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#contents_line(level=2,sep=/) まだ調べ中で中途半端な内容です。今まで書いたアルマダ海戦コラムをこちらに移動してるのでUPしました。 #region(close,ご使用上の注意) アルマダ海戦は資料によって日付や内容がびみょーに違います。擦り合わせできなかったのでそのまま書きました。 お世話になった本は「図説スペイン無敵艦隊」。 あと戦争用語に詳しくないので間違った言葉を使っちゃってるかもしれません。伝わればいいかなぁってことで♥ #blockquote(){&u(){&bold(){大きな画はこちらをどうぞ}} 時系列地図も布陣図もアルマダ海戦の有名な画です。大人の事情で大きな画は載せられませんでした。 大きな画だと海戦の様子がバッチリ。 あっ、布陣図は戦ってる人々もバッチリ描かれてるのでちょびっと恐いかも…。苦手な方はご注意下さいね。 |&ref(アルマダ海戦_工程_01.JPG,,width=300)時系列地図|&ref(工程_02(三日月陣形).JPG,,width=300)布陣図| ・時系列地図は[[ロバート・アダムス>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Adams_%28architect%29]](Robert Adams)著「Expeditionis Hispanorum in Angliam vera descriptio」(1589年:イングランド)です。大きな画は[[アメリカ議会図書館>http://www.loc.gov/]]さん、[[ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジ>http://www.rmg.co.uk/]]さんをどうぞ。 ・布陣図は[[ジョン・パイン>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Pine]]画「The Tapestry Hangings of the House of Lords」(1739年:イギリス)です。大きな画は[[メトロポリタン美術館>http://www.metmuseum.org/]]さんをどうぞ。 } #blockquote(){&u(){&bold(){時系列地図に描かれてる「風向き」}} 大人の事情で「風向き」(フーフーしてるギリシア神話の風神[[アネモイ>http://en.wikipedia.org/wiki/Anemoi]])がガポッと欠けちゃってることがあります。 けっこう重要なんだけど…。 びみょーに残ってるので探して下さいね。風神アネモイは[[コンパスローズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Compass_rose]](羅針図)の周りに出没します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Classical_compass_winds]] &ref(工程(ご使用上の注意).JPG)ちょびっと顔が恐い風神アネモイ } #endregion *アルマダ海戦 ~ご協力♥ほみさん~ アルマダ海戦は1588年7月31日~8月8日([[グレゴリオ暦>http://en.wikipedia.org/wiki/Gregorian_calendar]])スペインのイングランド侵攻戦争です。 イングランドの異端キリスト教[[英国国教会>http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_England]]、ネーデルラントへの介入[[ノンサッチ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Nonsuch]]、植民地への海賊行為[[私掠船>http://en.wikipedia.org/wiki/Privateer]]などなどが要因。 結果はスペインの負け。それ以降も2国間の海戦は続きます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]] &ref(【共通の画】アルマダ海戦_スペイン無敵艦隊.JPG,【共通】共通の画)スペイン無敵艦隊(映画「[[Elizabeth:The Golden Age>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth:_The_Golden_Age]]」) #region(close,スペイン王フェリペ2世の命令書) スペイン王フェリペ2世は艦隊総司令官[[メディナ・シドーニア公爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Alonso_P%C3%A9rez_de_Guzm%C3%A1n,_7th_Duke_of_Medina_Sidonia]]に命令書を渡してます。 ちなみにマーゲイト岬からワイト島へ戻るなら、逆風を「間切って間切って間切って…(ジグザグするやつ)」しなくちゃダメ。 艦隊総司令官シドーニア公爵のため息が聞こえてきそうです。 #blockquote(){&u(){&bold(){超ザックリ「スペイン王フェリペ2世の命令書」}} 艦隊は英仏海峡を[[マーゲイト岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Margate]](ケント)まで走破し、パルマ公[[アレサンドロ・デ・ファルネーゼ>http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Farnese,_Duke_of_Parma]]率いる陸軍と合流せよ。 貴殿は&bold(){我が指示に従い}いかなる妨害も排除してパルマ公軍の進路を確保せよ。 (艦隊で運ぶ)陸軍はパルマ公引き渡しまでアロンソ・デ・レイバの指揮下とし、上陸地点はパルマ公が知らせるであろう。 またワイト島占拠の成否を確認せよ。 パルマ公がイングランド上陸に失敗した場合、艦隊による(聞いた情報によると防備脆弱な)ワイト島の占拠を望む。 [[橋頭堡>http://en.wikipedia.org/wiki/Bridgehead]]は勝利への重要な道となるであろう。独力でその先の戦いへの道を切り開くべし。 これが我が望みであーる。 &ref(アルマダ海戦_工程.PNG) } #blockquote(){&u(){&bold(){艦隊総司令官メディナ・シドーニア公爵「はっ!いいこと考えた」}} 艦隊総司令官シドーニア公爵は考えました。 イングランドに上陸するなら合流地点は[[ダンケルク>http://en.wikipedia.org/wiki/Dunkirk]](フランドル)より[[カレー>http://en.wikipedia.org/wiki/Calais]](フランス)の方が近くて安全じゃない? ってことで、8月1日書状を携えたピンネース船をパルマ公へ派遣。 ちなみに[[ドーバー海峡>http://en.wikipedia.org/wiki/Strait_of_Dover]]の最短距離は、[[ドーバー>http://en.wikipedia.org/wiki/Dover]]~[[灰色の鼻岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Cap_Gris_Nez]](カレーの左下)の33.1kmです。 &ref(アルマダ海戦(命令書).JPG) でもパルマ公からのお返事ナシ。どうやら書状はすぐにパルマ公へ届かなかったらしいです。 パルマ公が書状を受け取ったのは「ラ・コルーニャを出帆」が8月2日、「もうすぐカレーに到着」が8月5日。 ってことで、8月7日パルマ公から「まだ準備できてませーん」とお返事が来ました。 } #endregion #region(close,大昔から海戦してるスペインとイングラド) こちらはスペインの海戦一覧です。[[スペイン王の髭焦がし事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Singeing_the_King_of_Spain%27s_Beard]]と[[アルマダ海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]以外はスペインの勝ち。 実はスペイン艦隊って強い。 あとアルマダ海戦に勝利したイギリスは軍艦に[[HMS Armada>http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Armada_%28D14%29]]なんてお名前を命名してます。ちょびっと悪趣味。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_naval_battles]] |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海戦(ほんの一部)|BGCOLOR(lightgrey):イングランド|BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):ポルトガル|BGCOLOR(lightgrey):ネーデルラント|BGCOLOR(lightgrey):&tooltip(イタリア){ナポリ王国、シチリア王国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、教皇領など}|BGCOLOR(lightgrey):オスマン|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:他| |BGCOLOR(lightgrey):1337|[[Battle of Cape St. Vincent>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Cape_St._Vincent_%281337%29]]|||敵||||| |BGCOLOR(lightgrey):1372|[[Battle of La Rochelle>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_La_Rochelle]]|敵||||||| |BGCOLOR(lightgrey):1419|[[Battle of La Rochelle>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_La_Rochelle_%281419%29]]|敵||||||敵:ハンザ同盟| |BGCOLOR(lightgrey):1535|[[Conquest of Tunis>http://en.wikipedia.org/wiki/Conquest_of_Tunis_%281535%29]]||敵|味方||味方|敵|味方:神聖ローマ帝国| |BGCOLOR(lightgrey):1543|[[Battle of Muros Bay>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Muros_Bay]]||敵|||||| |BGCOLOR(lightgrey):1568|[[Battle of San Juan de Ulúa>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_de_Ul%C3%BAa_%281568%29]]|敵||||||| |BGCOLOR(lightgrey):1571|[[レパントの海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Lepanto]]|||||味方|敵|| |BGCOLOR(lightgrey):1582|[[Battle of Ponta Delgada>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Ponta_Delgada]]|敵|敵|&tooltip(敵/味方){ポルトガルの王位継承権争いで、フェリペ2世vsアントニオ・デ・ポルトゥガルに分かれてる}|敵|||| |BGCOLOR(lightgrey):1583|[[Conquest of the Azores>http://en.wikipedia.org/wiki/Conquest_of_the_Azores]]|敵|敵|敵/味方||||| |BGCOLOR(lightgrey):1587|スペイン王の髭焦がし事件|敵||||||| |BGCOLOR(lightgrey):1588|アルマダ海戦|敵||味方|敵|味方||| #endregion #region(close,アルマダ海戦で終わりじゃない!まだまだ続くスペインとイングランドの海戦) アルマダ海戦は強国スペインと新興国イングランドがワンサカ戦い続けた[[英西戦争(1585–1604年)>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_%281585%E2%80%931604%29]]の1つです。 発端は1585年イングランドがネーデルラントを援助する[[ノンサッチ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Nonsuch]]。 ネーデルラントと[[八十年戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Eighty_Years%27_War]](1568–1648年)してるスペインはムカッ!これを宣戦布告と受け止めました。 &ref(アルマダ海戦(英西戦争).JPG)風刺画「オランダ牛を飼育するエリザベス」(1586年) |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海戦(ほんの一部)|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:スペイン|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イングランド| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:結果|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:死傷者|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:同盟国|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:結果|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:死傷者|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:同盟国| |BGCOLOR(lightgrey):1588.07-08|アルマダ海戦|×|20,000名以上|前記参照|●|6,000名以上|ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1589.05-07|[[English Armada>http://en.wikipedia.org/wiki/English_Armada]]|●|900|ポルトガル|×|11,000|ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1591.04.24|[[Battle of the Strait of Gibraltar>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Strait_of_Gibraltar]]||200|||54|| |BGCOLOR(lightgrey):1591.07.15|[[Battle of Berlengas Islands>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Berlengas_Islands]]|●|150名以上の囚人||×|2|| |BGCOLOR(lightgrey):1591.08.30-09.01|[[Battle of Flores>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Flores_%281591%29]]|●|100||×|250|| |BGCOLOR(lightgrey):1593.04.18|[[Battle of Blaye>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Blaye]]|●|||×||| |BGCOLOR(lightgrey):1594.06.24-07.01|[[Action of San Mateo Bay>http://en.wikipedia.org/wiki/Action_of_San_Mateo_Bay]]|●|50||×|44|| |BGCOLOR(lightgrey):1595.10|[[Battle of Las Palmas>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Las_Palmas]]|●|||×||| |BGCOLOR(lightgrey):1595.08.02-08.04|[[Battle of Cornwall>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Cornwall]]|●|||×||| |BGCOLOR(lightgrey):1595.11.22|[[Battle of San Juan>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_%281595%29]]|●|40||×|400|| |~|>|>|>|>|>|>|サー・フランシス・ドレイク、サー・ジョン・ホーキンス(フランシス・ドレイクの従兄)死去| |BGCOLOR(lightgrey):1596.03.11|[[Battle of Pinos>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Pinos]]|●|80||×|325|| |BGCOLOR(lightgrey):1596.06.30-07.15|[[Capture of Cadiz>http://en.wikipedia.org/wiki/Capture_of_Cadiz]]|×|||●|2,000|ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1597.07-08|[[Islands Voyage>http://en.wikipedia.org/wiki/Islands_Voyage]]|●|||×||ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1598.06.15-06.30|[[Battle of San Juan>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_%281598%29]]|×|50||●|100|| |BGCOLOR(lightgrey):1598.09.13|>|>|>|>|>|>|スペイン王フェリペ2世死去→スペイン[[王フェリペ3世>http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_III_of_Spain]]| |BGCOLOR(lightgrey):1601.12.06|[[Battle of Castlehaven>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Castlehaven]]|×|150|アイルランド|●|200|| |BGCOLOR(lightgrey):1603.03.25|>|>|>|>|>|>|イングランド女王エリザベス1世死去→イングランド[[王ジェームズ1世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]| #endregion #region(close,やっとスペインとイングランドが仲直り。が、しかし…) 戦争は相手をギャフンと言わせるための非生産的な破壊行為。お互い国庫ボロボロです。 ってわけで、女王エリザベス1世の後任[[王ジェームズ1世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]は停戦を提案。 もっちろん王フェリペ2世の後任[[王フェリペ3世>http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_III_of_Spain]]も大歓迎。1604年[[ロンドン条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_London,_1604]]で仲直りします。戦争が終わったぁ♥ |>|&ref(【共通の画】イングランド_ロンドン条約.JPG,【共通】共通の画)作者不明「[[サマセット・ハウス会議>https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_House_Conference_(painting)]]」(1604年)| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:スペイン(窓側から:役職は訳せませんでした)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イングランド(窓側から)| |[[Juan Fernández de Velasco, 5th Duke of Frías>http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_Fern%C3%A1ndez_de_Velasco,_5th_Duke_of_Fr%C3%ADas]]|大蔵卿[[ドーセット伯爵トーマス・サックヴィル>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Sackville,_1st_Earl_of_Dorset]]| |[[Juan de Tassis>http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_de_Tassis,_1st_Count_of_Villamediana]]|海軍卿[[エフィンガム男爵チャールズ・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard,_1st_Earl_of_Nottingham]]&br()※1596年からノッティンガム伯爵| |Alessandro Robida|兵士[[デヴォンシャー伯爵チャールズ・ブラント>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Blount,_8th_Baron_Mountjoy]]| |スペイン領ネーデルラント[[Charles de Ligne>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_de_Ligne,_2nd_Prince_of_Arenberg]]|五港監督官[[ノーサンプトン伯爵ヘンリー・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Howard,_1st_Earl_of_Northampton]]| |スペイン領ネーデルラント[[Jean Richardot>http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Richardot]]|秘書官長[[クランボーン子爵ロバート・セシル>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_1st_Earl_of_Salisbury]]&br()※1605年から[[ソールズベリー伯爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Marquess_of_Salisbury]]| |スペイン領ネーデルラントLouis Verreyken|~| #blockquote(){&u(){&bold(){2国間でお約束したこと}} どちらかというとスペイン有利だそうです。 ・スペインはイングランドを「英国国教会なんてダメ!カトリックに戻れー!」なんて夢は諦めます。 ・イングランドはスペインの[[インディアス艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_treasure_fleet]](ビセンテのお仕事)と植民地の邪魔しません。 ・イングランドはスペイン船にイギリス海峡を解放します。 ・イングランドは[[ネーデルラントの反乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_Revolt]]に干渉しません。財政援助も止めます。 ・2国の船(商船や軍艦)はお互いの港を修理・避難・補給に使えます。8隻未満の船団なら「ちょっと港使わせてね」の許可も必要ないです。 &ref(アルマダ海戦(ロンドン条約:ロバート・セシル).JPG)[[ピューター>http://en.wikipedia.org/wiki/Pewter]]製インクポット、[[羽根ペン>http://en.wikipedia.org/wiki/Quill]]、紙 講和条約は[[サマセット・ハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_House]](ロンドン)で結ばれました。 サマセット・ハウスはもともと1552年トマス・シーモア事件で処刑されたサマセット公[[エドワード・シーモア>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Seymour,_1st_Duke_of_Somerset]]のお屋敷。 イングランド[[王エドワード6世>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England]](女王エリザベス1世の弟)が屋敷も没収してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){が、しかし…}} が、しかし、平和もつかの間。 ヨーロッパの[[三十年戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Thirty_Years%27_War]](1618–1648年:カトリックvsプロテスタント)で[[英西戦争(1625–1630年)>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_%281625%E2%80%931630%29]]に再突入します。 ちなみに三十年戦争は傾きかけたスペインの栄華にトドメ刺しました。 &ref(アルマダ海戦(ロンドン条約:三十年戦争).JPG)スペイン落日の映画「[[アラトリステ>http://en.wikipedia.org/wiki/Alatriste]]」(2006年:スペイン) } #endregion **F&Bの艦隊リスト(ネタバレ) 史実と同じだけど、ネタバレを含んでるので隠してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_ships_of_the_Spanish_Armada]] #region(close,イングランド艦隊) |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:戦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[アーク・ロイヤル号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Ark_Royal_(1587)]]|指揮官:最高司令官[[エフィンガム男爵チャールズ・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard,_1st_Earl_of_Nottingham]]| |BGCOLOR(lightgrey):ドレイク隊|BGCOLOR(lightgrey):[[リヴェンジ号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Revenge_(1577)]]|船長:副司令官サー・フランシス・ドレイク| |~|BGCOLOR(lightgrey):グローリア号&br()(プレシャス号)|船長:ジェフリー・ロックフォード&br()航海長:ナイジェル・グラハム&br()水夫長:ルーファス・ベレット&br()檣楼手:ユアン&br()砲手長:マック&br()砲手(火縄係):ネヴィル&br()操舵手:ウィル&br()船大工:トーマス (以下略)| #endregion #region(close,スペイン艦隊) 赤色はアルマダ海戦に消極的な平和派のメンバーです。 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:戦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員| |BGCOLOR(lightgrey):ポルトガル|BGCOLOR(lightgrey):旗艦[[サン・マルティン号>http://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A3o_Martinho_%281580%29]]|指揮官:&color(red){艦隊総司令官メディナ・シドーニア公爵}&br()艦長:アロンソ・デ・ルイス提督&br()参謀長:&color(red){ディエゴ・デ・バルデス}(ここかな?)&br()航海長:ビセンテ・デ・メンドーサ&br()水夫長:サンチョ・アルバレス(サンティアゴ号の水夫長)&br()操舵手:エステバン&br()水夫:ホセ、ペペ、エドゥアルド・ラロ| |~|BGCOLOR(lightgrey):サン・フェリペ号|連絡係:&color(red){アスコリ大公アントニオ・デ・レイバ}&br()&color(red){ラウル・デ・トレド}| |~|BGCOLOR(lightgrey):補給船アウグスタ号|| |BGCOLOR(lightgrey):レパント|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:マルティン・デ・ベルテンドーナ| |~|BGCOLOR(lightgrey):ラ・フリアナ号&br()&nbsp(6)↓&br()ラ・ラタ・デ・サンタ・マリア・エンコロナーダ号|艦長:カルロス・フェンテス・デ・ローサ&br()陸将:アロンソ・デ・レイバ&br()船大工:&del(){ホセ}&br()船大工見習い:&color(red){ニコラス}(ファン・グリフス、ヤン)&br()水夫:&color(red){リコ}&br()個人秘書:ミゲル・デ・セルバンテス| |BGCOLOR(lightgrey):カスティーリア|BGCOLOR(lightgrey):サン・フェリペ号|戦隊長:???| |BGCOLOR(lightgrey):ビスカヤ|BGCOLOR(lightgrey):サン・ファン・デ・ポルトガル号|戦隊長:艦隊副司令官ファン・マルティネス・デ・リカルデ&br()航海長:ペドロ・デ・ソト| |BGCOLOR(lightgrey):ガレアス|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:ウーゴ・デ・モンカーダ| |BGCOLOR(lightgrey):ギブスコア|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:ミゲル・デ・オケンド| |~|BGCOLOR(lightgrey):[[サン・サルバドール号>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Salvador_(Guip%C3%BAzcoan_squadron)]]|???:&color(red){トマーソ・モントーヤ}| |BGCOLOR(lightgrey):ハルク|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:ファン・ゴメス| #endregion **艦隊リスト &ref(【共通の画】アルマダ海戦.JPG,【共通】共通の画)アルマダ海戦 イングランド艦隊のプリマスは対スペイン艦隊、ダウンズは対パルマ公です。 主力艦隊のマーティン・フロビッシャー戦隊とジョン・ホーキンス戦隊は、たぶん状況に応じて指揮権が与えられた模様。 ついでに皆さんの年齢も。 |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イングランド艦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員(年齢)| |BGCOLOR(lightgrey):プリマス|BGCOLOR(lightgrey):主力艦隊|旗艦[[アーク・ロイヤル号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Ark_Royal_(1587)]]|最高司令官[[エフィンガム男爵チャールズ・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard,_1st_Earl_of_Nottingham]]|52歳| |~|~|[[トライアンフ号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Triumph_(1562)]]|分艦隊司令官[[マーティン・フロビッシャー>http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Frobisher]]|53-57歳| |~|~|ビクトリー号|分艦隊司令官[[ジョン・ホーキンス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]|56歳| |~|~|ゴールデン・ライオン号|艦長[[トマス・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_1st_Earl_of_Suffolk]]|27歳| |~|BGCOLOR(lightgrey):ドレイク戦隊|旗艦[[リヴェンジ号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Revenge_(1577)]]|副司令官[[サー・フランシス・ドレイク>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]]|約48歳| |BGCOLOR(lightgrey):[[ダウンズ>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Downs]]|BGCOLOR(lightgrey):海峡戦隊|旗艦[[レインボー号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Rainbow_(1586)]]|指揮官[[ヘンリー・シーモア>http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Henry_Seymour_(naval_commander)]]|| |~|~|[[ヴァンガード号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Vanguard_(1586)]]|指揮官[[ウィリアム・ウィンター>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Wynter]]|約67歳| |BGCOLOR(lightgrey):ネーデルラント|BGCOLOR(lightgrey):ネーデルラント艦隊|???|指揮官[[ユスティヌス・ファン・ナッサ>http://en.wikipedia.org/wiki/Justinus_van_Nassau]]|29歳| スペイン艦隊は6戦隊(お名前は地名)に分かれてます。司令長官シドーニア公爵の命令をそれぞれの戦隊に伝える仕組み。 艦隊の統制を単純化できるらしい。 それぞれの戦隊には小戦隊が割り振られてます。補給小戦隊は補給物資(弾薬や食料?)や軍事物資(兵士?)を運ぶ[[軍隊輸送船>http://en.wikipedia.org/wiki/Troopship]]。 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:スペイン艦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:結末| |BGCOLOR(lightgrey):ポルトガル戦隊|旗艦[[サン・マルティン号>http://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A3o_Martinho_(1580)]]|司令長官[[メディナ・シドーニア公爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Alonso_P%C3%A9rez_de_Guzm%C3%A1n,_7th_Duke_of_Medina_Sidonia]]|帰還| |~|サン・マテオ号||損失| |~|サン・フェリペ号||損失| |~|サン・マルコス号||損失| |BGCOLOR(lightgrey):ビスカヤ戦隊&br()(ビスケー湾戦隊)|旗艦サン・ファン・デ・ポルトガル号|副司令長官[[ファン・マルティネス・デ・リカルデ>http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_Mart%C3%ADnez_de_Recalde]]|帰還| |~|副旗艦サンタ・アナ号|指揮官[[アレハンドロ・ゴメス・デ・セグラ>http://es.wikipedia.org/wiki/Alejandro_G%C3%B3mez_de_Segura]]|損失| |~|副旗艦サンティアゴ号|~|帰還| |~|ラ・マリア・ファン号||損失| |BGCOLOR(lightgrey):カスティーリア戦隊|旗艦サン・クリストバル号|参謀長[[ディエゴ・フローレス・デ・バルデス>http://pl.wikipedia.org/wiki/Diego_Flores_de_Valdez]]|帰還| |BGCOLOR(lightgrey):アンダルシア戦隊|旗艦ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号|指揮官[[ペドロ・デ・バルデス>http://pt.wikipedia.org/wiki/Pedro_de_Vald%C3%A9s]]|損失| |~|副旗艦サン・フランシスコ号|副指揮官ディエゴ・エンリケ|帰還| |~|サン・ファン・バウティスタ号||帰還| |BGCOLOR(lightgrey):ギブスコア戦隊|旗艦サンタ・アナ号|指揮官[[ミゲル・デ・オケンド>http://en.wikipedia.org/wiki/Miguel_de_Oquendo]]|帰還| |~|[[サン・サルバドール号>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Salvador_(Guip%C3%BAzcoan_squadron)]]||損失| |BGCOLOR(lightgrey):レパント戦隊|旗艦ラ・レガソナ号|指揮官[[マルティン・デ・ベルテンドーナ>http://en.wikipedia.org/wiki/Mart%C3%ADn_de_Bertendona]]|帰還| |~|ラ・ラタ・デ・サンタ・マリア・エンコロナーダ号|上陸部隊指揮官[[アロンソ・デ・レイバ>http://pl.wikipedia.org/wiki/Alonso_Martinez_de_Leiva]]|損失| |BGCOLOR(lightgrey):ガレアス小戦隊&br()([[ガレアス船>http://en.wikipedia.org/wiki/Galleass]])|旗艦サン・ロレンソ号|指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ|損失| |~|[[ラ・ジローナ号>http://en.wikipedia.org/wiki/Girona_(ship)]]||損失| |BGCOLOR(lightgrey):補給小戦隊&br()([[ハルク船>http://en.wikipedia.org/wiki/Hulk_(medieval_ship_type)]])|旗艦[[エル・グラン・グリフォン号>http://en.wikipedia.org/wiki/El_Gran_Grif%C3%B3n]]|指揮官ファン・ゴメス・デ・ メディナ|損失| **行程 &ref(アルマダ海戦_工程.PNG) |BGCOLOR(lightgrey):①【1588年7月29日】[[コーンウォール半島>http://en.wikipedia.org/wiki/Cornwall]]|BGCOLOR(lightgrey):②【7月30日】[[プリマス>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_01.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_02.JPG,,width=300)| |●午後:&color(blue){フランシス・ドレイク}がホーの丘でボウルズ&br()●夕方:&color(red){スペイン艦隊}が作戦会議→プリマス湾の襲撃を否決&br()●夕方:準備完了の&color(blue){イングランド艦隊}が出撃|●朝:&color(red){スペイン艦隊}の接近→&color(blue){狼煙台(のろしだい)}に点火&br()●朝:&color(blue){イングランド艦隊}が出撃→&color(red){スペイン艦隊}の風上で合流&br()●午後:&color(red){スペイン艦隊}が陣形を再編成| |BGCOLOR(lightgrey):③【7月31日】プリマス:海戦|BGCOLOR(lightgrey):④【8月1日】プリマス~[[スタート岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Start_Point,_Devon]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_03.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_04.JPG,,width=300)| |●朝:&color(blue){イングランド艦隊}と&color(red){スペイン艦隊}が宣戦布告&br()●昼過ぎ:&color(red){サン・サルバドール号}が爆発事故&br()●夕方:&color(red){ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号}が衝突事故&br()●夜:&color(blue){フランシス・ドレイク}が離脱|●夜明け:&color(red){スペイン艦隊}が陣形を再編成&br()●夜明け:&color(red){ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号}を拿捕&br()●午後:&color(blue){フランシス・ドレイク}が合流&br()●夕方:&color(red){サン・サルバドール号}を拿捕&br()●夕方:&color(red){シドーニア公}が&color(red){パルマ公}へ書状| |BGCOLOR(lightgrey):⑤【8月2日】[[ベリー・ヘッド>http://en.wikipedia.org/wiki/Berry_Head]]~[[ポートランド島>http://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_Portland]]:海戦|BGCOLOR(lightgrey):⑥【8月3日】ポートランド島~[[ワイト島>https://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_Wight]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_05.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_06.JPG,,width=300)| |●午前:&color(blue){トライアンフ号}が激潮帯にハマる&br()●午後:&color(blue){イングランド艦隊}が弾薬不足→補給を要請&br()●夕方:&color(red){スペイン艦隊}が陣形を再編成|●夜明け:&color(blue){イングランド艦隊}が4戦隊に再編成| |BGCOLOR(lightgrey):⑦【8月4日】ワイト島:海戦|BGCOLOR(lightgrey):⑧【8月5-6日】[[サンドウィッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Sandwich,_Kent]]~[[カレー>http://en.wikipedia.org/wiki/Calais]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_07.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_08.JPG,,width=300)| |●夜:&color(red){シドーニア公}が&color(red){パルマ公}へ書状|●夜:&color(red){スペイン艦隊}が作戦会議→カレーでパルマ公待ちを決定&br()●夜:&color(red){シドーニア公}が&color(red){パルマ公}へ書状&br()●夜:&color(blue){ヘンリー・シーモア戦隊}が合流→弾薬補給&br()●&color(blue){ネーデルラント戦隊}がダンケルを海上封鎖中| |BGCOLOR(lightgrey):⑨【8月7日】カレー:海戦|BGCOLOR(lightgrey):⑩【8月8日】[[グラヴリーヌ>https://en.wikipedia.org/wiki/Gravelines]]:海戦| |&ref(アルマダ海戦_工程_09.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_10.JPG,,width=300)| |●早朝:&color(blue){イングランド艦隊}が作戦会議→火船を決定&br()●&color(red){スペイン艦隊}がカレー(フランス)から食料を購入&br()●真夜中:&color(blue){火船}で奇襲→&color(red){スペイン艦隊}が散り散り&br()●真夜中:&color(red){サン・ロレンソ号}が衝突事故|●朝:&color(blue){最高司令官エフィンガム男爵}が&color(red){サン・ロレンソ号}を集中砲火&br()●昼前:&color(red){スペイン艦隊}が再集結→&color(blue){イングランド艦隊}が追撃&br()●昼前:&color(blue){海峡戦隊}が合流&br()●昼:&color(blue){最高司令官エフィンガム男爵}が合流&br()●夕方前:&color(red){ラ・マリア・ファン号}が沈没&br()●夕方前:&color(red){サン・マテオ号}が漂流→&color(blue){ネーデルラント戦隊}が拿捕&br()●夕方前:&color(red){サン・フェリペ号}が漂流→&color(blue){ネーデルラント戦隊}が拿捕&br()●夕方:&color(blue){イングランド艦隊}が弾薬不足| |>|BGCOLOR(lightgrey):⑪【8月9日】帰国| |>|CENTER:&ref(アルマダ海戦_工程_11.JPG,,width=300)| |●8月9日:&color(red){スペイン艦隊}が作戦会議→帰国を決定&br()●8月31日:&color(red){パルマ公}が八十年戦争を再開|●8月10日:&color(blue){ヘンリー・シーモア戦隊}が撤収&br()●8月13日:&color(blue){イングランド艦隊}が撤収&br()●8月19日:&color(blue){女王エリザベス1世}がティルベリー演説| *イングランド海峡での海戦 イングランド艦隊はスペイン艦隊の風上側を陣取ったし、大砲もスペイン艦隊の3倍撃ってます。ただ大砲が非力でした。 頑丈な船のスペイン艦隊は屁のカッパ。 トドメは刺せなかったけど、とりあえず上陸は阻止です。詳細はこちら&link2(http://www.youtube.com/watch?v=RgNYsAGgVYU,,title=【BBC】Battlefield Britain - Episode 4:The Spanish Armada)をどうぞ。 &ref(工程.JPG)衛星写真([[NASA>http://www.nasa.gov/]]さんより) **①【1588年7月29日(ユリウス暦:7月19日)】コーンウォール半島 [[リザード岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Lizard_Point,_Cornwall]]を視認したスペイン艦隊は作戦会議を開きます。 副司令長官リカルデと上陸部隊指揮官アロンソは「一部のスペイン艦隊でイングランド艦隊をプリマス湾に閉じ込める」を提案。 閉じ込めちゃえばスペイン艦隊は憂いなくイギリス海峡を通れます。 でも総司令官シドーニア公爵は「我々の目的はパルマ公との合流であーる。交戦は避ける」と却下しました。 &ref(アルマダ海戦_工程_01.JPG) #region(close,サー・フランシス・ドレイクのボウルズ) スペイン艦隊は[[哨戒船>http://en.wikipedia.org/wiki/Patrol_boat]](偵察する船)を出します。哨戒船は拿捕した漁船からイングランド艦隊の準備状況をゲト。 この不運なイングランド漁師さんはアルマダ海戦の捕虜1号。 イングランド艦隊はプリマスから哨戒船(たぶんThomas Flemingのゴールデン・ハインド号)が出動。スペイン艦隊を発見します。 &ref(工程_01(ボウルズ).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){そして…とっても有名な伝説「サー・フランシス・ドレイクのボウルズ」}} 副司令官フランシス・ドレイクは指揮官達と一緒にホーの丘で[[ボウルズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Bowls]]を楽しんでました。 そこにThomas Flemingから「スペイン艦隊が来たあ」のお知らせが! ドレイクは「ゲームを終わらせる時間は十分ある。それからスペインをやっつければいいのさ♪」っとゲームを続けました。 &ref(工程_01(ボウルズ:伝説).JPG)[[John Seymour Lucas>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Seymour_Lucas]]画「The Armada in Sight」(1882年) イングランド艦隊は7月4日[[ア・コルーニャ>http://en.wikipedia.org/wiki/A_Coru%C3%B1a]]へ先制攻撃に行ったけど悪天候で帰国してます。お知らせの時は補給の真っ最中。 たぶんボウルズしてる暇なんてナイ! ってことで、この伝説は作り話かもしれないって噂アリです。ドレイクは大急ぎで就航の準備したのかも? } #endregion #region(close,狼煙台(のろしだい)/ビーコン) 狼煙台はF&B時代の通信設備です。こちらはアルマダ海戦で活躍した唯一原型が残る小屋タイプの[[カルムストック>http://en.wikipedia.org/wiki/Culmstock]]狼煙台。 海抜250mにあるBlackdown Hills([[デヴォン>http://en.wikipedia.org/wiki/Devon]])の端っこに設置。 灯された炎は[[ホルコム・ローグス>http://en.wikipedia.org/wiki/Holcombe_Rogus]]、[[Upottery>http://en.wikipedia.org/wiki/Upottery]]、[[ブラックバラ>http://en.wikipedia.org/wiki/Blackborough,_Devon]]へと伝達されます。同時に教会で待機する武装住民達も発起。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Beacon]] &ref(工程_01(狼煙台).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){コーンウォール半島の狼煙台}} こちらは地図学者[[ジョン・スピード>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Speed]]画「The Invasions of England and Ireland …」(1610年頃:イングランド)です。 赤矢印の記号が狼煙台っぽい? スペイン艦隊を発見したリザード岬からどんなルートで、何分でロンドンに伝達されたんでしょね? &ref(工程_01(狼煙台:コーンウォール).JPG) } #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドンの狼煙台}} こちらは古物研究家[[ウィリアム・ラマード>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lambarde]]画「A Carde of the Beacons in Kent」(1596年版:イングランド)です。 赤矢印の線が狼煙台の伝達網。点線はなんだ? アルマダ海戦(1588年版:「図説スペイン無敵艦隊」参照)はもっとシンプルです。ケント州は対パルマ公上陸の狼煙台。 &ref(工程_01(狼煙台:ロンドン).JPG) } #endregion **②【7月30日(ユリウス暦:7月20日)】プリマス 29日スペイン艦隊を発見したイングランド艦隊は上げ潮(夕方はプリマス湾へ入ってくる)が終わると船を出撃させます。 翌日朝までには150隻が出撃。 2グループに分かれて、逆風を間切って間切って間切って…[[エディストーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Rocks]]の沖合で合流。スペイン艦隊の風上を陣取ります。 &ref(アルマダ海戦_工程_02.JPG) #region(close,風上を陣取ったイングランド艦隊) 帆船時代の交戦は「敵の風上を陣取る」が鉄則です。 風上側なら風に押されてガーっと敵へ襲いかかれる。風下側だと間切らないと敵へ襲いかかれない。戦いの流れは風上側が支配。 アルマダ海戦の風上はイングランド艦隊がほとんど陣取ってます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Sailing_ship_tactics]] &ref(工程_02(風上).JPG) 最高司令官エフィンガム男爵はイングランド艦隊を2グループに分けて、スペイン艦隊の風上で合流させます。 この方が風上を陣取れるらしい。 イングランド上陸の阻止も兼ねた「上から行くぜ!」を担当したのは、たぶんドレイク戦隊の8隻です。 #endregion #region(close,三日月陣形(Crescent Formation)に変身したスペイン艦隊) 三日月陣形は昔からある「敵を包囲する」の戦闘陣形です。 たぶん同じっぽい陸戦の[[翼包囲>http://en.wikipedia.org/wiki/Pincer_movement]]によると「左右から同時に部隊を移動させて敵をぐわーっと挟み込むように包囲する」らしい。 敵を囲んだらボコボコにします。欠点は動きにくい、両端は攻撃されやすい。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Sailing_ship_tactics]] &ref(工程_02(三日月陣形).JPG)ジョン・パイン画 もし翼包囲の包囲が完全に成功したら、敵を前後左右からボコボコして全滅的な損害を与えられます。 とーぜん敵は必死に抵抗。 ってことで、あえて退路を残す戦術もアリだそうです。必死に抵抗されると味方の損害も大きくなっちゃうもんね。 #endregion **③【7月31日(ユリウス暦:7月21日)】プリマス沖の海戦 スペイン艦隊の防御力バリバリな三日月陣形に対して、イングランド艦隊は[[単縦陣>http://en.wikipedia.org/wiki/Line_of_battle]](船が一列に並ぶ陣形)で攻撃します。 でも三日月陣形の中に入るのは危険。 有効射程距離の砲撃ができず、お互い決定的な打撃ナシで終了しました。交戦中にスペイン艦隊の2隻が自爆してます。 &ref(アルマダ海戦_工程_03.JPG) #region(close,宣戦布告) 宣戦布告は「これから戦います」の意思表明。[[ギルガメシュ叙事詩>http://en.wikipedia.org/wiki/Epic_of_Gilgamesh]]([[古代メソポタミア文明>http://en.wikipedia.org/wiki/Mesopotamia]])や[[旧約聖書>http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Testament]]でもやってます。 F&B時代はやらなくてもオケ。 1907年[[ハーグ陸戦条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Hague_Conventions_of_1899_and_1907]]で「戦争する時は必ず宣戦布告しましょう」と決まりました。日本も調印してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Declaration_of_war]] &ref(工程_03(宣戦布告).JPG)ジョン・パイン画 最高司令官エフィンガム男爵の命令でディステイン号(Distain:名誉を汚す)はスペイン艦隊の中央へ宣戦布告の大砲を撃ちます。 実は撃った相手はラ・ラタ・デ・サンタ・マリア・エンコロナーダ号。あちゃー。 司令長官シドーニア公爵はサン・マルティン号の司令長官旗を掲揚してお返事。午前9時過ぎアルマダ海戦が始まりました。 #blockquote(){&u(){&bold(){宣戦布告したのはたぶんエディストーンの近所}} 宣戦布告の直後に[[エディストーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Rocks]](ナイジェルが嫌いな岩礁)の近所で海戦が始まります。 時系列地図だと宣戦布告はエディストーンのずーっと西。 これはイングランド艦隊が「プリマスを出航~スペイン艦隊の風上側へ~宣戦布告」を一緒に描いちゃったからです。 &ref(工程_03(宣戦布告:エディストーン).JPG) 時系列地図はその辺も脳内補完しながら眺めて下さいね♥ あと、ついつい忘れがち(私だけ?)だけど帆船時代の海戦は風や潮流に流されながら戦ってます。 } #endregion #region(close,プリマス沖の海戦) 宣戦布告の後、最高司令官エフィンガム男爵は[[単縦陣>http://en.wikipedia.org/wiki/Line_of_battle]]でスペイン艦隊の中心を攻撃します。そのうちドレイク戦隊も合流。 ドレイク戦隊は単縦陣でスペイン艦隊の先っぽ(プリマス側)を攻撃。 ど派手に撃ったけど、スペイン艦隊の[[白兵戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Close_combat]](切り込み:船に乗り込んで戦闘)が恐くて有効射程距離まで近づけませんでした。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド艦隊の単縦陣とスペイン艦隊の三日月陣形}} 単縦陣は「火力を他の艦に遮られることなく最大限に発揮」する戦法です。[[舷側の大砲>http://en.wikipedia.org/wiki/Broadside]]をぜーんぶ撃てちゃう。 撃った後はピューっと逃げる。 のびのび戦法のイングランド艦隊に比べて、三日月陣形でぎゅーぎゅーのスペイン艦隊はなんか窮屈っぽいですよね。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦:単縦陣と三日月陣形).JPG)スペイン艦隊は[[船尾の大砲>http://en.wikipedia.org/wiki/Chase_gun]]だけ撃ってるの? 司令長官シドーニア公爵の最優先事項は「スペイン艦隊を無事にパルマ公へ届ける」です。三日月陣形は難攻不落の防御。 とはいえイングランド艦隊の砲撃にビビって陣形を崩しそうな船もチラホラ。 反省会で司令長官シドーニア公爵は「陣形を崩した艦長は絞首刑にします」と皆さんを叱ります。そーゆー時代なのね。 } #blockquote(){&u(){&bold(){スペイン艦隊の三日月陣形を護る先駆隊}} 三日月陣形を護るために、司令長官シドーニア公爵は[[先駆隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Vanguard]](臨機応変にヤバイ戦隊を助けに行く機動部隊)も準備します。 それぞれの戦隊の数隻が先駆隊。 リーダーは状況ごとに変わります。今回のリーダーはプリマス側を担当してる副司令長官リカルデ(ビスカヤ戦隊)。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦:単縦陣と三日月陣形).JPG)ドレイク戦隊に攻撃される三日月陣形の先っぽ(プリマス側) エンコロナーダ号(上陸部隊指揮官アロンソ)やヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号(爆発事故)も先駆隊です。 手が空いている先駆隊はイングランド艦隊に襲われる先っぽ(プリマス側)へ急行。 攻撃されてない先っぽ(海側)のエンコロナーダ号も援護に向かってます。アルマダ海戦で先駆隊は大活躍。 } #blockquote(){&u(){&bold(){スペイン艦隊の補給小戦隊は安全な場所へ}} 補給物資や軍事物資を運ぶ補給小戦隊はとっても大切です。輸送がお仕事だから大砲はほとんど持ってません。 大切だけど自分で守れない。 ってことで、海戦中は安全な場所(今回は三日月陣形の右側)に避難します。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦:補給小戦隊).JPG)三日月陣形からピヨピヨ出てるのが補給小戦隊 ガレアス小戦隊(指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ)も先駆隊。たいていは補給小戦隊を護衛してます。 [[ガレアス船>http://en.wikipedia.org/wiki/Galleass]]はオールで漕ぐガレー船と帆船が合体した大きくて遅い船。 穏やかな地中海なら便利だけど元気なイングランド海峡には不向きなの。風が凪いだときはオールを漕いで参戦します。 } #endregion #region(close,サン・サルバドール号の爆発) サン・サルバドール号はギブスコア戦隊(指揮官ミゲル・デ・オケンド)の[[キャラック船>http://en.wikipedia.org/wiki/Carrack]](中世スペイン語:ナオ)です。 1588年7月31日海戦中に火薬庫が爆発。 原因は分かってません。スペイン艦隊はサン・サルバドール号を消化して負傷者を一部救助。8月1日曳航を諦めて破棄します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Salvador_(Guip%C3%BAzcoan_squadron)]] &ref(工程_03(サン・サルバドール号).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){拿捕されたサン・サルバドール号}} イングランド艦隊は破棄されたサン・サルバドール号を拿捕。担当したのはビクトリー号とゴールデン・ライオン号です。 哨戒船ゴールデン・ハインド号が[[ウェイマス港>http://en.wikipedia.org/wiki/Weymouth,_Dorset]]へ曳航。 そしてThe Great Spaniard号(中世英語:Spaniard=Spain)に改名。1588年11月15日[[スタッドランド>http://en.wikipedia.org/wiki/Studland]]で沈没しました。 &ref(工程_03(サン・サルバドール号:拿捕).JPG) 戦争中に拿捕した「戦利艦」を自分の国で使うのは世の中の常識らしいです。ほー。 日本も1895年[[日清戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Sino-Japanese_War]]で中国海軍[[鎮遠>http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_turret_ship_Zhenyuan]]を拿捕。 その後日本海軍に編入してます。同じく損傷した[[定遠>http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_turret_ship_Dingyuan]]は拿捕を避けるために艦長[[劉歩蟾>http://en.wikipedia.org/wiki/Liu_Buchan]]が自沈してます。 } #endregion #region(close,ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号の衝突事故) ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号はアンダルシア戦隊(指揮官[[ペドロ・デ・バルデス>http://pt.wikipedia.org/wiki/Pedro_de_Vald%C3%A9s]])のキャラック船です。 混乱した三日月陣形で仲間の船と衝突。 [[斜檣>http://en.wikipedia.org/wiki/Bowsprit]]とフォア・マストを損傷したロサリオ号は操船不能。スペイン艦隊を離れて南に流されます。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){見捨てられたロサリオ号}} 指揮官ペドロは総司令官シドーニア公爵に助けを求めました。 でも参謀長ディエゴ・デ・バルデス(指揮官ペドロの従兄)が「救助はスペイン艦隊にとってリスクが大きい」と反対。 総司令官シドーニア公爵も同意。ロサリオ号も指揮官ペドロも見捨てられます。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:拿捕).JPG) あっ、指揮官不在になったアンダルシア戦隊は新たに副指揮官ディエゴ・エンリケが指揮官に任命されてます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){私欲を優先した副司令官フランシス・ドレイク}} 一方のイングランド艦隊はスペイン艦隊を追撃。艦隊の先導はリヴェンジ号(副司令官フランシス・ドレイク)です。 でも「孤立のロサリオ号」に気づいた副司令官ドレイクは勝手に離脱。 ものすごい命令違反。ロサリオ号に気付かれないようにランタンを消灯してコッソリと追跡します。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:降伏).JPG)John Seymour Lucas画「The Surrender」(1888年頃) 夜が明けると副司令官ドレイクはロサリオ号に「降伏しなさーい」と呼びかけます。もちろん指揮官ペドロは拒否。 とはいえロサリオ号は無防備。 指揮官ペドロはリヴェンジ号にご招待されてあっさり降伏します。ロサリオ号は拿捕。 } #blockquote(){&u(){&bold(){叱られた副司令官フランシス・ドレイク}} スペイン艦隊を追撃するイングランド艦隊はリヴェンジ号に追従してました。夜は船尾のランタンを頼りに追従。 でもリヴェンジ号がランタンを消灯して離脱。 先導を失ったイングランド艦隊は散り散り、お陰様で再集結に丸一日かかります。攻撃のチャンスが1日減っちゃった。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:リヴェンジ号).JPG)James Cundee画「Sir Richard Grenville's Gallant Defence of the Revenge」(1804年) ってことで、皆さん「副司令官ドレイクは私欲を優先した」とビシバシ非難します。 副司令官ドレイクは「ランタンは点け忘れちゃいました。夜が明けるとロサリオ号が近所にいたから拿捕したの♥」と反論。 バレバレの嘘。でもそれ以上のお咎めはナシ。 こちらの画はリヴェンジ号の最後の姿です(1591年:[[フローレス島の戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Flores_(1591)]])。船長は[[リチャード・グレンヴィル>http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Grenville]]。 } #blockquote(){&u(){&bold(){捕虜になった指揮官ペドロ}} 捕虜になった指揮官ペドロは1593年2月多額の身代金を払って解放されました。 他の人達はご無事? F&B時代の捕虜は身代金や他の捕虜と交換されるらしいです。でも奴隷にされたり殺されちゃうコトも…。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Prisoner_of_war]] &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:捕虜).JPG)[[アルジェ>http://en.wikipedia.org/wiki/Algiers]]で捕虜生活の[[ミゲル・デ・セルバンテス>http://en.wikipedia.org/wiki/Miguel_de_Cervantes]]も身代金を払って解放 21世紀は[[戦時国際法>http://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_war]](平時:[[国際人道法>http://en.wikipedia.org/wiki/International_humanitarian_law]])で捕虜をちゃーんと保護する決まりになってます。いちおう。 あっ、ロサリオ号はロウバック号が[[ダートマス港>http://en.wikipedia.org/wiki/Dartmouth,_Devon]](ウェイマス港かも)へ曳航。 イングランド人には鈍重な船だったので[[メドウェイ川>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Medway]]に浮かべて倉庫船に使ったらしいです。28年後に解体。 } #endregion **④【8月1日(ユリウス暦:7月22日)】スタート岬 最高司令官エフィンガム男爵はスペイン艦隊を追撃しながら、散り散りになったイングランド艦隊の合流を待ちます。たぶんプリプリ。 プリプリの元凶は勝手に離脱したリヴェンジ号。 リヴェンジ号はヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号を拿捕した後、イングランド艦隊に合流しました。 &ref(アルマダ海戦_工程_04.JPG) 司令長官シドーニア公爵は一時停船してサン・サルバドール号の乗組員と貴重品を救助します。 その間にイングランド艦隊がどんどん風上側に合流。 もう救助も修理もムリ。破棄されたサン・サルバドール号はイングランド艦隊が拿捕しました。その後は風も凪いで皆さん潮任せ。 **⑤【8月2日(ユリウス暦:7月23日)】ポートランド島沖の海戦 追い風が向かい風に変わって、スペイン艦隊は初めて風上側になります。よーし反撃のチャンスだー!接近戦だー!白兵戦だー! イングランド艦隊は大砲を撃ちまくって接近戦のピンチを阻止。 お互い決定的な打撃ナシで終了しました。でもイングランド艦隊は弾薬が足りなくなってます。ヤバイ! &ref(アルマダ海戦_工程_05.JPG) #region(close,ポートランド島沖の海戦) 未明から東南東風が吹きます。初めて優位に立ったスペイン艦隊はもっちろんイングランド艦隊を襲います。 白兵戦に持ち込もうと大接近。 イングランド艦隊は後退して接近を阻止。程良い距離から大砲やマスケット銃を撃ちまくり(アウトレンジ戦法)ます。 #blockquote(){&u(){&bold(){風上側を取り返せなかったイングランド艦隊}} スペイン艦隊が風上側になったとき、もっちろんイングランド艦隊は抵抗してます。ボヘーっとしてたらアホアホです。 帆船時代の交戦は「敵の風上を陣取る」が鉄則。 ってことで、なんとか風上を取り返そうと奮闘努力…でもダメでした。風上側を取り返すのって大変なのね。 |&ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦:風上側).JPG)|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:風上側を取り返そうとしたイングランド艦隊| |~|BGCOLOR(lightgrey):①|無風のスペイン艦隊とイングランド艦隊は潮流で東へ。| |~|BGCOLOR(lightgrey):②|未明から東南東の風。風上側になったスペイン艦隊は西へ旋回。| |~|BGCOLOR(lightgrey):③|イングランド艦隊は風上側を取り返そうと北北東へ旋回。&br()これを予測していたスペイン艦隊は阻止しようと北北西へ旋回。| |~|BGCOLOR(lightgrey):④|予測していたスペイン艦隊の方が優位で、イングランド艦隊ピンチ!&br()ポートランド島とスペイン艦隊に挟まれて動けなーい!&br()ってことで、風上側を諦めて南南西へ旋回。| } こーゆーことがあった後にこちらの時系列地図の画になります。 &ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦).JPG) 10時頃から風が南風に変わります。立場逆転のイングランド艦隊はアウトレンジ戦法でスペイン艦隊へ反撃します。 でも陣形が崩れたイングランド艦隊で反撃可能な船は一部だけ。 ドレイク戦隊はこの反撃に参加しないで、遙か東にいたレパント戦隊(指揮官マルティン・デ・ベルテンドーナ)を襲います。 #blockquote(){&u(){&bold(){激潮帯にハマったマーティン・フロビッシャー}} ポートランド島の先っぽ[[ポートランド・ビル>http://en.wikipedia.org/wiki/Portland_Bill]]はイギリス海峡の超危険地帯です。激潮帯と干岩礁(砂州)がヤバイ! 激潮帯は潮流と海流がぶつかって渦潮グルグル。 たくさんの船が難破してます。あっ、潮流や激潮帯は時間によって変わるから、下の潮流図は参考程度にして下さいね。 &ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦:激潮帯).JPG)イングランドの鳴門海峡? 海戦中にトライアンフ号(分艦隊司令官マーティン・フロビッシャー)と5隻のイングランド艦隊が激潮帯にハマります。 分艦隊司令官フロビッシャー曰く「ハマってないもん!敵を浅瀬に誘い込んでるんだもん!」 たぶん自爆の難破。動けなくなったトライアンフ号達はガレアス小戦隊(指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ)に襲われます。 &ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦:マーティン・フロビッシャー).JPG) でもガレアス小戦隊も激潮帯に押し流されてトライアンフ号達に接近できません。激潮帯があまりにも激しすぎた。 その間に最高司令官エフィンガム男爵がトライアンフ号達を救助。 激潮帯を知らない総司令官シドーニア公爵は「なんでビシバシ戦わなかった!アホアホ!」と指揮官モンカーダを叱ります。 } #endregion **⑥【8月3日(ユリウス暦:7月24日)】ワイト島 弾薬が足りないイングランド艦隊は積極的に攻撃できません。小競り合いしながらワイト島(王フェリペ2世が選んだ橋頭堡)へ。 夕方スペイン艦隊は[[ソレント海峡>http://en.wikipedia.org/wiki/Solent]]の西側を通過。 最高司令官エフィンガム男爵は「ならば東側か?ワイト島の上陸は断固阻止だ!」と陣形を4戦隊に再編成します。機動力アップ! &ref(アルマダ海戦_工程_06.JPG) #region(close,スペイン艦隊がワイト島を橋頭堡(きょうとうほ)にしちゃうと超ヤバイ!) 橋頭堡は敵地の不利な地理的条件で戦闘を有利に運ぶための拠点です。もともとの意味は「橋の対岸を守るための砦」。 敵地に入った上陸部隊は先ず橋頭堡を確保して、武器や食料の補給経路や退路にご使用。 ってことで、スペイン艦隊がワイト島を占拠したら超ヤバイ!イングランドはスペインから長期的に圧力をかけられちゃいます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Bridgehead]] &ref(工程_06(橋頭堡).JPG)BA Chart 2045 #blockquote(){&u(){&bold(){うーん、超ヤバイがよく分からない}} こちらは第二次世界大戦でドイツに占領されたヨーロッパを解放する[[ノルマンディー上陸作戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Invasion_of_Normandy]](1944年6月6日)です。 イギリスやアメリカの連合軍がノルマンディー海岸に上陸。 ソード、ジュノー、ゴールド、オマハ、ユタの橋頭堡を確保すると、ぐわーっとアッチコッチへ展開していきます。 &ref(工程_06(橋頭堡:ノルマンディー上陸作戦).PNG) もしスペイン艦隊がワイト島を占拠したら、イングランドがこーゆー超ヤバイことになっちゃう可能性アリなのかも? スペイン陸軍はヨーロッパ最強。 上陸されたらイングランドには止められるほどのプロ兵士はいません。 &ref(工程_06(橋頭堡:上陸部隊).JPG)[[イギリス海兵隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Marines]](2014年:ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典) ノルマンディー上陸作戦で連合軍の上陸はこんな感じです。 橋頭堡の1つ[[オマハ・ビーチ>http://en.wikipedia.org/wiki/Omaha_Beach]](別名:ブラッディ・オマハ)を担当したアメリカは待ち構えるドイツとの激戦で死傷者多数。 もしかしたらスペイン艦隊がワイト島を占拠するのも簡単じゃないのかも? } #endregion **⑦【8月4日(ユリウス暦:7月25日)】ワイト島沖の海戦 4戦隊に分かれたイングランド艦隊は機動力を生かして上下からスペイン艦隊を攻撃します。ワイト島の上陸は断固阻止だ! スペイン艦隊は応戦しながらソレント海峡の東側を通過。 もう司令長官シドーニア公爵の選択肢は「カレーへ行く」しか残ってません。イングランド艦隊も弾薬が残ってません。 &ref(アルマダ海戦_工程_07.JPG) #region(close,ワイト島沖の海戦) 4戦隊に分かれたイングランド艦隊は、囮を使って([[陽動作戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Demonstration_(military)]])スペイン艦隊の注意をワイト島からそらします。 一番危険なお仕事は囮のドレイク戦隊(副司令官フランシス・ドレイク )。 スペイン艦隊の右翼に襲いかかります。2時間戦ってる間に皆さんソレント海峡の東側を通過。さよならワイト島。 &ref(工程_07(ワイト島沖の海戦).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){盾になったマーティン・フロビッシャー}} 盾のフロビッシャー戦隊(分艦隊司令官マーティン・フロビッシャー)もけっこう危険なお仕事です。 身を挺してワイト島の上陸を断固阻止。 囮はドレイク、盾はフロビッシャーってどーゆー理由で決めたんでしょね?能力とか器量とかなのかなぁ。 |&ref(工程_07(ワイト島沖の海戦:マーティン・フロビッシャー ).JPG)|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:盾になったマーティン・フロビッシャー| |~|BGCOLOR(lightgrey):①|トライアンフ号と数隻がワイト島(東側)とスペイン艦隊の間へ。&br()サン・マルティン号(司令長官シドーニア公爵)を砲撃。&br()※トライアンフ号は風下側です。| |~|BGCOLOR(lightgrey):②|いきなり風がアレコレしてトライアンフ号が立ち往生。ヤバイ!&br()数隻のスペイン艦隊がトライアンフ号へじわじわ接近。超ヤバイ!&br()※スペイン艦隊は風上側です。| |~|BGCOLOR(lightgrey):③|動けないトライアンフ号はボートを降ろして曳航。逃げろー!&br()帆が風を捕らえると北へ逃走。| } #endregion **⑧【8月5-6日(ユリウス暦:7月26-27日)】サンドウィッチ 最高司令官エフィンガム男爵はドーバー海峡で海峡戦隊と合流して、弾薬を補給したらスペイン艦隊にトドメを刺すことにします。 皆さん小競り合いもなくカレーへ。 分艦隊司令官マーティン・フロビッシャーや分艦隊司令官ジョン・ホーキンスは軍功を讃えられてナイトの爵位を授与。おめでとー♥ &ref(アルマダ海戦_工程_08.JPG) 6日夕方スペイン艦隊はカレーに投錨します。ほぼ無傷でイングランド海峡を渡れました♥ でもパルマ公の使者はいない。ムカッ! 作戦会議で「カレーでパルマ公を待つ」と決定。 イングランド艦隊はスペイン艦隊の風上側に投錨します。そして海峡戦隊と合流。ふふふ、念願の弾薬が来たぜ! #region(close,イングランド艦隊はナイトの爵位。スペイン艦隊は絞首刑(残酷な画があるのでご注意下さい)) 5日、最高司令官エフィンガム男爵はワイト島沖の海戦で頑張った皆さんにナイトの爵位を授与します。 授与式はアーク・ロイヤル号。 女王エリザベス1世の代わりに最高司令官エフィンガム男爵が肩ポンポン。こんな激励されたらハッスルしちゃいますよね。 |&ref(工程_08(ナイトの爵位).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ナイトの爵位を授与した皆さん| |~|分艦隊司令官[[マーティン・フロビッシャー>http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Frobisher]]| |~|分艦隊司令官[[ジョン・ホーキンス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]| |~|ゴールデン・ライオン号艦長[[トマス・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_1st_Earl_of_Suffolk]]| |~|???号[[ロジャー・タウンゼンド>http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Townshend_(died_1590)]]| |~|[[ホワイト・ベア号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_White_Bear_(1563)]]艦長[[エドマンド・シェフィールド>http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Sheffield,_1st_Earl_of_Mulgrave]]| |~|[[ドレッドノート号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Dreadnought_(1573)]]艦長George Beeston| #blockquote(){&u(){&bold(){司令長官シドーニア公爵の激励は「絞首刑」}} 7月31日プリマス沖の海戦でスペイン艦隊はイングランド艦隊の砲撃にビビって陣形を崩しそうになりました。 ゆゆしき問題!対処せねば! 司令長官シドーニア公爵は「陣形を崩した艦長は絞首刑にします」と激励してます。 &ref(工程_08(ナイトの爵位:絞首刑).JPG)イギリス海軍の水夫と士官の命の重さの風刺画(1802年) スペイン艦隊はどの船にも死刑執行人と憲兵隊長が乗船してるそうです。キビシイ…。 あっ、キビシイのはイングランドも一緒。 イングランド艦隊にも絞首刑や[[九尾の猫鞭>http://en.wikipedia.org/wiki/Cat_o%27_nine_tails]]で鞭打ちの罰則があります。キビシイ…。そーゆー時代なのね。 女王エリザベス1世が作った規律: If anye one practysed to steale awaye anye of her Majesty’s shippes, the captaine was to cause him to be hanged by the heels untill his braines were beaten out against the shippe’s sides, and then to be cutt down and lett fall intoe the sea. &color(silver){もしイングランド海軍で盗みを働いたら、キャプテンは盗人を斜檣で絞首刑にしてあーたらかーたら後に首チョンパして海へ捨てなさい。} } #endregion #region(close,その頃パルマ公は何してたの?) ダンケルク(フランドル)にいるパルマ公は、兵士17,000人を上陸用[[はしけ船>http://en.wikipedia.org/wiki/Barge]]120隻でイングランドへ運ぶ予定でした。 スペイン艦隊はその護衛。 こちらはスペイン軍17,000人が戦った[[ジャンブルの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Gembloux_(1578)]](1578年)です。こんなに大勢を運ぶのって大変そう。 &ref(工程_08(パルマ公).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){謎のパルマ公}} 司令長官シドーニア公爵がカレーでムカムカしてる頃、パルマ公が何してたのかは分かってません。 唯一の史実は「王フェリペ2世の甥パルマ公はアルマダ海戦の後も死ぬまで[[スペイン領ネーデルラント総督>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_governors_of_the_Habsburg_Netherlands]]だった」のみ。 ってことで、パルマ公にはいろんな説アリです。 ・パルマ公はまだ[[ブルージュ>http://en.wikipedia.org/wiki/Bruges]]の司令部にいる。兵士と補給品は野営地にいて、上陸用はしけ船に乗り込んでない。 ・パルマ公も兵士も上陸用はしけ船には乗り込んでる。いつでも出撃オケ。 ・ネーデルラント艦隊がダンケルクを封鎖中でパルマ公は出撃できない。運河網で海に出るから到着に2週間かかる。 &ref(アルマダ海戦(命令書).JPG) とりあえず、7日ムカムカの司令長官シドーニア公爵はパルマ公へ「さっさと準備しやがれ」と伝令を送ってます。 伝令担当は主計長ホルヘ・マンリケ(Jorge Manrique)。 そしてパルマ公から「まだ準備できてませーん」とお返事が来た模様です。 } #endregion **⑨【8月7日(ユリウス暦:7月28日)】カレー沖の海戦 パルマ公待ちのスペイン艦隊はせっせと食料を補給します。イングランド艦隊はせっせと船を火船に改造します。 そして真夜中に火船で奇襲。 錨索を切って回避したスペイン艦隊はカレーの潮流で散り散り。初めて陣形が崩れた!混乱中に1隻が自爆してます。 &ref(アルマダ海戦_工程_09.JPG) #region(close,スペイン艦隊がカレー(フランス)から食料を購入) フランスはアルマダ海戦の中立国。司令長官シドーニア公爵はカレーのフランス総督にお願いして食料を購入します。 担当はアスコリ大公アントニオ・デ・レイバ(上陸部隊指揮官アロンソの親戚)。 一日中ボートで食料を運搬。皆さん新鮮なお水が飲めます。ちゃんとご飯が食べれます。ありがとうカレーのフランス総督♥ &ref(工程_09(食料を購入).JPG) カレーのフランス総督は、ゴールダン領主ジーロウ・ド・マウレオン(1509–1593:Giraud de Mauléon, sieur de Gourdan)です。 マウレオンはカトリック教徒。そして1558年イングランドとの戦争で片足を失って[[義足>http://en.wikipedia.org/wiki/Pegleg]]。 1558年イングランドとフランスは[[カレー包囲戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1558)]](女王メアリー1世がカレーを失った戦争)、[[グラヴリーヌの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Gravelines_(1558)]]で戦ってます。 #endregion #region(close,イングランド艦隊の火船作戦!カレー沖の海戦) 火船が使われた最古の記録は[[古代アテナイ>http://en.wikipedia.org/wiki/Classical_Athens]]の歴史家[[トゥキディデス>http://en.wikipedia.org/wiki/Thucydides]]著「[[戦史>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Peloponnesian_War]](BC415-BC413 :[[シシリー遠征>http://en.wikipedia.org/wiki/Sicilian_Expedition]])」です。 672年[[ギリシア火薬>http://en.wikipedia.org/wiki/Greek_fire]]が発明されると威力倍増。 乗員はギリギリまで火船を敵へ近づけたら舵を固定してボートで退去。あとは風や潮流を利用して敵に体当たりさせます。 体当たりした頃に[[導火線>http://en.wikipedia.org/wiki/Detonating_cord]](時限装置)が火薬に点火してドッカーン。 あっ、逆に火船が近づいてきたら大砲撃って壊しちゃえばオケです。投錨してるときは狙われやすいからご注意。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Fire_ship]] &ref(工程_09(火船作戦).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド艦隊の火船作戦}} 6日夜、最高司令官エフィンガム男爵と合流した海峡戦隊の指揮官ウィリアム・ウィンターは「火船だ!」と提案します。 作戦会議で皆さん火船作戦に賛成。 ドーバーに船と可燃物を手配させたけど風向きが悪くて間に合いそうにない…ってことで、艦隊の船を使うコトにします。 &ref(工程_09(火船作戦:イングランド).JPG) 火船に8隻の船が選ばれます。 船は船体に油を染み込ませて可燃物(古い帆布、索具、麻ロープ、タール…)を搭載。大砲はタマを2発装塡してフタ。 ギリギリまで火船を敵へ近づける乗員は志願者から選びました。 |>|>|&ref(工程_09(火船作戦:イングランドの火船).JPG)ジョン・パイン画| |BGCOLOR(lightgrey):火船の8隻|トマス・ドレイク号(The Thomas Drake)|バーク・ボンド号(The Barque Bond)| |~|バーク・タルボット号(Barque Talbot)|ホープ・ホーキンズ号(Hope Hawkins)| |~|ベア・ヨンジ号(The Bear Yonge)|エリザベス・オブ・ホーストフト号(Elizabeth of Lowestoft)| |~|病院船(Cure’s Ship)|小さな船(お名前は分かりませんでした)| 7日の真夜中、8隻の火船が出陣します。風も潮流(満月の大潮)もスペイン艦隊の方へ。全てがイングランド艦隊の味方。 予定だと帆を最小限にした火船は3ノットで15~20分後に到達。 ところが…2隻が予定より早く燃え上がっちゃいました。真夜中のボーボー燃える火船はおもいっきり目立つ。あちゃー。 } #blockquote(){&u(){&bold(){火船に襲われたスペイン艦隊}} 見張りが2マイル先でボーボー燃える火船を発見します。2隻の火船は[[ボートフック>http://en.wikipedia.org/wiki/Boat_hook]](鉤棒)で引き離しに成功。 でも残りはボーボー燃えすぎてムリ! きゃー!こっち来たー!ジョン・パイン画だと大砲で火船を撃ってる…その辺の詳細は分かりませんでした。 &ref(工程_09(火船作戦:スペイン).JPG) 司令長官シドーニア公爵はピンネース船を派遣して「錨索を切って回避しなさーい」と命じます。抜錨は時間がかかるの。 皆さん&bold(){大事な錨を放棄}して火船を回避。 混乱中にサン・ロレンソ号(ガレアス小戦隊)が仲間の船と衝突して舵を損傷。操船不能になりました。 &ref(工程_09(火船作戦:カレーの潮流).JPG)カレーの潮流(海流?) 司令長官シドーニア公爵はずーっとカレーでパルマ公を待つ予定でした。でも元の位置に戻ってきたのは5隻のみ。 予備のショボイ錨で潮流が速いドーバー海峡はムリ! スペイン艦隊はグラヴリーヌ沖へ流されて散り散りになります。もうパルマ公との合流はムリかも…。 } #endregion #region(close,スペイン艦隊のトラウマ?アントウェルペン包囲戦の火船) 八十年戦争の1つ[[アントウェルペン包囲戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Fall_of_Antwerp]](1584年-1585年)はスペイン軍パルマ公とアントウェルペン市の戦争です。 1585年2月25日パルマ公はアントウェルペンを包囲。[[浮橋>http://en.wikipedia.org/wiki/Pontoon_bridge]]を掛けて[[スヘルデ川>http://en.wikipedia.org/wiki/Scheldt]]も遮断。 出入り口を封鎖して兵糧攻めにします。8月17日アントウェルペン市長[[Philips of Marnix>http://en.wikipedia.org/wiki/Philips_of_Marnix,_Lord_of_Saint-Aldegonde]]は降伏しました。 &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦).JPG)船の上に橋を建設 #blockquote(){&u(){&bold(){アントウェルペン市民の「Antwerp Fire:火船で浮橋破壊作戦」(1585年4月4日夜)}} 兵糧攻め中のアントウェルペン市民はお腹ペコペコでした。なんとしても浮橋を破壊して食料を手に入なくちゃ! 2隻の[[火船>http://en.wikipedia.org/wiki/Fire_ship]]を海流と引き潮に載せて浮橋をドッカーン。 この爆破で浮橋の60/800mが破壊されます。800人のスペイン兵が亡くなり、パルマ公も死にそうな怪我してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Hellburners]] &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦:火船).JPG) 浮橋破壊作戦は先ず32隻の囮火船(山積みの木片を[[火縄>http://en.wikipedia.org/wiki/Slow_match]]で着火)が浮橋へ向かいました。スペイン船は全力で囮火船を消火。 その間に本命の2隻が浮橋へ。 Fortuyn号は浮橋の手前でドッカーン。Hoop号は浮橋でドッカーン。革新的な時限装置もバッチリ作動して大成功です。 &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦:本命).JPG)時限装置は[[ゼンマイ時計>http://en.wikipedia.org/wiki/Clockwork]]で[[フリント>http://en.wikipedia.org/wiki/Flintlock]](燧石)が作動して火縄に着火 お次は待機してるネーデルラント戦隊の突入です。でもなぜか「破壊は失敗だぁ」と誤認して突入を中止しちゃいました。 ここまでは上手くいってたのに…。 残念ながら浮橋破壊作戦は失敗。その後パルマ公は浮橋をあっという間に修復しました。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランドは浮橋破壊作戦をアルマダ海戦に応用?}} この浮橋破壊作戦はヨーロッパ中で評判になりました。 企画したのは女王エリザベス1世に雇われたイタリア人[[工兵>http://en.wikipedia.org/wiki/Military_engineering]](戦場で爆破工作や塹壕を掘る人)の[[Federigo Giambelli>http://en.wikipedia.org/wiki/Federigo_Giambelli]]。 アントウェルペンが降伏すると、イングランドで[[テムズ川>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Thames]]の守備や[[カリスブルック城>http://en.wikipedia.org/wiki/Carisbrooke_Castle]]の土塁を設計します。 &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦:アルマダ海戦).JPG)カリスブルック城(ワイト島) Giambelliが女王エリザベス1世に雇われてるのは周知の事実。 だからアルマダ海戦で火船を見たスペイン艦隊は「きゃー!またGiambelliだー!」と誤認してパニックになったそうです。 火船がドッカーンして岩や鉄片が飛んできたらヤバイもんね。 &ref(工程_09(火船作戦:スペイン).JPG) 実は女王エリザベス1世に雇われる前、Giambelliは王フェリペ2世に「僕を雇って下さい」と売り込んでます。 でも適当にあしらわれて不採用。 プライドを傷つけられたGiambelliは「僕を笑うスペインは僕に泣くぜ!」と心に誓ったなんてウワサもあります。 } #endregion **⑩【8月8日(ユリウス暦:7月29日)】グラヴリーヌ沖の海戦 火船作戦!で散り散りになったスペイン艦隊はグラヴリーヌ沖へ流されながら陣形を立て直します。とーぜんイングランド艦隊は追撃。 そしてアルマダ海戦の中で一番の接近戦。一番の激戦。 イングランド艦隊は弾薬が尽きるまで砲撃。その後お互い船を修理。交戦中にスペイン艦隊の3隻が座礁、1隻が沈没してます。 &ref(アルマダ海戦_工程_10.JPG) #region(close,サン・ロレンソ号の座礁) サン・ロレンソ号はガレアス小戦隊(指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ)のガレアス船です。 火船の混乱で仲間の船と衝突。 舵を損傷したサン・ロレンソ号は操船不能。オールを漕いでカレーに戻ろうとしてカレー沖の砂州に座礁します。 &ref(工程_10(サン・ロレンソ号).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){私欲を優先した最高司令官エフィンガム男爵}} イングランド艦隊は散り散りのスペイン艦隊を追撃します。 でもサン・ロレンソ号を発見した最高司令官エフィンガム男爵は、自分の戦隊を率いて勝手にイングランド艦隊を離脱。 ボート(浅瀬で船が近づけないから)を降ろしてサン・ロレンソ号をバンバン攻撃します。 スペイン艦隊の味方カレーは、バンバン攻撃する最高司令官エフィンガム男爵を陸からバンバン攻撃して邪魔します。 &ref(工程_10(サン・ロレンソ号:集中砲火).JPG) バンバン攻撃されて指揮官ウーゴ・デ・モンカーダが亡くなると、戦意を失ったスペイン兵は逃げ出します。 カレーに逃げようと海に飛び込んで大勢のスペイン兵が溺死。 最高司令官エフィンガム男爵はサン・ロレンソ号で略奪を始めます。艦長達は捕虜。そーゆー時代なのね。 &ref(工程_10(サン・ロレンソ号:略奪).JPG) カレー駐在スペイン士官ベルナベ・デ・ペドロ(Bernabe de Pedroso、 the senior Spanish officer)は、カレーに辿り着いたスペイン兵を集めて略奪するイングランド兵を追い出します。 すると今度はスペイン艦隊の味方カレーがサン・ロレンソ号の略奪を開始。はあ!? それを見たイングランド兵が「俺の獲物を盗むんじゃねー」とカレーを威嚇。 威嚇されたカレーが「邪魔するなら大砲でボートを木っ端微塵にするぞ」と威嚇。もうね…何と言えばいいのやらデス。 スペイン士官ベルナベ・デ・ペドロはサン・ロレンソ号の大砲だけ回収して船を放棄しました。 } #endregion #region(close,スペイン艦隊の再集結) 散り散りになったスペイン艦隊はグラヴリーヌ沖へ流されます。錨がないから止まれない。もうカレーには戻れない。 ってか、陣形が崩れると防衛力ダウン。ヤバイ!とってもヤバイ! 流されながらも頑張って陣形を立て直します。ジョン・パイン画は見つかりませんでした。 こちらは[[Jan Luyken>http://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Luyken]]画「The mighty display of the Spanish armada in 1588」(1679年:ネーデルラント)。雰囲気だけどうぞ。 &ref(工程_10(スペイン艦隊の再集結).JPG)こんな感じ? #blockquote(){&u(){&bold(){盾になった司令長官シドーニア公爵}} イングランド艦隊にとって防衛力ダウンのスペイン艦隊は攻撃のチャンス。とーぜん追います。ヤバイ!とってもヤバイ! カレー沖に残ってるスペイン艦隊は5隻。 5隻がイングランド艦隊と散り散りのスペイン艦隊の間に立って防戦。皆さーん!防戦してる間に陣形を立て直してね♥ |>|>|>|&ref(工程_10(スペイン艦隊の再集結:盾).JPG)| |BGCOLOR(lightgrey):盾になった5隻|サン・マルティン号|サン・マテオ号|サン・マルコス号| |~|サン・ファン・デ・ポルトガル号|サン・ファン・バウティスタ号|| イングランド艦隊(最高司令官エフィンガム男爵を除く)は盾になった5隻を攻撃。砲撃の順番待ちまでしてます。 サン・マルティン号は200発以上も被弾。 被弾しながら陣形を立て直したスペイン艦隊に合流します。もうね…何と言えばいいのやらデス。 } #endregion #region(close,グラヴリーヌ沖の海戦) スペイン艦隊は白兵戦に持ち込もうとします。イングランド艦隊は程良い距離から大砲やマスケット銃を撃ちまくります。 撃って、撃たれて、皆さん穴だらけ。 でもイングランド艦隊の大砲は非力でした。頑丈な船のスペイン艦隊は多少陣形が崩れたくらいで屁のカッパ。 ちなみに屁のカッパの由来は「木っ端の火(こっぱのひ)」だそうです。へー。 &ref(工程_10(グラヴリーヌ沖の海戦).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){屁のカッパとはいえ…}} イングランド艦隊の大砲はスペイン艦隊の3倍撃ってます。非力でもスペイン艦隊の船はそれなりにダメージあり。 司令長官シドーニア公爵は後衛部隊を新設して損傷の激しい船を保護。 戦いながらバンバン発生する問題にも対処していく…司令長官って大変なお仕事なんですね。 &ref(工程_10(グラヴリーヌ沖の海戦:屁のカッパ).JPG) アルマダ海戦中のサン・マルティン号(司令長官シドーニア公爵)は、どの海戦でも旗艦らしく勇敢に戦ってます。 それだけに撃たれっぷりも激しい。 沈まなかったのは他の船より造りが頑丈だったからみたい。あっ、敵味方関係なく皆さんも勇敢に戦ってボロボロです。 } #endregion #region(close,ラ・マリア・ファン号の沈没、サン・マテオ号とサン・フェリペ号の座礁) ビスカヤ戦隊のラ・マリア・ファン号、ポルトガル戦隊のサン・マテオ号とサン・フェリペ号は集中砲火を浴びます。 ラ・マリア・ファン号はイングランド艦隊と降伏交渉中に沈没。 助かったのは1隻のボートに乗り込んだ皆さんだけ。 サン・マテオ号とサン・フェリペ号は流されて[[ワルヘレン島>http://en.wikipedia.org/wiki/Walcheren]]で座礁します。キャラック船も[[ブランケンベルヘ>http://en.wikipedia.org/wiki/Blankenberge]]で座礁してます。 &ref(工程_10(サン・マテオ号).JPG) あっ、座礁した場所と画はびみょーに違います。とりあえずサン・マテオ号とサン・フェリペ号はネーデルラント艦隊が拿捕。 そしてやっぱり略奪。 船もスペイン兵も[[フリッシンゲン>http://en.wikipedia.org/wiki/Vlissingen]]へ曳航されました。キャラック船についてはぜーんぜん分かりませんでした。 #endregion **⑪【8月9日(ユリウス暦:7月30日)】帰国 スペイン艦隊は風に押されて北東へ流れます。どんどんカレーから離れて行く…風と潮流とイングランド艦隊と戦って戻るのはムリ。 ってことで、司令長官シドーニア公爵はスペインへの帰国を決意。 それを知らないイングランド艦隊は追撃します。13日スコットランドの海域に入ったところで撤収。海戦が終わりました。 &ref(アルマダ海戦_工程_11.JPG) #region(close,司令長官シドーニア公爵の決意「スペイン艦隊の帰国」(残酷な画があるのでご注意下さい)) グラヴリーヌ沖の海戦が終了した8日の夕方、司令長官シドーニア公爵はイングランド艦隊の弾薬不足に気がついてます。 おまけに強い北西風がブワー♥ 幸運にもスペイン艦隊はカレーの近所に戻れました。これならパルマ公と合流できる。よーし!明日も戦うぞー! &ref(工程_11(スペイン艦隊の帰国).JPG) よーし!今日も戦うぞー!9日の朝、風が凪ぎます。スペイン艦隊は潮流でじわじわフランドルの砂州に近づいてます。 イングランド艦隊が「座礁しろー!」と祈ってると南西風がブワー♥ 幸運にもスペイン艦隊はどんどん砂州から離れて行きます。あっ、でもどんどんカレーからも離れちゃってるの。えーっ! &ref(工程_11(スペイン艦隊の帰国:チェス).JPG)[[William Reynolds-Stephens>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Reynolds-Stephens]]作「A Royal Game」(1906年) このまま南西風のブワーが続けば、スペイン艦隊はもっとカレーから離れちゃいます。皆さんの士気もダウン気味。 ってことで、作戦会議。皆さん帰国を支持。 もう風と潮流とイングランド艦隊と戦って戻るのはムリ…とうとう司令長官シドーニア公爵はスペインへの帰国を決意します。 #blockquote(){&u(){&bold(){お家へ帰ろう!無事に帰国するためには「規律が重要」だから絞首刑!?}} 司令長官シドーニア公爵には気になる問題がありました。それは火船奇襲で艦長達が「艦隊より身の安全を優先」したコト。 ゆゆしき規律違反!対処せねば! 20人の艦長が告発されてキビシイお叱りを受けます。数人は艦長をクビ、数人が[[絞首刑>http://en.wikipedia.org/wiki/Hanging]]を宣告されました。 &ref(工程_08(ナイトの爵位:絞首刑).JPG)そーゆー時代 実際にサンタ・バルバラ号艦長クリストバル・デ・アビラ(Cristobal de Avila:ギブスコア戦隊)が絞首刑になります。 規律を徹底させるための生け贄。 司令長官シドーニア公爵にとって必要な生け贄だったそうです。うーん、褒められて伸びる私にはちんぷんかんぷん。 } #blockquote(){&u(){&bold(){司令長官シドーニア公爵の絞首刑に賛同しない人もいるのかも?}} えっと…生け贄を前向きに考えてみると、軍隊にとって「規律」は「部隊の戦闘効率を最大化して被害を抑制」だそうです。 「規律」の対極は「戦闘行動の混乱」と「士気の低下」。 お家へ帰ろう!とはいえ、どの船もボロボロです。負傷者や病人もいっぱい。水や食料も不足。 司令長官シドーニア公爵はスペイン艦隊を無事に帰国させなくちゃいけない。だから生け贄が必要だったのかしら??? &ref(工程_11(スペイン艦隊の帰国:絞首刑).JPG)大将[[ジョン・ビング>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Byng]]は[[ミノルカ島の海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Minorca_(1756)]]で「最善を尽くさなかった」から銃殺刑(1757年:イギリス海軍) 実はサン・ペドロ号艦長[[フランシスコ・デ・クエジャル>http://en.wikipedia.org/wiki/Francisco_de_Cuellar]](カスティーリア戦隊)も絞首刑を宣告されます。 告発したのはFrancisco de Bobadilla。 監察官Martin de Arandaが乗船するサン・ファン・デ・シシリア号(San Juan de Sicilia:レパント戦隊)へ移送されたけど、刑は施行されずそのままシシリア号に残りました。 } #endregion #region(close,イングランド艦隊の撤収) パルマ公との合流を諦めて帰国を決定したスペイン艦隊は北へ進みます。それを知らないイングランド艦隊は追撃します。 でもその間にパルマ公がイングランドに侵攻したらヤバイ! ってことで、最高司令官エフィンガム男爵は海峡戦隊にダウンズへ戻るよう命じます。 &ref(工程_11(イングランド艦隊の撤収).JPG) スペイン艦隊はスコットランドの海域に入ります。イングランド艦隊は弾薬どころか水や食料も不足してきました。 追撃したいけどこれ以上はムリ! ってことで、最高司令官エフィンガム男爵はイングランド艦隊をイングランド北東の港へ入るよう命じます。 #endregion #region(close,女王エリザベス1世のティルベリー演説) [[ティルベリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Tilbury]]には、パルマ公の侵攻からロンドンを守る陸軍総司令官[[レスター伯ロバート・ダドリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Dudley,_1st_Earl_of_Leicester]]の兵が待機してます。 スペイン艦隊がスコットランドの海域に入った後も侵攻を警戒して待機。 女王エリザベス1世はティルベリーに出向いて兵を激励。2日後陸軍総司令官レスター伯は兵を解散します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Speech_to_the_Troops_at_Tilbury]] |&ref(工程_11(ティルベリー演説).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:女王エリザベス1世を護衛する皆さん| |~|[[アイルランド大蔵卿>http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_High_Treasurer_of_Ireland]][[オーモンド伯爵トーマス・バトラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Butler,_10th_Earl_of_Ormond]](アイルランド系貴族)| |~|陸軍総司令官レスター伯爵ロバート・ダドリー| |~|騎兵長官[[エセックス伯爵ロバート・デヴァルー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Devereux,_2nd_Earl_of_Essex]](陸軍総司令官レスター伯爵の息子)| |~|[[サー・ジョン・ノリス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Norreys]](陸軍総司令官レスター伯爵の部下)| |~|※あと2人いるけど誰か分かりませんでした。| ティルベリーは侵攻阻止するには遠すぎです。世間の評判も悪くて陸軍総司令官レスター伯は必死にウワサを打ち消してます。 枢密院は「経費節減でティルベリーの兵は解散しよう」と検討。 陸軍総司令官レスター伯は「まだダメ!」と女王エリザベス1世にティルベリーで演説してもらうようお願いしたそうです。 #blockquote(){&u(){&bold(){超有名な女王エリザベス1世の演説}} 演説の内容は王室の従軍牧師[[Leonel Sharp>http://en.wikipedia.org/wiki/Leonel_Sharp]]、王室の家庭教師[[William Leigh>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Leigh]]、James Askeの3バージョンあります。 最有力はLeonel Sharp。 こちらは演説が書かれたLeonel Sharpの手紙。送った相手は陸軍総司令官レスター伯かもしれません。 &ref(工程_11(ティルベリー演説:テキスト).JPG) My loving people &color(silver){我が愛する民よ} We have been persuaded by some that are careful of our safety, &color(silver){私の身を案じる者達は忠告し続けます、} to take heed how we commit our selves to armed multitudes, &color(silver){「武器を持つ兵の前に出るのは控えよ」と、} for fear of treachery; &color(silver){「謀反が起きたらどうするのだ」と。} but I assure you I do not desire to live to distrust my faithful and loving people. &color(silver){でも私には忠実な愛する民への疑いは不要です。} Let tyrants fear. &color(silver){そんな恐れは暴君だけがするものです。} I have always so behaved myself that, under God, &color(silver){なぜなら私は常に神のもと、} I have placed my chiefest strength and safeguard in the loyal hearts and good-will of my subjects; &color(silver){この身を忠誠心と良心を持つ民の中に置いているのだから。} and therefore I am come amongst you, as you see, at this time, &color(silver){だから私は貴方達の前にやって来たのです、} not for my recreation and disport, &color(silver){遊びでも気晴らしでもなく、} but being resolved, in the midst and heat of the battle, to live and die amongst you all; &color(silver){貴方達と共に生き、共に死ぬために。} to lay down for my God, and for my kingdom, and my people, my honour and my blood, &color(silver){我が神の、我が王国の、我が民の、我が名誉と血のために、} even in the dust. &color(silver){たとえこの身が塵となろうとも。} I know I have the body of a weak, feeble woman; &color(silver){確かに、私はか弱く脆い一人の女性。} but I have the heart and stomach of a king, and of a king of England too, &color(silver){でも王の、イングランド王の熱意と忍耐を携えています、} and think foul scorn that Parma or Spain, &color(silver){イングランド王の熱意と忍耐で愚かなパルマ公やスペイン王を迎えてやりましょう、} or any prince of Europe, should dare to invade the borders of my realm; &color(silver){我が王国を侵そうとする全ての者達を。} to which rather than any dishonour shall grow by me, I myself will take up arms, &color(silver){私は不名誉より剣を選びます、} I myself will be your general, judge, and rewarder of every one of your virtues in the field. &color(silver){私自らが指揮官となり、貴方達の勇気に報いましょう。} I know already, for your forwardness you have deserved rewards and crowns; &color(silver){貴方達の意気込みは報酬と栄誉に値します。} and We do assure you on a word of a prince, they shall be duly paid. &color(silver){敵が大きな代償を支払うことを約束します。} In the mean time, my lieutenant general shall be in my stead than whom never prince commanded a more noble or worthy subject; &color(silver){私の名代である将軍(陸軍総司令官レスター伯?)は気高くその名に相応しく使命を果たすでしょう。} not doubting but by your obedience to my general,  &color(silver){貴方達の疑いない将軍への忠誠心で、} by your concord in the camp, and your valour in the field, &color(silver){そして貴方達の団結力と勇気で、} we shall shortly have a famous victory over these enemies of my God, of my kingdom, and of my people. &color(silver){我々はもうすぐ我が神の、我が王国の、我が民の、正義の勝利を手にするのです。} } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにアルマダ食器}} 16、17世紀の富裕層は名声と投資で銀をビシバシ収集してました。 こちらはプリマスで[[ウォルター・ローリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Raleigh]]の略奪品を管理するSir Christopher Harrisと奥さんMary Sydenhamの収集品。 スペイン商船からの略奪品かもしれません。お名前の由来はアルマダ海戦の勝利から。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Armada_Service]] &ref(工程_11(アルマダ食器).JPG)The Armada Service(1581-1601年:銀メッキ製) } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにアルマダトランプ}} こちらはイングランドの政治史や歴史を描いたトランプ52枚(ジョーカーの誕生は1860年)です。 数枚がアルマダ海戦のカード。 カード♠5の説明書きには「北海を廻ったスペイン艦隊はたくさん沈没した」と書かれてます。 &ref(工程_11(アルマダトランプ).JPG)カード♠5(1675-1699年) } #endregion *スペイン艦隊の帰国 北海に追い込まれた艦隊総司令官メディナ・シドーニア公は大西洋経由での帰国を決意します。 でも多くの船が破損。水も食料も武器も不足。航海情報(気候、[[メキシコ湾流>http://en.wikipedia.org/wiki/Gulf_Stream]]、多くの岩礁、小さな島々…)も不足。 大西洋を経由するにはあまりにもキビシイ条件です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada_in_Ireland]] &ref(アルマダ海戦_工程.PNG) アイルランド沖で南西の強風にあったスペイン艦隊は散り散りになります。 ア・コルーニャを出航した時のスペイン艦隊は130隻、アルマダ海戦で残った船は110隻、スペインに帰国できた船は84隻。 5,000人がアイルランドで命を落としたそうです。 #region(close,艦隊総司令官メディナ・シドーニア公の帰国計画) こちらは1570年スペイン王フェリペ2世の地理学者[[アブラハム・オルテリウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Abraham_Ortelius]]が作った世界地図。海図じゃないです。 艦隊総司令官メディナ・シドーニア公はスペインへ帰還する航路を計画。 F&B時代は経度をゲトするのが難しいから緯度だけ指示してます。緯度×経度の詳細は[[【船】航海(緯度×経度)]]をどうぞ。 #blockquote(){&u(){&bold(){超ザックリ「艦隊総司令官メディナ・シドーニア公の帰国計画」}} スペイン艦隊は北北東に針路を取り北緯61度30分まで進む。 大西洋に入ったら東南東に変針して北緯58度([[アウター・ヘブリディーズ諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Outer_Hebrides]]の[[ロッコール島>http://en.wikipedia.org/wiki/Rockall]]あたり)まで下る。 [[アイルランド島>http://en.wikipedia.org/wiki/Ireland]]沿岸は座礁の恐れがあるので、南西に変針して北緯53度(幻の島[[ブラジル島>http://en.wikipedia.org/wiki/Brasil_(mythical_island)]]あたり)まで下る。 そこからは南東に針路を取ってスペインへ帰還する。 &ref(スペイン艦隊の帰国.JPG) } #endregion **アイルランドに漂着した上陸部隊指揮官アロンソ・デ・レイバ イングランドはアイルランドに漂着したスペイン軍を指名手配します。スペイン軍は敵地同然の地から脱出しなければいけなかった。 彼らの先頭に立ったのが上陸部隊指揮官アロンソ。 懸命に脱出を試みます。悲しいお話しだけど落ち込まないでね。アロンソって不撓不屈な騎士道精神を持った人だと思いませんか? &ref(登場人物_アロンソ・デ・レイバ(アイルランド).PNG)アルマダ海戦の地図の&color(red){□}を拡大(上側が北です) |BGCOLOR(lightgrey):1588年9月7日|BGCOLOR(lightgrey):[[ブラックソッド湾>http://en.wikipedia.org/wiki/Blacksod_Bay]]|アロンソが乗船するLa Rata Santa Maria Encoronada号は強風でアンカーを失って漂着。&br()●Rata号(レパント・イタリア隊)の乗組員は419人。&br()●上陸後に船を焼却。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[ブロードヘイブン湾>http://en.wikipedia.org/wiki/Broadhaven_Bay]]|マストを失って漂着した船の乗組員達と合流。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):ブラックソッド湾|Duquesa Santa Ana号とNuestra Senora de Begona号と合流。&br()●Duquesa号(アンダルシア隊)の乗組員は357人。&br()●Nuestra号(カスティーリア隊)の乗組員は297人。| |BGCOLOR(lightgrey):|~|2隻でスペインへ向けて出航。&br()●アロンソが乗船するDuquesa号の乗組員は600人。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[ロクロス・モア湾>http://en.wikipedia.org/wiki/Donegal]]&br()Loughros Mor Bay|Duquesa号は嵐で破損。アイルランドへの引き返しを余儀なくされる。&br()●アロンソはキャプスタン(アンカー巻き揚げ装置)で重傷を負う。&br()●Nuestra号は[[サンタンデール>http://en.wikipedia.org/wiki/Santander,_Spain]](スペイン)に無事到着。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[キリーベグス港>http://en.wikipedia.org/wiki/Killybegs]]|ラ・ジローナ号(ナポリ・ガレアス隊)と合流。| |BGCOLOR(lightgrey):|~|キリーベグス族長(chieftain, MacSweeney Bannagh)の協力でラ・ジローナ号を修理。| |BGCOLOR(lightgrey):10月25日|~|ラ・ジローナ号でスコットランドへ向けて出航。&br()●乗組員は1,300人。| |BGCOLOR(lightgrey):10月28日の夜|BGCOLOR(lightgrey):[[ダンルース城>http://en.wikipedia.org/wiki/Dunluce_Castle]]付近|ラ・ジローナ号が強風で舵が壊れて難破。&br()●生存者は9名。| **ラ・ジローナ号 ラ・ジローナ号がスコットランドを目指したのは、乗組員が多すぎてスペインへの長い航行に耐えられなかったからです。 カトリック教徒がいるスコットランドで船を修理して帰国しようと計画。 生存者は、イングランド排斥運動で有名な北アイルランド王子[[Sorley Boy MacDonnell>http://en.wikipedia.org/wiki/Sorley_Boy_MacDonnell]]の助けでスコットランドへ送り届けられてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Girona_%28ship%29]] &ref(スペイン艦隊の帰国_ラ・ジローナ号.JPG)ラ・ジローナ号(北アイルランドのお札:1994年頃) #region(close,アロンソもここに眠ってるのかしら?) 命を落とした乗組員達は、ダンルース城近くの聖カスバート墓地(St. Cuthbert's graveyard)に埋葬されたと言い伝えられてます。 &ref(スペイン艦隊の帰国_ラ・ジローナ号(聖カスバート墓地).JPG) #endregion #region(close,その後のラ・ジローナ号) 1968年水中考古学者[[ロバート・ステニュイ>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_St%C3%A9nuit]]が海の底に眠るラ・ジローナ号を調査しています。 船は朽ちてしまったけれど、宝石をちりばめた小間物、階級章、優しく刻まれた愛の証、1,200枚の金貨と銀貨が残ってました。 アロンソのサンティアゴ騎士団の勲章も…。 ~[[BBC History>http://www.bbc.co.uk/history/british/tudors/armada_gallery_08.shtml]]さんより ~ &ref(スペイン艦隊の帰国_ラ・ジローナ号(遺品).JPG) サンティアゴ騎士団の勲章は、命を落とした乗組員達の中で勲章を持てる身分からアロンソの遺品と考えられてます。 ルビーをはめ込んだ金の[[ファイア・サラマンダー>http://en.wikipedia.org/wiki/Fire_salamander]]は兵士に好まれたお守り。 古代ヨーロッパでは「火の中で生きることができる生物」と信じられていました。遺品は[[Ulster Museum>http://en.wikipedia.org/wiki/Ulster_Museum]]に納められてます。 #endregion *ようこそ日本へ♥日本に漂着したウィリアム・アダムスさん [[ウィリアム・アダムス>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Adams_(sailor)]](1564–1620年:[[ジリンガム>http://en.wikipedia.org/wiki/Gillingham,_Kent]])はドレイク戦隊の貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長です。 アルマダ海戦の後[[バーバリー商会ロンドン会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Barbary_Company]]の航海士に。 ロッテルダム商会([[オランダ東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_East_India_Company]]の前身)の「[[テセル島>http://en.wikipedia.org/wiki/Texel]]から極東を目指すので航海士募集中」に魅せられて転職します。 &ref(ウィリアム・アダムス.JPG)日本の王様は[[豊臣秀頼>http://en.wikipedia.org/wiki/Toyotomi_Hideyori]](豊臣秀吉の息子) 1598年5隻の船団が出航します。1隻はポルトガルが拿捕。1隻はスペインが拿捕。1隻は航海断念。1隻は沈没。 残ったのはウィリアムが乗船する[[リーフデ号>http://nl.wikipedia.org/wiki/De_Liefde_(galjoen)]]のみ。 1600年4月29日なんとか臼杵市(大分県)に漂着しました。日本に初めて来たオランダ船、初めて来たイギリス人。ようこそ日本へ♥ #region(close,リーフデ号は海賊船デース!危ないデース!) 日本にはスペイン人やポルトガル人のカトリック宣教師います。 [[イエズス会>http://en.wikipedia.org/wiki/Society_of_Jesus]]の宣教師は「リーフデ号は海賊船デース!危ないデース!オランダ人やイングランド人は即刻処刑デース!」と要求。 プロテスタントの侵入を恐れたのかしら? ウィリアム達は投獄されちゃいました。 &ref(ウィリアム・アダムス(イエズス会).JPG)イエズス会の宣教師と日本人(1600年頃:日本) すっかり海賊船と信じた五大老[[徳川家康>http://en.wikipedia.org/wiki/Tokugawa_Ieyasu]](豊臣秀頼の次の王様)はウィリアム達を事情聴取します。 ウィリアム達はカトリックとプロテスタントの確執を説明。 誤解が解けて釈放されました。その後も宣教師は執拗に「即刻処刑デース!」と騒いでたけど徳川家康はスルー。 #endregion #region(close,武士になったウィリアム・アダムス) 釈放されたウィリアムは江戸(徳川家康の領地)に招かれます。あっ、1600年10月21日[[関ヶ原の戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sekigahara]]がありました。 帰国を希望したけど徳川家康は却下。 徳川家康の下で外交の通訳や助言、航海術や数学の先生として働きます。1602年頃お雪(マリア)さんと結婚。 &ref(ウィリアム・アダムス.JPG)日本の王様は徳川家康 12歳から12年間ウィリアムは造船所([[ライムハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Limehouse]])の船大工でした。1588年奉公年限が終わってアルマダ海戦に参戦したの。 徳川家康は「船大工だったのか!んじゃ、造船ドック(伊東)作って」と依頼。すっごい無謀…。 なんとか完成したウィリアムは逸見 (横須賀)の[[旗本>http://en.wikipedia.org/wiki/Hatamoto]]、「三浦按針」(三浦:三浦半島、按針:航海士)の名乗りを与えられます。 イングランドだと旗本は貴族の「卿([[Lord>http://en.wikipedia.org/wiki/Lord]])」辺りなのかなぁ?おめでとー♥ #blockquote(){&u(){&bold(){帰国しなかったウィリアム・アダムス}} 1613年[[イギリス東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company]]の[[クローブ号>http://en.wikipedia.org/wiki/Clove_(ship)]]が交易を求めて来日。日本に初めて来たイングランド船です。ようこそ日本へ♥ 日英両方がウィリアムの帰国を許可。 でもウィリアムはクローブ号の指揮官[[ジョン・セーリス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris]]と馬が合わず帰国をお断りしちゃいました。 &ref(ウィリアム・アダムス(サン・ファン・バウティスタ号).JPG)[[支倉常長>http://en.wikipedia.org/wiki/Hasekura_Tsunenaga]]とサン・ファン・バウティスタ号 日本に残ったウィリアムはオランダ商館を辞めて母国イギリス商館(平戸)の顧問になります。 徳川水軍の将[[向井忠勝>http://en.wikipedia.org/wiki/Mukai_Shogen_Tadakatsu]]の仕事もお手伝。 スペインへ派遣した慶長遣欧使節のガレオン船[[サン・ファン・バウティスタ号>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan_Bautista_(ship)]](建造:1613年)にも関わったみたいです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){そして日本は鎖国の道へ}} 1616年徳川家康が亡くなります。王様の[[徳川秀忠>http://en.wikipedia.org/wiki/Tokugawa_Hidetada]](徳川家康の息子)は[[鎖国>http://en.wikipedia.org/wiki/Sakoku]]へまっしぐら。 ウィリアムの待遇もダダ落ち。 不遇されながら1620年平戸で永眠しました。逸見の領地と三浦按針の名乗りは息子ジョゼフ・アダムズが継いでます。 21世紀にも日本橋の按針通り(ウィリアムの屋敷跡)、横須賀の[[安針塚駅>http://en.wikipedia.org/wiki/Anjinzuka_Station]]と痕跡が残ってます。 &ref(ウィリアム・アダムス(出島).JPG)鎖国中の窓口の1つ人工島[[出島>http://en.wikipedia.org/wiki/Dejima]](1897年:シイボルト著「NIPPON」) クローブ号の来日で設立したイギリス商館は、ウィリアムが徳川家康や徳川秀忠との拝謁や通商許可をお膳立てしました。 その後もウィリアムが日本と商館を仲介。 ウィリアムの死去は大きな痛手です。たたでさえ後発隊のイギリス商館は1623年業績不振で閉鎖します。 鎖国まっしぐらの幕府は1673年イギリス船の来航禁止(リターン号事件)。再開は1854年[[日英和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Friendship_Treaty]]までお待ち下さい。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Westerners_who_visited_Japan_before_1868]] } #endregion #region(close,クローブ号で繋がった日本とプリマス) こちらはクローブ号の航海年表。イングランド王ジェームズ1世は日本からの献上品を大切にしたそうです。 甲冑は21世紀ロンドン塔に展示中。 あとクローブ号の指揮官ジョン・セーリスが個人用に持ち帰った春画は「公序良俗に反する」で没収、破棄されちゃいましたwww なんでバレたんだろう…船って帰港したら隅々までチェックされるのかしら? |BGCOLOR(lightgrey):1611年|BGCOLOR(lightgrey):4月18日|BGCOLOR(lightgrey):イングランド|イングランドを出航。&br()マダガスカル、イエメン、スリランカ、インドネシア、モルッカ諸島へ寄港。| |BGCOLOR(lightgrey):1613年|BGCOLOR(lightgrey):6月10日|BGCOLOR(lightgrey):天草沖|遭遇した漁船に水先案内を依頼。日本人2人が乗船。| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|BGCOLOR(lightgrey):平戸|平戸へ到着。平戸藩主とクローブ船上で面会。鉄砲を贈呈して食料をゲト。| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|~|平戸藩が用意した船で平戸を出航。ウィリアム・アダムスが乗船。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月6日|BGCOLOR(lightgrey):駿府|下関、堺、大阪、京都を経由して駿府に到着。&br()徳川家康に王ジェームズ1世の国書と献上品をプレゼント。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月12日|~|駿府を出航。鎌倉で見学した大仏にサインしたらしい。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月14日|BGCOLOR(lightgrey):江戸|江戸へ到着。将軍徳川秀忠に拝謁。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月21日|~|江戸を出航。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月29日-10月9日|BGCOLOR(lightgrey):駿府|| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月16日-10月20日|BGCOLOR(lightgrey):京都|平戸藩の船で大阪を出航。下関から陸路で平戸へ。| |~|BGCOLOR(lightgrey):11月6日|BGCOLOR(lightgrey):平戸|平戸へ到着。中国人貿易商[[李旦>http://en.wikipedia.org/wiki/Li_Dan_(pirate)]]の持家を借りてイギリス商館を設立。&br()その後江戸、京都、大坂にも支部を設立。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|~|&ref(ウィリアム・アダムス(通商許可).JPG)通商許可の朱印状(1609年:オランダ)&br()徳川家康から朱印状と献上品をゲト。日本を出航。|  |BGCOLOR(lightgrey):1614年|BGCOLOR(lightgrey):9月|BGCOLOR(lightgrey):プリマス|プリマスへ到着。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月|BGCOLOR(lightgrey):ロンドン|ロンドンへ到着。書状と献上品を王ジェームズ1世に渡す。&br()漆器や屏風はイギリス初の芸術品オークションで売却。| #blockquote(){&u(){&bold(){クローブ号で繋がった日本とプリマス}} クローブ号で日本とイングランドはお知り合いになりました。2014年日本とイギリスは日英交流400周年を開催。 なーんとプリマスでも色々なイベントを開催。 プリマスへ帰港したからです♥ この勢いで日本のどこかと[[姉妹都市>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_twin_towns_and_sister_cities_in_the_United_Kingdom]]になったらいいのになぁ。 ~[[The Japan400>http://japan400.com/]]さんより~ &ref(ウィリアム・アダムス(クローブ号).JPG)たぶんクローブ号と日の丸と富士山(The Japan400 Plymouth) } #endregion ---- ---- ※ものすごーくお世話になったサイト。詳細はこちらをご覧下さい。 ・参考文献:アンガス・コンスタム著「図説スペイン無敵艦隊:エリザベス海軍とアルマダの戦い」(原書房) ---- ----
#contents_line(level=2,sep=/) まだ調べ中で中途半端な内容です。今まで書いたアルマダ海戦コラムをこちらに移動してるのでUPしました。 #region(close,ご使用上の注意) アルマダ海戦は資料によって日付や内容がびみょーに違います。擦り合わせできなかったのでそのまま書きました。 お世話になった本は「図説スペイン無敵艦隊」。 あと戦争用語に詳しくないので間違った言葉を使っちゃってるかもしれません。伝わればいいかなぁってことで♥ #blockquote(){&u(){&bold(){大きな画はこちらをどうぞ}} 時系列地図も布陣図もアルマダ海戦の有名な画です。大人の事情で大きな画は載せられませんでした。 大きな画だと海戦の様子がバッチリ。 あっ、布陣図は戦ってる人々もバッチリ描かれてるのでちょびっと恐いかも…。苦手な方はご注意下さいね。 |&ref(アルマダ海戦_工程_01.JPG,,width=300)時系列地図|&ref(工程_02(三日月陣形).JPG,,width=300)布陣図| ・時系列地図は[[ロバート・アダムス>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Adams_%28architect%29]](Robert Adams)著「Expeditionis Hispanorum in Angliam vera descriptio」(1589年:イングランド)です。大きな画は[[アメリカ議会図書館>http://www.loc.gov/]]さん、[[ロイヤル・ミュージアムズ・グリニッジ>http://www.rmg.co.uk/]]さんをどうぞ。 ・布陣図は[[ジョン・パイン>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Pine]]画「The Tapestry Hangings of the House of Lords」(1739年:イギリス)です。大きな画は[[メトロポリタン美術館>http://www.metmuseum.org/]]さんをどうぞ。 } #blockquote(){&u(){&bold(){時系列地図に描かれてる「風向き」}} 大人の事情で「風向き」(フーフーしてるギリシア神話の風神[[アネモイ>http://en.wikipedia.org/wiki/Anemoi]])がガポッと欠けちゃってることがあります。 けっこう重要なんだけど…。 びみょーに残ってるので探して下さいね。風神アネモイは[[コンパスローズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Compass_rose]](羅針図)の周りに出没します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Classical_compass_winds]] &ref(工程(ご使用上の注意).JPG)ちょびっと顔が恐い風神アネモイ } #endregion *アルマダ海戦 ~ご協力♥ほみさん~ アルマダ海戦は1588年7月31日~8月8日([[グレゴリオ暦>http://en.wikipedia.org/wiki/Gregorian_calendar]])スペインのイングランド侵攻戦争です。 イングランドの異端キリスト教[[英国国教会>http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_England]]、ネーデルラントへの介入[[ノンサッチ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Nonsuch]]、植民地への海賊行為[[私掠船>http://en.wikipedia.org/wiki/Privateer]]などなどが要因。 結果はスペインの負け。それ以降も2国間の海戦は続きます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]] &ref(【共通の画】アルマダ海戦_スペイン無敵艦隊.jpg,【共通】共通の画)スペイン無敵艦隊(映画「[[Elizabeth:The Golden Age>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth:_The_Golden_Age]]」) #region(close,スペイン王フェリペ2世の命令書) スペイン王フェリペ2世は艦隊総司令官[[メディナ・シドーニア公爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Alonso_P%C3%A9rez_de_Guzm%C3%A1n,_7th_Duke_of_Medina_Sidonia]]に命令書を渡してます。 ちなみにマーゲイト岬からワイト島へ戻るなら、逆風を「間切って間切って間切って…(ジグザグするやつ)」しなくちゃダメ。 艦隊総司令官シドーニア公爵のため息が聞こえてきそうです。 #blockquote(){&u(){&bold(){超ザックリ「スペイン王フェリペ2世の命令書」}} 艦隊は英仏海峡を[[マーゲイト岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Margate]](ケント)まで走破し、パルマ公[[アレサンドロ・デ・ファルネーゼ>http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Farnese,_Duke_of_Parma]]率いる陸軍と合流せよ。 貴殿は&bold(){我が指示に従い}いかなる妨害も排除してパルマ公軍の進路を確保せよ。 (艦隊で運ぶ)陸軍はパルマ公引き渡しまでアロンソ・デ・レイバの指揮下とし、上陸地点はパルマ公が知らせるであろう。 またワイト島占拠の成否を確認せよ。 パルマ公がイングランド上陸に失敗した場合、艦隊による(聞いた情報によると防備脆弱な)ワイト島の占拠を望む。 [[橋頭堡>http://en.wikipedia.org/wiki/Bridgehead]]は勝利への重要な道となるであろう。独力でその先の戦いへの道を切り開くべし。 これが我が望みであーる。 &ref(アルマダ海戦_工程.PNG) } #blockquote(){&u(){&bold(){艦隊総司令官メディナ・シドーニア公爵「はっ!いいこと考えた」}} 艦隊総司令官シドーニア公爵は考えました。 イングランドに上陸するなら合流地点は[[ダンケルク>http://en.wikipedia.org/wiki/Dunkirk]](フランドル)より[[カレー>http://en.wikipedia.org/wiki/Calais]](フランス)の方が近くて安全じゃない? ってことで、8月1日書状を携えたピンネース船をパルマ公へ派遣。 ちなみに[[ドーバー海峡>http://en.wikipedia.org/wiki/Strait_of_Dover]]の最短距離は、[[ドーバー>http://en.wikipedia.org/wiki/Dover]]~[[灰色の鼻岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Cap_Gris_Nez]](カレーの左下)の33.1kmです。 &ref(アルマダ海戦(命令書).JPG) でもパルマ公からのお返事ナシ。どうやら書状はすぐにパルマ公へ届かなかったらしいです。 パルマ公が書状を受け取ったのは「ラ・コルーニャを出帆」が8月2日、「もうすぐカレーに到着」が8月5日。 ってことで、8月7日パルマ公から「まだ準備できてませーん」とお返事が来ました。 } #endregion #region(close,大昔から海戦してるスペインとイングラド) こちらはスペインの海戦一覧です。[[スペイン王の髭焦がし事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Singeing_the_King_of_Spain%27s_Beard]]と[[アルマダ海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]以外はスペインの勝ち。 実はスペイン艦隊って強い。 あとアルマダ海戦に勝利したイギリスは軍艦に[[HMS Armada>http://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Armada_%28D14%29]]なんてお名前を命名してます。ちょびっと悪趣味。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_naval_battles]] |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海戦(ほんの一部)|BGCOLOR(lightgrey):イングランド|BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):ポルトガル|BGCOLOR(lightgrey):ネーデルラント|BGCOLOR(lightgrey):&tooltip(イタリア){ナポリ王国、シチリア王国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、教皇領など}|BGCOLOR(lightgrey):オスマン|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:他| |BGCOLOR(lightgrey):1337|[[Battle of Cape St. Vincent>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Cape_St._Vincent_%281337%29]]|||敵||||| |BGCOLOR(lightgrey):1372|[[Battle of La Rochelle>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_La_Rochelle]]|敵||||||| |BGCOLOR(lightgrey):1419|[[Battle of La Rochelle>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_La_Rochelle_%281419%29]]|敵||||||敵:ハンザ同盟| |BGCOLOR(lightgrey):1535|[[Conquest of Tunis>http://en.wikipedia.org/wiki/Conquest_of_Tunis_%281535%29]]||敵|味方||味方|敵|味方:神聖ローマ帝国| |BGCOLOR(lightgrey):1543|[[Battle of Muros Bay>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Muros_Bay]]||敵|||||| |BGCOLOR(lightgrey):1568|[[Battle of San Juan de Ulúa>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_de_Ul%C3%BAa_%281568%29]]|敵||||||| |BGCOLOR(lightgrey):1571|[[レパントの海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Lepanto]]|||||味方|敵|| |BGCOLOR(lightgrey):1582|[[Battle of Ponta Delgada>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Ponta_Delgada]]|敵|敵|&tooltip(敵/味方){ポルトガルの王位継承権争いで、フェリペ2世vsアントニオ・デ・ポルトゥガルに分かれてる}|敵|||| |BGCOLOR(lightgrey):1583|[[Conquest of the Azores>http://en.wikipedia.org/wiki/Conquest_of_the_Azores]]|敵|敵|敵/味方||||| |BGCOLOR(lightgrey):1587|スペイン王の髭焦がし事件|敵||||||| |BGCOLOR(lightgrey):1588|アルマダ海戦|敵||味方|敵|味方||| #endregion #region(close,アルマダ海戦で終わりじゃない!まだまだ続くスペインとイングランドの海戦) アルマダ海戦は強国スペインと新興国イングランドがワンサカ戦い続けた[[英西戦争(1585–1604年)>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_%281585%E2%80%931604%29]]の1つです。 発端は1585年イングランドがネーデルラントを援助する[[ノンサッチ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Nonsuch]]。 ネーデルラントと[[八十年戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Eighty_Years%27_War]](1568–1648年)してるスペインはムカッ!これを宣戦布告と受け止めました。 &ref(アルマダ海戦(英西戦争).JPG)風刺画「オランダ牛を飼育するエリザベス」(1586年) |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:海戦(ほんの一部)|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:スペイン|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イングランド| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:結果|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:死傷者|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:同盟国|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:結果|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:死傷者|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:同盟国| |BGCOLOR(lightgrey):1588.07-08|アルマダ海戦|×|20,000名以上|前記参照|●|6,000名以上|ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1589.05-07|[[English Armada>http://en.wikipedia.org/wiki/English_Armada]]|●|900|ポルトガル|×|11,000|ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1591.04.24|[[Battle of the Strait of Gibraltar>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Strait_of_Gibraltar]]||200|||54|| |BGCOLOR(lightgrey):1591.07.15|[[Battle of Berlengas Islands>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Berlengas_Islands]]|●|150名以上の囚人||×|2|| |BGCOLOR(lightgrey):1591.08.30-09.01|[[Battle of Flores>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Flores_%281591%29]]|●|100||×|250|| |BGCOLOR(lightgrey):1593.04.18|[[Battle of Blaye>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Blaye]]|●|||×||| |BGCOLOR(lightgrey):1594.06.24-07.01|[[Action of San Mateo Bay>http://en.wikipedia.org/wiki/Action_of_San_Mateo_Bay]]|●|50||×|44|| |BGCOLOR(lightgrey):1595.10|[[Battle of Las Palmas>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Las_Palmas]]|●|||×||| |BGCOLOR(lightgrey):1595.08.02-08.04|[[Battle of Cornwall>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Cornwall]]|●|||×||| |BGCOLOR(lightgrey):1595.11.22|[[Battle of San Juan>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_%281595%29]]|●|40||×|400|| |~|>|>|>|>|>|>|サー・フランシス・ドレイク、サー・ジョン・ホーキンス(フランシス・ドレイクの従兄)死去| |BGCOLOR(lightgrey):1596.03.11|[[Battle of Pinos>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Pinos]]|●|80||×|325|| |BGCOLOR(lightgrey):1596.06.30-07.15|[[Capture of Cadiz>http://en.wikipedia.org/wiki/Capture_of_Cadiz]]|×|||●|2,000|ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1597.07-08|[[Islands Voyage>http://en.wikipedia.org/wiki/Islands_Voyage]]|●|||×||ネーデルラント| |BGCOLOR(lightgrey):1598.06.15-06.30|[[Battle of San Juan>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_%281598%29]]|×|50||●|100|| |BGCOLOR(lightgrey):1598.09.13|>|>|>|>|>|>|スペイン王フェリペ2世死去→スペイン[[王フェリペ3世>http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_III_of_Spain]]| |BGCOLOR(lightgrey):1601.12.06|[[Battle of Castlehaven>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Castlehaven]]|×|150|アイルランド|●|200|| |BGCOLOR(lightgrey):1603.03.25|>|>|>|>|>|>|イングランド女王エリザベス1世死去→イングランド[[王ジェームズ1世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]| #endregion #region(close,やっとスペインとイングランドが仲直り。が、しかし…) 戦争は相手をギャフンと言わせるための非生産的な破壊行為。お互い国庫ボロボロです。 ってわけで、女王エリザベス1世の後任[[王ジェームズ1世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]は停戦を提案。 もっちろん王フェリペ2世の後任[[王フェリペ3世>http://en.wikipedia.org/wiki/Philip_III_of_Spain]]も大歓迎。1604年[[ロンドン条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_London,_1604]]で仲直りします。戦争が終わったぁ♥ |>|&ref(【共通の画】イングランド_ロンドン条約.JPG,【共通】共通の画)作者不明「[[サマセット・ハウス会議>https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_House_Conference_(painting)]]」(1604年)| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:スペイン(窓側から:役職は訳せませんでした)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イングランド(窓側から)| |[[Juan Fernández de Velasco, 5th Duke of Frías>http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_Fern%C3%A1ndez_de_Velasco,_5th_Duke_of_Fr%C3%ADas]]|大蔵卿[[ドーセット伯爵トーマス・サックヴィル>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Sackville,_1st_Earl_of_Dorset]]| |[[Juan de Tassis>http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_de_Tassis,_1st_Count_of_Villamediana]]|海軍卿[[エフィンガム男爵チャールズ・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard,_1st_Earl_of_Nottingham]]&br()※1596年からノッティンガム伯爵| |Alessandro Robida|兵士[[デヴォンシャー伯爵チャールズ・ブラント>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Blount,_8th_Baron_Mountjoy]]| |スペイン領ネーデルラント[[Charles de Ligne>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_de_Ligne,_2nd_Prince_of_Arenberg]]|五港監督官[[ノーサンプトン伯爵ヘンリー・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Howard,_1st_Earl_of_Northampton]]| |スペイン領ネーデルラント[[Jean Richardot>http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Richardot]]|秘書官長[[クランボーン子爵ロバート・セシル>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_1st_Earl_of_Salisbury]]&br()※1605年から[[ソールズベリー伯爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Marquess_of_Salisbury]]| |スペイン領ネーデルラントLouis Verreyken|~| #blockquote(){&u(){&bold(){2国間でお約束したこと}} どちらかというとスペイン有利だそうです。 ・スペインはイングランドを「英国国教会なんてダメ!カトリックに戻れー!」なんて夢は諦めます。 ・イングランドはスペインの[[インディアス艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_treasure_fleet]](ビセンテのお仕事)と植民地の邪魔しません。 ・イングランドはスペイン船にイギリス海峡を解放します。 ・イングランドは[[ネーデルラントの反乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_Revolt]]に干渉しません。財政援助も止めます。 ・2国の船(商船や軍艦)はお互いの港を修理・避難・補給に使えます。8隻未満の船団なら「ちょっと港使わせてね」の許可も必要ないです。 &ref(アルマダ海戦(ロンドン条約:ロバート・セシル).JPG)[[ピューター>http://en.wikipedia.org/wiki/Pewter]]製インクポット、[[羽根ペン>http://en.wikipedia.org/wiki/Quill]]、紙 講和条約は[[サマセット・ハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_House]](ロンドン)で結ばれました。 サマセット・ハウスはもともと1552年トマス・シーモア事件で処刑されたサマセット公[[エドワード・シーモア>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Seymour,_1st_Duke_of_Somerset]]のお屋敷。 イングランド[[王エドワード6世>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England]](女王エリザベス1世の弟)が屋敷も没収してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){が、しかし…}} が、しかし、平和もつかの間。 ヨーロッパの[[三十年戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Thirty_Years%27_War]](1618–1648年:カトリックvsプロテスタント)で[[英西戦争(1625–1630年)>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_%281625%E2%80%931630%29]]に再突入します。 ちなみに三十年戦争は傾きかけたスペインの栄華にトドメ刺しました。 &ref(アルマダ海戦(ロンドン条約:三十年戦争).JPG)スペイン落日の映画「[[アラトリステ>http://en.wikipedia.org/wiki/Alatriste]]」(2006年:スペイン) } #endregion **F&Bの艦隊リスト(ネタバレ) 史実と同じだけど、ネタバレを含んでるので隠してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_ships_of_the_Spanish_Armada]] #region(close,イングランド艦隊) |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:戦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[アーク・ロイヤル号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Ark_Royal_(1587)]]|指揮官:最高司令官[[エフィンガム男爵チャールズ・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard,_1st_Earl_of_Nottingham]]| |BGCOLOR(lightgrey):ドレイク隊|BGCOLOR(lightgrey):[[リヴェンジ号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Revenge_(1577)]]|船長:副司令官サー・フランシス・ドレイク| |~|BGCOLOR(lightgrey):グローリア号&br()(プレシャス号)|船長:ジェフリー・ロックフォード&br()航海長:ナイジェル・グラハム&br()水夫長:ルーファス・ベレット&br()檣楼手:ユアン&br()砲手長:マック&br()砲手(火縄係):ネヴィル&br()操舵手:ウィル&br()船大工:トーマス (以下略)| #endregion #region(close,スペイン艦隊) 赤色はアルマダ海戦に消極的な平和派のメンバーです。 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:戦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員| |BGCOLOR(lightgrey):ポルトガル|BGCOLOR(lightgrey):旗艦[[サン・マルティン号>http://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A3o_Martinho_%281580%29]]|指揮官:&color(red){艦隊総司令官メディナ・シドーニア公爵}&br()艦長:アロンソ・デ・ルイス提督&br()参謀長:&color(red){ディエゴ・デ・バルデス}(ここかな?)&br()航海長:ビセンテ・デ・メンドーサ&br()水夫長:サンチョ・アルバレス(サンティアゴ号の水夫長)&br()操舵手:エステバン&br()水夫:ホセ、ペペ、エドゥアルド・ラロ| |~|BGCOLOR(lightgrey):サン・フェリペ号|連絡係:&color(red){アスコリ大公アントニオ・デ・レイバ}&br()&color(red){ラウル・デ・トレド}| |~|BGCOLOR(lightgrey):補給船アウグスタ号|| |BGCOLOR(lightgrey):レパント|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:マルティン・デ・ベルテンドーナ| |~|BGCOLOR(lightgrey):ラ・フリアナ号&br()&nbsp(6)↓&br()ラ・ラタ・デ・サンタ・マリア・エンコロナーダ号|艦長:カルロス・フェンテス・デ・ローサ&br()陸将:アロンソ・デ・レイバ&br()船大工:&del(){ホセ}&br()船大工見習い:&color(red){ニコラス}(ファン・グリフス、ヤン)&br()水夫:&color(red){リコ}&br()個人秘書:ミゲル・デ・セルバンテス| |BGCOLOR(lightgrey):カスティーリア|BGCOLOR(lightgrey):サン・フェリペ号|戦隊長:???| |BGCOLOR(lightgrey):ビスカヤ|BGCOLOR(lightgrey):サン・ファン・デ・ポルトガル号|戦隊長:艦隊副司令官ファン・マルティネス・デ・リカルデ&br()航海長:ペドロ・デ・ソト| |BGCOLOR(lightgrey):ガレアス|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:ウーゴ・デ・モンカーダ| |BGCOLOR(lightgrey):ギブスコア|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:ミゲル・デ・オケンド| |~|BGCOLOR(lightgrey):[[サン・サルバドール号>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Salvador_(Guip%C3%BAzcoan_squadron)]]|???:&color(red){トマーソ・モントーヤ}| |BGCOLOR(lightgrey):ハルク|BGCOLOR(lightgrey):|戦隊長:ファン・ゴメス| #endregion **艦隊リスト &ref(【共通の画】アルマダ海戦_戦力.jpg,【共通】共通の画)アルマダ海戦の戦力 イングランド艦隊のプリマスは対スペイン艦隊、ダウンズは対パルマ公です。 主力艦隊のマーティン・フロビッシャー戦隊とジョン・ホーキンス戦隊は、たぶん状況に応じて指揮権が与えられた模様。 ついでに皆さんの年齢も。 |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:イングランド艦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員(年齢)| |BGCOLOR(lightgrey):プリマス|BGCOLOR(lightgrey):主力艦隊|旗艦[[アーク・ロイヤル号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Ark_Royal_(1587)]]|最高司令官[[エフィンガム男爵チャールズ・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard,_1st_Earl_of_Nottingham]]|52歳| |~|~|[[トライアンフ号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Triumph_(1562)]]|分艦隊司令官[[マーティン・フロビッシャー>http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Frobisher]]|53-57歳| |~|~|ビクトリー号|分艦隊司令官[[ジョン・ホーキンス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]|56歳| |~|~|ゴールデン・ライオン号|艦長[[トマス・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_1st_Earl_of_Suffolk]]|27歳| |~|BGCOLOR(lightgrey):ドレイク戦隊|旗艦[[リヴェンジ号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Revenge_(1577)]]|副司令官[[サー・フランシス・ドレイク>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]]|約48歳| |BGCOLOR(lightgrey):[[ダウンズ>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Downs]]|BGCOLOR(lightgrey):海峡戦隊|旗艦[[レインボー号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Rainbow_(1586)]]|指揮官[[ヘンリー・シーモア>http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Henry_Seymour_(naval_commander)]]|| |~|~|[[ヴァンガード号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Vanguard_(1586)]]|指揮官[[ウィリアム・ウィンター>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Wynter]]|約67歳| |BGCOLOR(lightgrey):ネーデルラント|BGCOLOR(lightgrey):ネーデルラント艦隊|???|指揮官[[ユスティヌス・ファン・ナッサ>http://en.wikipedia.org/wiki/Justinus_van_Nassau]]|29歳| スペイン艦隊は6戦隊(お名前は地名)に分かれてます。司令長官シドーニア公爵の命令をそれぞれの戦隊に伝える仕組み。 艦隊の統制を単純化できるらしい。 それぞれの戦隊には小戦隊が割り振られてます。補給小戦隊は補給物資(弾薬や食料?)や軍事物資(兵士?)を運ぶ[[軍隊輸送船>http://en.wikipedia.org/wiki/Troopship]]。 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:スペイン艦隊|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:船名|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗員|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:結末| |BGCOLOR(lightgrey):ポルトガル戦隊|旗艦[[サン・マルティン号>http://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A3o_Martinho_(1580)]]|司令長官[[メディナ・シドーニア公爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Alonso_P%C3%A9rez_de_Guzm%C3%A1n,_7th_Duke_of_Medina_Sidonia]]|帰還| |~|サン・マテオ号||損失| |~|サン・フェリペ号||損失| |~|サン・マルコス号||損失| |BGCOLOR(lightgrey):ビスカヤ戦隊&br()(ビスケー湾戦隊)|旗艦サン・ファン・デ・ポルトガル号|副司令長官[[ファン・マルティネス・デ・リカルデ>http://en.wikipedia.org/wiki/Juan_Mart%C3%ADnez_de_Recalde]]|帰還| |~|副旗艦サンタ・アナ号|指揮官[[アレハンドロ・ゴメス・デ・セグラ>http://es.wikipedia.org/wiki/Alejandro_G%C3%B3mez_de_Segura]]|損失| |~|副旗艦サンティアゴ号|~|帰還| |~|ラ・マリア・ファン号||損失| |BGCOLOR(lightgrey):カスティーリア戦隊|旗艦サン・クリストバル号|参謀長[[ディエゴ・フローレス・デ・バルデス>http://pl.wikipedia.org/wiki/Diego_Flores_de_Valdez]]|帰還| |BGCOLOR(lightgrey):アンダルシア戦隊|旗艦ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号|指揮官[[ペドロ・デ・バルデス>http://pt.wikipedia.org/wiki/Pedro_de_Vald%C3%A9s]]|損失| |~|副旗艦サン・フランシスコ号|副指揮官ディエゴ・エンリケ|帰還| |~|サン・ファン・バウティスタ号||帰還| |BGCOLOR(lightgrey):ギブスコア戦隊|旗艦サンタ・アナ号|指揮官[[ミゲル・デ・オケンド>http://en.wikipedia.org/wiki/Miguel_de_Oquendo]]|帰還| |~|[[サン・サルバドール号>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Salvador_(Guip%C3%BAzcoan_squadron)]]||損失| |BGCOLOR(lightgrey):レパント戦隊|旗艦ラ・レガソナ号|指揮官[[マルティン・デ・ベルテンドーナ>http://en.wikipedia.org/wiki/Mart%C3%ADn_de_Bertendona]]|帰還| |~|ラ・ラタ・デ・サンタ・マリア・エンコロナーダ号|上陸部隊指揮官[[アロンソ・デ・レイバ>http://pl.wikipedia.org/wiki/Alonso_Martinez_de_Leiva]]|損失| |BGCOLOR(lightgrey):ガレアス小戦隊&br()([[ガレアス船>http://en.wikipedia.org/wiki/Galleass]])|旗艦サン・ロレンソ号|指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ|損失| |~|[[ラ・ジローナ号>http://en.wikipedia.org/wiki/Girona_(ship)]]||損失| |BGCOLOR(lightgrey):補給小戦隊&br()([[ハルク船>http://en.wikipedia.org/wiki/Hulk_(medieval_ship_type)]])|旗艦[[エル・グラン・グリフォン号>http://en.wikipedia.org/wiki/El_Gran_Grif%C3%B3n]]|指揮官ファン・ゴメス・デ・ メディナ|損失| **行程 &ref(アルマダ海戦_工程.PNG) |BGCOLOR(lightgrey):①【1588年7月29日】[[コーンウォール半島>http://en.wikipedia.org/wiki/Cornwall]]|BGCOLOR(lightgrey):②【7月30日】[[プリマス>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_01.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_02.JPG,,width=300)| |●午後:&color(blue){フランシス・ドレイク}がホーの丘でボウルズ&br()●夕方:&color(red){スペイン艦隊}が作戦会議→プリマス湾の襲撃を否決&br()●夕方:準備完了の&color(blue){イングランド艦隊}が出撃|●朝:&color(red){スペイン艦隊}の接近→&color(blue){狼煙台(のろしだい)}に点火&br()●朝:&color(blue){イングランド艦隊}が出撃→&color(red){スペイン艦隊}の風上で合流&br()●午後:&color(red){スペイン艦隊}が陣形を再編成| |BGCOLOR(lightgrey):③【7月31日】プリマス:海戦|BGCOLOR(lightgrey):④【8月1日】プリマス~[[スタート岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Start_Point,_Devon]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_03.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_04.JPG,,width=300)| |●朝:&color(blue){イングランド艦隊}と&color(red){スペイン艦隊}が宣戦布告&br()●昼過ぎ:&color(red){サン・サルバドール号}が爆発事故&br()●夕方:&color(red){ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号}が衝突事故&br()●夜:&color(blue){フランシス・ドレイク}が離脱|●夜明け:&color(red){スペイン艦隊}が陣形を再編成&br()●夜明け:&color(red){ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号}を拿捕&br()●午後:&color(blue){フランシス・ドレイク}が合流&br()●夕方:&color(red){サン・サルバドール号}を拿捕&br()●夕方:&color(red){シドーニア公}が&color(red){パルマ公}へ書状| |BGCOLOR(lightgrey):⑤【8月2日】[[ベリー・ヘッド>http://en.wikipedia.org/wiki/Berry_Head]]~[[ポートランド島>http://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_Portland]]:海戦|BGCOLOR(lightgrey):⑥【8月3日】ポートランド島~[[ワイト島>https://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_Wight]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_05.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_06.JPG,,width=300)| |●午前:&color(blue){トライアンフ号}が激潮帯にハマる&br()●午後:&color(blue){イングランド艦隊}が弾薬不足→補給を要請&br()●夕方:&color(red){スペイン艦隊}が陣形を再編成|●夜明け:&color(blue){イングランド艦隊}が4戦隊に再編成| |BGCOLOR(lightgrey):⑦【8月4日】ワイト島:海戦|BGCOLOR(lightgrey):⑧【8月5-6日】[[サンドウィッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Sandwich,_Kent]]~[[カレー>http://en.wikipedia.org/wiki/Calais]]| |&ref(アルマダ海戦_工程_07.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_08.JPG,,width=300)| |●夜:&color(red){シドーニア公}が&color(red){パルマ公}へ書状|●夜:&color(red){スペイン艦隊}が作戦会議→カレーでパルマ公待ちを決定&br()●夜:&color(red){シドーニア公}が&color(red){パルマ公}へ書状&br()●夜:&color(blue){ヘンリー・シーモア戦隊}が合流→弾薬補給&br()●&color(blue){ネーデルラント戦隊}がダンケルを海上封鎖中| |BGCOLOR(lightgrey):⑨【8月7日】カレー:海戦|BGCOLOR(lightgrey):⑩【8月8日】[[グラヴリーヌ>https://en.wikipedia.org/wiki/Gravelines]]:海戦| |&ref(アルマダ海戦_工程_09.JPG,,width=300)|&ref(アルマダ海戦_工程_10.JPG,,width=300)| |●早朝:&color(blue){イングランド艦隊}が作戦会議→火船を決定&br()●&color(red){スペイン艦隊}がカレー(フランス)から食料を購入&br()●真夜中:&color(blue){火船}で奇襲→&color(red){スペイン艦隊}が散り散り&br()●真夜中:&color(red){サン・ロレンソ号}が衝突事故|●朝:&color(blue){最高司令官エフィンガム男爵}が&color(red){サン・ロレンソ号}を集中砲火&br()●昼前:&color(red){スペイン艦隊}が再集結→&color(blue){イングランド艦隊}が追撃&br()●昼前:&color(blue){海峡戦隊}が合流&br()●昼:&color(blue){最高司令官エフィンガム男爵}が合流&br()●夕方前:&color(red){ラ・マリア・ファン号}が沈没&br()●夕方前:&color(red){サン・マテオ号}が漂流→&color(blue){ネーデルラント戦隊}が拿捕&br()●夕方前:&color(red){サン・フェリペ号}が漂流→&color(blue){ネーデルラント戦隊}が拿捕&br()●夕方:&color(blue){イングランド艦隊}が弾薬不足| |>|BGCOLOR(lightgrey):⑪【8月9日】帰国| |>|CENTER:&ref(アルマダ海戦_工程_11.JPG,,width=300)| |●8月9日:&color(red){スペイン艦隊}が作戦会議→帰国を決定&br()●8月31日:&color(red){パルマ公}が八十年戦争を再開|●8月10日:&color(blue){ヘンリー・シーモア戦隊}が撤収&br()●8月13日:&color(blue){イングランド艦隊}が撤収&br()●8月19日:&color(blue){女王エリザベス1世}がティルベリー演説| *イングランド海峡での海戦 イングランド艦隊はスペイン艦隊の風上側を陣取ったし、大砲もスペイン艦隊の3倍撃ってます。ただ大砲が非力でした。 頑丈な船のスペイン艦隊は屁のカッパ。 トドメは刺せなかったけど、とりあえず上陸は阻止です。詳細はこちら&link2(http://www.youtube.com/watch?v=RgNYsAGgVYU,,title=【BBC】Battlefield Britain - Episode 4:The Spanish Armada)をどうぞ。 &ref(工程.JPG)衛星写真([[NASA>http://www.nasa.gov/]]さんより) **①【1588年7月29日(ユリウス暦:7月19日)】コーンウォール半島 [[リザード岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Lizard_Point,_Cornwall]]を視認したスペイン艦隊は作戦会議を開きます。 副司令長官リカルデと上陸部隊指揮官アロンソは「一部のスペイン艦隊でイングランド艦隊をプリマス湾に閉じ込める」を提案。 閉じ込めちゃえばスペイン艦隊は憂いなくイギリス海峡を通れます。 でも総司令官シドーニア公爵は「我々の目的はパルマ公との合流であーる。交戦は避ける」と却下しました。 &ref(アルマダ海戦_工程_01.JPG) #region(close,サー・フランシス・ドレイクのボウルズ) スペイン艦隊は[[哨戒船>http://en.wikipedia.org/wiki/Patrol_boat]](偵察する船)を出します。哨戒船は拿捕した漁船からイングランド艦隊の準備状況をゲト。 この不運なイングランド漁師さんはアルマダ海戦の捕虜1号。 イングランド艦隊はプリマスから哨戒船(たぶんThomas Flemingのゴールデン・ハインド号)が出動。スペイン艦隊を発見します。 &ref(工程_01(ボウルズ).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){そして…とっても有名な伝説「サー・フランシス・ドレイクのボウルズ」}} 副司令官フランシス・ドレイクは指揮官達と一緒にホーの丘で[[ボウルズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Bowls]]を楽しんでました。 そこにThomas Flemingから「スペイン艦隊が来たあ」のお知らせが! ドレイクは「ゲームを終わらせる時間は十分ある。それからスペインをやっつければいいのさ♪」っとゲームを続けました。 &ref(工程_01(ボウルズ:伝説).JPG)[[John Seymour Lucas>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Seymour_Lucas]]画「The Armada in Sight」(1882年) イングランド艦隊は7月4日[[ア・コルーニャ>http://en.wikipedia.org/wiki/A_Coru%C3%B1a]]へ先制攻撃に行ったけど悪天候で帰国してます。お知らせの時は補給の真っ最中。 たぶんボウルズしてる暇なんてナイ! ってことで、この伝説は作り話かもしれないって噂アリです。ドレイクは大急ぎで就航の準備したのかも? } #endregion #region(close,狼煙台(のろしだい)/ビーコン) 狼煙台はF&B時代の通信設備です。こちらはアルマダ海戦で活躍した唯一原型が残る小屋タイプの[[カルムストック>http://en.wikipedia.org/wiki/Culmstock]]狼煙台。 海抜250mにあるBlackdown Hills([[デヴォン>http://en.wikipedia.org/wiki/Devon]])の端っこに設置。 灯された炎は[[ホルコム・ローグス>http://en.wikipedia.org/wiki/Holcombe_Rogus]]、[[Upottery>http://en.wikipedia.org/wiki/Upottery]]、[[ブラックバラ>http://en.wikipedia.org/wiki/Blackborough,_Devon]]へと伝達されます。同時に教会で待機する武装住民達も発起。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Beacon]] &ref(工程_01(狼煙台).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){コーンウォール半島の狼煙台}} こちらは地図学者[[ジョン・スピード>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Speed]]画「The Invasions of England and Ireland …」(1610年頃:イングランド)です。 赤矢印の記号が狼煙台っぽい? スペイン艦隊を発見したリザード岬からどんなルートで、何分でロンドンに伝達されたんでしょね? &ref(工程_01(狼煙台:コーンウォール).JPG) } #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドンの狼煙台}} こちらは古物研究家[[ウィリアム・ラマード>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Lambarde]]画「A Carde of the Beacons in Kent」(1596年版:イングランド)です。 赤矢印の線が狼煙台の伝達網。点線はなんだ? アルマダ海戦(1588年版:「図説スペイン無敵艦隊」参照)はもっとシンプルです。ケント州は対パルマ公上陸の狼煙台。 &ref(工程_01(狼煙台:ロンドン).JPG) } #endregion **②【7月30日(ユリウス暦:7月20日)】プリマス 29日スペイン艦隊を発見したイングランド艦隊は上げ潮(夕方はプリマス湾へ入ってくる)が終わると船を出撃させます。 翌日朝までには150隻が出撃。 2グループに分かれて、逆風を間切って間切って間切って…[[エディストーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Rocks]]の沖合で合流。スペイン艦隊の風上を陣取ります。 &ref(アルマダ海戦_工程_02.JPG) #region(close,風上を陣取ったイングランド艦隊) 帆船時代の交戦は「敵の風上を陣取る」が鉄則です。 風上側なら風に押されてガーっと敵へ襲いかかれる。風下側だと間切らないと敵へ襲いかかれない。戦いの流れは風上側が支配。 アルマダ海戦の風上はイングランド艦隊がほとんど陣取ってます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Sailing_ship_tactics]] &ref(工程_02(風上).JPG) 最高司令官エフィンガム男爵はイングランド艦隊を2グループに分けて、スペイン艦隊の風上で合流させます。 この方が風上を陣取れるらしい。 イングランド上陸の阻止も兼ねた「上から行くぜ!」を担当したのは、たぶんドレイク戦隊の8隻です。 #endregion #region(close,三日月陣形(Crescent Formation)に変身したスペイン艦隊) 三日月陣形は昔からある「敵を包囲する」の戦闘陣形です。 たぶん同じっぽい陸戦の[[翼包囲>http://en.wikipedia.org/wiki/Pincer_movement]]によると「左右から同時に部隊を移動させて敵をぐわーっと挟み込むように包囲する」らしい。 敵を囲んだらボコボコにします。欠点は動きにくい、両端は攻撃されやすい。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Sailing_ship_tactics]] &ref(工程_02(三日月陣形).JPG)ジョン・パイン画 もし翼包囲の包囲が完全に成功したら、敵を前後左右からボコボコして全滅的な損害を与えられます。 とーぜん敵は必死に抵抗。 ってことで、あえて退路を残す戦術もアリだそうです。必死に抵抗されると味方の損害も大きくなっちゃうもんね。 #endregion **③【7月31日(ユリウス暦:7月21日)】プリマス沖の海戦 スペイン艦隊の防御力バリバリな三日月陣形に対して、イングランド艦隊は[[単縦陣>http://en.wikipedia.org/wiki/Line_of_battle]](船が一列に並ぶ陣形)で攻撃します。 でも三日月陣形の中に入るのは危険。 有効射程距離の砲撃ができず、お互い決定的な打撃ナシで終了しました。交戦中にスペイン艦隊の2隻が自爆してます。 &ref(アルマダ海戦_工程_03.JPG) #region(close,宣戦布告) 宣戦布告は「これから戦います」の意思表明。[[ギルガメシュ叙事詩>http://en.wikipedia.org/wiki/Epic_of_Gilgamesh]]([[古代メソポタミア文明>http://en.wikipedia.org/wiki/Mesopotamia]])や[[旧約聖書>http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Testament]]でもやってます。 F&B時代はやらなくてもオケ。 1907年[[ハーグ陸戦条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Hague_Conventions_of_1899_and_1907]]で「戦争する時は必ず宣戦布告しましょう」と決まりました。日本も調印してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Declaration_of_war]] &ref(工程_03(宣戦布告).JPG)ジョン・パイン画 最高司令官エフィンガム男爵の命令でディステイン号(Distain:名誉を汚す)はスペイン艦隊の中央へ宣戦布告の大砲を撃ちます。 実は撃った相手はラ・ラタ・デ・サンタ・マリア・エンコロナーダ号。あちゃー。 司令長官シドーニア公爵はサン・マルティン号の司令長官旗を掲揚してお返事。午前9時過ぎアルマダ海戦が始まりました。 #blockquote(){&u(){&bold(){宣戦布告したのはたぶんエディストーンの近所}} 宣戦布告の直後に[[エディストーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Rocks]](ナイジェルが嫌いな岩礁)の近所で海戦が始まります。 時系列地図だと宣戦布告はエディストーンのずーっと西。 これはイングランド艦隊が「プリマスを出航~スペイン艦隊の風上側へ~宣戦布告」を一緒に描いちゃったからです。 &ref(工程_03(宣戦布告:エディストーン).JPG) 時系列地図はその辺も脳内補完しながら眺めて下さいね♥ あと、ついつい忘れがち(私だけ?)だけど帆船時代の海戦は風や潮流に流されながら戦ってます。 } #endregion #region(close,プリマス沖の海戦) 宣戦布告の後、最高司令官エフィンガム男爵は[[単縦陣>http://en.wikipedia.org/wiki/Line_of_battle]]でスペイン艦隊の中心を攻撃します。そのうちドレイク戦隊も合流。 ドレイク戦隊は単縦陣でスペイン艦隊の先っぽ(プリマス側)を攻撃。 ど派手に撃ったけど、スペイン艦隊の[[白兵戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Close_combat]](切り込み:船に乗り込んで戦闘)が恐くて有効射程距離まで近づけませんでした。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド艦隊の単縦陣とスペイン艦隊の三日月陣形}} 単縦陣は「火力を他の艦に遮られることなく最大限に発揮」する戦法です。[[舷側の大砲>http://en.wikipedia.org/wiki/Broadside]]をぜーんぶ撃てちゃう。 撃った後はピューっと逃げる。 のびのび戦法のイングランド艦隊に比べて、三日月陣形でぎゅーぎゅーのスペイン艦隊はなんか窮屈っぽいですよね。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦:単縦陣と三日月陣形).JPG)スペイン艦隊は[[船尾の大砲>http://en.wikipedia.org/wiki/Chase_gun]]だけ撃ってるの? 司令長官シドーニア公爵の最優先事項は「スペイン艦隊を無事にパルマ公へ届ける」です。三日月陣形は難攻不落の防御。 とはいえイングランド艦隊の砲撃にビビって陣形を崩しそうな船もチラホラ。 反省会で司令長官シドーニア公爵は「陣形を崩した艦長は絞首刑にします」と皆さんを叱ります。そーゆー時代なのね。 } #blockquote(){&u(){&bold(){スペイン艦隊の三日月陣形を護る先駆隊}} 三日月陣形を護るために、司令長官シドーニア公爵は[[先駆隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Vanguard]](臨機応変にヤバイ戦隊を助けに行く機動部隊)も準備します。 それぞれの戦隊の数隻が先駆隊。 リーダーは状況ごとに変わります。今回のリーダーはプリマス側を担当してる副司令長官リカルデ(ビスカヤ戦隊)。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦:単縦陣と三日月陣形).JPG)ドレイク戦隊に攻撃される三日月陣形の先っぽ(プリマス側) エンコロナーダ号(上陸部隊指揮官アロンソ)やヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号(爆発事故)も先駆隊です。 手が空いている先駆隊はイングランド艦隊に襲われる先っぽ(プリマス側)へ急行。 攻撃されてない先っぽ(海側)のエンコロナーダ号も援護に向かってます。アルマダ海戦で先駆隊は大活躍。 } #blockquote(){&u(){&bold(){スペイン艦隊の補給小戦隊は安全な場所へ}} 補給物資や軍事物資を運ぶ補給小戦隊はとっても大切です。輸送がお仕事だから大砲はほとんど持ってません。 大切だけど自分で守れない。 ってことで、海戦中は安全な場所(今回は三日月陣形の右側)に避難します。 &ref(工程_03(プリマス沖の海戦:補給小戦隊).JPG)三日月陣形からピヨピヨ出てるのが補給小戦隊 ガレアス小戦隊(指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ)も先駆隊。たいていは補給小戦隊を護衛してます。 [[ガレアス船>http://en.wikipedia.org/wiki/Galleass]]はオールで漕ぐガレー船と帆船が合体した大きくて遅い船。 穏やかな地中海なら便利だけど元気なイングランド海峡には不向きなの。風が凪いだときはオールを漕いで参戦します。 } #endregion #region(close,サン・サルバドール号の爆発) サン・サルバドール号はギブスコア戦隊(指揮官ミゲル・デ・オケンド)の[[キャラック船>http://en.wikipedia.org/wiki/Carrack]](中世スペイン語:ナオ)です。 1588年7月31日海戦中に火薬庫が爆発。 原因は分かってません。スペイン艦隊はサン・サルバドール号を消化して負傷者を一部救助。8月1日曳航を諦めて破棄します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Salvador_(Guip%C3%BAzcoan_squadron)]] &ref(工程_03(サン・サルバドール号).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){拿捕されたサン・サルバドール号}} イングランド艦隊は破棄されたサン・サルバドール号を拿捕。担当したのはビクトリー号とゴールデン・ライオン号です。 哨戒船ゴールデン・ハインド号が[[ウェイマス港>http://en.wikipedia.org/wiki/Weymouth,_Dorset]]へ曳航。 そしてThe Great Spaniard号(中世英語:Spaniard=Spain)に改名。1588年11月15日[[スタッドランド>http://en.wikipedia.org/wiki/Studland]]で沈没しました。 &ref(工程_03(サン・サルバドール号:拿捕).JPG) 戦争中に拿捕した「戦利艦」を自分の国で使うのは世の中の常識らしいです。ほー。 日本も1895年[[日清戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Sino-Japanese_War]]で中国海軍[[鎮遠>http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_turret_ship_Zhenyuan]]を拿捕。 その後日本海軍に編入してます。同じく損傷した[[定遠>http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_turret_ship_Dingyuan]]は拿捕を避けるために艦長[[劉歩蟾>http://en.wikipedia.org/wiki/Liu_Buchan]]が自沈してます。 } #endregion #region(close,ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号の衝突事故) ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号はアンダルシア戦隊(指揮官[[ペドロ・デ・バルデス>http://pt.wikipedia.org/wiki/Pedro_de_Vald%C3%A9s]])のキャラック船です。 混乱した三日月陣形で仲間の船と衝突。 [[斜檣>http://en.wikipedia.org/wiki/Bowsprit]]とフォア・マストを損傷したロサリオ号は操船不能。スペイン艦隊を離れて南に流されます。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){見捨てられたロサリオ号}} 指揮官ペドロは総司令官シドーニア公爵に助けを求めました。 でも参謀長ディエゴ・デ・バルデス(指揮官ペドロの従兄)が「救助はスペイン艦隊にとってリスクが大きい」と反対。 総司令官シドーニア公爵も同意。ロサリオ号も指揮官ペドロも見捨てられます。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:拿捕).JPG) あっ、指揮官不在になったアンダルシア戦隊は新たに副指揮官ディエゴ・エンリケが指揮官に任命されてます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){私欲を優先した副司令官フランシス・ドレイク}} 一方のイングランド艦隊はスペイン艦隊を追撃。艦隊の先導はリヴェンジ号(副司令官フランシス・ドレイク)です。 でも「孤立のロサリオ号」に気づいた副司令官ドレイクは勝手に離脱。 ものすごい命令違反。ロサリオ号に気付かれないようにランタンを消灯してコッソリと追跡します。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:降伏).JPG)John Seymour Lucas画「The Surrender」(1888年頃) 夜が明けると副司令官ドレイクはロサリオ号に「降伏しなさーい」と呼びかけます。もちろん指揮官ペドロは拒否。 とはいえロサリオ号は無防備。 指揮官ペドロはリヴェンジ号にご招待されてあっさり降伏します。ロサリオ号は拿捕。 } #blockquote(){&u(){&bold(){叱られた副司令官フランシス・ドレイク}} スペイン艦隊を追撃するイングランド艦隊はリヴェンジ号に追従してました。夜は船尾のランタンを頼りに追従。 でもリヴェンジ号がランタンを消灯して離脱。 先導を失ったイングランド艦隊は散り散り、お陰様で再集結に丸一日かかります。攻撃のチャンスが1日減っちゃった。 &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:リヴェンジ号).JPG)James Cundee画「Sir Richard Grenville's Gallant Defence of the Revenge」(1804年) ってことで、皆さん「副司令官ドレイクは私欲を優先した」とビシバシ非難します。 副司令官ドレイクは「ランタンは点け忘れちゃいました。夜が明けるとロサリオ号が近所にいたから拿捕したの♥」と反論。 バレバレの嘘。でもそれ以上のお咎めはナシ。 こちらの画はリヴェンジ号の最後の姿です(1591年:[[フローレス島の戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Flores_(1591)]])。船長は[[リチャード・グレンヴィル>http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Grenville]]。 } #blockquote(){&u(){&bold(){捕虜になった指揮官ペドロ}} 捕虜になった指揮官ペドロは1593年2月多額の身代金を払って解放されました。 他の人達はご無事? F&B時代の捕虜は身代金や他の捕虜と交換されるらしいです。でも奴隷にされたり殺されちゃうコトも…。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Prisoner_of_war]] &ref(工程_03(ヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号:捕虜).JPG)[[アルジェ>http://en.wikipedia.org/wiki/Algiers]]で捕虜生活の[[ミゲル・デ・セルバンテス>http://en.wikipedia.org/wiki/Miguel_de_Cervantes]]も身代金を払って解放 21世紀は[[戦時国際法>http://en.wikipedia.org/wiki/Law_of_war]](平時:[[国際人道法>http://en.wikipedia.org/wiki/International_humanitarian_law]])で捕虜をちゃーんと保護する決まりになってます。いちおう。 あっ、ロサリオ号はロウバック号が[[ダートマス港>http://en.wikipedia.org/wiki/Dartmouth,_Devon]](ウェイマス港かも)へ曳航。 イングランド人には鈍重な船だったので[[メドウェイ川>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Medway]]に浮かべて倉庫船に使ったらしいです。28年後に解体。 } #endregion **④【8月1日(ユリウス暦:7月22日)】スタート岬 最高司令官エフィンガム男爵はスペイン艦隊を追撃しながら、散り散りになったイングランド艦隊の合流を待ちます。たぶんプリプリ。 プリプリの元凶は勝手に離脱したリヴェンジ号。 リヴェンジ号はヌエストラ・セニョーラ・デル・ロサリオ号を拿捕した後、イングランド艦隊に合流しました。 &ref(アルマダ海戦_工程_04.JPG) 司令長官シドーニア公爵は一時停船してサン・サルバドール号の乗組員と貴重品を救助します。 その間にイングランド艦隊がどんどん風上側に合流。 もう救助も修理もムリ。破棄されたサン・サルバドール号はイングランド艦隊が拿捕しました。その後は風も凪いで皆さん潮任せ。 **⑤【8月2日(ユリウス暦:7月23日)】ポートランド島沖の海戦 追い風が向かい風に変わって、スペイン艦隊は初めて風上側になります。よーし反撃のチャンスだー!接近戦だー!白兵戦だー! イングランド艦隊は大砲を撃ちまくって接近戦のピンチを阻止。 お互い決定的な打撃ナシで終了しました。でもイングランド艦隊は弾薬が足りなくなってます。ヤバイ! &ref(アルマダ海戦_工程_05.JPG) #region(close,ポートランド島沖の海戦) 未明から東南東風が吹きます。初めて優位に立ったスペイン艦隊はもっちろんイングランド艦隊を襲います。 白兵戦に持ち込もうと大接近。 イングランド艦隊は後退して接近を阻止。程良い距離から大砲やマスケット銃を撃ちまくり(アウトレンジ戦法)ます。 #blockquote(){&u(){&bold(){風上側を取り返せなかったイングランド艦隊}} スペイン艦隊が風上側になったとき、もっちろんイングランド艦隊は抵抗してます。ボヘーっとしてたらアホアホです。 帆船時代の交戦は「敵の風上を陣取る」が鉄則。 ってことで、なんとか風上を取り返そうと奮闘努力…でもダメでした。風上側を取り返すのって大変なのね。 |&ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦:風上側).JPG)|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:風上側を取り返そうとしたイングランド艦隊| |~|BGCOLOR(lightgrey):①|無風のスペイン艦隊とイングランド艦隊は潮流で東へ。| |~|BGCOLOR(lightgrey):②|未明から東南東の風。風上側になったスペイン艦隊は西へ旋回。| |~|BGCOLOR(lightgrey):③|イングランド艦隊は風上側を取り返そうと北北東へ旋回。&br()これを予測していたスペイン艦隊は阻止しようと北北西へ旋回。| |~|BGCOLOR(lightgrey):④|予測していたスペイン艦隊の方が優位で、イングランド艦隊ピンチ!&br()ポートランド島とスペイン艦隊に挟まれて動けなーい!&br()ってことで、風上側を諦めて南南西へ旋回。| } こーゆーことがあった後にこちらの時系列地図の画になります。 &ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦).JPG) 10時頃から風が南風に変わります。立場逆転のイングランド艦隊はアウトレンジ戦法でスペイン艦隊へ反撃します。 でも陣形が崩れたイングランド艦隊で反撃可能な船は一部だけ。 ドレイク戦隊はこの反撃に参加しないで、遙か東にいたレパント戦隊(指揮官マルティン・デ・ベルテンドーナ)を襲います。 #blockquote(){&u(){&bold(){激潮帯にハマったマーティン・フロビッシャー}} ポートランド島の先っぽ[[ポートランド・ビル>http://en.wikipedia.org/wiki/Portland_Bill]]はイギリス海峡の超危険地帯です。激潮帯と干岩礁(砂州)がヤバイ! 激潮帯は潮流と海流がぶつかって渦潮グルグル。 たくさんの船が難破してます。あっ、潮流や激潮帯は時間によって変わるから、下の潮流図は参考程度にして下さいね。 &ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦:激潮帯).JPG)イングランドの鳴門海峡? 海戦中にトライアンフ号(分艦隊司令官マーティン・フロビッシャー)と5隻のイングランド艦隊が激潮帯にハマります。 分艦隊司令官フロビッシャー曰く「ハマってないもん!敵を浅瀬に誘い込んでるんだもん!」 たぶん自爆の難破。動けなくなったトライアンフ号達はガレアス小戦隊(指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ)に襲われます。 &ref(工程_05(ポートランド島沖の海戦:マーティン・フロビッシャー).JPG) でもガレアス小戦隊も激潮帯に押し流されてトライアンフ号達に接近できません。激潮帯があまりにも激しすぎた。 その間に最高司令官エフィンガム男爵がトライアンフ号達を救助。 激潮帯を知らない総司令官シドーニア公爵は「なんでビシバシ戦わなかった!アホアホ!」と指揮官モンカーダを叱ります。 } #endregion **⑥【8月3日(ユリウス暦:7月24日)】ワイト島 弾薬が足りないイングランド艦隊は積極的に攻撃できません。小競り合いしながらワイト島(王フェリペ2世が選んだ橋頭堡)へ。 夕方スペイン艦隊は[[ソレント海峡>http://en.wikipedia.org/wiki/Solent]]の西側を通過。 最高司令官エフィンガム男爵は「ならば東側か?ワイト島の上陸は断固阻止だ!」と陣形を4戦隊に再編成します。機動力アップ! &ref(アルマダ海戦_工程_06.JPG) #region(close,スペイン艦隊がワイト島を橋頭堡(きょうとうほ)にしちゃうと超ヤバイ!) 橋頭堡は敵地の不利な地理的条件で戦闘を有利に運ぶための拠点です。もともとの意味は「橋の対岸を守るための砦」。 敵地に入った上陸部隊は先ず橋頭堡を確保して、武器や食料の補給経路や退路にご使用。 ってことで、スペイン艦隊がワイト島を占拠したら超ヤバイ!イングランドはスペインから長期的に圧力をかけられちゃいます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Bridgehead]] &ref(工程_06(橋頭堡).JPG)BA Chart 2045 #blockquote(){&u(){&bold(){うーん、超ヤバイがよく分からない}} こちらは第二次世界大戦でドイツに占領されたヨーロッパを解放する[[ノルマンディー上陸作戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Invasion_of_Normandy]](1944年6月6日)です。 イギリスやアメリカの連合軍がノルマンディー海岸に上陸。 ソード、ジュノー、ゴールド、オマハ、ユタの橋頭堡を確保すると、ぐわーっとアッチコッチへ展開していきます。 &ref(工程_06(橋頭堡:ノルマンディー上陸作戦).PNG) もしスペイン艦隊がワイト島を占拠したら、イングランドがこーゆー超ヤバイことになっちゃう可能性アリなのかも? スペイン陸軍はヨーロッパ最強。 上陸されたらイングランドには止められるほどのプロ兵士はいません。 &ref(工程_06(橋頭堡:上陸部隊).JPG)[[イギリス海兵隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Marines]](2014年:ノルマンディー上陸作戦70周年記念式典) ノルマンディー上陸作戦で連合軍の上陸はこんな感じです。 橋頭堡の1つ[[オマハ・ビーチ>http://en.wikipedia.org/wiki/Omaha_Beach]](別名:ブラッディ・オマハ)を担当したアメリカは待ち構えるドイツとの激戦で死傷者多数。 もしかしたらスペイン艦隊がワイト島を占拠するのも簡単じゃないのかも? } #endregion **⑦【8月4日(ユリウス暦:7月25日)】ワイト島沖の海戦 4戦隊に分かれたイングランド艦隊は機動力を生かして上下からスペイン艦隊を攻撃します。ワイト島の上陸は断固阻止だ! スペイン艦隊は応戦しながらソレント海峡の東側を通過。 もう司令長官シドーニア公爵の選択肢は「カレーへ行く」しか残ってません。イングランド艦隊も弾薬が残ってません。 &ref(アルマダ海戦_工程_07.JPG) #region(close,ワイト島沖の海戦) 4戦隊に分かれたイングランド艦隊は、囮を使って([[陽動作戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Demonstration_(military)]])スペイン艦隊の注意をワイト島からそらします。 一番危険なお仕事は囮のドレイク戦隊(副司令官フランシス・ドレイク )。 スペイン艦隊の右翼に襲いかかります。2時間戦ってる間に皆さんソレント海峡の東側を通過。さよならワイト島。 &ref(工程_07(ワイト島沖の海戦).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){盾になったマーティン・フロビッシャー}} 盾のフロビッシャー戦隊(分艦隊司令官マーティン・フロビッシャー)もけっこう危険なお仕事です。 身を挺してワイト島の上陸を断固阻止。 囮はドレイク、盾はフロビッシャーってどーゆー理由で決めたんでしょね?能力とか器量とかなのかなぁ。 |&ref(工程_07(ワイト島沖の海戦:マーティン・フロビッシャー ).JPG)|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:盾になったマーティン・フロビッシャー| |~|BGCOLOR(lightgrey):①|トライアンフ号と数隻がワイト島(東側)とスペイン艦隊の間へ。&br()サン・マルティン号(司令長官シドーニア公爵)を砲撃。&br()※トライアンフ号は風下側です。| |~|BGCOLOR(lightgrey):②|いきなり風がアレコレしてトライアンフ号が立ち往生。ヤバイ!&br()数隻のスペイン艦隊がトライアンフ号へじわじわ接近。超ヤバイ!&br()※スペイン艦隊は風上側です。| |~|BGCOLOR(lightgrey):③|動けないトライアンフ号はボートを降ろして曳航。逃げろー!&br()帆が風を捕らえると北へ逃走。| } #endregion **⑧【8月5-6日(ユリウス暦:7月26-27日)】サンドウィッチ 最高司令官エフィンガム男爵はドーバー海峡で海峡戦隊と合流して、弾薬を補給したらスペイン艦隊にトドメを刺すことにします。 皆さん小競り合いもなくカレーへ。 分艦隊司令官マーティン・フロビッシャーや分艦隊司令官ジョン・ホーキンスは軍功を讃えられてナイトの爵位を授与。おめでとー♥ &ref(アルマダ海戦_工程_08.JPG) 6日夕方スペイン艦隊はカレーに投錨します。ほぼ無傷でイングランド海峡を渡れました♥ でもパルマ公の使者はいない。ムカッ! 作戦会議で「カレーでパルマ公を待つ」と決定。 イングランド艦隊はスペイン艦隊の風上側に投錨します。そして海峡戦隊と合流。ふふふ、念願の弾薬が来たぜ! #region(close,イングランド艦隊はナイトの爵位。スペイン艦隊は絞首刑(残酷な画があるのでご注意下さい)) 5日、最高司令官エフィンガム男爵はワイト島沖の海戦で頑張った皆さんにナイトの爵位を授与します。 授与式はアーク・ロイヤル号。 女王エリザベス1世の代わりに最高司令官エフィンガム男爵が肩ポンポン。こんな激励されたらハッスルしちゃいますよね。 |&ref(工程_08(ナイトの爵位).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ナイトの爵位を授与した皆さん| |~|分艦隊司令官[[マーティン・フロビッシャー>http://en.wikipedia.org/wiki/Martin_Frobisher]]| |~|分艦隊司令官[[ジョン・ホーキンス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]| |~|ゴールデン・ライオン号艦長[[トマス・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_1st_Earl_of_Suffolk]]| |~|???号[[ロジャー・タウンゼンド>http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Townshend_(died_1590)]]| |~|[[ホワイト・ベア号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_White_Bear_(1563)]]艦長[[エドマンド・シェフィールド>http://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Sheffield,_1st_Earl_of_Mulgrave]]| |~|[[ドレッドノート号>http://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Dreadnought_(1573)]]艦長George Beeston| #blockquote(){&u(){&bold(){司令長官シドーニア公爵の激励は「絞首刑」}} 7月31日プリマス沖の海戦でスペイン艦隊はイングランド艦隊の砲撃にビビって陣形を崩しそうになりました。 ゆゆしき問題!対処せねば! 司令長官シドーニア公爵は「陣形を崩した艦長は絞首刑にします」と激励してます。 &ref(工程_08(ナイトの爵位:絞首刑).JPG)イギリス海軍の水夫と士官の命の重さの風刺画(1802年) スペイン艦隊はどの船にも死刑執行人と憲兵隊長が乗船してるそうです。キビシイ…。 あっ、キビシイのはイングランドも一緒。 イングランド艦隊にも絞首刑や[[九尾の猫鞭>http://en.wikipedia.org/wiki/Cat_o%27_nine_tails]]で鞭打ちの罰則があります。キビシイ…。そーゆー時代なのね。 女王エリザベス1世が作った規律: If anye one practysed to steale awaye anye of her Majesty’s shippes, the captaine was to cause him to be hanged by the heels untill his braines were beaten out against the shippe’s sides, and then to be cutt down and lett fall intoe the sea. &color(silver){もしイングランド海軍で盗みを働いたら、キャプテンは盗人を斜檣で絞首刑にしてあーたらかーたら後に首チョンパして海へ捨てなさい。} } #endregion #region(close,その頃パルマ公は何してたの?) ダンケルク(フランドル)にいるパルマ公は、兵士17,000人を上陸用[[はしけ船>http://en.wikipedia.org/wiki/Barge]]120隻でイングランドへ運ぶ予定でした。 スペイン艦隊はその護衛。 こちらはスペイン軍17,000人が戦った[[ジャンブルの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Gembloux_(1578)]](1578年)です。こんなに大勢を運ぶのって大変そう。 &ref(工程_08(パルマ公).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){謎のパルマ公}} 司令長官シドーニア公爵がカレーでムカムカしてる頃、パルマ公が何してたのかは分かってません。 唯一の史実は「王フェリペ2世の甥パルマ公はアルマダ海戦の後も死ぬまで[[スペイン領ネーデルラント総督>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_governors_of_the_Habsburg_Netherlands]]だった」のみ。 ってことで、パルマ公にはいろんな説アリです。 ・パルマ公はまだ[[ブルージュ>http://en.wikipedia.org/wiki/Bruges]]の司令部にいる。兵士と補給品は野営地にいて、上陸用はしけ船に乗り込んでない。 ・パルマ公も兵士も上陸用はしけ船には乗り込んでる。いつでも出撃オケ。 ・ネーデルラント艦隊がダンケルクを封鎖中でパルマ公は出撃できない。運河網で海に出るから到着に2週間かかる。 &ref(アルマダ海戦(命令書).JPG) とりあえず、7日ムカムカの司令長官シドーニア公爵はパルマ公へ「さっさと準備しやがれ」と伝令を送ってます。 伝令担当は主計長ホルヘ・マンリケ(Jorge Manrique)。 そしてパルマ公から「まだ準備できてませーん」とお返事が来た模様です。 } #endregion **⑨【8月7日(ユリウス暦:7月28日)】カレー沖の海戦 パルマ公待ちのスペイン艦隊はせっせと食料を補給します。イングランド艦隊はせっせと船を火船に改造します。 そして真夜中に火船で奇襲。 錨索を切って回避したスペイン艦隊はカレーの潮流で散り散り。初めて陣形が崩れた!混乱中に1隻が自爆してます。 &ref(アルマダ海戦_工程_09.JPG) #region(close,スペイン艦隊がカレー(フランス)から食料を購入) フランスはアルマダ海戦の中立国。司令長官シドーニア公爵はカレーのフランス総督にお願いして食料を購入します。 担当はアスコリ大公アントニオ・デ・レイバ(上陸部隊指揮官アロンソの親戚)。 一日中ボートで食料を運搬。皆さん新鮮なお水が飲めます。ちゃんとご飯が食べれます。ありがとうカレーのフランス総督♥ &ref(工程_09(食料を購入).JPG) カレーのフランス総督は、ゴールダン領主ジーロウ・ド・マウレオン(1509–1593:Giraud de Mauléon, sieur de Gourdan)です。 マウレオンはカトリック教徒。そして1558年イングランドとの戦争で片足を失って[[義足>http://en.wikipedia.org/wiki/Pegleg]]。 1558年イングランドとフランスは[[カレー包囲戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1558)]](女王メアリー1世がカレーを失った戦争)、[[グラヴリーヌの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Gravelines_(1558)]]で戦ってます。 #endregion #region(close,イングランド艦隊の火船作戦!カレー沖の海戦) 火船が使われた最古の記録は[[古代アテナイ>http://en.wikipedia.org/wiki/Classical_Athens]]の歴史家[[トゥキディデス>http://en.wikipedia.org/wiki/Thucydides]]著「[[戦史>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Peloponnesian_War]](BC415-BC413 :[[シシリー遠征>http://en.wikipedia.org/wiki/Sicilian_Expedition]])」です。 672年[[ギリシア火薬>http://en.wikipedia.org/wiki/Greek_fire]]が発明されると威力倍増。 乗員はギリギリまで火船を敵へ近づけたら舵を固定してボートで退去。あとは風や潮流を利用して敵に体当たりさせます。 体当たりした頃に[[導火線>http://en.wikipedia.org/wiki/Detonating_cord]](時限装置)が火薬に点火してドッカーン。 あっ、逆に火船が近づいてきたら大砲撃って壊しちゃえばオケです。投錨してるときは狙われやすいからご注意。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Fire_ship]] &ref(工程_09(火船作戦).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド艦隊の火船作戦}} 6日夜、最高司令官エフィンガム男爵と合流した海峡戦隊の指揮官ウィリアム・ウィンターは「火船だ!」と提案します。 作戦会議で皆さん火船作戦に賛成。 ドーバーに船と可燃物を手配させたけど風向きが悪くて間に合いそうにない…ってことで、艦隊の船を使うコトにします。 &ref(工程_09(火船作戦:イングランド).JPG) 火船に8隻の船が選ばれます。 船は船体に油を染み込ませて可燃物(古い帆布、索具、麻ロープ、タール…)を搭載。大砲はタマを2発装塡してフタ。 ギリギリまで火船を敵へ近づける乗員は志願者から選びました。 |>|>|&ref(工程_09(火船作戦:イングランドの火船).JPG)ジョン・パイン画| |BGCOLOR(lightgrey):火船の8隻|トマス・ドレイク号(The Thomas Drake)|バーク・ボンド号(The Barque Bond)| |~|バーク・タルボット号(Barque Talbot)|ホープ・ホーキンズ号(Hope Hawkins)| |~|ベア・ヨンジ号(The Bear Yonge)|エリザベス・オブ・ホーストフト号(Elizabeth of Lowestoft)| |~|病院船(Cure’s Ship)|小さな船(お名前は分かりませんでした)| 7日の真夜中、8隻の火船が出陣します。風も潮流(満月の大潮)もスペイン艦隊の方へ。全てがイングランド艦隊の味方。 予定だと帆を最小限にした火船は3ノットで15~20分後に到達。 ところが…2隻が予定より早く燃え上がっちゃいました。真夜中のボーボー燃える火船はおもいっきり目立つ。あちゃー。 } #blockquote(){&u(){&bold(){火船に襲われたスペイン艦隊}} 見張りが2マイル先でボーボー燃える火船を発見します。2隻の火船は[[ボートフック>http://en.wikipedia.org/wiki/Boat_hook]](鉤棒)で引き離しに成功。 でも残りはボーボー燃えすぎてムリ! きゃー!こっち来たー!ジョン・パイン画だと大砲で火船を撃ってる…その辺の詳細は分かりませんでした。 &ref(工程_09(火船作戦:スペイン).JPG) 司令長官シドーニア公爵はピンネース船を派遣して「錨索を切って回避しなさーい」と命じます。抜錨は時間がかかるの。 皆さん&bold(){大事な錨を放棄}して火船を回避。 混乱中にサン・ロレンソ号(ガレアス小戦隊)が仲間の船と衝突して舵を損傷。操船不能になりました。 &ref(工程_09(火船作戦:カレーの潮流).JPG)カレーの潮流(海流?) 司令長官シドーニア公爵はずーっとカレーでパルマ公を待つ予定でした。でも元の位置に戻ってきたのは5隻のみ。 予備のショボイ錨で潮流が速いドーバー海峡はムリ! スペイン艦隊はグラヴリーヌ沖へ流されて散り散りになります。もうパルマ公との合流はムリかも…。 } #endregion #region(close,スペイン艦隊のトラウマ?アントウェルペン包囲戦の火船) 八十年戦争の1つ[[アントウェルペン包囲戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Fall_of_Antwerp]](1584年-1585年)はスペイン軍パルマ公とアントウェルペン市の戦争です。 1585年2月25日パルマ公はアントウェルペンを包囲。[[浮橋>http://en.wikipedia.org/wiki/Pontoon_bridge]]を掛けて[[スヘルデ川>http://en.wikipedia.org/wiki/Scheldt]]も遮断。 出入り口を封鎖して兵糧攻めにします。8月17日アントウェルペン市長[[Philips of Marnix>http://en.wikipedia.org/wiki/Philips_of_Marnix,_Lord_of_Saint-Aldegonde]]は降伏しました。 &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦).JPG)船の上に橋を建設 #blockquote(){&u(){&bold(){アントウェルペン市民の「Antwerp Fire:火船で浮橋破壊作戦」(1585年4月4日夜)}} 兵糧攻め中のアントウェルペン市民はお腹ペコペコでした。なんとしても浮橋を破壊して食料を手に入なくちゃ! 2隻の[[火船>http://en.wikipedia.org/wiki/Fire_ship]]を海流と引き潮に載せて浮橋をドッカーン。 この爆破で浮橋の60/800mが破壊されます。800人のスペイン兵が亡くなり、パルマ公も死にそうな怪我してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Hellburners]] &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦:火船).JPG) 浮橋破壊作戦は先ず32隻の囮火船(山積みの木片を[[火縄>http://en.wikipedia.org/wiki/Slow_match]]で着火)が浮橋へ向かいました。スペイン船は全力で囮火船を消火。 その間に本命の2隻が浮橋へ。 Fortuyn号は浮橋の手前でドッカーン。Hoop号は浮橋でドッカーン。革新的な時限装置もバッチリ作動して大成功です。 &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦:本命).JPG)時限装置は[[ゼンマイ時計>http://en.wikipedia.org/wiki/Clockwork]]で[[フリント>http://en.wikipedia.org/wiki/Flintlock]](燧石)が作動して火縄に着火 お次は待機してるネーデルラント戦隊の突入です。でもなぜか「破壊は失敗だぁ」と誤認して突入を中止しちゃいました。 ここまでは上手くいってたのに…。 残念ながら浮橋破壊作戦は失敗。その後パルマ公は浮橋をあっという間に修復しました。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランドは浮橋破壊作戦をアルマダ海戦に応用?}} この浮橋破壊作戦はヨーロッパ中で評判になりました。 企画したのは女王エリザベス1世に雇われたイタリア人[[工兵>http://en.wikipedia.org/wiki/Military_engineering]](戦場で爆破工作や塹壕を掘る人)の[[Federigo Giambelli>http://en.wikipedia.org/wiki/Federigo_Giambelli]]。 アントウェルペンが降伏すると、イングランドで[[テムズ川>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Thames]]の守備や[[カリスブルック城>http://en.wikipedia.org/wiki/Carisbrooke_Castle]]の土塁を設計します。 &ref(工程_09(アントウェルペン包囲戦:アルマダ海戦).JPG)カリスブルック城(ワイト島) Giambelliが女王エリザベス1世に雇われてるのは周知の事実。 だからアルマダ海戦で火船を見たスペイン艦隊は「きゃー!またGiambelliだー!」と誤認してパニックになったそうです。 火船がドッカーンして岩や鉄片が飛んできたらヤバイもんね。 &ref(工程_09(火船作戦:スペイン).JPG) 実は女王エリザベス1世に雇われる前、Giambelliは王フェリペ2世に「僕を雇って下さい」と売り込んでます。 でも適当にあしらわれて不採用。 プライドを傷つけられたGiambelliは「僕を笑うスペインは僕に泣くぜ!」と心に誓ったなんてウワサもあります。 } #endregion **⑩【8月8日(ユリウス暦:7月29日)】グラヴリーヌ沖の海戦 火船作戦!で散り散りになったスペイン艦隊はグラヴリーヌ沖へ流されながら陣形を立て直します。とーぜんイングランド艦隊は追撃。 そしてアルマダ海戦の中で一番の接近戦。一番の激戦。 イングランド艦隊は弾薬が尽きるまで砲撃。その後お互い船を修理。交戦中にスペイン艦隊の3隻が座礁、1隻が沈没してます。 &ref(アルマダ海戦_工程_10.JPG) #region(close,サン・ロレンソ号の座礁) サン・ロレンソ号はガレアス小戦隊(指揮官ウーゴ・デ・モンカーダ)のガレアス船です。 火船の混乱で仲間の船と衝突。 舵を損傷したサン・ロレンソ号は操船不能。オールを漕いでカレーに戻ろうとしてカレー沖の砂州に座礁します。 &ref(工程_10(サン・ロレンソ号).JPG)ジョン・パイン画 #blockquote(){&u(){&bold(){私欲を優先した最高司令官エフィンガム男爵}} イングランド艦隊は散り散りのスペイン艦隊を追撃します。 でもサン・ロレンソ号を発見した最高司令官エフィンガム男爵は、自分の戦隊を率いて勝手にイングランド艦隊を離脱。 ボート(浅瀬で船が近づけないから)を降ろしてサン・ロレンソ号をバンバン攻撃します。 スペイン艦隊の味方カレーは、バンバン攻撃する最高司令官エフィンガム男爵を陸からバンバン攻撃して邪魔します。 &ref(工程_10(サン・ロレンソ号:集中砲火).JPG) バンバン攻撃されて指揮官ウーゴ・デ・モンカーダが亡くなると、戦意を失ったスペイン兵は逃げ出します。 カレーに逃げようと海に飛び込んで大勢のスペイン兵が溺死。 最高司令官エフィンガム男爵はサン・ロレンソ号で略奪を始めます。艦長達は捕虜。そーゆー時代なのね。 &ref(工程_10(サン・ロレンソ号:略奪).JPG) カレー駐在スペイン士官ベルナベ・デ・ペドロ(Bernabe de Pedroso、 the senior Spanish officer)は、カレーに辿り着いたスペイン兵を集めて略奪するイングランド兵を追い出します。 すると今度はスペイン艦隊の味方カレーがサン・ロレンソ号の略奪を開始。はあ!? それを見たイングランド兵が「俺の獲物を盗むんじゃねー」とカレーを威嚇。 威嚇されたカレーが「邪魔するなら大砲でボートを木っ端微塵にするぞ」と威嚇。もうね…何と言えばいいのやらデス。 スペイン士官ベルナベ・デ・ペドロはサン・ロレンソ号の大砲だけ回収して船を放棄しました。 } #endregion #region(close,スペイン艦隊の再集結) 散り散りになったスペイン艦隊はグラヴリーヌ沖へ流されます。錨がないから止まれない。もうカレーには戻れない。 ってか、陣形が崩れると防衛力ダウン。ヤバイ!とってもヤバイ! 流されながらも頑張って陣形を立て直します。ジョン・パイン画は見つかりませんでした。 こちらは[[Jan Luyken>http://en.wikipedia.org/wiki/Jan_Luyken]]画「The mighty display of the Spanish armada in 1588」(1679年:ネーデルラント)。雰囲気だけどうぞ。 &ref(工程_10(スペイン艦隊の再集結).JPG)こんな感じ? #blockquote(){&u(){&bold(){盾になった司令長官シドーニア公爵}} イングランド艦隊にとって防衛力ダウンのスペイン艦隊は攻撃のチャンス。とーぜん追います。ヤバイ!とってもヤバイ! カレー沖に残ってるスペイン艦隊は5隻。 5隻がイングランド艦隊と散り散りのスペイン艦隊の間に立って防戦。皆さーん!防戦してる間に陣形を立て直してね♥ |>|>|>|&ref(工程_10(スペイン艦隊の再集結:盾).JPG)| |BGCOLOR(lightgrey):盾になった5隻|サン・マルティン号|サン・マテオ号|サン・マルコス号| |~|サン・ファン・デ・ポルトガル号|サン・ファン・バウティスタ号|| イングランド艦隊(最高司令官エフィンガム男爵を除く)は盾になった5隻を攻撃。砲撃の順番待ちまでしてます。 サン・マルティン号は200発以上も被弾。 被弾しながら陣形を立て直したスペイン艦隊に合流します。もうね…何と言えばいいのやらデス。 } #endregion #region(close,グラヴリーヌ沖の海戦) スペイン艦隊は白兵戦に持ち込もうとします。イングランド艦隊は程良い距離から大砲やマスケット銃を撃ちまくります。 撃って、撃たれて、皆さん穴だらけ。 でもイングランド艦隊の大砲は非力でした。頑丈な船のスペイン艦隊は多少陣形が崩れたくらいで屁のカッパ。 ちなみに屁のカッパの由来は「木っ端の火(こっぱのひ)」だそうです。へー。 &ref(工程_10(グラヴリーヌ沖の海戦).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){屁のカッパとはいえ…}} イングランド艦隊の大砲はスペイン艦隊の3倍撃ってます。非力でもスペイン艦隊の船はそれなりにダメージあり。 司令長官シドーニア公爵は後衛部隊を新設して損傷の激しい船を保護。 戦いながらバンバン発生する問題にも対処していく…司令長官って大変なお仕事なんですね。 &ref(工程_10(グラヴリーヌ沖の海戦:屁のカッパ).JPG) アルマダ海戦中のサン・マルティン号(司令長官シドーニア公爵)は、どの海戦でも旗艦らしく勇敢に戦ってます。 それだけに撃たれっぷりも激しい。 沈まなかったのは他の船より造りが頑丈だったからみたい。あっ、敵味方関係なく皆さんも勇敢に戦ってボロボロです。 } #endregion #region(close,ラ・マリア・ファン号の沈没、サン・マテオ号とサン・フェリペ号の座礁) ビスカヤ戦隊のラ・マリア・ファン号、ポルトガル戦隊のサン・マテオ号とサン・フェリペ号は集中砲火を浴びます。 ラ・マリア・ファン号はイングランド艦隊と降伏交渉中に沈没。 助かったのは1隻のボートに乗り込んだ皆さんだけ。 サン・マテオ号とサン・フェリペ号は流されて[[ワルヘレン島>http://en.wikipedia.org/wiki/Walcheren]]で座礁します。キャラック船も[[ブランケンベルヘ>http://en.wikipedia.org/wiki/Blankenberge]]で座礁してます。 &ref(工程_10(サン・マテオ号).JPG) あっ、座礁した場所と画はびみょーに違います。とりあえずサン・マテオ号とサン・フェリペ号はネーデルラント艦隊が拿捕。 そしてやっぱり略奪。 船もスペイン兵も[[フリッシンゲン>http://en.wikipedia.org/wiki/Vlissingen]]へ曳航されました。キャラック船についてはぜーんぜん分かりませんでした。 #endregion **⑪【8月9日(ユリウス暦:7月30日)】帰国 スペイン艦隊は風に押されて北東へ流れます。どんどんカレーから離れて行く…風と潮流とイングランド艦隊と戦って戻るのはムリ。 ってことで、司令長官シドーニア公爵はスペインへの帰国を決意。 それを知らないイングランド艦隊は追撃します。13日スコットランドの海域に入ったところで撤収。海戦が終わりました。 &ref(アルマダ海戦_工程_11.JPG) #region(close,司令長官シドーニア公爵の決意「スペイン艦隊の帰国」(残酷な画があるのでご注意下さい)) グラヴリーヌ沖の海戦が終了した8日の夕方、司令長官シドーニア公爵はイングランド艦隊の弾薬不足に気がついてます。 おまけに強い北西風がブワー♥ 幸運にもスペイン艦隊はカレーの近所に戻れました。これならパルマ公と合流できる。よーし!明日も戦うぞー! &ref(工程_11(スペイン艦隊の帰国).JPG) よーし!今日も戦うぞー!9日の朝、風が凪ぎます。スペイン艦隊は潮流でじわじわフランドルの砂州に近づいてます。 イングランド艦隊が「座礁しろー!」と祈ってると南西風がブワー♥ 幸運にもスペイン艦隊はどんどん砂州から離れて行きます。あっ、でもどんどんカレーからも離れちゃってるの。えーっ! &ref(工程_11(スペイン艦隊の帰国:チェス).JPG)[[William Reynolds-Stephens>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Reynolds-Stephens]]作「A Royal Game」(1906年) このまま南西風のブワーが続けば、スペイン艦隊はもっとカレーから離れちゃいます。皆さんの士気もダウン気味。 ってことで、作戦会議。皆さん帰国を支持。 もう風と潮流とイングランド艦隊と戦って戻るのはムリ…とうとう司令長官シドーニア公爵はスペインへの帰国を決意します。 #blockquote(){&u(){&bold(){お家へ帰ろう!無事に帰国するためには「規律が重要」だから絞首刑!?}} 司令長官シドーニア公爵には気になる問題がありました。それは火船奇襲で艦長達が「艦隊より身の安全を優先」したコト。 ゆゆしき規律違反!対処せねば! 20人の艦長が告発されてキビシイお叱りを受けます。数人は艦長をクビ、数人が[[絞首刑>http://en.wikipedia.org/wiki/Hanging]]を宣告されました。 &ref(工程_08(ナイトの爵位:絞首刑).JPG)そーゆー時代 実際にサンタ・バルバラ号艦長クリストバル・デ・アビラ(Cristobal de Avila:ギブスコア戦隊)が絞首刑になります。 規律を徹底させるための生け贄。 司令長官シドーニア公爵にとって必要な生け贄だったそうです。うーん、褒められて伸びる私にはちんぷんかんぷん。 } #blockquote(){&u(){&bold(){司令長官シドーニア公爵の絞首刑に賛同しない人もいるのかも?}} えっと…生け贄を前向きに考えてみると、軍隊にとって「規律」は「部隊の戦闘効率を最大化して被害を抑制」だそうです。 「規律」の対極は「戦闘行動の混乱」と「士気の低下」。 お家へ帰ろう!とはいえ、どの船もボロボロです。負傷者や病人もいっぱい。水や食料も不足。 司令長官シドーニア公爵はスペイン艦隊を無事に帰国させなくちゃいけない。だから生け贄が必要だったのかしら??? &ref(工程_11(スペイン艦隊の帰国:絞首刑).JPG)大将[[ジョン・ビング>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Byng]]は[[ミノルカ島の海戦>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Minorca_(1756)]]で「最善を尽くさなかった」から銃殺刑(1757年:イギリス海軍) 実はサン・ペドロ号艦長[[フランシスコ・デ・クエジャル>http://en.wikipedia.org/wiki/Francisco_de_Cuellar]](カスティーリア戦隊)も絞首刑を宣告されます。 告発したのはFrancisco de Bobadilla。 監察官Martin de Arandaが乗船するサン・ファン・デ・シシリア号(San Juan de Sicilia:レパント戦隊)へ移送されたけど、刑は施行されずそのままシシリア号に残りました。 } #endregion #region(close,イングランド艦隊の撤収) パルマ公との合流を諦めて帰国を決定したスペイン艦隊は北へ進みます。それを知らないイングランド艦隊は追撃します。 でもその間にパルマ公がイングランドに侵攻したらヤバイ! ってことで、最高司令官エフィンガム男爵は海峡戦隊にダウンズへ戻るよう命じます。 &ref(工程_11(イングランド艦隊の撤収).JPG) スペイン艦隊はスコットランドの海域に入ります。イングランド艦隊は弾薬どころか水や食料も不足してきました。 追撃したいけどこれ以上はムリ! ってことで、最高司令官エフィンガム男爵はイングランド艦隊をイングランド北東の港へ入るよう命じます。 #endregion #region(close,女王エリザベス1世のティルベリー演説) [[ティルベリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Tilbury]]には、パルマ公の侵攻からロンドンを守る陸軍総司令官[[レスター伯ロバート・ダドリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Dudley,_1st_Earl_of_Leicester]]の兵が待機してます。 スペイン艦隊がスコットランドの海域に入った後も侵攻を警戒して待機。 女王エリザベス1世はティルベリーに出向いて兵を激励。2日後陸軍総司令官レスター伯は兵を解散します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Speech_to_the_Troops_at_Tilbury]] |&ref(工程_11(ティルベリー演説).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:女王エリザベス1世を護衛する皆さん| |~|[[アイルランド大蔵卿>http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_High_Treasurer_of_Ireland]][[オーモンド伯爵トーマス・バトラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Butler,_10th_Earl_of_Ormond]](アイルランド系貴族)| |~|陸軍総司令官レスター伯爵ロバート・ダドリー| |~|騎兵長官[[エセックス伯爵ロバート・デヴァルー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Devereux,_2nd_Earl_of_Essex]](陸軍総司令官レスター伯爵の息子)| |~|[[サー・ジョン・ノリス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Norreys]](陸軍総司令官レスター伯爵の部下)| |~|※あと2人いるけど誰か分かりませんでした。| ティルベリーは侵攻阻止するには遠すぎです。世間の評判も悪くて陸軍総司令官レスター伯は必死にウワサを打ち消してます。 枢密院は「経費節減でティルベリーの兵は解散しよう」と検討。 陸軍総司令官レスター伯は「まだダメ!」と女王エリザベス1世にティルベリーで演説してもらうようお願いしたそうです。 #blockquote(){&u(){&bold(){超有名な女王エリザベス1世の演説}} 演説の内容は王室の従軍牧師[[Leonel Sharp>http://en.wikipedia.org/wiki/Leonel_Sharp]]、王室の家庭教師[[William Leigh>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Leigh]]、James Askeの3バージョンあります。 最有力はLeonel Sharp。 こちらは演説が書かれたLeonel Sharpの手紙。送った相手は陸軍総司令官レスター伯かもしれません。 &ref(工程_11(ティルベリー演説:テキスト).JPG) My loving people &color(silver){我が愛する民よ} We have been persuaded by some that are careful of our safety, &color(silver){私の身を案じる者達は忠告し続けます、} to take heed how we commit our selves to armed multitudes, &color(silver){「武器を持つ兵の前に出るのは控えよ」と、} for fear of treachery; &color(silver){「謀反が起きたらどうするのだ」と。} but I assure you I do not desire to live to distrust my faithful and loving people. &color(silver){でも私には忠実な愛する民への疑いは不要です。} Let tyrants fear. &color(silver){そんな恐れは暴君だけがするものです。} I have always so behaved myself that, under God, &color(silver){なぜなら私は常に神のもと、} I have placed my chiefest strength and safeguard in the loyal hearts and good-will of my subjects; &color(silver){この身を忠誠心と良心を持つ民の中に置いているのだから。} and therefore I am come amongst you, as you see, at this time, &color(silver){だから私は貴方達の前にやって来たのです、} not for my recreation and disport, &color(silver){遊びでも気晴らしでもなく、} but being resolved, in the midst and heat of the battle, to live and die amongst you all; &color(silver){貴方達と共に生き、共に死ぬために。} to lay down for my God, and for my kingdom, and my people, my honour and my blood, &color(silver){我が神の、我が王国の、我が民の、我が名誉と血のために、} even in the dust. &color(silver){たとえこの身が塵となろうとも。} I know I have the body of a weak, feeble woman; &color(silver){確かに、私はか弱く脆い一人の女性。} but I have the heart and stomach of a king, and of a king of England too, &color(silver){でも王の、イングランド王の熱意と忍耐を携えています、} and think foul scorn that Parma or Spain, &color(silver){イングランド王の熱意と忍耐で愚かなパルマ公やスペイン王を迎えてやりましょう、} or any prince of Europe, should dare to invade the borders of my realm; &color(silver){我が王国を侵そうとする全ての者達を。} to which rather than any dishonour shall grow by me, I myself will take up arms, &color(silver){私は不名誉より剣を選びます、} I myself will be your general, judge, and rewarder of every one of your virtues in the field. &color(silver){私自らが指揮官となり、貴方達の勇気に報いましょう。} I know already, for your forwardness you have deserved rewards and crowns; &color(silver){貴方達の意気込みは報酬と栄誉に値します。} and We do assure you on a word of a prince, they shall be duly paid. &color(silver){敵が大きな代償を支払うことを約束します。} In the mean time, my lieutenant general shall be in my stead than whom never prince commanded a more noble or worthy subject; &color(silver){私の名代である将軍(陸軍総司令官レスター伯?)は気高くその名に相応しく使命を果たすでしょう。} not doubting but by your obedience to my general,  &color(silver){貴方達の疑いない将軍への忠誠心で、} by your concord in the camp, and your valour in the field, &color(silver){そして貴方達の団結力と勇気で、} we shall shortly have a famous victory over these enemies of my God, of my kingdom, and of my people. &color(silver){我々はもうすぐ我が神の、我が王国の、我が民の、正義の勝利を手にするのです。} } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにアルマダ食器}} 16、17世紀の富裕層は名声と投資で銀をビシバシ収集してました。 こちらはプリマスで[[ウォルター・ローリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Raleigh]]の略奪品を管理するSir Christopher Harrisと奥さんMary Sydenhamの収集品。 スペイン商船からの略奪品かもしれません。お名前の由来はアルマダ海戦の勝利から。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Armada_Service]] &ref(工程_11(アルマダ食器).JPG)The Armada Service(1581-1601年:銀メッキ製) } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにアルマダトランプ}} こちらはイングランドの政治史や歴史を描いたトランプ52枚(ジョーカーの誕生は1860年)です。 数枚がアルマダ海戦のカード。 カード♠5の説明書きには「北海を廻ったスペイン艦隊はたくさん沈没した」と書かれてます。 &ref(工程_11(アルマダトランプ).JPG)カード♠5(1675-1699年) } #endregion *スペイン艦隊の帰国 北海に追い込まれた艦隊総司令官メディナ・シドーニア公は大西洋経由での帰国を決意します。 でも多くの船が破損。水も食料も武器も不足。航海情報(気候、[[メキシコ湾流>http://en.wikipedia.org/wiki/Gulf_Stream]]、多くの岩礁、小さな島々…)も不足。 大西洋を経由するにはあまりにもキビシイ条件です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada_in_Ireland]] &ref(アルマダ海戦_工程.PNG) アイルランド沖で南西の強風にあったスペイン艦隊は散り散りになります。 ア・コルーニャを出航した時のスペイン艦隊は130隻、アルマダ海戦で残った船は110隻、スペインに帰国できた船は84隻。 5,000人がアイルランドで命を落としたそうです。 #region(close,艦隊総司令官メディナ・シドーニア公の帰国計画) こちらは1570年スペイン王フェリペ2世の地理学者[[アブラハム・オルテリウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Abraham_Ortelius]]が作った世界地図。海図じゃないです。 艦隊総司令官メディナ・シドーニア公はスペインへ帰還する航路を計画。 F&B時代は経度をゲトするのが難しいから緯度だけ指示してます。緯度×経度の詳細は[[【船】航海(緯度×経度)]]をどうぞ。 #blockquote(){&u(){&bold(){超ザックリ「艦隊総司令官メディナ・シドーニア公の帰国計画」}} スペイン艦隊は北北東に針路を取り北緯61度30分まで進む。 大西洋に入ったら東南東に変針して北緯58度([[アウター・ヘブリディーズ諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Outer_Hebrides]]の[[ロッコール島>http://en.wikipedia.org/wiki/Rockall]]あたり)まで下る。 [[アイルランド島>http://en.wikipedia.org/wiki/Ireland]]沿岸は座礁の恐れがあるので、南西に変針して北緯53度(幻の島[[ブラジル島>http://en.wikipedia.org/wiki/Brasil_(mythical_island)]]あたり)まで下る。 そこからは南東に針路を取ってスペインへ帰還する。 &ref(スペイン艦隊の帰国.JPG) } #endregion **アイルランドに漂着した上陸部隊指揮官アロンソ・デ・レイバ イングランドはアイルランドに漂着したスペイン軍を指名手配します。スペイン軍は敵地同然の地から脱出しなければいけなかった。 彼らの先頭に立ったのが上陸部隊指揮官アロンソ。 懸命に脱出を試みます。悲しいお話しだけど落ち込まないでね。アロンソって不撓不屈な騎士道精神を持った人だと思いませんか? &ref(登場人物_アロンソ・デ・レイバ(アイルランド).PNG)アルマダ海戦の地図の&color(red){□}を拡大(上側が北です) |BGCOLOR(lightgrey):1588年9月7日|BGCOLOR(lightgrey):[[ブラックソッド湾>http://en.wikipedia.org/wiki/Blacksod_Bay]]|アロンソが乗船するLa Rata Santa Maria Encoronada号は強風でアンカーを失って漂着。&br()●Rata号(レパント・イタリア隊)の乗組員は419人。&br()●上陸後に船を焼却。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[ブロードヘイブン湾>http://en.wikipedia.org/wiki/Broadhaven_Bay]]|マストを失って漂着した船の乗組員達と合流。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):ブラックソッド湾|Duquesa Santa Ana号とNuestra Senora de Begona号と合流。&br()●Duquesa号(アンダルシア隊)の乗組員は357人。&br()●Nuestra号(カスティーリア隊)の乗組員は297人。| |BGCOLOR(lightgrey):|~|2隻でスペインへ向けて出航。&br()●アロンソが乗船するDuquesa号の乗組員は600人。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[ロクロス・モア湾>http://en.wikipedia.org/wiki/Donegal]]&br()Loughros Mor Bay|Duquesa号は嵐で破損。アイルランドへの引き返しを余儀なくされる。&br()●アロンソはキャプスタン(アンカー巻き揚げ装置)で重傷を負う。&br()●Nuestra号は[[サンタンデール>http://en.wikipedia.org/wiki/Santander,_Spain]](スペイン)に無事到着。| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):[[キリーベグス港>http://en.wikipedia.org/wiki/Killybegs]]|ラ・ジローナ号(ナポリ・ガレアス隊)と合流。| |BGCOLOR(lightgrey):|~|キリーベグス族長(chieftain, MacSweeney Bannagh)の協力でラ・ジローナ号を修理。| |BGCOLOR(lightgrey):10月25日|~|ラ・ジローナ号でスコットランドへ向けて出航。&br()●乗組員は1,300人。| |BGCOLOR(lightgrey):10月28日の夜|BGCOLOR(lightgrey):[[ダンルース城>http://en.wikipedia.org/wiki/Dunluce_Castle]]付近|ラ・ジローナ号が強風で舵が壊れて難破。&br()●生存者は9名。| **ラ・ジローナ号 ラ・ジローナ号がスコットランドを目指したのは、乗組員が多すぎてスペインへの長い航行に耐えられなかったからです。 カトリック教徒がいるスコットランドで船を修理して帰国しようと計画。 生存者は、イングランド排斥運動で有名な北アイルランド王子[[Sorley Boy MacDonnell>http://en.wikipedia.org/wiki/Sorley_Boy_MacDonnell]]の助けでスコットランドへ送り届けられてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Girona_%28ship%29]] &ref(スペイン艦隊の帰国_ラ・ジローナ号.JPG)ラ・ジローナ号(北アイルランドのお札:1994年頃) #region(close,アロンソもここに眠ってるのかしら?) 命を落とした乗組員達は、ダンルース城近くの聖カスバート墓地(St. Cuthbert's graveyard)に埋葬されたと言い伝えられてます。 &ref(スペイン艦隊の帰国_ラ・ジローナ号(聖カスバート墓地).JPG) #endregion #region(close,その後のラ・ジローナ号) 1968年水中考古学者[[ロバート・ステニュイ>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_St%C3%A9nuit]]が海の底に眠るラ・ジローナ号を調査しています。 船は朽ちてしまったけれど、宝石をちりばめた小間物、階級章、優しく刻まれた愛の証、1,200枚の金貨と銀貨が残ってました。 アロンソのサンティアゴ騎士団の勲章も…。 ~[[BBC History>http://www.bbc.co.uk/history/british/tudors/armada_gallery_08.shtml]]さんより ~ &ref(スペイン艦隊の帰国_ラ・ジローナ号(遺品).JPG) サンティアゴ騎士団の勲章は、命を落とした乗組員達の中で勲章を持てる身分からアロンソの遺品と考えられてます。 ルビーをはめ込んだ金の[[ファイア・サラマンダー>http://en.wikipedia.org/wiki/Fire_salamander]]は兵士に好まれたお守り。 古代ヨーロッパでは「火の中で生きることができる生物」と信じられていました。遺品は[[Ulster Museum>http://en.wikipedia.org/wiki/Ulster_Museum]]に納められてます。 #endregion *ようこそ日本へ♥日本に漂着したウィリアム・アダムスさん [[ウィリアム・アダムス>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Adams_(sailor)]](1564–1620年:[[ジリンガム>http://en.wikipedia.org/wiki/Gillingham,_Kent]])はドレイク戦隊の貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長です。 アルマダ海戦の後[[バーバリー商会ロンドン会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Barbary_Company]]の航海士に。 ロッテルダム商会([[オランダ東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_East_India_Company]]の前身)の「[[テセル島>http://en.wikipedia.org/wiki/Texel]]から極東を目指すので航海士募集中」に魅せられて転職します。 &ref(ウィリアム・アダムス.JPG)日本の王様は[[豊臣秀頼>http://en.wikipedia.org/wiki/Toyotomi_Hideyori]](豊臣秀吉の息子) 1598年5隻の船団が出航します。1隻はポルトガルが拿捕。1隻はスペインが拿捕。1隻は航海断念。1隻は沈没。 残ったのはウィリアムが乗船する[[リーフデ号>http://nl.wikipedia.org/wiki/De_Liefde_(galjoen)]]のみ。 1600年4月29日なんとか臼杵市(大分県)に漂着しました。日本に初めて来たオランダ船、初めて来たイギリス人。ようこそ日本へ♥ #region(close,リーフデ号は海賊船デース!危ないデース!) 日本にはスペイン人やポルトガル人のカトリック宣教師います。 [[イエズス会>http://en.wikipedia.org/wiki/Society_of_Jesus]]の宣教師は「リーフデ号は海賊船デース!危ないデース!オランダ人やイングランド人は即刻処刑デース!」と要求。 プロテスタントの侵入を恐れたのかしら? ウィリアム達は投獄されちゃいました。 &ref(ウィリアム・アダムス(イエズス会).JPG)イエズス会の宣教師と日本人(1600年頃:日本) すっかり海賊船と信じた五大老[[徳川家康>http://en.wikipedia.org/wiki/Tokugawa_Ieyasu]](豊臣秀頼の次の王様)はウィリアム達を事情聴取します。 ウィリアム達はカトリックとプロテスタントの確執を説明。 誤解が解けて釈放されました。その後も宣教師は執拗に「即刻処刑デース!」と騒いでたけど徳川家康はスルー。 #endregion #region(close,武士になったウィリアム・アダムス) 釈放されたウィリアムは江戸(徳川家康の領地)に招かれます。あっ、1600年10月21日[[関ヶ原の戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sekigahara]]がありました。 帰国を希望したけど徳川家康は却下。 徳川家康の下で外交の通訳や助言、航海術や数学の先生として働きます。1602年頃お雪(マリア)さんと結婚。 &ref(ウィリアム・アダムス.JPG)日本の王様は徳川家康 12歳から12年間ウィリアムは造船所([[ライムハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Limehouse]])の船大工でした。1588年奉公年限が終わってアルマダ海戦に参戦したの。 徳川家康は「船大工だったのか!んじゃ、造船ドック(伊東)作って」と依頼。すっごい無謀…。 なんとか完成したウィリアムは逸見 (横須賀)の[[旗本>http://en.wikipedia.org/wiki/Hatamoto]]、「三浦按針」(三浦:三浦半島、按針:航海士)の名乗りを与えられます。 イングランドだと旗本は貴族の「卿([[Lord>http://en.wikipedia.org/wiki/Lord]])」辺りなのかなぁ?おめでとー♥ #blockquote(){&u(){&bold(){帰国しなかったウィリアム・アダムス}} 1613年[[イギリス東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company]]の[[クローブ号>http://en.wikipedia.org/wiki/Clove_(ship)]]が交易を求めて来日。日本に初めて来たイングランド船です。ようこそ日本へ♥ 日英両方がウィリアムの帰国を許可。 でもウィリアムはクローブ号の指揮官[[ジョン・セーリス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Saris]]と馬が合わず帰国をお断りしちゃいました。 &ref(ウィリアム・アダムス(サン・ファン・バウティスタ号).JPG)[[支倉常長>http://en.wikipedia.org/wiki/Hasekura_Tsunenaga]]とサン・ファン・バウティスタ号 日本に残ったウィリアムはオランダ商館を辞めて母国イギリス商館(平戸)の顧問になります。 徳川水軍の将[[向井忠勝>http://en.wikipedia.org/wiki/Mukai_Shogen_Tadakatsu]]の仕事もお手伝。 スペインへ派遣した慶長遣欧使節のガレオン船[[サン・ファン・バウティスタ号>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan_Bautista_(ship)]](建造:1613年)にも関わったみたいです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){そして日本は鎖国の道へ}} 1616年徳川家康が亡くなります。王様の[[徳川秀忠>http://en.wikipedia.org/wiki/Tokugawa_Hidetada]](徳川家康の息子)は[[鎖国>http://en.wikipedia.org/wiki/Sakoku]]へまっしぐら。 ウィリアムの待遇もダダ落ち。 不遇されながら1620年平戸で永眠しました。逸見の領地と三浦按針の名乗りは息子ジョゼフ・アダムズが継いでます。 21世紀にも日本橋の按針通り(ウィリアムの屋敷跡)、横須賀の[[安針塚駅>http://en.wikipedia.org/wiki/Anjinzuka_Station]]と痕跡が残ってます。 &ref(ウィリアム・アダムス(出島).JPG)鎖国中の窓口の1つ人工島[[出島>http://en.wikipedia.org/wiki/Dejima]](1897年:シイボルト著「NIPPON」) クローブ号の来日で設立したイギリス商館は、ウィリアムが徳川家康や徳川秀忠との拝謁や通商許可をお膳立てしました。 その後もウィリアムが日本と商館を仲介。 ウィリアムの死去は大きな痛手です。たたでさえ後発隊のイギリス商館は1623年業績不振で閉鎖します。 鎖国まっしぐらの幕府は1673年イギリス船の来航禁止(リターン号事件)。再開は1854年[[日英和親条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Japanese_Friendship_Treaty]]までお待ち下さい。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Westerners_who_visited_Japan_before_1868]] } #endregion #region(close,クローブ号で繋がった日本とプリマス) こちらはクローブ号の航海年表。イングランド王ジェームズ1世は日本からの献上品を大切にしたそうです。 甲冑は21世紀ロンドン塔に展示中。 あとクローブ号の指揮官ジョン・セーリスが個人用に持ち帰った春画は「公序良俗に反する」で没収、破棄されちゃいましたwww なんでバレたんだろう…船って帰港したら隅々までチェックされるのかしら? |BGCOLOR(lightgrey):1611年|BGCOLOR(lightgrey):4月18日|BGCOLOR(lightgrey):イングランド|イングランドを出航。&br()マダガスカル、イエメン、スリランカ、インドネシア、モルッカ諸島へ寄港。| |BGCOLOR(lightgrey):1613年|BGCOLOR(lightgrey):6月10日|BGCOLOR(lightgrey):天草沖|遭遇した漁船に水先案内を依頼。日本人2人が乗船。| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|BGCOLOR(lightgrey):平戸|平戸へ到着。平戸藩主とクローブ船上で面会。鉄砲を贈呈して食料をゲト。| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|~|平戸藩が用意した船で平戸を出航。ウィリアム・アダムスが乗船。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月6日|BGCOLOR(lightgrey):駿府|下関、堺、大阪、京都を経由して駿府に到着。&br()徳川家康に王ジェームズ1世の国書と献上品をプレゼント。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月12日|~|駿府を出航。鎌倉で見学した大仏にサインしたらしい。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月14日|BGCOLOR(lightgrey):江戸|江戸へ到着。将軍徳川秀忠に拝謁。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月21日|~|江戸を出航。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月29日-10月9日|BGCOLOR(lightgrey):駿府|| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月16日-10月20日|BGCOLOR(lightgrey):京都|平戸藩の船で大阪を出航。下関から陸路で平戸へ。| |~|BGCOLOR(lightgrey):11月6日|BGCOLOR(lightgrey):平戸|平戸へ到着。中国人貿易商[[李旦>http://en.wikipedia.org/wiki/Li_Dan_(pirate)]]の持家を借りてイギリス商館を設立。&br()その後江戸、京都、大坂にも支部を設立。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|~|&ref(ウィリアム・アダムス(通商許可).JPG)通商許可の朱印状(1609年:オランダ)&br()徳川家康から朱印状と献上品をゲト。日本を出航。|  |BGCOLOR(lightgrey):1614年|BGCOLOR(lightgrey):9月|BGCOLOR(lightgrey):プリマス|プリマスへ到着。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月|BGCOLOR(lightgrey):ロンドン|ロンドンへ到着。書状と献上品を王ジェームズ1世に渡す。&br()漆器や屏風はイギリス初の芸術品オークションで売却。| #blockquote(){&u(){&bold(){クローブ号で繋がった日本とプリマス}} クローブ号で日本とイングランドはお知り合いになりました。2014年日本とイギリスは日英交流400周年を開催。 なーんとプリマスでも色々なイベントを開催。 プリマスへ帰港したからです♥ この勢いで日本のどこかと[[姉妹都市>http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_twin_towns_and_sister_cities_in_the_United_Kingdom]]になったらいいのになぁ。 ~[[The Japan400>http://japan400.com/]]さんより~ &ref(ウィリアム・アダムス(クローブ号).JPG)たぶんクローブ号と日の丸と富士山(The Japan400 Plymouth) } #endregion ---- ---- ※ものすごーくお世話になったサイト。詳細はこちらをご覧下さい。 ・参考文献:アンガス・コンスタム著「図説スペイン無敵艦隊:エリザベス海軍とアルマダの戦い」(原書房) ---- ----

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