麦飯)からちゃーんと摂取できてました。ビタミンB1は1911年[[カジミール・フンク>http://en.wikipedia.org/wiki/Casimir_Funk]]が発見。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%84%9A%E6%B0%97%E5%8F%B2]] &ref(日本海軍_ご飯(脚気).JPG,,height=200)日本とアメリカの海軍士官(1908年:アメリカ戦艦の甲板) 明治時代の日本陸軍は、麦飯スゲーと知りつつも「不味い麦飯」より「美味しい白米」を採用。脚気が続きます。 白米は庶民憧れのご馳走。 エライ人達には「死地に赴く兵士に白米を食べさせてあげたい」という心情があったそうです。 } #endregion #region(close,軍艦はお名前が綺麗) 日本海軍の船名は、国名(藩名)、山岳、河川、天象気象、名所古蹟から付けてます。イギリス海軍みたいな人名は使用不可。 海上自衛隊に引き継がれてるお名前(表記はひらがな)もあります。 ちょびっとだけ日本海軍が持ってた軍艦を。初の国産軍艦は1875年[[横須賀海軍工廠>http://en.wikipedia.org/wiki/Yokosuka_Naval_Arsenal]]建造の「清輝(触礁:1888年)」。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_ship-naming_conventions]] &ref(日英同盟_春日.JPG,,height=200)巡洋艦「春日」 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:軍艦|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:進水-除籍|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:建造|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:由来|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海上自衛隊| |戦艦&br()[[三笠>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Mikasa]]|1900-1923年|イギリス|神道の神が宿る神体山「三笠山」(奈良県、通称:春日山)から。|| |戦艦&br()[[敷島>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Shikishima]]|1898-1900年|イギリス|[[崇神天皇>http://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Sujin]]の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)が置かれた地から。&br()和歌「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」[[柿本人麻呂>http://en.wikipedia.org/wiki/Kakinomoto_no_Hitomaro]]|巡視船&br()[[しきしま>http://en.wikipedia.org/wiki/Shikishima_(PLH_31)]]| |戦艦&br()[[富士>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Fuji]]|1896-1945年|イギリス|日本の最高峰で神道の神が宿る神体山「富士山」から。|| |戦艦&br()[[朝日>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_battleship_Asahi]]|1899-1942年|イギリス|朝、東から昇る太陽から?&br()和歌「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」[[本居宣長>http://en.wikipedia.org/wiki/Motoori_Norinaga]]|| |巡洋艦&br()[[春日>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Kasuga]]|1902-1945年|イタリア|分かりませんでした。&br()昔、薩摩藩の軍艦「[[春日丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_Kasuga_(1862)]]」(購入:1867-1894年、イギリス建造)がありました。|| |巡洋艦&br()[[日進>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Nisshin]]|1903-1935年|イタリア|分かりませんでした。&br()昔、佐賀藩の軍艦「[[日進丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_Nisshin]]」(1869-1892年、オランダ建造)がありました。|| |通報艦&br()[[龍田>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Tatsuta_(1894)]]|1894-1916年|イギリス|多くの和歌で詠まれた「竜田川」(奈良県)から。&br()和歌「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」[[在原業平>http://en.wikipedia.org/wiki/Ariwara_no_Narihira]]|| #endregion #region(close,軍艦旗) 軍艦旗は海軍の軍艦が掲げる旗で、国ごとに違う。 [[戦時国際法>http://en.wikipedia.org/wiki/Laws_of_war]]で「この旗を掲げてる船は戦争になったら、参加できる・敵の軍艦を攻撃できる・敵の軍艦を拿捕できる」そうです。 攻撃しちゃいけない軍艦([[病院船>http://en.wikipedia.org/wiki/Hospital_ship]]とか)は、見分けられるように特別な軍艦旗を掲げるから大丈夫。 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[日章旗>http://en.wikipedia.org/wiki/Flag_of_Japan]]&br()(1854-1889年)|&ref(日本海軍_軍艦旗(日章旗).PNG,,height=60)|幕府海軍|1854年日米和親条約を結んで、外国の船と区別するために決めた国旗。&br()他に「大中黒・新田一つ引&ref(日本海軍_軍艦旗(大中黒).PNG,,height=30)」なんて候補もあったみたい。&br()初めてこの軍艦旗を掲げたのは、1855年軍艦[[昇平丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_warship_Shohei_Maru]]。| |~|~|大日本帝国海軍|~| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[旭日旗>http://en.wikipedia.org/wiki/Rising_Sun_Flag]]&br()(1889-1945年)|&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=60)|大日本帝国海軍|1870年大日本帝国陸軍が陸軍御国旗&ref(日本海軍_軍艦旗(陸軍御国旗).PNG,,height=30)を決定。&br()その後、海軍もこの陸軍御国旗を採用。太陽がちょびっと左寄りです。| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:警備隊旗&br()(1952-1954年)|&ref(日本海軍_軍艦旗(警備隊旗).PNG,,height=60)|保安庁警備隊|第二次世界大戦に負けて大日本帝国海軍は解体。&br()警備隊は日本の領海を警備するための組織。海上自衛隊の前身です。| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:旭日旗&br()(1954年-現在)|&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=60)|海上自衛隊|海上自衛隊の発足で旭日旗も復活。&br()ちなみに陸上自衛隊は&ref(日本海軍_軍艦旗(陸上自衛隊).PNG,,height=30)。航空自衛隊は&ref(日本海軍_軍艦旗(航空自衛隊).PNG,,height=30)です。| #blockquote(){&u(){&bold(){海上自衛隊が軍艦旗を掲げる場所}} 軍艦旗&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=30)を掲げる場所は船尾だったり、メインマストだったり。軍艦によって違います。 この軍艦の船尾はヘリコプターが出入りするっぽいからメインマスト? 航海中はずっと、停泊中は午前8時~日没まで掲揚。外国の港に停泊中は、夜中でも掲揚できる準備しとかないとダメです。 &ref(日本海軍_軍艦旗.JPG,,height=200)左:海上自衛隊、右:アメリカ海軍([[海上自衛隊>http://www.mod.go.jp/msdf/]]さんより) 停泊中は船首に国籍旗&ref(日本海軍_軍艦旗(日章旗).PNG,,height=30)も掲げます。 航海中は、指揮官が「この軍艦が日本だってお知らせしなくちゃ」と判断した時だけメインマストに掲揚。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでに潜水艦が軍艦旗を掲げる場所}} 航海中はセールに軍艦旗&ref(日本海軍_軍艦旗(旭日旗).PNG,,height=30)を掲げます。お隣は「1等海佐の司令官が乗ってます」って合図の代将旗&ref(日本海軍_軍艦旗(代将旗).PNG,,height=30)。 潜るときはお片付け。海の中は真っ暗で互い何も見えないもんね。 停泊中は船首に国籍旗&ref(日本海軍_軍艦旗(日章旗).PNG,,height=30)を掲げるようです。 &ref(日本海軍_軍艦旗(潜水艦).PNG)潜水艦は潜舵と横舵(上下)、縦舵(左右)で3Dに動く 何も見えない潜水中は、音紋(潜水艦の機器が出す音)で相手を識別します。音紋のカタログデータで艦名まで判別。 カタログデータは非売品。 新しい潜水艦が誕生すると、各国の潜水艦が近所にコッソリ潜んで音紋を収拾します。 } #endregion #region(close,まったく個人的な意見だけど、アロンソは髭剃って欲しいの) 明治の海軍軍人はエラくなると髭生やしてます。髭は威厳の象徴。 大正になると髭ブーム下火、日中戦争になると髭ブーム再来…自衛隊は上官の許可があればオケ。イラク派遣の[[ヒゲの隊長>http://en.wikipedia.org/wiki/Masahisa_Sato]]が有名。 ヒゲは場所によって「くちヒゲ=髭」「あごヒゲ=鬚」「ほおヒゲ=髯」です。 &ref(日本海軍_髭.PNG)明治時代のスタイルはこんな感じらしい #endregion **イギリス海軍をお手本にした海軍士官学校 世界デビューした日本はオランダ海軍、その後イギリス海軍をお手本に士官を養成する海軍兵学校も設立。 最初がオランダなのは、鎖国の日本が唯一交易してた国だから。右往左往してるは、[[明治維新>http://en.wikipedia.org/wiki/Meiji_Restoration]]で日本がバタバタしてるからです。 受験生は16~19歳。海軍兵学校に入学するための海軍予備校も誕生。 &ref(海軍士官学校.JPG,,height=200)江田島兵学校(1942年頃じゃないかと) |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:お手本|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海軍士官学校|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:| |BGCOLOR(lightgrey):オランダ|>|[[長崎海軍伝習所>http://en.wikipedia.org/wiki/Nagasaki_Naval_Training_Center]]&br()(1855-財政難:1859年)|オランダ商館長[[ヤン・ドンケル・クルティウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Janus_Henricus_Donker_Curtius]](滞日:1852-1860年)の勧めで設立。&br()オランダ海軍から先生を[[ご招待>http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_government_advisors_in_Meiji_Japan]]。練習艦[[観光丸>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_barque_Kank%C5%8D_Maru]]も頂いてます。| |~|>|[[築地軍艦操練所>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E6%93%8D%E7%B7%B4%E6%89%80]]&br()(1857-海軍所:1866年)|先生は長崎海軍伝習所の卒業生[[勝海舟>http://en.wikipedia.org/wiki/Katsu_Kaish%C5%AB]]や漂流した[[ジョン万次郎>http://en.wikipedia.org/wiki/Nakahama_Manjir%C5%8D]]など。| |BGCOLOR(lightgrey):イギリス|海軍兵学校|[[築地軍艦操練所>http://en.wikipedia.org/wiki/Kobe_Naval_Training_Center]]&br()(1869-1870年)|| |~|~|築地海軍兵学寮&br()(1870-1876年)|イギリス海軍から先生[[ダグラス教官団>http://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Lucius_Douglas]](滞日:1873-1875年)をご招待。&br()[[台湾出兵>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_invasion_of_Taiwan_%281874%29]](1874年)のアドバイザーもお願い。サッカーも教えてもらったらしい。| |~|~|[[江田島海軍兵学校>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Naval_Academy]]&br()(1876-1945年)|「一に海兵、二に陸士([[陸軍士官学校>http://en.wikipedia.org/wiki/Imperial_Japanese_Army_Academy]])、三・四がなくて、五に東大」の超難関校。&br()卒業生の階級は[[尉官>http://en.wikipedia.org/wiki/Junior_officer]]。| |~|>|[[海軍大学校>http://en.wikipedia.org/wiki/Naval_War_College_(Japan)]]&br()(1888–1945年)|実務経験10年くらいの海軍士官(海軍兵学校の卒業生)から生徒を選抜。| #region(close,海軍兵学校のハンモックナンバー) ハンモックナンバー(釣床番号)は、戦艦のハンモック(釣床)に書かれた番号。 例えばハンモック「三一八四」の持ち主は「第三分隊・第十八班・第四部員」。この番号で戦闘配置が決まってるそうです。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC]] &ref(海軍士官学校_ハンモックナンバー.JPG,,height=200)海軍飛行予科練習生(映画「ハワイ・マレー沖海戦(1942年)」より) ハンモックナンバーのもう1つの意味は、「海軍兵学校の卒業席次」「同期生間の先任順位」のスラングです。 ただし卒業後の勤務成績で上下あり。 毎年「現役海軍士官名簿」でハンモックナンバーを公開。指揮系統の序列や式典の整列もハンモックナンバー順に並びます。 #endregion #region(close,海軍三校) 日本は海軍兵学校の他に、[[海軍機関学校>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E6%A9%9F%E9%96%A2%E5%AD%A6%E6%A0%A1]](1881年-1945年)と[[海軍経理学校>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%B5%8C%E7%90%86%E5%AD%A6%E6%A0%A1]](1907-1945年)も設立してます。 海軍機関学校は機械工学(エンジニア)・科学技術(火薬の調合)・設計をお勉強。 海軍経理学校は庶務・会計・被服・糧食をお勉強。 同期生はお互いに「海軍機関学校○○期 海兵○○期[[コレス>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%B9]](Correspond:一致)」と呼び合ったそうです。 &ref(海軍士官学校_海軍三校.JPG,,height=200)江田島兵学校(1942年頃じゃないかと) 海軍三校は、たぶん第二次世界大戦の[[ポツダム宣言>http://en.wikipedia.org/wiki/Potsdam_Declaration]]後に発布された「海軍省令第35号(1945年11月30日)」で廃校。 詳しくは分かりませんでした。 日本はいろいろ失っちゃったけど、裾の短いジャケットはしっかり21世紀の防衛大学校に引き継がれてるから大丈夫♥ #endregion *強くなって対等にならなくちゃの「富国強兵」 世界デビューした日本は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダと1858年[[不平等な安政五カ国条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Ansei_Treaties]]を結びます。 その後もスペインとかアッチコッチが要求。 欧米列強に「イヤだ」とも言えず「強くなって対等にならなくちゃ」と決意。もし「イヤだ」と言ったら[[兵庫開港要求事件>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E5%BA%AB%E9%96%8B%E6%B8%AF%E8%A6%81%E6%B1%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6]]です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Fukoku_ky%C5%8Dhei]] &ref(富国強兵.PNG)アジアを食べる欧米列強(20世紀はじめ頃) 条約を締結した日はこんな感じ。それぞれに有効期限があるようで、執行は前の条約が終了(たまに破棄)してからみたいです。 日本は欧米列強の親日度もチェックしながら、外交で条約改正を交渉。 最初に成功した日英通商航海条約は「日清戦争するぜ!」を後押ししてます。イギリスもロシアの南下政策を邪魔したかったの。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3]] |BGCOLOR(lightgrey):|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:和親条約と修好通商条約|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:通商航海条約|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:新・通商航海条約| |BGCOLOR(lightgrey):日米|1854年3月31日|1858年7月29日|1894年11月22日|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日清戦争&br()1894年7月25日&br()|&br()1895年11月30日||BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日露戦争&br()1904年2月8日&br()|&br()1905年9月5日|1911年2月21日| |BGCOLOR(lightgrey):日英|1854年10月14日|1858年8月26日|1894年7月16日|~||~|1911年4月3日| |BGCOLOR(lightgrey):日仏||1858年10月9日||~|1896年8月4日|~|1911年8月19日| |BGCOLOR(lightgrey):日露|1855年2月7日|1858年8月19日||~|1895年6月8日|~|1907年7月23日| |BGCOLOR(lightgrey):日蘭|1856年1月30日|1858年8月18日||~|1896年9月8日|~|1912年7月6日| |BGCOLOR(lightgrey):|>|●港を開港する&br()●外国人の犯罪を裁けない(領事裁判権)&br()●輸入関税率を決められない(関税自主権)&br()●各外国の待遇を平等に扱う(最恵国待遇)|>|>|●領事裁判権の撤廃&br()●関税自主権の一部回復&br()●日本と外国が対等の最恵国待遇&br()●外国人居留地の廃止(内地雑居)|>|●関税自主権の完全回復| #region(close,欧米列強ってなに?) 欧米列強は政治・経済・軍事をリードする国々。明治時代は赤色のみなさんです。 アメリカはまだ新参者。 戦争に負けると賠償金や領地取り上げでケチョンケチョンにされる「勝てば官軍、負ければ賊軍」の時代でございます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Great_power]] &ref(富国強兵_G5.PNG)七転八起の日本とドイツ(1975年:[[イタリア乱入の第一回G5>http://en.wikipedia.org/wiki/1st_G6_summit]]) |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[ウィーン会議>http://en.wikipedia.org/wiki/Congress_of_Vienna]]&br()1815年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[アフリカ分割>http://en.wikipedia.org/wiki/Scramble_for_Africa]]&br()&color(red){1880年頃}|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[義和団の乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Boxer_Rebellion]]&br()1900年頃|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[ヴェルサイユ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Versailles]]&br()1919年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[WW2>http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II]]&br()1939年頃|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[国際連合憲章>http://en.wikipedia.org/wiki/United_Nations_Charter]]&br()1946年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[G5>http://en.wikipedia.org/wiki/G8]]&br()1975年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:21世紀| |BGCOLOR(lightgrey):列強|||日本|日本|日本||日本|日本| |~|イギリス|&color(red){イギリス}|イギリス|イギリス|イギリス|イギリス|イギリス|イギリス| |~|||アメリカ|アメリカ|アメリカ|アメリカ|アメリカ|アメリカ| |~|ロシア|&color(red){ロシア}|ロシア||ロシア|ロシア||ロシア| |~|フランス|&color(red){フランス}|フランス|フランス|フランス|フランス|フランス|フランス| |~|ドイツ|&color(red){ドイツ}|ドイツ||ドイツ||ドイツ|ドイツ| |~||&color(red){イタリア}|イタリア|イタリア|イタリア|||| |~|オーストリア|&color(red){オーストリア}|オーストリア|||||| |~||||||中国||中国| |BGCOLOR(lightgrey):|●[[五国同盟>>http://en.wikipedia.org/wiki/Quintuple_Alliance]]の国々|||●WW1の戦勝国||●WW2の戦勝国&br()●国連の常任理事国|●先進5ヶ国|| #endregion #region(close,日本人は泣き寝入り「領事裁判権」) 領事裁判権は「日本は外国人の犯罪を裁けない([[治外法権>http://en.wikipedia.org/wiki/Extraterritoriality]])」です。 欧米列強は「非文明国で身を守るとーぜんの権利」とアジアの国々で絶賛実施中。とっても失礼だけど、しょうがない。 ってことで、日本は[[外国人居留地>http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_settlement_(Japan)]]の限定で日本人と外国人のトラブルを回避。それにも文句言ってます。バカぢゃないの!? |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:学校でお勉強したような記憶がある治外法権の事件(イギリスがらみだけ)| |&ref(富国強兵_領事裁判権(生麦事件).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):[[生麦事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Namamugi_Incident]](1862年)| |~|薩摩藩の大名行列で、敬意を払わなかったイギリス人が藩士に殺傷された事件。&br()日本の法律ならイギリス人は有罪。でも治外法権があるから裁けない。&br()それどころか、逆ギレした欧米列強は軍艦を出動して日本を脅迫。&br()&space(2)イギリス「日本が悪い。賠償金払え」&br()&space(2)江戸幕府「戦争ヤバイ。賠償金払うから許して」&br()&space(2)薩摩藩「無礼千万。賠償金なんて払わん」&br()&space(2)民衆「いいぞー!薩摩!」&br()1863年[[薩英戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Bombardment_of_Kagoshima]]が勃発。薩摩藩はイギリスに賠償金を払います。| |&ref(富国強兵_領事裁判権(ハートレー事件).PNG)|BGCOLOR(lightgrey):ハートレー事件(1877年)| |~|商人ジョン・ハートレーが日英修好通商条約で禁止のアヘン9tを密輸した事件。&br()日本の法律ならイギリス人は有罪。でも治外法権があるから裁けない。&br()裁いたのはイギリスの領事裁判所。&br()&space(2)ハートレー「これは薬でーす」&br()&space(2)裁判法廷「判決は無罪」&br()&space(2)民衆「バカ言ってんじゃねー!」&br()日本人は怒り心頭。それに応えた日本はイギリスと外交交渉。&br()でも逆にイギリスから「薬のアヘンはオケにしろ」と迫られて泣き寝入り。| |&ref(富国強兵_領事裁判権(ノルマントン号事件).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):[[ノルマントン号事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Normanton_Incident]](1886年)| |~|紀州沖でイギリス貨物船が沈没。外国人は多数生還、日本人は多数溺死の事件。&br()日本の法律ならイギリス人は有罪。でも治外法権があるから裁けない。&br()裁いたのはイギリスの海難審判。&br()&space(2)ドレーク船長「日本人を救命ボートに誘導したけど、英語が通じなかったの」&br()&space(2)海難審判「判決は無罪」&br()&space(2)民衆「バカ言ってんじゃねー!」&br()日本人は怒り心頭。あまりにも腹が立って「ドレーク船長=奴隷鬼」と命名。&br()それに応えた日本は[[イギリス領事裁判所>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Court_for_Japan]]に告訴。&br()ドレーク船長は有罪になったけど、たった禁固刑3か月で犠牲者への賠償金ナシ。| #endregion **ロシアの南下政策が取り持った日本とイギリスのご縁 日本が世界デビューした頃のロシアは、南下政策でヨーロッパを征服中です。 皇帝は[[ファベルジェ・エッグ>http://en.wikipedia.org/wiki/Faberg%C3%A9_egg]]で有名な[[ニコライ2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_II_of_Russia]](在位:1894-1917年)の祖父[[アレクサンドル2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_II_of_Russia]](在位:1855-1881年)。 アレクサンドル2世はアジアでも南下政策を開始。ってことで、宿敵イギリスは日本を使って阻止を目論みます。 &ref(南下政策.PNG)地図(1914年:熊=[[ロシア帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Empire]]、豚=[[清>http://en.wikipedia.org/wiki/Qing_Dynasty]]) #region(close,南下政策ってなに?) ロシアは冬になると港が凍るのが悩みの種。港が凍れば海軍も凍る。あっ!だったら凍らない港を奪っちゃえばいいんだわ♥ ってことで、最初のターゲットはヨーロッパの南側。 でもあっちこっちの国に阻止されてけっこう大変。一番頑張ったのがイギリスです。 [[wikipedia>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%B8%8B%E6%94%BF%E7%AD%96]] &ref(南下政策_ヨーロッパ.PNG)ヨーロッパを食べる巨大タコ=ロシア ヨーロッパの南下政策に限界を感じたロシア。うーん…あっ!だったらアジアの凍らない港を奪っちゃえばいいんだわ♥ ってことで、お次のターゲットは中国と韓国。 ちなみにイギリスは中国から紅茶を大量に輸入中。アヘンでの支払いに怒った中国を[[阿片戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Opium_War]](1839–1842年)で黙らせてます。 #endregion #region(close,偶然生まれた日本とイギリスのご縁「日英和親条約」) 1854年イギリスはロシアと[[クリミア戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Crimean_War]](1853–1856年)の真っ最中です。 ある日「長崎にロシア艦隊が出没」のお知らせをキャッチ。 ロシア艦隊を拿捕しようと[[中国艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Commander-in-Chief,_China]](中国にいるイギリス艦隊)は長崎へ…でもロシア艦隊は帰っちゃってました。 &ref(南下政策_日英和親条約.JPG,,height=200)日本にやって来たイギリス艦隊[[HMSウィンチェスター>http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Winchester_(1822)]] 日本は長崎にやって来たイギリス艦隊を「げっ!今度はイギリスが和親条約しに来た」と誤解して交渉を始めます。 イギリス艦隊は「せっかくだから御言葉に甘えて♥」と[[日英和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Friendship_Treaty]]にサイン。 実はそんな権限なかったけど、イギリスも「日本海でロシアと戦争になったら日本は補給基地に便利かも♥」と事後承認してます。 #blockquote(){&u(){&bold(){ロシアってヤバイんだよぉ}} 日本が誤解したのは[[日米和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Convention_of_Kanagawa]]を結んだばっかりだし、ロシア艦隊も[[日露和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Shimoda]]のお願いで長崎に来てたから。 うっかりさんは長崎奉行[[水野忠徳>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%BE%B3]]。 イギリス艦隊はうっかりさんに「ロシアは樺太と千島列島を狙ってるかも」「ロシアの味方しちゃダメよ」と忠告してます。 &ref(南下政策_日英和親条約(日本人).JPG,,height=200)この頃の日本人はお侍さん(1867年頃) } #endregion #region(close,ロシア「ぱんぱかぱーん!南下政策でシベリア鉄道も作りました♥」) 南下政策で外満州と遼東半島をゲトしたロシアは、ロシア海軍[[太平洋艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Pacific_Fleet_(Russia)]]を配備。シベリア鉄道を東へ延長します。 これがもー大変。 バイカル湖南岸鉄道は凍った湖上に線路(夏はフェリー)を敷いて、アムール鉄道は東清鉄道に迂回して1904年完成します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Trans-Siberian_Railway]] |&ref(南下政策_シベリア鉄道.PNG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:シベリア鉄道|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:工事期間| |~|&tooltip(西シベリア鉄道){チェリャビンスク~ノヴォシビルスク}|1892-1895年|| |~|&tooltip(中央シベリア鉄道){ノヴォシビルスク~イルクーツク}|1893-1898年|| |~|&tooltip(バイカル湖南岸鉄道){バイカル湖の南岸}||1901-1904年| |~|&tooltip(ザバイカル鉄道){ムイソヴァヤ~スレチェンスク}|1895-1900年|| |~|&tooltip(アムール鉄道){スレチェンスク~ハバロフスク}||1908-1916年| |~|&tooltip(ウスリー鉄道){ハバロフスク~ウラジオストク}|1891-1897年|| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:東清鉄道|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:工事期間| |~|&tooltip(満洲支線){カリムスカャ~満洲里~綏芬河~ウスリースク}|1898-1902年|| |~|&tooltip(南満洲支線){ハルビン~旅順}|~|~| |BGCOLOR(lightgrey):アロー戦争&br()(1856-1860年)|1860年|中国から外満州をゲト。(ロシアと中国の[[北京条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Convention_of_Peking]])| |~|1871年|ウラジオストクに凍らない港を建設。&bold(){ウラジオストクに太平洋艦隊を配備}。| |BGCOLOR(lightgrey):日清戦争&br()(1894-1895年)|1895年|日本から旅順をゲト。(ロシア、フランス、ドイツが日本へ[[三国干渉>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Intervention]])| |~|1896年|中国から満州の鉄道建築権をゲト。(ロシアと中国の[[露清密約>http://en.wikipedia.org/wiki/Li%E2%80%93Lobanov_Treaty]])| |~|1897年|&bold(){旅順に太平洋艦隊を配備}。| |BGCOLOR(lightgrey):義和団の乱&br()(1900-1901年)|1901年|&bold(){出兵したロシア軍を撤退しないで満洲を占拠}。イギリスや日本の抗議をスルー。| |~|1903年|東清鉄道・満洲支線(チタ~ウラジオストク)が完成。| |~|~|東清鉄道・南満洲支線(ハルビン~旅順)が完成。| |BGCOLOR(lightgrey):日露戦争&br()(1904-1905年)|1904年|バイカル湖南岸鉄道が完成。&br()シベリア鉄道(モスクワ~ウラジオストク)が&bold(){全線開通して、兵士や物資をビシバシ輸送}。| |~|1905年|日本が勝って南満州支線(その後の[[南満州鉄道>http://en.wikipedia.org/wiki/South_Manchuria_Railway]])をゲト。(ロシアと日本の[[ポーツマス条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Portsmouth]])| #endregion 日清戦争するぜ!の「日英通商航海条約」 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Treaty_of_Commerce_and_Navigation]] &ref(南下政策_日英通商航海条約.PNG)Udo Keppler画「裏庭の復活祭」(1895年:オーストリア) **条約改正への道のり この頃の[[日本の仮想敵国>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E9%98%B2%E6%96%B9%E9%87%9D]]はロシア。日露戦争の後は1位ロシア、2位アメリカ、3位ドイツ、4位フランスだそうです。 |&ref(条約改正(不平等条約).PNG)&br()作者不明「黒船来航」(たぶん横浜市の茶屋)|BGCOLOR(lightgrey):[[黒船来航>http://en.wikipedia.org/wiki/Perry_Expedition]](1853年)| |~|アメリカの黒船4隻が浦賀に来航。1隻は軍艦[[プリマス>http://en.wikipedia.org/wiki/USS_Plymouth_(1844)]]。&br()幕府は「みんな外異を見ちゃだめよ」禁令を発布。とーぜん民衆はスルー。&br()●アメリカの目論見&br()&space(2)近所で捕鯨するから港を使わせてね♥| |~|BGCOLOR(lightgrey):開国(1854年)| |~|アメリカと日米和親条約を結んで開国。日本の夜明けぜよ♥| |~|BGCOLOR(lightgrey):欧米列強との[[不平等条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Ansei_Treaties]](1858年)| |~|強くなって対等にならなくちゃ♥| |&ref(条約改正(日清戦争).PNG)&br()[[ジョルジュ・ビゴー>http://en.wikipedia.org/wiki/Georges_Ferdinand_Bigot]]画「日清戦争」|BGCOLOR(lightgrey):[[日清戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Sino-Japanese_War]](1894–1895年)| |~|韓国は権力闘争、鎖国派×開国派、親中派×親日派×親露派で混乱中。&br()怒った農民の[[甲午農民戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Donghak_Peasant_Revolution]]で更に大混乱。&br()この大混乱をチャンス!と思った日本と中国が韓国を取り合うことに。&br()●日本の目論見&br()&space(2)韓国がロシアの植民地になると日本がヤバイ!韓国を親日にするわ♥&br()●中国の目論見&br()&space(2)韓国は中国の[[子分>http://en.wikipedia.org/wiki/Tributary_state]]!日本にはあげないわよ♥| |~|勝った日本は中国から[[韓国独立>http://en.wikipedia.org/wiki/Independence_Gate]]、[[遼東半島>http://en.wikipedia.org/wiki/Liaodong_Peninsula]]と台湾をゲト。&br()でも遼東半島は[[ロシア、フランス、ドイツの大反対>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Intervention]]で放棄…ロシアがゲト。| |&ref(条約改正(義和団の乱).PNG)&br()[[ジョセフ・ケプラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Keppler]]画「義和団の乱」|BGCOLOR(lightgrey):[[義和団の乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Boxer_Rebellion]](1899-1901年)| |~|中国は欧米列強に連戦連敗。国民は「外国人>>>中国人」の待遇に不満MAX。&br()武装蜂起したのが義和団。外国人を追い出せー!と在外公館を襲撃。&br()中国も積年の恨みで欧米列強にヤケクソ宣戦布告。&br()●日本の目論見&br()&space(2)中国をギャフンと言わせて欧米列強に「極東の憲兵」と認めて貰うわ♥&br()●ロシアの目論見&br()&space(2)南下政策のチャンスだわ♥| |~|負けた中国は欧米列強の半植民地に転落(中国分割)。もうボロボロ。&br()ロシアは[[東三省>http://en.wikipedia.org/wiki/Northeast_China]](満州のあたり)をゲト。日本ヤバイ!とってもヤバイ!| |&ref(条約改正(日露戦争).PNG)&br()ジョルジュ・ビゴー画「日露戦争」|BGCOLOR(lightgrey):[[日英同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Alliance]](1902-1923年)| |~|ロシアが迷惑な日本とイギリスが同盟。| |~|BGCOLOR(lightgrey):[[日露戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Russo-Japanese_War]](1904-1905年)| |&ref(条約改正(条約改正).JPG)&br()日英博覧会(武器会社[[ヴィッカース>http://en.wikipedia.org/wiki/Vickers]]の展示場)|BGCOLOR(lightgrey):[[韓国併合>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88]](1910-1965年)| |~|日清戦争で中国から独立した韓国は、相変わらず混乱中で自立できない。&br()日本は「韓国ダメだ」と判断。1910年[[日韓併合条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Japan%E2%80%93Korea_Treaty_of_1910]]で統治下に。&br()英(日英同盟)、米([[桂タフト協定>http://en.wikipedia.org/wiki/Taft%E2%80%93Katsura_Agreement]])、露([[ポーツマス条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Portsmouth]])も承認済み。| |~|1907年韓国の反対勢力が抗議([[ハーグ密使事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Hague_Secret_Emissary_Affair]])したけど欧米列強スルー。&br()1909年ナショナリスト安重根が韓国統監[[伊藤博文>http://en.wikipedia.org/wiki/It%C5%8D_Hirobumi]]を射殺。| |~|BGCOLOR(lightgrey):欧米列強との条約改正(1911年)| |~|強くなって対等になったわ♥| |~|1910年ロンドンで[[日英博覧会>http://en.wikipedia.org/wiki/Japan%E2%80%93British_Exhibition]]を開催。&br()1912年北大西洋でイギリス客船[[タイタニック号>http://en.wikipedia.org/wiki/RMS_Titanic]]が氷山にぶつかって沈没。| |&ref(条約改正(第一次世界大戦).PNG)&br()[[ルイ・グラッケン>http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Glackens]]画「終わらない軍拡ゲーム」|BGCOLOR(lightgrey):[[第一次世界大戦>http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_I]](1914-1918年)| |~|日本は日英同盟で参戦。ドイツから植民地の[[中国山東省>http://en.wikipedia.org/wiki/Shandong]]と南洋諸島をゲト。&br()欧米列強はだんだん「日本のアジア進出」が商売の邪魔に…。| |~|1922年[[ワシントン海軍軍縮条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Washington_Naval_Treaty]]で軍艦保有率を英5:米5:日3に決定。| |~|BGCOLOR(lightgrey):[[ロシア革命>http://en.wikipedia.org/wiki/Russian_Revolution]](1917年)| |~|パンも満足に食べられない国民の不満爆発。テロやデモでロシア大混乱。&br()1917年皇帝[[ニコライ2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_II_of_Russia]]が退位。| *色々ありがとうございましたの「日英同盟」 ロシアのアジア進出に困っていた日本とイギリスは日英同盟(1902-1923年)を結んでます。 [[日露戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Russo-Japanese_War]](1904-1905年)では日本に資金援助とヨーロッパ情報を提供、日本にやって来る[[バルチック艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Baltic_Fleet]]の妨害とアレコレ援護。 1921年アメリカとフランスを追加した[[四カ国条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Four-Power_Treaty]]を結んで終了。 こちらは日英同盟の超ザックリ相関図。なんと!昼ドラも真っ青な利害関係でございます。大人の世界は複雑なんだねぇ。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Alliance]] |&ref(日英同盟.PNG)|BGCOLOR(lightgrey):独:[[三国同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Alliance_(1882)]]| |~|・[[独露再保障条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Reinsurance_Treaty]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):露:[[三国協商>http://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Entente]]| |~|・[[露仏同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Russian_Alliance]]&br()・[[英仏協商>http://en.wikipedia.org/wiki/Entente_cordiale]](1904年)&br()・[[英露協商>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Russian_Entente]](1907年)| |~|BGCOLOR(lightgrey):英:[[栄光ある孤立>http://en.wikipedia.org/wiki/Splendid_isolation]]| |~|・3B政策、3C政策&br()・[[グレートゲーム>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Game]]&br()・[[ボーア戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Boer_Wars]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):日:[[下関条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Shimonoseki]]| |~|[[西・ローゼン協定>http://en.wikipedia.org/wiki/Nishi%E2%80%93Rosen_Agreement]]&br()・龍岩浦事件(1903年)| |~|日露協商&br()・日露協約(1907年)| |~|BGCOLOR(lightgrey):米:[[門戸開放政策>http://en.wikipedia.org/wiki/Open_Door_Policy]]| **日本「えーん、お金がないよぉ」イギリス「よーし、まかせろ」 もうすぐ日露戦争の日本はお金が足りない。そして世の中には[[外債>http://en.wikipedia.org/wiki/Foreign_bond]](外国に売る債券)という資金調達手段がありました。 でも世界の投資家は「日本は負けるから資金回収できないもーん」と判断。日本外債は超不人気。 そんな中で最初に£500万を引き受けてくれたのが[[ボーア戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Boer_Wars]]でボロボロのイギリス。アメリカも£500万を引き受けてくれてます。 &ref(日英同盟_外債.JPG,,height=200)日本の外債はこんな感じ(1904年発行の見本らしい) お金が足りないのは財政赤字のロシアも一緒。シベリア鉄道もフランスの[[融資>http://en.wikipedia.org/wiki/Loan]](超お貧乏なソ連になって焦げ付いた模様)です。 ってことで、フランスとドイツに融資をお願い。 フランスとドイツは戦況が日本が有利になると「もしかして日本は負けないかも」と日本外債にも参加してます。 #region(close,戦争ってお金がいっぱい必要なのね) 日本が日露戦争で使ったお金は19億8,613万円(当時の推定国民所得は約26億円)です。もー想定外の想定外の想定外。 この金額は日清戦争の7.9倍。戦場が広範囲だから軍隊、戦艦、新鋭の武器がたくさん必要だったの。 使ったお金の82%は借金。もし戦争が長引いたら、もし負けたら日本は破産でございました。あぶない、あぶない。 ~[[日本銀行>http://www.boj.or.jp/]]さんより~ |>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:収入|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:支出| |BGCOLOR(lightgrey):国債・一時借入金|1,418,731千円(82.4%)|BGCOLOR(lightgrey):国庫債券|434,886千円(25.3%)|BGCOLOR(lightgrey):人件費|168,293千円(11.2%)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):臨時事件費公債|294,251千円(17.1%)|BGCOLOR(lightgrey):物件費|1,165,113千円(77.2%)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):英貨公債|689,595千円(40.1%)|BGCOLOR(lightgrey):機密費|4,049千円(0.3%)| |BGCOLOR(lightgrey):一般会計から繰入れ|182,430千円(10.6%)|||BGCOLOR(lightgrey):一時賜金|164,600千円(10.9%)| |BGCOLOR(lightgrey):特別会計資金繰替え|69,312千円(4.0%)|||BGCOLOR(lightgrey):亡失金|516千円(0.0%)| |BGCOLOR(lightgrey):軍資献納金|2,331千円(0.1%)|||BGCOLOR(lightgrey):従軍記章費|647千円(0.0%)| |BGCOLOR(lightgrey):官有私物払下げ代|18,875千円(1.1%)|||BGCOLOR(lightgrey):その他|5,253千円(0.4%)| |BGCOLOR(lightgrey):その他|29,533千円(1.7%)|||BGCOLOR(lightgrey):|| |BGCOLOR(lightgrey):合計|1,721,212千円|||BGCOLOR(lightgrey):合計|1,508,473千円&br()(+212,740千円)| #blockquote(){&u(){&bold(){お金を借りまくって戦争した日本}} 日本はお金を手に入れるまで開戦できない状態でした。 でも旅順にいるロシア太平洋艦隊の出動を聞いて「ひーもうそんなコト言ってられないわ」と2月8日日露戦争に突入。 頑張ったのが日銀副総裁[[高橋是清>http://en.wikipedia.org/wiki/Takahashi_Korekiyo]]。2月24日イギリスに行ってなんとか英貨公債の発行(①②)に成功します。 |>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日露戦争| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):明治37年2月8日|BGCOLOR(lightgrey):明治37年4月30日|BGCOLOR(lightgrey):明治37年10月9日|BGCOLOR(lightgrey):明治38年3月1日|BGCOLOR(lightgrey):明治38年5月27日| |~|[[旅順口攻撃>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Port_Arthur]]|[[鴨緑江会戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Yalu_River_(1904)]]|[[河会戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Shaho]]|[[奉天会戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Mukden]]|[[日本海海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tsushima]]| |>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イギリスとニューヨークで販売した国債(英貨公債)| |BGCOLOR(lightgrey):募集期間|BGCOLOR(lightgrey):明治36年12月24日|BGCOLOR(lightgrey):①明治37年5月12日|BGCOLOR(lightgrey):②明治37年11月14日|BGCOLOR(lightgrey):③明治38年3月29日|BGCOLOR(lightgrey):④明治38年7月11日| |BGCOLOR(lightgrey):発行額|2,000万ポンド&br()(1億9,526万円)|1,000万ポンド&br()(9,763万円)|1,200万ポンド&br()(1億1,716万円)|3,000万ポンド&br()(2億9,289万円)| 3,000万ポンド&br()(2億9,289万円)| |BGCOLOR(lightgrey):最低発行価格|閣議決定したけど&br()募集の見通したたず&br()発行を断念|93ポンド10シリング|90ポンド10シリング|90ポンド|90ポンド| |BGCOLOR(lightgrey):償還期間(年利)|~|7年(6%)|7年(6%)|20年(4.5%)|20年(4.5%)| |BGCOLOR(lightgrey):最終利回り|~|7.41%|8.13% |5.56%|5.56%| |BGCOLOR(lightgrey):担保|~|関税収入|関税収入|煙草専売収入|煙草専売収入| |>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:日本で販売した国債(国庫債券)| |BGCOLOR(lightgrey):募集期間|BGCOLOR(lightgrey):①明治37年3月1日|BGCOLOR(lightgrey):②明治37年6月10日|BGCOLOR(lightgrey):③明治37年10月31日|BGCOLOR(lightgrey):④明治38年3月25日|BGCOLOR(lightgrey):⑤明治38年5月1日| |BGCOLOR(lightgrey):発行額|1億円|1億円|8,000万円|1億円|1億円| |BGCOLOR(lightgrey):最低発行価格|95円|92円|92円|90円|90円| |BGCOLOR(lightgrey):償還期間(年利)|5年以内(5%)|7年以内(5%)|7年以内(5%)|7年以内(6%)|7年以内(6%)| |BGCOLOR(lightgrey):最終利回り|6.32%|6.68%|6.68%|8.25%|8.25%| } #endregion #region(close,ご親切は無償の愛じゃない「アメリカの門戸開放政策」) アメリカはイギリスを超える経済大国。そして大規模な市場の中国はイギリス、フランス、ロシア、ドイツ、日本が独占中です。 ってなわけで、なんとか中国に新規参入しようと1900年「ジョン・ヘイの三原則」を勝手に宣言。 三原則を盾に日本にも干渉。古参の列強国も日本もスルーしたけど、1922年ワシントン会議の[[九カ国条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Nine-Power_Treaty]]で承認します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Open_Door_Policy]] &ref(日英同盟_外債(門戸開放).PNG)門戸開放の風刺画 |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ジョン・ヘイの三原則(1899年国務長官[[ジョン・ヘイ>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hay]]提案)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:本音| |BGCOLOR(lightgrey):門戸開放|中国の市場を古参の列強国だけ独占はズルイ。みんな貿易オケにしましょう。|アメリカにも中国と貿易させろ。| |BGCOLOR(lightgrey):機会均等|中国の貿易をある国だけ特別扱いはズルイ。みんな平等にしましょう。|~| |BGCOLOR(lightgrey):領土保全|中国の領土分割はカワイソウ。みんな半植民地([[租借地>http://en.wikipedia.org/wiki/Concession_(territory)]])は止めましょう。|~| #blockquote(){&u(){&bold(){ご親切は無償の愛じゃない}} 中国を食べてるイギリスも、中国を食べたいアメリカも「ロシアの南下政策(アジア進出)がウザイ」です。 資金援助するだけで日本がロシアを追い出してくれたらラッキー♥ なんか書いてて悲しくなってくるけど、日本もロシアが近づいてくるとヤバイのでお互い利害一致なの。 &ref(条約改正(日露戦争).PNG)ジョルジュ・ビゴー画「日露戦争」 アメリカで日本にバンバン資金援助したのは、ユダヤ系アメリカ人の銀行家[[ジェイコブ・シフ>http://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_Schiff]]です。 ロシアのユダヤ人迫害[[ポグロム>http://en.wikipedia.org/wiki/Pogrom]]への報復らしい。 シフのオススメでユダヤ系イギリス人の銀行家[[ナサニエル・ロスチャイルド>http://en.wikipedia.org/wiki/Nathan_Rothschild,_1st_Baron_Rothschild]]([[ロンドン家>http://en.wikipedia.org/wiki/Rothschild_family]]当主)も資金援助に参加します。 } #endregion **日本「えーん、船がないよぉ」イギリス「よーし、まかせろ」 もうすぐ日露戦争の日本は船が足りない。そしてイタリアにはアルゼンチンがキャンセルした「リヴァダヴィア」がありました。 これを教えてくれたのがイギリス。同じく船が欲しかったロシアと競った末に日本が落札。 イタリアから日本に運ぶ時もイギリス海軍が護衛して、あわよくば撃沈しようとするロシアの邪魔してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Kasuga-class_cruiser]] &ref(日英同盟_春日.JPG,,height=200)イタリア製の装甲巡洋艦[[春日>http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_cruiser_Kasuga]](昔は「リヴァダヴィア」) 春日が煙出してるのは石炭で動くから。 **日本「ロシアと戦うぞ」イギリス「日本が2国以上と戦うことになったら参戦するね」 フランス([[露仏同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Franco-Russian_Alliance]])はロシアと仲良し。ドイツも儲かるならロシアに協力。中国([[露清密約>http://en.wikipedia.org/wiki/Li%E2%80%93Lobanov_Treaty]])もロシアからの一方的な仲良し。 でも「日本の背後にイギリスがいるしなぁ」ってことで日露戦争に参戦してません。 もし最初からイギリスが参戦する同盟だったら、この3国も自動的に参戦してたのかも。大人の世界は複雑なんだねぇ。 &ref(日英同盟_条約.JPG,,height=200)日英同盟の風刺画 日本にやって来るバルチック艦隊の燃料は石炭。イギリスは良質な石炭を持ってたけど、もっちろん売ってあげません。 フランスやドイツにも「イヤガラセしろ」と依頼して道中での石炭補給を邪魔。 味方になったら頼もしく、敵になったら恐ろしい国でございます。 #region(close,モンテネグロ公国が日本に宣戦布告してた?) 1905年ロシアの同盟国[[モンテネグロ公国>http://en.wikipedia.org/wiki/Principality_of_Montenegro]]は日本に宣戦布告。満州に軍隊を派遣してたようです。 でも交戦しなかったし、日露戦争の[[ポーツマス講和会議>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Portsmouth]]にも招待されてない。 日本はその後もずーっと宣戦布告スルー。2006年[[モンテネグロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Montenegro]]に独立承認と戦争終了宣言の文書を届けてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Japan%E2%80%93Montenegro_relations]]([[交戦状態のまま放置リスト>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_wars_extended_by_diplomatic_irregularity]]) &ref(日英同盟_条約(ポーツマス講和会議).PNG)ポーツマス講和会議(1905年:アメリカの[[ポーツマス海軍造船所>http://en.wikipedia.org/wiki/Portsmouth_Naval_Shipyard]]) #endregion **日本「どぞどぞ勲位菊花章頸飾」イギリス「どぞどぞガーター勲章」 日露戦争が終わった1906年、イギリスは明治天皇にガーター勲章を贈ってます。 イギリス王[[エドワード7世>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VII]]の名代コノート公[[アーサー>http://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Arthur,_Duke_of_Connaught_and_Strathearn]]が来日して奉呈。これがイギリス王室で初めての日本公式訪問。 ちなみに日本もエドワード7世(1902年)とコノート公(1912年)に大勲位菊花章頸飾を贈ってます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_the_Garter]] &ref(日英同盟_ガーター勲章.JPG,,height=200)ガーター勲章のローブを纏った大正天皇(1912年頃) イギリスは日露戦争のお祝いに、イギリス海軍の英雄[[ホレーショ・ネルソン提督>http://en.wikipedia.org/wiki/Horatio_Nelson,_1st_Viscount_Nelson]]の遺髪も贈ってます。 江田島兵学校の遺髪室(非公開)に奉納。 ここには[[東郷平八郎>http://en.wikipedia.org/wiki/T%C5%8Dg%C5%8D_Heihachir%C5%8D]](日露戦争は司令長官)や[[山本五十六>http://en.wikipedia.org/wiki/Isoroku_Yamamoto]](日露戦争は少尉候補生)の遺髪も奉納されてるそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Legacy_of_Horatio_Nelson,_1st_Viscount_Nelson]] ---- ----

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