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#contents_line(level=2,sep=/) *スコットランド女王メアリーの系図 &ref(系図_スコットランド.png) *女王メアリーのざっくり年表の登場人物 女王メアリーは生まれたときから居場所も味方も運もナシのお嬢様って感じです。女王としての自覚と知恵もちょびっと足りなかった? お陰様で波瀾万丈の人生。 波瀾万丈に関わった人はワンサカいるけど、ここでは頑張った皆さんに申し訳ないくらい省略しちゃってます。 &ref(年表の登場人物.jpg)[[William Hole>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Hole_(artist)]]画「The Face of Scotland」(1898年:[[スコットランド国立肖像画美術館>http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_National_Portrait_Gallery]]) **女王メアリーの家族 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:紋章と在位|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:家族| |BGCOLOR(lightgrey):&ref(年表の登場人物_家族(紋章:王ジェームズ5世).jpg)&br()1513–1542年|スコットランド王&br()父親[[ジェームズ5世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_V_of_Scotland]]&br()(1512–1542年)|カトリック教徒| |~|~|●母親は[[マーガレット・テューダー>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Tudor]](イングランドヘンリー8世の姉)&br()●結婚を前提に人妻[[Margaret Erskine>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Erskine]]を略奪(大貴族アースキン卿の娘)&br()●でも国益のためメアリ・オブ・ギーズと結婚&br()&br()●[[ソルウェイ湿原の戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solway_Moss]](1542年)の後急死| |BGCOLOR(lightgrey):|母親[[メアリ・オブ・ギーズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_of_Guise]]&br()(1515–浮腫:1560年)|カトリック教徒| |~|~|●父親は[[ギーズ公クロード>http://en.wikipedia.org/wiki/Claude,_Duke_of_Guise]](フランスの大貴族[[ギーズ家>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Guise]])&br()●母国フランスを頼りまくりながら女王メアリー不在のスコットランドを守る| |BGCOLOR(lightgrey):|マリ伯&br()異母兄[[ジェームズ・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]&br()(1531-暗殺:1570年)|カトリック教徒→プロテスタント教徒| |~|~|●父親は王ジェームズ5世。母親はMargaret Erskine(大貴族アースキン卿の娘)&br()●父親が母親と結婚しなかったので庶子扱い&br()●女王メアリーと王ジェームズ6世の最高政治顧問に就任| |BGCOLOR(lightgrey):&ref(年表の登場人物_家族(紋章:王ジェームズ5世).jpg)&br()1542–1567年|スコットランド女王&br()[[メアリー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]]&br()(1542-処刑:1587年)|カトリック教徒| |~|~|●生後6日でスコットランド女王に即位&br()●イングランドに負けてフランスへ亡命。フランス皇太子フランソワ2世と結婚&br()●フランス王フランソワ2世が死亡。スコットランドへ帰国&br()●異母兄マリ伯に負けてイングランドへ亡命。女王エリザベス1世が処刑| |BGCOLOR(lightgrey):&ref(年表の登場人物_家族(紋章:王ジェームズ6世).jpg)&br()1567–1625年&br()1603–1625年|スコットランド王&br()息子[[ジェームズ6世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]&br()イングランド王&br()ジェームズ1世&br()(1566-赤痢:1625年)|プロテスタント教徒| |~|~|●父親は[[ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]]。名付け親は女王エリザベス1世?&br()●1歳でスコットランド王に即位&br()●イングランドへ亡命した母親とは生涯再会できず&br()&br()●[[王冠連合>http://en.wikipedia.org/wiki/Union_of_the_Crowns]](1人の王様がイングランドとスコットランドを統治)の王様1号| **女王メアリーの結婚 |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:-|イングランド王(皇太子)&br()[[エドワード6世>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England]]|●イングランド王ヘンリー8世の長男&br()●王ヘンリー8世が「息子と結婚させてスコットランドを頂くぜ!」と提案&br()●とーぜんスコットランドはお断り| |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1558-1560年|フランス王(皇太子)&br()[[フランソワ2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_II_of_France]]&br()(1544-脳炎:1560)|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()●フランス王アンリ2世の長男&br()●1559年フランス王に即位。あっという間に死亡| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1565-1567年|ダーンリー卿&br()[[ヘンリー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]]&br()(1545-殺害:1567)|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()●カトリック教徒。スコットランドとイングランドの王位継承権を持つ&br()●周囲の反対を押し切って結婚&br()●殺害されて結婚終了。犯人は夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン?| |~|~|~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:子供| |~|~|~|&bold(){スコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1567-?年|ボスウェル伯&br()[[ジェームズ・ヘップバーン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]]&br()(1535年-獄死:1578)|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()●プロテスタント教徒。女王メアリーに忠誠を誓う経験豊富で優秀な軍人&br()●周囲の反対を押し切って結婚&br()●逃亡先の[[デンマーク=ノルウェー国王>https://en.wikipedia.org/wiki/Denmark%E2%80%93Norway]]で獄死| *女王メアリーのざっくり年表(スコットランド編) 波瀾万丈な女王メアリーに申し訳ないくらい肝っぽそうな出来事だけ。ホントはもっと複雑でドロッドロで過酷でございます。 あとイングランドとスコットランドの国境は[[ハドリアヌスの長城>http://en.wikipedia.org/wiki/Hadrian%27s_Wall]]のちょっと南。 ハドリアヌスの長城は2世紀[[ブリタンニア島>http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Britain]]を支配してたローマ帝国がケルト人の侵入を防御するために建築しました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Scotland]] &ref(年表(スコットランド編).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) **仲良しのフランスへ亡命 英国国教会のイングランドとカトリック教会のフランスは昔からとーっても仲が悪いです。 このとばっちりを受けたのがカトリック教会のスコットランド。 イングランドにガンガン攻められた女王メアリーは「古い同盟」を結んでるフランスへ亡命するはめに…。波瀾万丈の始まりです。 &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーの亡命.png,【共通】共通の画)女王メアリーの亡命 |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1295年|BGCOLOR(lightgrey):|スコットランドとフランスが「古い同盟」を締結| |~|BGCOLOR(lightgrey):1542年|BGCOLOR(lightgrey):12月8日|皇太女メアリーが誕生| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|&bold(){スコットランド王ジェームズ5世が急死。女王メアリーが即位}&br()アラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_2nd_Earl_of_Arran]](女王メアリーの遠縁で次の王位継承者)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1543年|BGCOLOR(lightgrey):7月1日|イングランド王ヘンリー8世が息子エドワード6世と女王メアリーの婚約に失敗([[グリニッジ条約 >https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Greenwich]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月20日|&bold(){イングランドがスコットランドへ侵攻([[ラフ・ウーイングの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Wooing]])}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):7月7日|フランス王アンリ2世が息子フランソワ2世と女王メアリーの婚約に成功([[ハディントン条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Haddington]])| |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|&bold(){女王メアリーがフランスへ亡命}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月4日|女王メアリーがフランスとの密約書に署名&br()「女王メアリーが死んだらスコットランドとイングランドの王位継承権はフランスに譲る」| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|母親メアリ・オブ・ギーズが死亡| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|フランス王フランソワ2世が病死。[[王シャルル9世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_IX_of_France]]が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1561年|BGCOLOR(lightgrey):8月19日|女王メアリーがスコットランドに帰国| #region(close,スコットランドとフランスは仲良し♥(古い同盟)) イングランドとスコットランド、イングランドとフランスは大昔から戦ってます。スコットランドもフランスも敵が一緒♥ ってことで、1295年スコットランド王[[ジョン・ベイリャル>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Balliol]]とフランス王[[フィリップ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_IV_of_France]]は「古い同盟」を締結。 どちらかの国がイングランドに攻撃されたら「もう一方の国がイングランドに侵攻して助けるね♥」ってお約束です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]] &ref(年表_フランスへ亡命(古い同盟).jpg)イングランドを挟み撃ちの「古い同盟」 「古い同盟」は1560年[[エディンバラ条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]]まで王様が代わる度に更新されます(フランス王[[ルイ11世>https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_XI_of_France]]だけ更新しなかった)。 対イングランドの[[スコットランド独立戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_Scottish_Independence]]や[[百年戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Hundred_Years%27_War]]で大活躍♥ 女王メアリーの父親王ジェームズ5世と母親メアリ・オブ・ギーズ(フランスの大貴族)も「古い同盟」の流れで結婚しました。 #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド「うはははは!スクーンの石を頂いちゃったぜ!」}} [[スクーンの石>https://en.wikipedia.org/wiki/Stone_of_Scone]]は何世紀もの間、スコットランド王の[[戴冠式>https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation]](王様に即位するときの儀式)に使われてきた石です。 1296年イングランド王[[エドワード1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_I_of_England]]が戦利品として強奪。 イングランド王の戴冠式に使う[[エドワード王の椅子>https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation_Chair]]([[ウェストミンスター寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Westminster_Abbey]])にハメ込んじゃいました。えっ!? &ref(年表_フランスへ亡命(古い同盟:スクーンの石).jpg)最後にスクーンの石をご使用したのは[[女王エリザベス2世の戴冠式>http://en.wikipedia.org/wiki/Coronation_of_Queen_Elizabeth_II]](1953年6月2日) これは「イングランド王がスコットランド王を兼ねるからね!」って主張だそうです。スコットランドはムカムカ。 1328年イングランドはスクーンの石の返還に同意([[Treaty of Edinburgh–Northampton>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh%E2%80%93Northampton]])。 でもウェストミンスター寺院を囲んだ民衆の大反対で返還できませんでした。1996年やっとスコットランドに返還。 } #endregion #region(close,母親メアリ・オブ・ギーズ「このままでは女王メアリー が危ないわ!フランスへ避難させましょう」(ラフ・ウーイングの戦い)) スコットランドとフランスはカトリック教会で対イングランドの[[古い同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]]も結んでます。イングランドは英国国教会。 イングランド王ヘンリー8世は2国が手を結んで侵略してくるんじゃないかとハラハラ。 ってことで、スコットランドに「息子エドワード6世と女王メアリーを結婚させてスコットランドを頂くぜ!」と提案します。 |BGCOLOR(lightgrey):[[国王至上法>https://en.wikipedia.org/wiki/Acts_of_Supremacy]]|BGCOLOR(lightgrey):1534年|BGCOLOR(lightgrey):|イングランド王ヘンリー8世が英国国教会を作って脱カトリック教会!| |BGCOLOR(lightgrey):[[ソルウェイ湿原の戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solway_Moss]]|BGCOLOR(lightgrey):1542年|BGCOLOR(lightgrey):11月24日|王ヘンリー8世が「スコットランドも脱カトリック教会しないか?」っとお誘い&br()スコットランド王ジェームズ5世はお誘いをスルー&br()激怒した王ヘンリー8世が宣戦布告。結果はスコットランドの負け| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月8日|&bold(){皇太女メアリーが誕生}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|&bold(){スコットランド王ジェームズ5世が急死。女王メアリーが即位}| |BGCOLOR(lightgrey):[[グリニッジ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Greenwich]]|BGCOLOR(lightgrey):1543年|BGCOLOR(lightgrey):7月1日|王ヘンリー8世が平和協定を提案。内容はスコットランドの実質的支配&br()・女王メアリーのお世話(洗脳)はイングランドの貴族/紳士が担当&br()・女王メアリーは10歳になったらイングランドに移住。息子エドワード6世と結婚&br()・スコットランドの法律はとりあえず使ってもいいよ| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月11日|スコットランド長老制議会が拒否| とーぜんスコットランドは拒否。イングランド王ヘンリー8世は「かー!上手くいかねー!」と実力行使に出ます。 イングランド軍に押されまくりのスコットランド。 母親メアリ・オブ・ギーズは「このままでは娘メアリーが危ないわ!私の祖国フランスへ避難させましょう」と決意します。 |BGCOLOR(lightgrey):[[ラフ・ウーイングの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Rough_Wooing]]|BGCOLOR(lightgrey):1543年|BGCOLOR(lightgrey):12月20日|グリニッジ条約をスルーされて激怒した王ヘンリー8世がまたまた宣戦布告| |~|BGCOLOR(lightgrey):1547年|BGCOLOR(lightgrey):1月28日|イングランド王ヘンリー8世が死亡。王エドワード6世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):2月23日|&bold(){イングランド軍がハディントンの占領を開始([[ハディントン包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Haddington]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月9日|イングランド軍がエディンバラの近所[[マッセルバーグ>http://en.wikipedia.org/wiki/Musselburgh]]まで北上| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月16日|フランス軍がエディンバラに上陸| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月7日|&bold(){女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世と婚約([[ハディントン条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Haddington]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|&bold(){女王メアリーが[[ダンバートン>http://en.wikipedia.org/wiki/Dumbarton]]からフランスへ出航}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1550年|BGCOLOR(lightgrey):3月24日|イングランドとフランスが「ブーローニュ条約(Treaty of Boulogne)」を結ぶ| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):3月29日|イングランドが平和宣言| #blockquote(){&u(){&bold(){フランスでの幸せな生活♥(ハディントン条約)}} イングランド軍に押されまくりのスコットランドはフランスと条約を締結します(1548年:ハディントン条約)。 フランスにとって強力なイングランド王位継承権を持つ女王メアリーは魅力的。 交渉中の摂政アラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]]は王アンリ2世から[[シャテルロー公爵>https://en.wikipedia.org/wiki/Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]]を拝受してます。 ・女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)は婚約する。 ・その代わりフランスは[[ハディントン包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Haddington]](ラフ・ウーイングの戦いの1つ)に援軍を出してあげる。 ってことで、女王メアリーは[[ダンバートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Dumbarton]]から援軍フランス軍の船でフランスへ亡命できます。フランスでの幸せな生活♥ ただしその後のスコットランドはフランスに干渉されまくっちゃうの。 ちなみに摂政アラン伯は1559年脱フランス!脱カトリック教会!の[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]に鞍替え。シャテルロー公爵を剥奪されます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Haddington]] &ref(年表_フランスへ亡命(亡命:幸せな生活).jpg)女王メアリーのお家[[アンボワーズ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Amboise]](フランス) フランスへ亡命した女王メアリーは王アンリ2世の宮廷で[[ヴァージナル>http://en.wikipedia.org/wiki/Virginals]]や[[リュート>http://en.wikipedia.org/wiki/Lute]]を習ったり幸せな日々を送ります。 [[刺繍>http://en.wikipedia.org/wiki/Needlework]]、散文、詩、鷹狩り、馬術に堪能。 フランス語、イタリア語、ラテン語、スペイン語、ギリシア語も流暢。 活発で賢く美しい少女の女王メアリーはみんなのお気に入り。婚約者の皇太子フランソワ2世ともすごく仲良しです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){フランスへ亡命した女王メアリーに同行した皆さん(子供のお話なのでご注意ください)}} フレミング卿夫人[[ジャネット・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Janet_Stewart]]([[王ジェームズ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_IV_of_Scotland]]の庶子)は女王メアリーの[[養育係>https://en.wikipedia.org/wiki/Governess]]/[[子守>https://en.wikipedia.org/wiki/Nursemaid]]です。 フランス王アンリ2世に気に入られて愛人に。 そして妊娠。息子[[アンリ・ダングレーム>https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_d%27Angoul%C3%AAme]](1551–1586年)の出産前後にスコットランドへ送り返されてます。 ちなみに送り返されたフレミング卿夫人は「王アンリ2世に会いたい」とフランスへの渡航を懇願します。 母親メアリ・オブ・ギーズは「王アンリ2世の王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_de%27_Medici]]のご機嫌を損ねてしまうわ」と却下。 1559年王アンリ2世が死亡。1560年6月母親メアリ・オブ・ギーズも死亡。 フレミング卿夫人は1560年8月[[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_Scotland]]の出国許可をゲトして息子と一緒にフランスへ渡航します。 &ref(年表_フランスへ亡命(亡命:同行).jpg)J T Barr著「The Governess」(1875頃:イギリス) 4人のメアリー達は女王メアリーと同じ年頃の[[女官>https://en.wikipedia.org/wiki/Lady-in-waiting]]です。1561年女王メアリーと一緒にスコットランドへ帰国。 ・1564年駐スコットランドのイングランド大使[[T. Randolph>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Randolph_(ambassador)]]はメアリー・ビートンに「俺のために女王メアリーのスパイになってくれ!」と求婚。もちろんお断りされちゃいました。 ・1581年イングランドで軟禁中の元・女王メアリーはイングランド女王エリザベス1世に「メアリー・フレミングが私を訪ねられるよう通行証(safe conduct)を許可して下さい」とお願い。メアリー・フレミングが元・女王メアリーを尋ねた記録はナシです。 |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・ビートン>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Beaton]]&br()(1543–1598年)|●母親はメアリ・オブ・ギーズの女官Joanna Renwall&br()●1566年Alexander Ogilvy of Boyneと結婚| |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・シートン>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Seton]]&br()(1542–1615年)|●母親はメアリ・オブ・ギーズの女官Marie Pieris&br()●メアリー達の中で唯一結婚しないで1585年頃まで女王メアリーにずーっと同行&br()●その後サン=ピエール女子修道院(フランスの[[ランス>https://en.wikipedia.org/wiki/Reims]])へ| |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・フレミング>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Fleming]]&br()(1542-1581年頃)|●フレミング卿夫人ジャネット・ステュアートの娘&br()●1567頃に女王メアリーの秘書官[[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]と結婚&br()●夫Williamはイングランド女王エリザベス1世の命令で投獄。獄死(1573年:[[Lang Siege>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Kirkcaldy_of_Grange]])| |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・リヴィングストン>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Livingston]]&br()(1541–1579年)|●父親[[Alexander Livingston, 5th Lord Livingston>https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Livingston,_5th_Lord_Livingston]]は女王メアリーの[[後見人>https://en.wikipedia.org/wiki/Legal_guardian]]&br()●1565年John Sempill([[Robert Sempill, 3rd Lord Sempill>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Sempill,_3rd_Lord_Sempill]]の息子)とできました結婚| 4人のメアリー達は[[バラッド詩>https://en.wikipedia.org/wiki/Ballad]]「Mary Hamilton:4人のメアリー」(16世紀:スコットランド)にも登場します。 メアリー ・ハミルトンは女王の夫を身籠もった女王の女官。 生まれた子供を殺して有罪になったメアリー ・ハミルトンの人生と死(処刑)が迫った心情死を語る詩です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Hamilton]] &ref(年表_フランスへ亡命(亡命:同行2).jpg)訳はテキトー ちなみにメアリー ・ハミルトンはロシア皇妃[[エカチェリーナ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_I_of_Russia]]の女官[[メアリー ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Hamilton_(lady_in_waiting)]]って説もあります。 ハミルトン家は16世紀スコットランドからロシアに移住したの。 皇帝[[ピョートル1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_the_Great]](皇妃エカチェリーナ1世の夫)に気に入られて愛人に。1719年生まれた子供を殺して処刑されました。 } #endregion #region(close,フランス王アンリ2世「ウチの嫁(女王メアリー)こそ正当なイングランド女王だ!」) 1558年女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)は結婚します。 女王メアリーはフランスとの密約書「私が死んだらスコットランドとイングランドの王位継承権はフランスに譲る」に署名。 えーっと…ア、アホアホですか?とりあえず2人の結婚で世の中はこんな状況になります。 &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年).jpg,【共通】共通の画)スコットランド女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年) ちなみにこの頃のフランスはイングランド・スペインとイタリアを巡って戦争中です(1551–1559年:[[イタリア戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Italian_War_of_1551%E2%80%9359]])。 イングランド女王メアリー1世とスペイン王フェリペ2世の結婚で2国は同盟国。 フランスを挟み撃ちだぜ!ってことで、フランスは[[イングランド領カレー>https://en.wikipedia.org/wiki/Pale_of_Calais]]を奪還しちゃいました(1558年:[[カレー包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1558)]])。 #blockquote(){&u(){&bold(){フランス王アンリ2世「ウチの嫁(女王メアリー)こそ正当なイングランド女王だ!」}} 女王メアリーが結婚した数ヶ月後イングランド女王メアリー1世は死亡。女王エリザベス1世が即位します。 フランス王アンリ2世は「庶子の娘エリザベス1世なんて女王じゃねー!ウチの嫁こそ正当なイングランド女王だ!」と宣言。 女王メアリーの紋章(Royal arms)にもイングランドを追加しちゃいました。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_coat_of_arms_of_Scotland]] &ref(年表_フランスへ亡命(ウチの嫁:紋章).png)女王メアリーの紋章 王アンリ2世が宣言した「庶子の娘なんて女王じゃねー!」はローマ教皇とカトリック教会の国々の合い言葉です。 なんか「お前の母さんデベソ」みたいね。 問題のイングランド追加紋章は1560年[[エディンバラ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]]で使用禁止になります。 } #endregion **女王メアリーが居ない間にスコットランドは脱フランス!脱カトリック教会! 摂政になった母親メアリ・オブ・ギーズは母国フランスに頼りまくり。フランスはスコットランドに内政干渉しまくりです。 おまけに女王メアリーはフランス皇太子フランソワ2世と結婚しちゃうし。 「行く末はフランスの属国じゃん」と考えたプロテスタント貴族達は[[会衆指導層>http://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]を結成。脱フランス!脱カトリック教会!を目指します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_Reformation]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!.png) |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1542年|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|スコットランド王ジェームズ5世が急死。女王メアリーが即位 &br()アラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_2nd_Earl_of_Arran]](女王メアリーの遠縁で次の王位継承者)が摂政になる| |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|女王メアリーがフランスへ亡命| |~|BGCOLOR(lightgrey):1553年|BGCOLOR(lightgrey):7月|イングランド王エドワード6世が死亡。女王メアリー1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1554年|BGCOLOR(lightgrey):4月12日|母親メアリ・オブ・ギーズが摂政になる| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月25日|イングランド女王メアリー1世がスペイン皇太子フェリペ2世と結婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):1557年|BGCOLOR(lightgrey):12月|会衆指導層が「女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚反対」を直訴| |~|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):5月|ジョン・ノックスがジュネーヴから帰国。会衆指導層に合流| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):9月?10月?|&bold(){会衆指導層が「母親メアリ・オブ・ギーズの摂政クビ」を宣言。臨時政府を樹立}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):2月27日|&bold(){会衆指導層とイングランドが「一緒にフランスを追い出そうね♥」の交渉開始([[ベリック条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281560%29]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):4月|&bold(){「会衆指導層とイングランド」vs「母親メアリ・オブ・ギーズとフランス」([[リース包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Leith]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|母親メアリ・オブ・ギーズが死亡| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|&bold(){会衆指導層とフランスが仲直りして脱フランス!([[エディンバラ条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):8月17日|&bold(){スコットランド国教会の誕生}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|フランス王フランソワ2世が病死。[[王シャルル9世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_IX_of_France]]が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1561年|BGCOLOR(lightgrey):8月19日|女王メアリーがスコットランドに帰国| #region(close,会衆指導層「ヤバイ!行く末はフランスの属国じゃん」) 16世紀のヨーロッパはアッチコッチで「堕落したカトリック教会からプロテスタントへの[[宗教改革>https://en.wikipedia.org/wiki/Protestant_Reformation]]」が起こってます。 スコットランドでも宗教改革がスタート。 なんやかんやで1557年小さなグループ「First bond:第一信仰盟約」が誕生。その後大きなグループ「[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]」になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_Reformation]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(会衆指導層).jpg)[[David Wilkie>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Wilkie_(artist)]]画「John Knox Preaching before the Lords of Congregation in [[the cathedral of St. Andrews>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Andrews_Cathedral]], 10 June 1559」(1832年:スコットランド) #blockquote(){&u(){&bold(){会衆指導層「ヤバイ!行く末はフランスの属国じゃん」}} 摂政になった母親メアリ・オブ・ギーズはフランスに頼りまくり。[[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_Scotland]]にフランス大使[[H. Cleutin>https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Cleutin]]の出席オケですわよ。 21世紀の日本で例えると内閣にアメリカも参加って感じ? 対イングランドでスコットランドは一致団結しなくちゃいけないから「とりあえずプロテスタント野郎にも寛容」ですわよ。 &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年).jpg,【共通】共通の画)スコットランド女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年) プロテスタント貴族達は「ヤバイ!行く末はフランスの属国じゃん」と心配して「First bond:第一信仰盟約」を結成します。 &italic(){&color(silver){mutual support against "Sathan and all wicked power that does intend tyranny and truble against the foresaid congregation".}} &italic(){&color(silver){我々に害をなす暴政(=サタンと邪悪な力)と戦うために互いに助け合う。(訳はテキトー)}} メンバーはこちらの皆さん。 ・[[Archibald Campbell, 5th Earl of Argyll>https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Campbell,_5th_Earl_of_Argyll]] ・[[Colin Campbell, 6th Earl of Argyll>https://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Campbell,_6th_Earl_of_Argyll]] ・[[Alexander Cunningham, 5th Earl of Glencairn>https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Cunningham,_5th_Earl_of_Glencairn]] ・[[モートン伯ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]] ・[[John Erskine of Dun>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Erskine_of_Dun]] ・その後マリ伯[[ジェームズ・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]](女王メアリーの異母兄)も参加 第一信仰盟約は「ヤバイ!もっとヤバイ!」と心配して女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚も反対します。 心配する人がどんどん増えて「[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]」に成長。 会衆指導層は脱フランス!脱カトリック教会!を目指しして母親メアリ・オブ・ギーズ、女王メアリーと戦います。 } #endregion #region(close,熱血おやじジョン・ノックス「ひゃっはー!俺も会衆指導層に合流するぜー!」) ジョン・ノックスは亡命先で[[カルヴァン派>https://en.wikipedia.org/wiki/Calvinism]]の[[ジャン・カルヴァン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Calvin]]から「[[長老制>https://en.wikipedia.org/wiki/Presbyterian_polity]]」「宗教改革」を学んだ熱血おやじです。 スコットランドに帰国すると会衆指導層に合流。 会衆指導層と一緒に宗教改革を頑張って1560年カルヴァン派の[[スコットランド国教会>https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_Scotland]]を創設します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Knox]] |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1546年|BGCOLOR(lightgrey):5月29日|プロテスタントたちが[[セント・アンドリューズ城>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Andrews_Castle]]で枢機卿[[David Beaton>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Beaton]]を殺害。籠城| |~|BGCOLOR(lightgrey):1547年|BGCOLOR(lightgrey):4月10日|ジョン・ノックスが籠城するプロテスタントたちに宗教改革を指導| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月31日|フランス軍の[[ガレー船>https://en.wikipedia.org/wiki/Galley]]が城を包囲。ジョン・ノックスたちを逮捕してガレー船の奴隷に| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド&br()(※1)|BGCOLOR(lightgrey):1549年|BGCOLOR(lightgrey):2月頃|釈放されたジョン・ノックスが英国国教会のイングランドへ亡命| |~|BGCOLOR(lightgrey):1553年|BGCOLOR(lightgrey):7月|イングランド王エドワード6世が死亡。カトリック教会の女王メアリー1世が即位| |BGCOLOR(lightgrey):[[ジュネーヴ>https://en.wikipedia.org/wiki/Geneva]]|BGCOLOR(lightgrey):1554年|BGCOLOR(lightgrey):1月|ジョン・ノックスがジャン・カルヴァンの拠点ジュネーヴへ亡命| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月20日|ジョン・ノックスが「イングランド女王メアリー1世を批判」の小冊子を出版| |BGCOLOR(lightgrey):[[フランクフルト>https://en.wikipedia.org/wiki/Free_City_of_Frankfurt]]|~|BGCOLOR(lightgrey):9月24日|[[女王メアリー1世の亡命者>https://en.wikipedia.org/wiki/Marian_exiles]]がジョン・ノックスを招待| |~|BGCOLOR(lightgrey):1555年|BGCOLOR(lightgrey):3月26日|女王メアリー1世の亡命者が「攻撃的な熱血おやじと一緒にはムリ」と決別| |BGCOLOR(lightgrey):ジュネーヴ|~|BGCOLOR(lightgrey):|ジョン・ノックスがジャン・カルヴァンの新設した教会の[[教職者>https://en.wikipedia.org/wiki/Minister_(Christianity)]]に就任| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|~|BGCOLOR(lightgrey):8月|ジョン・ノックスが姑[[Elizabeth Bowes>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Bowes]]のお願いでスコットランドへ帰国| |~|BGCOLOR(lightgrey):1556年|BGCOLOR(lightgrey):|ジョン・ノックスが母親メアリ・オブ・ギーズへ手紙「宗教改革しない?」| |BGCOLOR(lightgrey):ジュネーヴ&br()※2|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):夏|ジョン・ノックスが匿名で「[[婦人の異常な執政に反対する第一声>https://en.wikipedia.org/wiki/The_First_Blast_of_the_Trumpet_Against_the_Monstruous_Regiment_of_Women]]」を出版| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):5月2日|ジョン・ノックスがジュネーヴから帰国| #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックスとイングランド王エドワード6世}} イングランド(※1)へ亡命したジョン・ノックスは[[王エドワード6世>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England]]の英国国教会で働きます。 1551年6人の王室付属牧師(royal chaplain)の1人に就任。 [[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_council]]の前で「聖餐式で跪くとパンとワインを偶像崇拝してるってコト。カトリック教会っぽくてダメダメ」と主張します。 &ref(【共通の画】祈祷書.jpg,【共通】共通の画)英国国教会の[[祈祷書>https://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_Common_Prayer]](1596年:ロンドン) この主張でその後の祈祷書には「なぜ跪かなくちゃいけないのか?」の注釈([[Black Rubric>https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Rubric]])が付くようになります。 祈祷書は「祈祷・礼拝・儀式のやり方」が書いてあるハウツー本。 ちなみに1559年女王エリザベス1世は祈祷書からこの注釈を削除してます。穏健な伝統主義者に媚びを売ったっぽい。 } #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックスとイングランド女王メアリー1世}} カトリック教会の[[女王メアリー1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England]]が即位するとジョン・ノックスは「イングランドはヤバイ!」と大陸へ亡命します。 大陸で[[女王メアリー1世の亡命者>https://en.wikipedia.org/wiki/Marian_exiles]](迫害された[[ピューリタン>https://en.wikipedia.org/wiki/Puritans]])を指導。 ちなみに1559年英国国教会の女王エリザベス1世が即位するとピューリタンはイングランドへ帰国します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Puritans_under_Elizabeth_I]] &ref(【共通の画】イングランド内戦.jpg,【共通】共通の画)[[イングランド内戦>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War]](1642–1651年:[[清教徒革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Three_Kingdoms]]の1つ) 女王エリザベス1世はなるべく穏便に英国国教会を復活したいです。そこに大陸に亡命してたピューリタンがどんどん帰国。 英国国教会とカルヴァン派のピューリタンはスタイルが違う。 ってことで、お互いに妥協してそれなりに仲良くやっていきます(1559年:[[Elizabethan Religious Settlement>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabethan_Religious_Settlement]])。 } #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックスとイングランド女王エリザベス1世}} ジュネーヴ(※2)でジョン・ノックスは匿名で「[[婦人の異常な執政に反対する第一声>https://en.wikipedia.org/wiki/The_First_Blast_of_the_Trumpet_Against_the_Monstruous_Regiment_of_Women]]」(1558年)を出版します。 &italic(){&color(silver){how abominable before God is the Empire or Rule of a wicked woman, yea, of a traiteresse and bastard}} &italic(){&color(silver){売国奴と私生児の邪悪な女性による支配は聖書に反してる。なんと忌まわしい(訳はテキトー)}} 女王メアリー、母親メアリ・オブ・ギーズ、イングランド女王メアリー1世を例にカトリック教会の支配を批判した本です。 激怒したイングランドは公式に熱烈抗議。 対象外の皇太女エリザベス1世(女王エリザベス1世)も「女王による支配は聖書に反してる」に激怒します。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(ジョン・ノックス:女王エリザベス1世).jpg)Frarinus Petrus?著「An oration against the vnlawfull insurrections of the protestantes of our time...」(1566年) 1559年女王エリザベス1世が即位するとピューリタンがどんどん帰国。ジョン・ノックスもスコットランドへ帰国します。 女王エリザベス1世は大嫌いなジョン・ノックスのイングランド通行証申請を却下。 ジョン・ノックスは危険なほど扇動的な本だったってコトに気付かなかったの。帰国に4ヶ月もかかっちゃいました。 } #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックス「ひゃっはー!俺も会衆指導層に合流するぜー!」}} スコットランドに帰国したジョン・ノックスはあっちこっちで「スコットランドの宗教改革だー!」と熱血な説教をします。 会衆指導層とも合流。 カトリック教会の修道院も襲撃。金品を強奪して「こいつら贅沢三昧だぞー!」と民衆へのイメージダウンもバッチリです。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(ジョン・ノックス:会衆指導層).jpg)プロテスタントがカトリック教会の修道院を襲撃(1559年:[[パース>https://en.wikipedia.org/wiki/Perth,_Scotland]]) } #endregion #region(close,会衆指導層とイングランド「一緒にスコットランドからフランスを追い出そうね♥」(ベリック条約&リース包囲戦)) 会衆指導層はあっちこっちでカトリック教会の教会や修道院を襲撃。プロテスタントの支持をどんどん広げていきます。 でもフランス軍は強敵…よし!イングランドと手を結ぼう♥(ベリック条約)。 ってことで、「会衆指導層とイングランド」vs「母親メアリ・オブ・ギーズとフランス」が始まります(リース包囲戦)。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦).jpg)リース包囲戦(1560年5月7日) #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックス「イングランドと手を結ぼう♥」}} 会衆指導層との戦争を避けたい母親メアリ・オブ・ギーズは「信仰の自由」を約束します([[Articles of Leith>https://en.wikipedia.org/wiki/Articles_of_Leith]])。 でも熱血おやじジョン・ノックスは「どうせフランスに頼って約束を破る」と疑心暗鬼。 ってことで、密かに女王エリザベス1世の重臣バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]に「手を結ぼう♥」の手紙を送ります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Knox]] &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(重臣).jpg,【共通】共通の画)[[William Faithorne>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Faithorne]]画「Queen Elizabeth I; Sir Francis Walsingham; William Cecil, 1st Baron Burghley」(1655年:イングランド) ジョン・ノックスは[[リンディスファーン島>https://en.wikipedia.org/wiki/Lindisfarne]]でイングランドと交渉。でも母親メアリ・オブ・ギーズに察知されて失敗します。 今度は母親メアリ・オブ・ギーズが疑心暗鬼。 ってことで、フランスに応援を要請。フランス軍は[[リース>https://en.wikipedia.org/wiki/Leith]](エディンバラの港町)の常駐軍を増援します。 リースのフランス軍が増援されたので会衆指導層は再びエディンバラを占領します。 摂政の母親メアリ・オブ・ギーズをクビにして臨時政府を樹立。 ちなみに母親メアリ・オブ・ギーズの[[秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_for_Scotland]][[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]は会衆指導層サイドへ鞍替えしてます。 |BGCOLOR(lightgrey):1551-1543年|BGCOLOR(lightgrey):|フランス軍がスコットランドを援護([[ラフ・ウーイングの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Wooing]])| |BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){スコットランドがリースの砦を強化。フランス軍が常駐}| |BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):6月30日|会衆指導層がエディンバラ(スコットランド王国の首都)を占領| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月|フランス軍がエディンバラを奪還| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月25日|母親メアリ・オブ・ギーズが会衆指導層に「信仰の自由」を約束(Articles of Leith)| |~|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){ジョン・ノックスがバーリー男爵ウィリアム・セシルに手紙}| |~|BGCOLOR(lightgrey):|フランス軍が[[リース>https://en.wikipedia.org/wiki/Leith]]の常駐軍を増援| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月24日|会衆指導層が「母親メアリ・オブ・ギーズの摂政クビ」を宣言。臨時政府を樹立| |BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):1月|&bold(){イングランド艦隊がうっかりフォース湾に到着}| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月2日|母親メアリ・オブ・ギーズが「邪悪な行い」とイングランドを非難| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月27日|&bold(){会衆指導層とイングランドが「一緒にフランスを追い出そうね♥」の交渉開始(ベリック条約)}| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月6日|&bold(){会衆指導層がレスタリリグに軍事キャンプを設置(リース包囲戦)}| イングランドは[[フォース湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Firth_of_Forth]](エディンバラの湾)にイングランド艦隊を送って母親メアリ・オブ・ギーズに圧力をかけます。 母親メアリ・「はあ!?スコットランドと戦争する気?」 イングランド「イングランド艦隊がうっかり着いちゃったんですぅ(戦争したくなかったらフランス追い出せよ)」 母親メアリ・「フランス追い出さない」 イングランド「だーかーらー『うっかり』ですってばぁ(〃)」 その後、会衆指導層はが[[レスタリリグ>https://en.wikipedia.org/wiki/Restalrig]]に[[軍事キャンプ>https://en.wikipedia.org/wiki/Military_camp]]を設置します。同時に母親メアリ・オブ・ギーズへ和解を提示。 提示したけど母親メアリ・オブ・ギーズは2回とも拒否。 よろしい、ならば戦争だ!こんな感じで戦争が始まっちゃいます(リース包囲戦)。あちゃー。 } #blockquote(){&u(){&bold(){会衆指導層とイングランド「一緒にスコットランドからフランスを追い出そうね♥」(ベリック条約)}} 会衆指導層とイングランドは「一緒にスコットランドからフランスを追い出そうね♥」の交渉を始めます(ベリック条約)。 もちろん母親メアリ・オブ・ギーズは仲間はずれ。 例の女性蔑視本で女王エリザベス1世に嫌われちゃってる熱血おやじジョン・ノックスも仲間はずれです。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281560%29]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg) 左側:会衆指導層代表の[[異母兄マリ伯>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]、... 右側:イングランド代表のノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) ・女王メアリーとフランス王フランソワ2世の結婚で2国がこれ以上の仲良し(=同盟国)にならないこと。 ・もしフランスがスコットランドを侵略しようとしたらイングランドは一緒に戦うこと。逆も同じ。 ・会衆指導層はご子息達を人質としてイングランドへ差し出すこと。人質が届いてから会衆指導層リーダのアラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]](シャテルロー公爵)とイングランド代表のノーフォーク公トマス・ハワードがこの条約書に署名すること。 ・この条約は女王メアリーもフランス王フランソワ2世もキャンセルできません。 えーっと、会衆指導層とイングランドが最終的に「ベリック条約」に調印したのは1560年5月10日です。 でもその前からイングランドはスコットランドへ進軍。 4月から本格的にフランス軍が駐留するリースの包囲を開始します(リース包囲戦)。この辺はたぶん大人の事情ってヤツ。 } #blockquote(){&u(){&bold(){腹が減っては戦ができぬ♥(リース包囲戦)}} 会衆指導層は[[小砦>https://en.wikipedia.org/wiki/Fortification]](Fortlet)とテント(Palzoun)でリースを囲んでフランス軍を[[兵糧攻め(攻城戦)>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege]]にします。 そんな最中に母親メアリ・オブ・ギーズが死亡。 兵糧攻めでお腹ペコペコのフランス軍はこの追い打ちにガッカリ。和平交渉を承諾します(エディンバラ条約)。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Leith]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:リース包囲戦).jpg)イングランド軍も会衆指導層と一緒に戦ってます |BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):4月6日|会衆指導層が[[レスタリリグ>https://en.wikipedia.org/wiki/Restalrig]]に[[軍事キャンプ>https://en.wikipedia.org/wiki/Military_camp]]を建築。母親メアリ・オブ・ギーズへ和解を提示| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月12日|会衆指導層がMount Pelham小砦を建築(指揮官:[[William Pelham>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Pelham_(lord_justice)]])| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月末|会衆指導層がMount Somerset小砦を建築(指揮官:Francis Somerset)| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月27日|会衆指導層が[[Water of Leith川>https://en.wikipedia.org/wiki/Water_of_Leith]]~[[Bonnington>https://en.wikipedia.org/wiki/Bonnington,_Edinburgh]]テントを設置| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月7日|会衆指導層がリースを一斉攻撃。ボロ負け「くそー!もっと囲むぜ!」| |~|BGCOLOR(lightgrey):|会衆指導層がByer's MountテントとMount Falconテント(Byer's Mountテントの近所)を設置| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月12日|会衆指導層と母親メアリ・オブ・ギーズが和平交渉。フランス軍の反対で失敗| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|&bold(){母親メアリ・オブ・ギーズが死亡。フランス軍ガッカリ}| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月17日|会衆指導層とフランス軍が一週間の休戦(エディンバラ条約の交渉)| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|&bold(){会衆指導層とフランスが仲直りして脱フランス!(エディンバラ条約)}| イングランド兵[[P. Carew>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Carew]]は「1560年5月28日フランス軍は3週間水しか飲めなかった」と記録してます。 ちなみにこの頃のフランスは王フランソワ2世が即位したばっかり。 [[ユグノー戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion]](1562–1598年)の前哨戦[[アンボワーズの陰謀>https://en.wikipedia.org/wiki/Amboise_conspiracy]]が起こってます。食料を送る余裕もなかったのかしら? 戦いの裏では情報戦もやってます。イングランドは母親メアリ・オブ・ギーズとフランスの暗号の手紙を横取りして解読。 フランスを監視してたのは在仏イングランド大使[[ニコラス・スロックモートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_Throckmorton]]。 ニコラスは「5月7日の一斉攻撃がバレてる」の情報をキャッチ。リースにスパイ[[N. Cockburn>https://en.wikipedia.org/wiki/Ninian_Cockburn]]の潜入を提案してます。 } #endregion #region(close,会衆指導層とフランスが仲直りして脱フランス!(エディンバラ条約)) 一週間の休戦で「会衆指導層とフランス」「イングランドとフランス」は和平交渉を始めます(1560年6月17日)。 交渉でスコットランドから全てのイングランド軍とフランス軍の撤退を決定(7月5日)。 女王メアリーとフランス王フランソワ2世の表明で締結されます(7月6日:エディンバラ条約)。こちらのピリピリな関係も終了♥ [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]] &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年).jpg,【共通】共通の画)スコットランド女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年) #blockquote(){&u(){&bold(){会衆指導層とフランスの「エディンバラ条約」}} エディンバラ条約でリース、[[インチケイス>https://en.wikipedia.org/wiki/Inchkeith]]、[[Dunbar Castle>https://en.wikipedia.org/wiki/Dunbar_Castle]]に駐軍するフランス軍は順次スコットランドから撤退します。 「フランスかぶれ」な女王メアリーの影響力もバッチリ封印。 でも女王メアリーはこれを拒否。ってことで、結局「スコットランド女王の廃位」に追い込まれちゃいます(1567年)。 &ref(年表_フランスへ亡命(古い同盟).jpg)イングランドを挟み撃ちの「[[古い同盟>https://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]]」も終了♥ エディンバラ条約の「フランスかぶれ」な女王メアリーの影響力もバッチリ封印っぽいヤツはこんな感じです。 訳はテキトー。 詳細は[[Renaissance, The Elizabethan World - Life in Tudor England>http://www.elizabethan.org/]](The Treaty of Edinburgh)さんをどうぞ。 ・枢密院(Council of twelve)のメンバーは長老制議会([[Three estates>http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_Scotland]])が作った候補者リストから「女王メアリーが7名」「長老制議会が5名」を選ぶこと。 ・もし長老制議会が必要と思ったら評議会(The number fourteen)を発足。メンバーは長老制議会が作った候補者リストから「女王メアリーが8名」「長老制議会が6名」を選ぶこと。 ・この条約は女王メアリーの同意が必要。もし断ったら会衆指導層と女王メアリーの和解はナシです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランドとフランスの「エディンバラ条約」}} エディンバラ条約で女王メアリーは紋章(Royal arms)にイングランドを使えなくなります。 もう「私がイングランド女王」と言っちゃダメダメ。 でも女王メアリーはこれを拒否してアレコレ陰謀に参加。ってことで、結局「処刑」に追い込まれちゃいます(1587年)。 &ref(年表_フランスへ亡命(ウチの嫁:紋章).png)女王メアリーの紋章 } #endregion #region(close,ちょびっとだけ脱カトリック教会!の「スコットランド国教会の誕生」) 長老制議会は[[サクラメント>http://en.wikipedia.org/wiki/Sacrament]](洗礼とかの儀式)を修正、ミサを禁止、…。脱カトリック教会!でスコットランド国教会を作ります。 でもフランスから帰国したカトリック教会の女王メアリーは断固拒否! 王様が承認したのは1572年。スコットランド王[[ジェームズ6世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]](女王メアリーの息子)が即位してからです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_Scotland]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(スコットランド国教会).jpg)作者不明「John Knox reproves Mary Queen of Scots Date:1563」(1830年頃) 長老制議会は英国国教会を作ったイングランド王ヘンリー8世のようなカトリック教会の一気に排除はしなかったそうです。 ちゃんとしたスコットランド国教会になるのは1690年(1688–1689年:[[名誉革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Glorious_Revolution]])。 司教達がイングランド王[[ウィリアム3世>http://en.wikipedia.org/wiki/William_III_of_England]]への忠誠を断固拒否してウニャウニャ。萌えなかったのでこれ以上は調べてません。 #endregion **様変わりしたスコットランドへ帰国。スコットランドは脱メアリー! 女王メアリーはカトリック教会のフランスで立派な「フランスかぶれ」に育ちます。王フランソワ2世が病死してスコットランドへ帰国。 女王なのにスコットランド国教会に改宗しない。女王なのに勝手に結婚。 「行く末に女王メアリーは邪魔じゃん」と考えたプロテスタント貴族たちは女王メアリーを廃位すことにします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱メアリー!.png) |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|母親メアリ・オブ・ギーズが死亡| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|フランス王フランソワ2世が病死。[[王シャルル9世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_IX_of_France]]が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1561年|BGCOLOR(lightgrey):8月19日|&bold(){女王メアリーがスコットランドに帰国。異母兄マリ伯を最高顧問(the chief advisor)にする}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):9月6日|女王メアリーが枢密院のメンバーを指名(カトリック教徒は4名だけ)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1565年|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1566年|BGCOLOR(lightgrey):3月9日|ダヴィッド・リッチオ殺害事件| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月19日|女王メアリーが息子ジェームズ6世を出産| |~|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):2月10日|ダーンリー卿殺害事件| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月15日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|カーバリー・ヒルの戦い| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位。息子ジェームズ6世が即位}&br()・異母兄マリ伯が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月13日|ラングサイドの戦い(45分くらいの戦い)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| #region(close,スコットランドへ帰国) フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)の病死で女王メアリーはスコットランドへ帰国します。タダイマですわ♥ でも女王メアリーが居ない間にスコットランドは脱フランス!脱カトリック教会! 5歳からフランスで育った女王メアリーは複雑な政治情勢のド素人。最大の味方だった母親メアリ・オブ・ギーズももういません。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリー「お兄ちゃん(異母兄マリ伯)ヨロシクですわ♥」}} 女王メアリーの異母兄マリ伯[[ジェームズ・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]は王ジェームズ5世の愛人[[マーガレット・アースキン>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Erskine]]の息子です。 王位継承権ナシの庶子で[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]の1人。 女王メアリーはプロテスタントの異母兄マリ伯を最高顧問(the chief advisor)にします。お兄ちゃんヨロシクですわ♥ &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(スコットランド国教会).jpg)作者不明「John Knox reproves Mary Queen of Scots Date:1563」(1830年頃) 1561年9月6日女王メアリーは「16人の[[枢密院<https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_Scotland]](21世紀の日本でいう内閣)」を指名。カトリック教徒は4名だけです。 カトリック教会の復活だー!を期待してたカトリック教徒はガッカリ。 とはいえ「フランスかぶれ」な女王メアリーはバリバリのカトリック教徒。永遠にスコットランド国教会へは改宗しません。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド女王エリザベス1世「カトリック教徒の女王メアリーに要注意ぢゃ!」}} 女王メアリーは「[[次のイングランド女王>https://en.wikipedia.org/wiki/Heir_presumptive]]に指名して欲しいですわ♥」と[[秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_(Kingdom_of_Scotland)]][[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]をイングランドへ送ります。 カトリック教徒の陰謀を恐れた女王エリザベス1世は指名拒否。 女王を置き換えてカトリック教会の復活だー!を恐れたの。とりあえず「貴女以外は思いつかないぢゃ」とお茶を濁してます。 &ref(年表_脱メアリー!(帰国:要注意).jpg)Carlyn Beccia著「Raucous Royals」(2008年) 女王たちは1562年8月頃イングランドでの会談を約束します。一方フランスでは[[ユグノー戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion]](1562–1598年)がスタート。 ユグノー戦争を理由に女王エリザベス1世は7月会談キャンセル。 どーゆー大人の事情?ちなみに女王エリザベス1世は[[ユグノー>https://en.wikipedia.org/wiki/Huguenot]]を応援します(1562年9月:[[ハンプトン・コート条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Hampton_Court_(1562)]])。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリー「婚活しますわ♥」}} 女王メアリーはヨーロッパ王族との再婚を考えます。 ・叔父[[枢機卿シャルル・ド・ロレーヌ>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles,_Cardinal_of_Lorraine]](ギーズ家)がオススメのオーストリア大公[[カール2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_II,_Archduke_of_Austria]](神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の三男)…女王メアリーが「私にナイショで交渉するなんてヒドイですわ」と怒ってボツ ・女王メアリーがノリノリのアストゥリアス公[[カルロス>https://en.wikipedia.org/wiki/Carlos,_Prince_of_Asturias]](スペイン王フェリペ2世の長男)…王フェリペ2世が「息子は精神病んでる」と反対してボツ ・女王エリザベス1世がオススメのレスター伯ロ[[バート・ダドリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Dudley,_1st_Earl_of_Leicester]](女王エリザベス1世のお気に入り)…レスター伯が「さすがに女王メアリーがお気の毒」と拒否してボツ 女王エリザベス1世は信頼するレスター伯を使って女王メアリーを操る目論見でした。 「イングランド貴族と結婚したら貴女の王位継承権の調査も前進するでしょうぢゃ♥」と撒き餌もバッチリだったけど失敗。 ちなみに女王メアリーに同情的なレスター伯も1580年中頃から処刑を支持するようになります。 &ref(年表_脱メアリー!(帰国:婚活).jpg)Andrew Duncan画「Pierre de Bocosel de Chatelard or Chastelard playing the lute to Mary, Queen of Scots」(1830年) こちらの画は女王メアリーにメロメロになって暴走したアホアホ詩人[[Pierre de Bocosel de Chastelard>https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_de_Bocosel_de_Chastelard]](フランス人)です。 1563年(1562年?)女王メアリーの部屋に押し入って処刑。 秘書官長W. Maitlandは「女王メアリーの名を貶めるユグノーの策略だ」と主張してます。 } #endregion #region(close,ダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚(ダヴィッド・リッチオ殺害事件)) ダメ夫ダーンリー卿[[ヘンリー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]]は才能も教養もサイコーな美形の伊達男。おまけに血筋もサイコーです。 女王メアリーの一目惚れでスピード結婚。 でも幼稚で傲慢で嫌われ者で酒乱の最低なダメ夫でした。愛が急速冷凍した女王メアリーは速攻でダメ夫との共同統治を拒否。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) |BGCOLOR(lightgrey):1564年|BGCOLOR(lightgrey):9月|[[長老制議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_Scotland]]が父親レノックス伯マシュー・ステュアートの権利とタイトルを復活| |BGCOLOR(lightgrey):1565年|BGCOLOR(lightgrey):2月|ダメ夫ダーンリー卿がスコットランドへ帰国| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月17日|女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿と[[ウィームス城>https://en.wikipedia.org/wiki/Wemyss_Castle]]で再会| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月15日|ダメ夫ダーンリー卿が[[ロス伯>https://en.wikipedia.org/wiki/Earl_of_Ross]]を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月4日|イングランド枢密院が[[キャサリン・グレイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Catherine_Grey]]への不快感(the displeasure shown)を緩和&br()・キャサリン・グレイ(女王エリザベス1世の従姪)は女王メアリーと同等の王位継承権を持つ&br()・1560年12月女王エリザベス1世の許可ナシでハートフォード伯[[エドワード・シーモア>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Seymour,_1st_Earl_of_Hertford]]と結婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):|女王エリザベス1世がダメ夫ダーンリー卿の返還を要求&br()ダメ夫ダーンリー卿の母親マーガレット・ダグラスをロンドン塔へ収監(ダーンリー卿殺害事件で解放)| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月22日|ダメ夫ダーンリー卿が[[オールバニ公>https://en.wikipedia.org/wiki/Duke_of_Albany]]を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月28日|ダメ夫ダーンリー卿がスコットランド王(His Grace The King of Scots)の称号を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚}| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月26日|2人の結婚に反対する異母兄マリ伯が反乱。負けてイングランドへ亡命(Chaseabout Raid)| |BGCOLOR(lightgrey):1566年|BGCOLOR(lightgrey):3月9日|&bold(){ダヴィッド・リッチオ殺害事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月29日|異母兄マリ伯がスコットランドに帰国(3月10日)。女王メアリーと仲直りして枢密院に復帰| #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド育ちのダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート}} ダメ夫ダーンリー卿は父親レノックス伯[[マシュー・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Stewart,_4th_Earl_of_Lennox]]と母親[[マーガレット・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Douglas]]の息子です。 父親レノックス伯はスコットランド女王メアリーの遠縁。 母親マーガレットはイングランド女王エリザベス1世の従姉妹。両親の血筋を継ぐダメ夫は「2国の王位継承権」を持ちます。 ちなみに1542年幼い女王メアリーが即位したとき摂政は遠縁のアラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]]が選ばれました。 父親レノックス伯は王位継承権がアラン伯より格下で落選…くそー! ってことで、アラン伯をやっつけようとしたけど負けちゃってイングランドへ亡命してます(1544年:[[Battle of Glasgow>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Glasgow_(1544)]])。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:イングランド育ち).jpg)父親レノックス伯は[[王ジェームズ5世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_V_of_Scotland]]のSecond cousin once removed 1559年女王メアリーがフランス王妃に即位したとき父親レノックス伯は「一族の復活を」とダメ夫を即位式に送り込みます。 女王エリザベス1世をスルーして勝手に送り込んだの。 警戒した女王エリザベス1世は一族を逮捕。1563年釈放します(王位継承者が少ないから反逆罪で処刑できなかったっぽい)。 この事件で母親マーガレット・ダグラスのスパイ[[Francis Yaxley>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Yaxley]]が逮捕されてます。1562年2月ロンドン塔での自供は 「スペイン大使から父親レノックス伯とダメ夫ダーンリー卿へのメッセージと資金を預かった」 「俺のミッションは女王メアリーとダメ夫ダーンリー卿の結婚のお膳立て」 ちなみにYaxleyは1549年頃バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]のスパイでした。フランスを旅行して情報をゲトしてたの。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリーとダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートのスピード結婚}} スコットランドへ帰国したダメ夫ダーンリー卿は女王メアリーに猛プッシュします。 [[Sir J. Melville>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Melville_of_Halhill]](2人の結婚を女王エリザベスに認めさせる特使)曰く「女王陛下は今までに出会った男性の中で最も逞しく均整のとれた長身の彼に一目惚れ♥」。 女王メアリーはダメ夫の爵位をガンガン格上げして結婚を準備。[[ホリールード寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Abbey]]で[[カトリックの結婚式>https://en.wikipedia.org/wiki/Marriage_in_the_Catholic_Church]]を挙げます。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:スピード結婚).jpg)イングランド兵士画「[[Holyrood Palace>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Palace]]」(1544:Hertford sketch) } #blockquote(){&u(){&bold(){異母兄マリ伯「2人の結婚はんたーい!」(Chaseabout Raid:追いかけっこ襲撃)}} 1565年8月26日異母兄マリ伯(女王メアリーの最高顧問)は2人の結婚に反対して反乱を起こします([[Chaseabout Raid>https://en.wikipedia.org/wiki/Chaseabout_Raid]])。 反乱軍の主張は ・女王メアリーとダメ夫ダーンリー卿はカトリック教会を復活させようとしてる。 ・宮廷に外国人(イタリア人[[ダヴィッド・リッチオ>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio]]など)を重用してる。ダメ夫ダーンリー卿も外国人だ! イングランド大使[[T. Randolph>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Randolph_(ambassador)]]は「火縄銃兵が足りなくて女王メアリー軍を打ち破るのはムリっぽい」と分析してます。 9月10日異母兄マリ伯は女王エリザベス1世に支援を要請します。 イングランド海軍は「女王メアリー軍がフランスから運んでくる軍用品を阻止するぜ!」と[[Aid号>https://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Aid_(1562)]]を[[フォース湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Firth_of_Forth]]へ。 でもこれ以上の支援ナシ。Aid号は女王メアリー軍にバンバン大砲を撃たれてアタフタ退散しちゃってます。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:Chaseabout Raid).jpg)「The dismission of the Earl of Murray and the Abbot of Kilwinning by Queen Elizabeth」 これ以上の支援ナシの異母兄マリ伯はあっさり負けてイングランドへ亡命します。女王エリザベス1世はプンプン。 &italic(){&color(silver){itt were no Prince's part to think well of your doinges, ... and, she wolde putt allso her helping hande too make them to understand the dutye which the subject owght to bear towarddes the Prynce.}} &italic(){&color(silver){分をわきまえよ!しっかり女王メアリーの手綱を握るのぢゃ!(訳は超テキトー)}} 「下克上は狙ってません」と弁明した異母兄マリ伯は[[ダヴィッド・リッチオ殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio]]の翌日スコットランドへ帰国します。 女王メアリーと仲直りして枢密院に復帰。 ダヴィッド・リッチオ殺害事件は異母兄マリ伯にとって渡りに船な事件だったのでございます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ダメ夫ダーンリー卿への愛が急速冷凍した女王メアリー(ダヴィッド・リッチオ殺害事件)}} スピード結婚したダメ夫ダーンリー卿は幼稚で傲慢で嫌われ者で酒乱の最低なダメ夫でした。国の幸福も脅かす最低の王様。 愛が急速冷凍した女王メアリーは速攻でダメ夫との[[共同統治>https://en.wikipedia.org/wiki/Crown_Matrimonial]]を拒否。 もし女王メアリーが子供ナシで死亡してもダメ夫は単独でスコットランド王になれないってコトです。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:ダヴィッド・リッチオ殺害事件).jpg)[[William Allan>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Allan_(painter)]]画「The Murder of David Rizzio」(1833年:スコットランド) スコットランドへ帰国したとき女王メアリーはお気に入り音楽家[[ダヴィッド・リッチオ>http://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio]]を一緒に連れて帰りました。 1564年頃リッチオを女王メアリーの対フランス秘書官に抜擢。 1566年3月9日女王メアリーと食事中のリッチオは突然侵入してきた男達にプスプス刺されて死亡します。2時間後には埋葬。 この時の女王メアリーは妊娠7ヶ月です。 イングランド大使[[T. Randolph>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Randolph_(ambassador)]]曰く「ダヴィッド・リッチオ殺害事件はダメ夫ダーンリー卿が共同統治を強要した試みの1つ。リッチオがお腹の子の父親ってウワサあり」 3月20日ダメ夫ダーンリー卿は殺害事件への関与を完全否定してます。 殺人犯の1人モートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]は犯行後イングランドへ亡命します。 3月27日バーリー男爵ウィリアム・セシルに「リッチオに嫉妬したダメ夫ダーンリー卿が計画して俺達を誘った」と主張。 真相は闇の中。とりあえず女王メアリーは更にダメ夫ダーンリー卿への愛が急速冷凍しちゃってます。 } #endregion #region(close,息子ジェームズ6世の誕生とダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの暗殺(ダーンリー卿殺害事件)) 1566年6月19日女王メアリーとダメ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンの息子[[ジェームズ6世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]が誕生します。 次のスコットランド王(そしてイングランド王)の誕生。 息子ジェームズ6世は[[カトリック式の洗礼>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptism]]を受けます。[[名付け親>https://en.wikipedia.org/wiki/Godparent]]の1人は女王エリザベス1世(名代ベッドフォード伯[[F. Russell>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Russell,_2nd_Earl_of_Bedford]])。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) 女王メアリーは息子ジェームズ6世の洗礼式で「幼児の口へ唾を吐く(スコットランドの習慣)」を拒否しちゃってます。 うーん…「フランスかぶれ」だから耐えられなかったのかしら? ちなみに洗礼式を取り仕切った聖アンドリューズ大司教[[John Hamilton>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hamilton_(archbishop_of_St_Andrews)]]を「a pocky priest:あばたの祭司」と呼んでたそーです。 #blockquote(){&u(){&bold(){洗礼式の夕食会でイングランド人がプンプン}} [[J. Melville>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Melville_of_Halhill]]の回想録によると夕食会で女王メアリーと30人の招待客が[[円卓の騎士>https://en.wikipedia.org/wiki/Round_Table]]のように席に着きます。 出し物は「円卓の上で半人半獣の精霊[[サテュロス>https://en.wikipedia.org/wiki/Satyr]]がお尻フリフリ」 企画したのは女王メアリーの音楽家[[Bastian Pagez>https://en.wikipedia.org/wiki/Bastian_Pagez]](フランス人)です。完璧な振り付けにイングランド人はプンプン。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Bastian_Pagez]] &ref(年表_脱メアリー!(ダーンリー卿殺害事件:洗礼式の夕食会).jpg)Cor Hendriks?画「Engelsman:Staartman(Englishmen have tails)」 中世のスコットランドには「イングランド人には秘密のシッポがある」という侮蔑を込めたお話しがありました。 それで怒っちゃったの。 女王メアリーは「フランスよりイングランドを熱烈にオモテナシしたかっただけなんです」となだめます。 回想録でJ. Melvilleはイングランド人の幼稚なプンプン外交を批判してます。幼稚になっちゃうくらい許せなかったのね。 シッポの起源は[[カンタベリーのアウグスティヌス>https://en.wikipedia.org/wiki/Augustine_of_Canterbury]]の伝説。 年代記[[Walter Bower>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Bower]]著「[[Scotichronicon>https://en.wikipedia.org/wiki/Scotichronicon]]」(1440年頃:スコットランド)によると伝説はこんな感じです。 &italic(){&color(silver){597年アウグスティヌスは神様の言葉を伝えに[[ウェセックス>https://en.wikipedia.org/wiki/Wessex]]のMuglington村へ行きました。}} &italic(){&color(silver){村人たちは魚のシッポをぶら下げてました。}} &italic(){&color(silver){シッポたちはアウグスティヌスの言葉をぜーんぜん聞きません。聞いても「はいはいワロスワロス」と不真面目です。}} &italic(){&color(silver){怒った神様はウェセックスの人々に罰を与えることにします。}} ~[[BBC>http://www.bbc.com/]](Did Edward I Steal the Real Stone of Destiny? )さんより~ } #blockquote(){&u(){&bold(){犯人はイヌ夫ボスウェル伯?の「ダーンリー卿殺害事件」}} 天然痘(梅毒?)が回復したダメ夫ダーンリー卿は女王メアリーがオススメする邸宅カーク・オ・フィールドで療養します。 1567年2月10日早朝に邸宅がドッカーンと爆発。 ご遺体は爆死した使用人Aのみ。ダメ夫と使用人Bのご遺体(無傷で死因は窒息死)は近所の果樹園で発見されます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]] &ref(年表_脱メアリー!(ダーンリー卿殺害事件:ダーンリー卿殺害事件).jpg)バーリー男爵ウィリアム・セシルへの報告書(現場見取り図) 2人の目撃者が「ドッカーンと爆発音を聞いた後に十数人の男達が逃げて行った」と宣誓供述してます。 ちなみに事件当日の異母兄マリ伯はフランス(犯人的な意味で)。 毎日ダメ夫を見舞ってた女王メアリーも寵臣[[バスチアン・パージュ>http://en.wikipedia.org/wiki/Bastian_Pagez]]の結婚式へ出席してました(犯人的な意味で)。 ダメ夫とはいえ殺されちゃったのは王様。枢密院は2月12日「名乗り出た犯人には懸賞金£2,000+特赦」を出します。 容疑者は女王メアリーと彼女が信頼するイヌ夫ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]]。 4月12日殺人犯のリーダとして訴えられたイヌ夫ボスウェル伯は枢密院の裁判で無罪になります。真相は闇の中。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イヌ夫ボスウェル伯と異母兄マリ伯が交わした「エインズリー居酒屋の契約」}} 4月20日頃イヌ夫ボスウェル伯は異母兄マリ伯たちをエインズリー居酒屋(Ainslie's [[tavern>https://en.wikipedia.org/wiki/Tavern]])へ夕食会にご招待します。 招待客はこんな感じの契約書に署名。 ・イヌ夫ボスウェル伯のダーンリー卿殺害事件での無罪判決に納得します。 ・イヌ夫ボスウェル伯を女王メアリーの夫に推薦します。 ・イヌ夫ボスウェル伯と女王メアリーの結婚を全力で応援します。 女王メアリーは事前に招待客が署名するのを了承してたっぽい。5月15日女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯は結婚します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Ainslie_Tavern_Bond]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位2).jpg)T Brown画「On 24 July 1567、Mary was forced to abdicate the Scottish throne in favour of her one-year-old son James」 バーリー男爵ウィリアム・セシルへの報告書によると契約書に署名したのは9人の伯爵、7人の男爵、8人の司祭です。 でも署名した人達は女王メアリーが結婚すると猛反発。 女王メアリーをスコットランド女王の廃位に追い込んじゃいます。うーん、なんかよく分からない契約だなぁ。 } #endregion #region(close,イヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚(カーバリー・ヒルの戦い)) ダメ夫ダーンリー卿殺害事件の直後、女王メアリーはイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚します。 貴族達は「殺人容疑者と結婚なんてありえない!」と予想以上に猛反発。 女王メアリーは猛反発する「反ボスウェル派(the confederate lords)」と戦って負けちゃいます([[カーバリー・ヒルの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Carberry_Hill]])。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) |BGCOLOR(lightgrey):1559年頃|BGCOLOR(lightgrey):|イヌ夫ボスウェル伯([[海軍卿>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_High_Admiral_of_Scotland]])が滞在先で[[Anna Throndsen>http://en.wikipedia.org/wiki/Anna_Throndsen]](ノルウェー海軍大将の娘)と結婚&br()・スコットランドの法律では非合法な結婚&br()・その後さんざん貢いで捨てられたAnna Throndsenがノルウェーに帰国| |BGCOLOR(lightgrey):1566年|BGCOLOR(lightgrey):2月24日|イヌ夫ボスウェル伯が[[Jean Gordon>http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Gordon,_Countess_of_Bothwell]](ハントリー伯の娘)と結婚。女王メアリーも結婚式に出席| |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):2月10日|[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月12日|イヌ夫ボスウェル伯がダーンリー卿殺害事件の裁判で無罪判決| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月20日頃|[[エインズリー居酒屋の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Ainslie_Tavern_Bond]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月21-23日|女王メアリーが[[スターリング城>https://en.wikipedia.org/wiki/Stirling_Castle]]へ息子ジェームズ6世を訪問| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|イヌ夫ボスウェル伯が女王メアリーを誘拐| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月6日|女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯がエディンバラへ| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月7日|イヌ夫ボスウェル伯が「イヌ夫ボスウェル伯が使用人と不倫した」でJean Gordonと離婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月12日|イヌ夫ボスウェル伯が[[オークニー公爵>https://en.wikipedia.org/wiki/Earl_of_Bothwell]]の称号を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月15日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚}| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|カーバリー・ヒルの戦い| #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンの誘拐結婚}} イヌ夫ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]]は母親メアリ・オブ・ギーズの下で会衆指導層と戦かった優秀な軍人です。 1560年秋フランス宮廷を訪ねて女王メアリーと出会ったっぽい。 いつ女王メアリーと恋人になったかは不明。でもダーンリー卿殺害事件の後「2人は結婚する」と皆さんウワサしてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:誘拐結婚).jpg)William Luson Thomas画「Queen Mary quitting Stirling Castle」(1863年) 女王メアリーは[[スターリング城>https://en.wikipedia.org/wiki/Stirling_Castle]]の息子ジェームズ6世を訪問。エディンバラ城への帰り道イヌ夫に誘拐されます。 誘い文句は「エディンバラ城はキケン![[ダンバー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Dunbar_Castle]]なら安全だぜ」。 ダンバー城に到着した女王メアリーはイヌ夫にレイプ(結婚の理由になるんだって)されたっぽいです。 女王メアリーはイヌ夫の爵位を格上げ。[[ホリールード寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Abbey]]([[ホリールード宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Palace]]?)でプロテスタントの結婚式を挙げます。 絶対に皆さん祝福してくれますわ♥ でも貴族達に「ダメ夫ダーンリー卿殺害事件の殺人容疑者と結婚なんてありえない!」と猛反発されてガヒョーンです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){反ボスウェル派「女王メアリーの息子ジェームズ6世を守れ!」(カーバリー・ヒルの戦い)}} 結婚に猛反発する26人の貴族「反ボスウェル派(the confederate lords)」はイヌ夫ボスウェル伯に宣戦布告します。 王様ダメ夫を殺したイヌ夫ボスウェル伯に復讐を!女王メアリーの息子ジェームズ6世を守れ! 2人の結婚に同意した皆さんも反ボスウェル派です([[エインズリー居酒屋の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Ainslie_Tavern_Bond]])。えへへ、裏切っちゃった。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Carberry_Hill]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:カーバリー・ヒルの戦い).jpg)George Vertue画「The Battle-array of Carberry-hill near Edinburgh with the surrender of Mary Queen of Scots to the confederate lords of Scotland、and the escape of Earl Bothwell、1567」(1742年) ちなみに女王メアリー軍の旗はエディンバラ城に掲げられてるスコットランド王の紋章「[[赤い獅子>https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Standard_of_Scotland]]」です。 反ボスウェル派軍の旗は「ダメ夫ダーンリー卿のご遺体」。 ご遺体の上に「Judge and Revenge my cause, O Lord:主よ、我が大儀『裁きと報復』にお力を」と書いてます。 |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|反ボスウェル派が女王メアリーに宣戦布告| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|11~17時の間にらみ合い&br()・とっても暑い日だけど女王メアリー軍は飲み水を準備してなかったんだって(画の右下は水売り?)| |~|~|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派からの誓言に同意して降伏}| |~|~|反ボスウェル派が女王メアリーをエディンバラ城へ連行| 戦いはずーっと双方にらみ合い。イヌ夫は反ボスウェル派から挑まれた[[一騎討ち>https://en.wikipedia.org/wiki/Single_combat]]をぜーんぶお断りしちゃいます。 「えっ!イヌ夫は戦うつもりナシ?」と思った貴族が女王メアリー軍からどんどん離脱。 女王メアリーは反ボスウェル派からの誓言(なにかアレコレと誓ったっぽい)に同意して降伏。イヌ夫は逃げます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){その後のイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン(資料によって内容が違うのでご注意)}} 女王メアリーの降伏を見届けたイヌ夫ボスウェル伯は[[デンマーク=ノルウェー国王>http://en.wikipedia.org/wiki/Denmark-Norway]]([[ルター派>https://en.wikipedia.org/wiki/Lutheranism]])へ逃げます。 デンマーク王[[フレゼリク2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II_of_Denmark]]の支援で旗を揚げて女王メアリーの王座復活するぜ! 反ボスウェル派は退路の保証(誓言の1つ?)を反故してイヌ夫を追跡。残念ながら失敗しちゃいました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:その後).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):|イヌ夫ボスウェル伯が[[アバディーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Aberdeen]]から[[シェトランド諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Shetland]]へ航海&br()・追跡してきた反ボスウェル派と海戦&br()・嵐で元妻Anna Throndsenが住むノルウェー(デンマークが支配中)に到着。渡航許可書の不所持で逮捕| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月|スコットランド長老制議会がイヌ夫ボスウェル伯の爵位と財産を剥奪| |BGCOLOR(lightgrey):1570年|BGCOLOR(lightgrey):|元妻Anna Throndsenが「持参金返して!」とイヌ夫ボスウェル伯を告訴&br()・イヌ夫ボスウェル伯が元妻Annaに乗ってきた船の管理権(custody)を渡して和解| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):|王フレゼリク2世がイヌ夫ボスウェル伯を[[コペンハーゲン>https://en.wikipedia.org/wiki/Copenhagen]](デンマーク)へ招待| |BGCOLOR(lightgrey):1578年|BGCOLOR(lightgrey):4月14日|イヌ夫ボスウェル伯がドラグスホルム城で獄死| 王フレゼリク2世は「女王エリザベス1世が殺人容疑者イヌ夫を探してる。コイツは利用できるかも」とイヌ夫を厚遇します。 その後「女王メアリーは二度と王座復活できない」のニュースが到着。 価値ナシになったイヌ夫を悪名高い[[ドラグスホルム城>http://en.wikipedia.org/wiki/Dragsholm_Castle]]に収監。イヌ夫は何も出来ないまま獄死しちゃいます。 } #endregion #region(close,スコットランド女王の廃位で脱メアリー!(小箱の手紙)) 反ボスウェル派の監視下に置かれた女王メアリーはスコットランド女王を[[廃位>https://en.wikipedia.org/wiki/Abdication]]。息子ジェームズ6世(13ヶ月)が即位します。 異母兄マリ伯が摂政に就任。 とーぜん女王エリザベス1世はこの下克上に反対。異母兄マリ伯は反対をスルーしてサクサク政権交代を進めちゃいます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|反ボスウェル派が誓言。女王メアリーが降伏に同意(カーバリー・ヒルの戦い)| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月16日|反ボスウェル派が女王メアリーをロッホリーヴン城へ監禁| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月20~23日|女王メアリーが双子(イヌ夫ボスウェル伯の子供)を流産| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位。息子ジェームズ6世が即位}| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月25日|女王メアリー派W. Maitlandがイングランド大使ニコラス・スロックモートンを訪問| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)が[[即位式>https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation]]&br()・反ボスウェル派が「女王メアリーは自発的に喜んで廃位した」と宣誓| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月22日|異母兄マリ伯が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月4日|異母兄マリ伯が「元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」と声明(小箱の手紙)| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月2日|元・女王メアリーがロッホリーヴン城を脱出| #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリーを騙した反ボスウェル派(スコットランド女王の廃位)}} 女王メアリーは[[ロッホリーヴン城>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]]へ監禁されます。城主はモートン伯[[ウィリアム・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_6th_Earl_of_Morton]](異母兄マリ伯の異父弟)。 反ボスウェル派は女王メアリーへの誓言を反故したの。 誠意を持って女王メアリーに誓言した反ボスウェル派軍の指揮官[[William Kirkcaldy>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Kirkcaldy_of_Grange]]は仲間の裏切りに激怒してます。 &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位).jpg)拾いモノ「Loch Leven Castle」 監禁された女王メアリーはスコットランド女王を廃位します。署名を貰いに行ったのはリンジー卿[[Patrick Lindsay>https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Lindsay,_6th_Lord_Lindsay]]。 「もし拒否するなら貴女の首が飛ぶだろう。もちろん彼らはそれを望んではいない」と言ったっぽい。 リンジー卿は王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)の即位式で「女王メアリーは自発的に喜んで廃位した」と宣誓します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Lindsay,_6th_Lord_Lindsay]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位2).jpg)T Brown画「On 24 July 1567、Mary was forced to abdicate the Scottish throne in favour of her one-year-old son James」 女王エリザベス1世は女王メアリー派[[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]へ「もし女王メアリーの王座復活計画があるなら」と提案を持ちかけます。 「イングランドはイヌ夫ボスウェル伯の殺害と息子ジェームズ6世の保護を約束するぢゃ!」 とーぜん反ボスウェル派が反発。反発し過ぎてフランスとの[[古い同盟>https://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]]を復活されても困るので諦めるしかなかったです。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_Throckmorton]] ちなみに異母兄マリ伯は女王メアリーがイヌ夫ボスウェル伯と結婚した後フランスへ行っちゃってました。 女王メアリーとの衝突を避けたの。 8月11日フランス大使De Lignerollesに護衛してもらいながらスコットランドへ帰国。王ジェームズ6世の摂政になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]] } #blockquote(){&u(){&bold(){脱メアリー!の「王ジェームズ6世の即位は合法条例」(小箱の手紙)}} 「女王メアリーは自発的に喜んで廃位した」で政権交代した反ボスウェル派には下克上の正当性が必要です。 運良く「元・女王メアリーは[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の共犯者」が判明([[小箱の手紙>http://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]])。 あらま!妻が夫を殺したんですって!ってことで、長老制議会は「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Act_Anent_the_demission_of_the_Crown_in_favour_of_our_Sovereign_Lord,_and_his_Majesty%27s_Coronation_1567]] &ref(年表_脱メアリー!(ダーンリー卿殺害事件:ダーンリー卿殺害事件).jpg)バーリー男爵ウィリアム・セシルへの報告書(現場見取り図) 「小箱の手紙」はモートン伯[[ウィリアム・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]](異母兄マリ伯の異父弟)が発見した銀色の小箱です。 小箱には女王メアリーの紋章とF(たぶんフランス王フランソワ2世のF)の彫刻。 中身はこちら。手紙は「女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯が[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の共犯者」を意味する内容だそーです。 ・女王メアリーからイヌ夫ボスウェル伯への8通の手紙(1567年1-4月) ・女王メアリーのソネット ・女王メアリーとボスウェル伯の結婚証明書 手紙は本物?偽物?一部偽造?真相は闇の中。1584年王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)が手紙を処分したっぽいです。 とりあえず手紙のコピーは現存。 小箱はMary Gordon(ダグラス侯爵[[William Douglas>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_1st_Marquess_of_Douglas]]の妻)がゲトしたっぽいです。21世紀は[[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]に展示。 } #blockquote(){&u(){&bold(){どうやってモートン伯ウィリアム・ダグラスは運良く「小箱の手紙」を発見したの?}} 1568年12月モートン伯の証言によると「小箱の手紙」はこんな感じで発見されたそうです。 ・イヌ夫ボスウェル伯がスコットランド脱出を計画。使用人George Dalgleishに「エディンバラ城から手紙をコッソリ回収」「反ボスウェル派に捕まっても絶対に口を割っちゃダメ」と依頼(カーバリー・ヒルの戦い)。 ・反ボスウェル派が使用人George Dalgleishを確保。 ・拷問を恐れた使用人George Dalgleishが「とある家に連れて行きます」と提案。連れて行かれた家(エディンバラのPotterrow)のベッドの下から「小箱の手紙」を発見。 発見された後はまことしやかに噂が流れてるの。ひえー!コワイですねー。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]] &ref(年表_脱メアリー!(廃位:小箱の手紙).jpg)元・女王メアリーの「小箱の手紙」と指輪([[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]) |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月20日|反ボスウェル派が「小箱の手紙」を発見| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位。息子ジェームズ6世が即位}| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)の即位式でウワサが流れる&br()・なんか「都合の悪いヤバイ手紙」が発見されたせいで女王メアリーが廃位したんだって| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月末|ロンドンを訪問した異母兄マリ伯が駐英スペイン大使[[Diego Guzmán de Silva>https://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Guzm%C3%A1n_de_Silva]]にウワサを話す&br()・女王メアリーの「ダーンリー卿殺害事件に係わる手紙」が発見されたんだって| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月末|ロンドン主教[[Edmund Grindal>https://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Grindal]]がジュネーブの[[Heinrich Bullinger>https://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Bullinger]]に手紙を送る&br()・女王メアリーの「イヌ夫ボスウェル伯にダーンリー卿殺害事件をせっつく手紙」が発見されたんだって| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月4日|異母兄マリ伯が枢密院を召集&br()・「元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」と声明| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月6日|モートン伯が異母兄マリ伯に「小箱の手紙」を渡す| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月7日|イングランドへ「小箱の手紙」を公開(ウエストミンスター会議)| ちなみにその後元・女王メアリーは異母兄マリ伯に負けちゃってイングランドへ亡命します([[ラングサイドの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]])。 異母兄マリ伯はイングランドへ「小箱の手紙」を公開(ウエストミンスター会議)。 「小箱の手紙」は1581年モートン伯が処刑された後も [[ダグラス家>https://en.wikipedia.org/wiki/Clan_Douglas]](モートン伯のお家)が保管したっぽいです。 } #endregion #region(close,イングランドへ亡命(ラングサイドの戦い)) 政権交代しても「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」した元・女王メアリーは王座復活を諦めてません。 元・女王メアリーを支持する貴族だっている。 ってことで、異母兄マリ伯に宣戦布告。でもアッサリ負けちゃってイングランドへ亡命します([[ラングサイドの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]])。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱メアリー!(ラングサイドの戦い).jpg)亡命への道のり(地図は21世紀) |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|カーバリー・ヒルの戦い| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月16日|反ボスウェル派が女王メアリーをロッホリーヴン城へ監禁| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月2日|元・女王メアリーがロッホリーヴン城を脱出| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):|元・女王メアリーが「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」と声明| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月13日|ラングサイドの戦い(45分くらいの戦い)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}&br()・釣り船でダンドレナン・アビーからワーキントン(イングランド)へ移動| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド|~|BGCOLOR(lightgrey):5月17日|元・女王メアリーがコッカーマスへ移動&br()・国境監督官スクロープ男爵が元・女王メアリーを保護| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月18日|元・女王メアリーがカーライル城へ到着| #blockquote(){&u(){&bold(){ロッホリーヴン城を脱出}} 元・女王メアリーは[[ロッホリーヴン城>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]]に監禁中です。城主はモートン伯[[ウィリアム・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_6th_Earl_of_Morton]](異母兄マリ伯の異父弟)。 政府は£1,289のお世話代を支給(指示したのは異母兄マリ伯)。 お世話してるのはモートン伯の妻[[Agnes Leslie>https://en.wikipedia.org/wiki/Agnes_Leslie,_Countess_of_Morton]]。Agnesが出産すると元・女王メアリーは自由な時間をゲトします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_6th_Earl_of_Morton]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位).jpg)拾いモノ「Loch Leven Castle」 元・女王メアリーはGeorge Douglas(モートン伯の兄弟)を味方にします。George Douglasが恋しちゃったっぽい。 ってことで、ロッホリーヴン城をこっそり脱出して[[Niddry城>https://en.wikipedia.org/wiki/Niddry_Castle]]へ。 脱出の話しを聞いたモートン伯はダガーで自分を突き刺そうとしちゃう程ショックを受けてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]] } #blockquote(){&u(){&bold(){異母兄マリ伯を倒して王座復活ですわ♥(ラングサイドの戦い)}} 元・女王メアリーは「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」と声明を出します([[Craignethan城>https://en.wikipedia.org/wiki/Craignethan_Castle]]?)。 支持する貴族「Queen's Men:女王メアリー派」がドンドン集合。 長老制議会(?)も「こんなやり方で摂政になった異母兄マリ伯は反逆者条例」が通過します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]] &ref(年表_脱メアリー!(ラングサイドの戦い:ラングサイドの戦い).jpg)F. Hartwich画「Mary of Scotland mourning over the dying Douglas at the Battle of Langside, 1568」 元・女王メアリーは難攻不落な[[Dumbarton城>https://en.wikipedia.org/wiki/Dumbarton_Castle]]で北からの援軍を待つことにします。力を付けて王座復活を目指しますわ♥ 戦いを避けようと[[Rutherglen城>https://en.wikipedia.org/wiki/Rutherglen_Castle]]の方向へ行進。 でも[[ラングサイド>https://en.wikipedia.org/wiki/Langside]]で異母兄マリ伯軍にバッタリ遭逢しちゃってアッサリ負けます。とりあえず逃げますわ♥ バッタリ遭逢したのは異母兄マリ伯軍が女王メアリー派軍の動向に注意してたからです。ラングサイドで待ち伏せてたの。 逆に女王メアリー派軍の指揮官アーガイル伯[[Archibald Campbell>https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Campbell,_5th_Earl_of_Argyll]]は軍事初心者。 ってことで、アッサリ負けちゃいました。戦いの詳細は[[urbanglasgow>http://urbanglasgow.co.uk/]](The Battle Of Langside)さんをどうぞ。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランドへ亡命}} 異母兄マリ伯は「これ以上の流血は避けたい」と異母兄マリ伯軍の兵士たちに逃げた元・女王メアリー追跡を禁止します。 主要な女王メアリー派軍の兵士たちは連行。 平和なスコットランドを取り戻して「The Gude(=Good) Regent:優れた摂政」と呼ばれます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]] &ref(年表_脱メアリー!(ラングサイドの戦い:亡命).jpg)John Smith画「Solway Firth, Embarkation of Queen Mary」(1837年) アッサリ負けちゃった元・女王メアリーはDumbarton城を諦めて[[ダンドレナン・アビー>https://en.wikipedia.org/wiki/Dundrennan_Abbey]]へ行きます。 きっと女王エリザベス1世が王座復活を助けてくれますわ♥ 夜20人のお伴と一緒に釣り船で[[ソルウェー湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Solway_Firth]]を横切って[[ワーキントン>https://en.wikipedia.org/wiki/Workington]](イングランド)へ亡命します。 元・女王メアリーは[[コッカーマス>https://en.wikipedia.org/wiki/Cockermouth]]で国境監督官スクロープ男爵[[Henry Scrope>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Scrope,_9th_Baron_Scrope_of_Bolton]]に保護されて[[カーライル城>https://en.wikipedia.org/wiki/Carlisle_Castle]]へ行きます。 予想外の亡命にイングランドは超ビックリ! 知らせを聞いた[[北部議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Council_of_the_North]]は大急ぎでノーサンバランド伯[[トマス・パーシー>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Percy,_7th_Earl_of_Northumberland]]をお世話係(監視人)に任命します。 } #endregion #region(close,その後のスコットランド) 1歳で即位した王ジェームズ6世(元・女王メアリーの息子)は[[スコットランド国教会>https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_Scotland]]の王様として育てられます。 国政は摂政が担当。 母親メアリーとは[[スターリング城>https://en.wikipedia.org/wiki/Stirling_Castle]]で会ったのが最後。イングランドへ亡命した母親メアリーとの再会は生涯なかったです。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:誘拐結婚).jpg)William Luson Thomas画「Queen Mary quitting Stirling Castle」(1863年) |BGCOLOR(lightgrey):摂政時代|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|王ジェームズ6世が即位&br()異母兄マリ伯(王ジェームズ6世の伯父)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1570年|BGCOLOR(lightgrey):1月23日|異母兄マリ伯が元・女王メアリー支持派に暗殺される&br()レノックス伯[[マシュー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Stewart,_4th_Earl_of_Lennox]](王ジェームズ6世の祖父)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1571年|BGCOLOR(lightgrey):9月4日|レノックス伯が元・女王メアリー支持派の襲撃で死亡&br()マー伯[[ジョン・アースキン>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Erskine,_17th_Earl_of_Mar]](妻Annabella Murrayは王ジェームズ6世の世話係)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1572年|BGCOLOR(lightgrey):10月28日|マー伯が病気で死亡。モートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]の毒殺説あり&br()モートン伯ジェイムズ・ダグラス(王ジェームズ6世の遠縁)が摂政になる| |BGCOLOR(lightgrey):自立時代|BGCOLOR(lightgrey):1581年|BGCOLOR(lightgrey):6月2日|モートン伯ジェイムズ・ダグラスが反逆罪で処刑| |~|BGCOLOR(lightgrey):1582年|BGCOLOR(lightgrey):8月22日|リヴァンの奇襲| |~|BGCOLOR(lightgrey):1586年|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|スコットランドとイングランドが「侵略されたら一緒に戦うぜ!」と約束(ベリック条約)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1587年|BGCOLOR(lightgrey):2月8日|&bold(){イングランドが元・女王メアリーを処刑}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1589年|BGCOLOR(lightgrey):11月23日|王ジェームズ6世が[[アン・オブ・デンマーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark]](デンマーク王[[フレゼリク2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II_of_Denmark]]の娘)と結婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):1603年|BGCOLOR(lightgrey):3月24日|王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世に即位| #blockquote(){&u(){&bold(){志半ばにして暗殺された異母兄マリ伯}} 異母兄マリ伯は王ジェームズ6世の摂政になって政権を握ります。 「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」に反発する元・女王メアリー派を鎮圧([[メアリー内戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Marian_civil_war]])。 平和なスコットランドを取り戻して「The Gude(=Good) Regent:優れた摂政」と呼ばれます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]] でも頑張ってる最中に[[J. Hamilton>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton_%28assassin%29]]([[ハミルトン家>https://en.wikipedia.org/wiki/Clan_Hamilton]]は元・女王メアリー派)に[[carbine銃>https://en.wikipedia.org/wiki/Arquebus]]で撃たれちゃいます。 史上初の銃による暗殺。 1570年2月14日葬儀で熱血おやじ[[ジョン・ノックス>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Knox]]は特別に[[葬儀説教>https://en.wikipedia.org/wiki/Funeral_Sermon_and_Prayer]](「死者の賛美」「貧富の区別」で禁止中)します。 &ref(年表_脱メアリー!(その後:異母兄マリ伯).jpg)G. Cattermole画「James Hamilton of Bothwellhaugh in the act of assassinating The Earl of Moray at Linlithgow」(1835年) 1月29日までに女王エリザベス1世は「異母兄マリ伯の銃撃」の知らせをゲト。でも死亡の知らせは届きませんでした。 スコットランドが摂政の空白をナイショにしたの。 ナイショのためにバクルー男爵[[W. Scott>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Scott,_4th_Baron_of_Buccleuch]]は意図的にイングランド国境を襲撃します。国境が接してると大変だねー。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton_%28assassin%29]] } #blockquote(){&u(){&bold(){自立に目覚めた王ジェームズ6世(リヴァンの奇襲)}} 王ジェームズ6世(13歳)はレノックス公[[エズメ・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Esm%C3%A9_Stewart,_1st_Duke_of_Lennox]](王ジェームズ6世の遠縁)とBLな関係になります。 レノックス公を枢密院に抜擢、公爵の爵位を授与、…アレコレしてガンガン格上げ。 ちなみにイングランドでBLは財産没収、さいあく処刑です(1533年:[[男色禁止法>http://en.wikipedia.org/wiki/Buggery_Act_1533]])。えーっ!ジェフリー気をつけてー! [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Esm%C3%A9_Stewart,_1st_Duke_of_Lennox]] レノックス公は邪魔な摂政モートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]を「ダーンリー卿殺害事件の立案者」で処刑しちゃいます。 長老制議会はレノックス公(カトリック教徒)にイライラ。 「カトリック教会か?王様への忠誠か?」と問われたレノックス公はあっさりスコットランド国教会に改宗します。 &ref(年表_脱メアリー!(その後:リヴァンの奇襲).jpg)[[William Baxter Collier Fyfe>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Baxter_Collier_Fyfe]]画「The raid of Ruthven, an incident in the life of James VI of Scotland」(1878年) ガウリー伯[[ウィリアム・リヴァン>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Ruthven,_1st_Earl_of_Gowrie]]は「スコットランドの行く末ヤバイ!」と王ジェームズ6世を監禁。政権をゲトします。 レノックス公をフランスへ追放。 スコットランド国教会も貴族もガウリー政権を支持。女王エリザベス1世も王ジェームズ6世の監視費用を援助してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Raid_of_Ruthven]] ガウリー政権が目指したスコットランドは ・スコットランド政府の改革 ・フランスとカトリック教会からの影響力の制限 ・イングランドへ亡命した元・女王メアリーのスコットランド帰国の防止 1583年7月王ジェームズ6世は監禁から脱出。イングランドにベッタリなガウリー政権に頼らず自分で直接統治を目指します。 ガウリー伯は特赦(その後も野望を持ち続けたので1584年[[大反逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で処刑)。 ちなみにフランスへ追放になったレノックス公は異教徒として冷遇されながら1583年5月26日死亡してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){母親メアリーを捨てた?王ジェームズ6世(ベリック条約)}} 王ジェームズ6世(スコットランド国教会)も女王エリザベス1世(英国国教会)もカトリック国からの侵略が心配です。 ってことで、フランスやスペインが侵略したら「一緒に戦うぜ!」と約束(ベリック条約)。 1588年[[アルマダの海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]もスコットランドはイングランドに協力します。どんな協力をしたんでしょうね? [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281586%29]] &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:処刑).jpg)文通相手バビントンと仲間たち(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) イングランドはベリック条約で王ジェームズ6世に年金£4,000も約束。「君が次のイングランド王かも!?」と期待させます。 このとき元・女王メアリーを処刑するためのおとり捜査中([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]])。 年金は「王様になりたかったら母親メアリーの処刑に目を瞑るのぢゃ!」という目論見があったって説があります。 } #blockquote(){&u(){&bold(){BLから目覚めた王ジェームズ6世(アン・オブ・デンマークと結婚)}} 王ジェームズ6世はレノックス公エズメ・ステュアートを失った後も女性よりBLがお好みです。でも王様は王位継承者も必要。 ってことで、[[アン・オブ・デンマーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark]](デンマーク王[[フレゼリク2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II_of_Denmark]]の娘)と結婚。 王フレゼリク2世はイヌ夫ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]](女王メアリーの夫)を投獄した王様です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:その後).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) スコットランドにとって[[デンマーク=ノルウェー国王>http://en.wikipedia.org/wiki/Denmark-Norway]]はプロテスタントだし有益な貿易相手です。 ちなみに女王エリザベス1世がオススメしたのはユグノーの[[カトリーヌ・ド・ブルボン>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_de_Bourbon]](フランス王[[アンリ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_IV_of_France]]の妹)。 カトリーヌはカトリック教徒のロレーヌ公[[アンリ2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_II,_Duke_of_Lorraine]]([[ユグノー戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion]]の[[カトリック同盟>https://en.wikipedia.org/wiki/Catholic_League_(French)]])と結婚します。 } #endregion *元・女王メアリーのざっくり年表(イングランド編) イングランドへ亡命した元・女王メアリーはアチコチのお城へ移動させられます(地図にあるお城の位置はテキトー)。 お城はスコットランド、フランス、スペインから離れたトコ。 他にも「お城を掃除しなくちゃ」とかで[[ウィングフィールド荘園>https://en.wikipedia.org/wiki/Wingfield_Manor]]、[[チャッツワース・ハウス>https://en.wikipedia.org/wiki/Chatsworth_House]]、[[ボクストン>https://en.wikipedia.org/wiki/Buxton]]への移動もあります。 &ref(年表(イングランド編).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) **英国国教会のイングランドへ亡命 元・女王メアリーは「きっと女王エリザベス1世が王座復活を助けてくれますわ♥ 」と信じてイングランドへ亡命します。 でも歓迎したのは「打倒女王エリザベス1世!」のカトリック教徒だけ。 カトリック教徒と一緒にアレコレやらかして元・女王メアリーは処刑されちゃいます。ビセンテはどんな活動をしてたんでしょね? [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(陰謀事件).png,【共通】共通の画) |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|元・女王メアリーがイングランドへ亡命| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド|~|BGCOLOR(lightgrey):5月18日|元・女王メアリーを[[カーライル城>http://en.wikipedia.org/wiki/Carlisle_Castle]]に保護&br()(監視人:ノーサンバランド伯[[トマス・パーシー>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Percy,_7th_Earl_of_Northumberland]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月|元・女王メアリーを[[ボルトン城>http://en.wikipedia.org/wiki/Bolton_Castle]]に移動| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):10月|[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の査問委員会を開催| |~|BGCOLOR(lightgrey):1569年|BGCOLOR(lightgrey):1月26日|元・女王メアリーを[[タトベリ城>http://en.wikipedia.org/wiki/Tutbury_Castle]]に移動(監視人:シュルズベリー伯[[G. Talbot>http://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月|&bold(){北部諸侯の乱}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1570年|BGCOLOR(lightgrey):|元・女王メアリーを[[シェフィールド城>http://en.wikipedia.org/wiki/Sheffield_Castle]]に移動| |~|BGCOLOR(lightgrey):1571年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){リドルフィ事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1581年|BGCOLOR(lightgrey):春|&color(red){ビセンテがメアリー・スチュアート救出作戦のリーダに就任}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1583年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){スロックモートン事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1584年|BGCOLOR(lightgrey):10月19日|&bold(){「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]」の作成}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月24日|元・女王メアリーを[[タトベリ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Tutbury_Castle]]に移動| |~|BGCOLOR(lightgrey):1585年|BGCOLOR(lightgrey):クリスマス前|元・女王メアリーを[[チャートリー城>http://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]に移動(監視人:[[アミアス・ポーレット>http://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]])| |~|BGCOLOR(lightgrey):1586年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){バビントン事件}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|スコットランドとイングランドが「侵略されたら一緒に戦うぜ!」と約束([[ベリック条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281586%29]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):8月11日|元・女王メアリーを逮捕| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):9月25日|元・女王メアリーを[[フォザリンゲイ城>http://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringay_Castle]]に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1587年|BGCOLOR(lightgrey):2月8日|&bold(){元・女王メアリーを処刑}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):3月(ユ:2月)|&color(red){ビセンテがホーの丘でカイトに出会う}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月|元・女王メアリーを[[ピーターバラ大聖堂>http://en.wikipedia.org/wiki/Peterborough_Cathedral]]に埋葬| |~|BGCOLOR(lightgrey):1588年|BGCOLOR(lightgrey):7-8月|&color(red){スペインがイングランドへ侵攻([[アルマダの海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]])}| #region(close,女王エリザベス1世「ダーンリー卿殺害事件の調査ぢゃ!」(小箱の手紙)) 元・女王メアリーは「ダーンリー卿殺害事件の共犯者」で廃位しました。廃位は正当か?異母兄マリ伯の下克上か? 1568年10月-1569年1月女王エリザベス1世は[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の査問委員会を開催。 共犯者の証拠になった[[小箱の手紙>https://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]]を調べます。調査結果は「手紙は本物=元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]] |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1565年|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月19日|女王メアリーが息子ジェームズ6世を出産| |~|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):2月10日|ダーンリー卿殺害事件| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月4日|異母兄マリ伯が「元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」と声明(小箱の手紙)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月13日|[[ラングサイドの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]](45分くらいの戦い)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド|~|BGCOLOR(lightgrey):10月|スコットランドとイングランドが新しい2国条約を協議(ヨーク会議)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月7日|スコットランドとイングランドが新しい2国条約を協議(ウエストミンスター会議)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|ダーンリー卿殺害事件の査問委員会が「小箱の手紙」を調査| #blockquote(){&u(){&bold(){ダーンリー卿殺害事件の査問委員会}} 異母兄マリ伯は1568年10月[[ヨーク>https://en.wikipedia.org/wiki/York]]会議、12月7日[[ウエストミンスター>https://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Westminster]]会議でイングランドに「小箱の手紙」を公開します。 12月14日査問委員会は[[ハンプトン・コート>https://en.wikipedia.org/wiki/Hampton_Court_Palace]]で「小箱の手紙」を調査。 「小箱の手紙」と「女王メアリーが女王エリザベス1世へ送った手紙」の筆跡を比較して「手紙は本物」と判定します。 &ref(年表_脱メアリー!(廃位:小箱の手紙).jpg)元・女王メアリーの「小箱の手紙」と指輪([[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]) 女王エリザベス1世は元・女王メアリーから要求された調査への参加も「小箱の手紙」への接近も拒否しちゃってます。 一方的に「ダーンリー卿殺害事件の共犯者」に決定。 でも腐ってもスコットランド女王だったから簡単に処罰できない。ってことで、元・女王メアリーを起訴も罷免もしません。 &ref(年表_イングランドへ亡命(小箱の手紙:査問委員会).jpg)William Robertson著「The Works of William Robertson, D. D. - Vol. III」(1820年) 1568年10月ロス司教[[J. Lesley>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Lesley]]は元・女王メアリーへ暗号で書かれた手紙を送ってます(訳はテキトー)。 &italic(){&color(silver){the D. determinit purpose not to end your cause at this time, but to hold the same in suspense, and did what was in her power to make.}} &italic(){&color(silver){女王エリザベス1世は現時点で貴女の目的を終わらせるつもりはありません。しかし貴女の力がイングランドを脅かす懸念を抱いてます。}} 情報源はヨーク会議のイングランド代表ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]。 「きっと女王エリザベス1世が王座復活を助けてくれますわ♥ 」と思ってた元・女王メアリーは脳内お花畑だったんですね。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ノーフォーク公トマス・ハワード「元・女王メアリーと結婚するぜ!」}} ヨーク会議でノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]は異母兄マリ伯に「小箱の手紙」の公開中止をお願いしたっぽいです。 公開したら元・女王メアリーの名が永遠に汚れちゃう! 元・女王メアリーの無実を信じてたの。この頃から「元・女王メアリーと結婚するぜ!」と考え始めてたっぽいです。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg) 左側:スコットランド代表の[[異母兄マリ伯>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]、... 右側:イングランド代表のノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) 「ノーフォーク公はニャムニャムっぽい」は1571年11月元・女王メアリーのメッセンジャー[[J. Lesley>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Lesley]]の証言です ちなみにこのときJ. Lesleyは[[リドルフィ事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]]でロンドン塔に収監中。 こんな証言もあってノーフォーク公は1572年1月[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で有罪。6月2日打ち首になっちゃいます。 } #endregion #region(close,ローマ教皇「女王エリザベス1世は破門だ!」(北部諸侯の乱)) [[北部諸侯の乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Rising_of_the_North]]は1569年イングランド北部のカトリック貴族たちが起こした反乱です(北部はカトリック教徒が多い)。 ・女王エリザベス1世を追い出して元・女王メアリーがイングランド女王に即位するぜ! 主な共謀者はウェストモーランド伯[[チャールズ・ネヴィル>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Neville,_6th_Earl_of_Westmorland]]とノーサンバーランド伯[[トーマス・パーシー>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Percy,_7th_Earl_of_Northumberland]]です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Rising_of_the_North]] &ref(年表_イングランドへ亡命(北部諸侯の乱).jpg)北部諸侯の乱(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) 反乱軍は元・女王メアリーを救出しするぜ!と南下。でもサセックス伯爵[[トマス・ラドクリフ>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Radclyffe,_3rd_Earl_of_Sussex]]の政府軍に鎮圧されちゃいます。 国民の支持も得られなくて敗北。 ウェストモーランド伯とノーサンバーランド伯はスコットランドへ逃亡します。 #blockquote(){&u(){&bold(){ローマ教皇も反乱軍を応援します!(レグナンス・イン・エクスケルシス)}} ちょっと間に合わなかったけど、1570年2月25日ローマ教皇[[ピウス5世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_V]]は女王エリザベス1世と関係者を[[破門>https://en.wikipedia.org/wiki/Excommunication]]します。 カトリック教会の王様はローマ教皇の承認がないと王様と認められないの。 ってことで、「破門=王様失格」。背後にはスペイン王フェリペ2世からの圧力もあったっぽいです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Regnans_in_Excelsis]] &ref(年表_イングランドへ亡命(北部諸侯の乱:レグナンス・イン・エクスケルシス).jpg)レグナンス・イン・エクスケルシス(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) ちなみにイングランドは「イングランド国教会の首長は王様。カトリック教会の指図は受けねー!」です([[国王至上法>http://en.wikipedia.org/wiki/Act_of_Supremacy_1559]])。 破門されても女王エリザベス1世は屁のカッパ。 でもカトリック教徒には「破門=女王エリザベス1世の打倒」が正義になっちゃいました。ローマ教皇のお墨付きだもんね。 } #blockquote(){&u(){&bold(){その後のノーサンバーランド伯トーマス・パーシー}} スコットランドに逃亡したノーサンバーランド伯と妻[[アン>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Percy,_Countess_of_Northumberland]]はHector Graham(Harlawの強盗団リーダ)に匿ってもらいます。 Hector Grahamはノーサンバーランド伯をモートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]に売却。 モートン伯は[[ロッホリーヴン城>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]](元・女王メアリーが監禁されてたお城)にノーサンバーランド伯を拘留します。 Hector Grahamに裏切りられた妻アンは生まれたばかりの娘と一緒に[[ブルッヘ>https://en.wikipedia.org/wiki/Bruges]](スペイン領ネーデルラント)へ行きます。 お願いです、夫の身代金を援助して下さい! ローマ教皇ピウス5世は4,000[[クラウン>https://en.wikipedia.org/wiki/Crown_(British_coin)]]、王フェリペ2世は6,000[[マルク>https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_(currency)]]を彼女へ送ります。でも全ては無駄に終わったの。 &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位).jpg)拾いモノ「Loch Leven Castle」 摂政レノックス伯[[マシュー・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Stewart,_4th_Earl_of_Lennox]]はイングランドからの「ノーサンバーランド伯引き渡し要求」を拒否しました。 でも次の摂政マー伯[[ジョン・アースキン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Erskine,_Earl_of_Mar_(d._1572)]] が1572年8月£2,000でイングランドに売却。 女王エリザベス1世は「命惜しくばカトリック教会を放棄ぢゃ」を拒否したノーサンバーランド伯を8月22日打ち首にします。 } #blockquote(){&u(){&bold(){その後のウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィル}} スコットランドに逃亡したウェストモーランド伯はKerr卿の自宅[[Ferniehirst Castle>https://en.wikipedia.org/wiki/Ferniehirst_Castle]]に匿ってもらいます。 そこにノーサンバーランド伯を売却のお知らせが到着。 「俺も裏切られたらヤバイじゃん!」と[[フランドル>https://en.wikipedia.org/wiki/Flanders]](スペイン領ネーデルラント)へ亡命します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Neville,_6th_Earl_of_Westmorland]] &ref(【共通の画】アルマダ海戦_スペイン無敵艦隊.jpg,【共通】共通の画)スペイン無敵艦隊(映画「[[Elizabeth:The Golden Age>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth:_The_Golden_Age]]」) 1588年[[アルマダ海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]ではパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ>https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Farnese,_Duke_of_Parma]]と一緒にイングランド亡命者700人を指揮してます。 その後は王フェリペ2世から年金を貰って細々と生活。 イングランドの財産はもっちろん剥奪されてます(1571年:[[Attainders of Earl of Westmorland and others Act 1571>https://en.wikipedia.org/wiki/Attainders_of_Earl_of_Westmorland_and_others_Act_1571]])。 女王エリザベス1世は一文無しになったウェストモーランド伯の妻[[Jane Neville>https://en.wikipedia.org/wiki/Jane_Howard,_Countess_of_Westmorland]]に年£200の年金を与えて自宅軟禁します。 良い教育は受けてたけど政治には無知だったっぽい。 ちなみに妻Jane Nevilleの弟はノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅)です。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「ノーフォーク公トマス・ハワードを逮捕ぢゃ」}} 1569年女王エリザベス1世はノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]を「元・女王メアリーと結婚しようとしてる」で逮捕します。 なんで分かったんでしょね? 1570年8月特赦されて解放。ちなみに1569年息子[[フィリップ・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Howard,_20th_Earl_of_Arundel]]と[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]が婚約してます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg)右側:ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) 1568年イタリア銀行家[[ロベルト・ディ・リドルフィ>https://en.wikipedia.org/wiki/Roberto_di_Ridolfi]]も「イングランド北部のカトリック貴族たちにお金を調達した」のウワサで逮捕されてます。 ローマ教皇ピウス5世が「反乱に使ってね♥」と12,000クラウンを託してたの。 1570年証拠不十分で解放。その後出所したノーフォーク公を拾って[[リドルフィ事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]]を計画します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]] } #endregion #region(close,女王エリザベス1世「ノーフォーク公トマス・ハワードを処刑ぢゃ!」(リドルフィ事件)) [[リドルフィ事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]]は1571年「女王エリザベス1世を暗殺して元・女王メアリーがイングランド女王に即位」の陰謀です。 ・ネーデルラント総督アルバ公[[Fernando Álvarez de Toledo>http://en.wikipedia.org/wiki/Fernando_%C3%81lvarez_de_Toledo,_3rd_Duke_of_Alba]]が軍を率いてイングランドへ侵攻するぜ!上陸場所は[[ハリッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/Harwich]]か[[ポーツマス>https://en.wikipedia.org/wiki/Portsmouth]]だぜ! ・イングランド北部でカトリック反乱を扇動して女王エリザベス1世を暗殺するぜ! ・元・女王メアリーはノーフォーク公[[トマス・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]と結婚してイングランド女王に即位するぜ! 考案者はロンドン在住のイタリア銀行家[[ロベルト・ディ・リドルフィ>http://en.wikipedia.org/wiki/Roberto_di_Ridolfi]](1567年からローマ教皇[[ピウス5世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_V]]の間諜)。 ローマ教皇ピウス5世と王フェリペ2世もノリノリです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg)右側:ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) #blockquote(){&u(){&bold(){ジョン・ホーキンス([[フランシス・ドレイク>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]の従兄弟)もスパイやってます♥}} [[ジョン・ホーキンス>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]は女王エリザベス1世を裏切るフリして駐英スペイン大使[[Guerau de Espés>https://en.wikipedia.org/wiki/Guerau_de_Esp%C3%A9s]]に接近します。 スペイン人捕虜の釈放を手助けしたりアレコレご奉仕。 すっかり信用させて陰謀の計画やメンバーの情報をゲトしちゃいます。もっちろん女王エリザベス1世にぜーんぶ報告。 &ref(【共通の画】イングランド_フランシス・ドレイク.jpg,【共通】共通の画)作者不明「[[Thomas Cavendish>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Cavendish]], Sir Francis Drake and Sir John Hawkins」(17世紀) トスカーナ大公[[コジモ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Cosimo_I_de%27_Medici,_Grand_Duke_of_Tuscany]]も個人的に女王エリザベス1世へ「陰謀に気をつけて!」と警告を送ってます。 リドルフィから陰謀の計画を聞いたの。 なんとリドルフィはヨーロッパ中で陰謀の計画を自慢しちゃってました。えええーっ!? ネーデルラント総督アルバ公「こんなヤツがリーダで大丈夫かなあ?」 駐英スペイン大使Guerau de Espés「ヤツは偉大な誠実と美徳を持ち合わせた仲間だからへーき、へーき」 でも全然へーきじゃなかった。陰謀が失敗した原因の1つは「リドルフィのお喋り」です。 ちなみにパリ出張中に「メッセンジャー[[C. Baillie>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baillie_(papal_agent)]]の逮捕」で陰謀の失敗を知ったリドルフィはイングランドへ戻らずに逃亡。 女王エリザベス1世は1571年1月駐英スペイン大使Guerau de Espésを追放します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「陰謀をぶっ潰すぢゃ!」}} [[C. Baillie>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baillie_(papal_agent)]]は暗号で書かれた元・女王メアリーたち宛の手紙を運ぶリドルフィのメッセンジャーです。 1571年4月12日頃[[ドーバー>https://en.wikipedia.org/wiki/Dover]]で逮捕されて[[マーシャルシー監獄>https://en.wikipedia.org/wiki/Marshalsea]]に収監。 仲良くなった囚人Thomas Herle(バーリー男爵の潜入員)に「全部吐いて楽になろうよ」と説得されて心がグラグラします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baillie_(papal_agent)]] [[ロンドン塔>https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_London]]へ移されたC. Baillieは「暗号の解読方法を吐けー!」と拷問されます。 ある晩処刑待ちの囚人[[J. Story>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Story]](〃の潜入員Parkerの変装)に「吐かないと俺みたいになるよ」と説得されて心がポキッ。 バーリー男爵に協力します。1573年解放。 &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(重臣).jpg,【共通】共通の画)この時バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]は[[秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_(England)]]、[[フランシス・ウォルシンガム>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Walsingham]]は[[在仏イングランド大使>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_ambassadors_of_the_Kingdom_of_England_to_France]] 1571年8月29日[[シュルーズベリー生地商会>https://en.wikipedia.org/wiki/Shrewsbury_Drapers_Company]]Thomas Browneはノーフォーク公の秘書から「銀貨の袋」の運搬を頼まれます。 銀貨の割に重いし、ノーフォーク公ってアレコレ疑われてるよね…不審に思って中身をチェック。 袋の中から「フランス大使から元・女王メアリーへの£600」「暗号で書かれた手紙」を発見。バーリー男爵に通報します。 バーリー男爵はノーフォーク公の秘書を尋問。手紙の一部を解読してノーフォーク公の邸宅を家宅捜査します。 邸宅で「暗号の解読方法」「暗号で書かれた元・女王メアリーからの手紙」を発見。 ノーフォーク公は「お金は個人的な目的で元・女王メアリーは無関係」と主張。でも解読された手紙が関係を証明してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「ノーフォーク公トマス・ハワードを処刑ぢゃ!」}} 1571年9月7日女王エリザベス1世はノーフォーク公をロンドン塔へ収監します。 ノーフォーク公は「元・女王メアリーへの送金」「スコットランドの元・女王メアリー支持者との通信」をしぶしぶ是認。 1572年1月[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で有罪。6月2日[[タワー・ヒル>https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_Hill]](ロンドン塔)で打ち首になります。 「[[ノーフォーク公爵>https://en.wikipedia.org/wiki/Duke_of_Norfolk]]」の爵位も土地も剥奪。残された家族はその後母方の[[アランデル伯>https://en.wikipedia.org/wiki/Earl_of_Arundel]]を名乗ることになります。 ちなみに1571年息子アランデル伯[[フィリップ・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Howard,_20th_Earl_of_Arundel]]と[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]が結婚。 [[ハワード家>https://en.wikipedia.org/wiki/Howard_family]]の復興は1660年ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_5th_Duke_of_Norfolk]](アランデル伯のひ孫)までお待ち下さい。 &ref(年表_脱メアリー!(廃位:小箱の手紙).jpg)元・女王メアリーの「小箱の手紙」と指輪([[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]) 元・女王メアリーは「リドルフィは知ってるけど私は無関係ですわ」と無罪を主張します。 ってことで、女王エリザベスは「小箱の手紙」を公開。 元・女王メアリーの評判を落とします。そして二度と「元・女王メアリーの王座復活」を話題にしなくなったんだって。 } #endregion #region(close,バーリー男爵と秘書官長ウォルシンガム「こーなったら徹底的にやるしかねー!」(スロックモートン事件)(女王安全保障の契約)) [[スロックモートン事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Throckmorton_Plot]]は1583年「女王エリザベス1世を暗殺して元・女王メアリーがイングランド女王に即位」の陰謀です。 ・ギーズ公[[アンリ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_I,_Duke_of_Guise]](1587–1589年:[[三アンリの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/War_of_the_Three_Henrys]]の1人)が軍を率いてイングランドへ侵攻するぜ! ・イングランドでカトリック教徒が反乱起こして女王エリザベス1世を暗殺するぜ! ・元・女王メアリーがイングランド女王に即位するぜ! 主な共謀者は[[フランシス・スロックモートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Throckmorton]]と兄弟トマス・〃。2人は女王の女官[[エリザベス・スロックモートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Raleigh]]の従兄弟。 ローマ教皇[[グレゴリウス13世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Gregory_XIII]]と王フェリペ2世もノリノリです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Throckmorton_Plot]] &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(重臣).jpg,【共通】共通の画)[[William Faithorne>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Faithorne]]画「Queen Elizabeth I; Sir Francis Walsingham; William Cecil, 1st Baron Burghley」(1655年:イングランド) #blockquote(){&u(){&bold(){秘書官長ウォルシンガム「なんかスロックモートン兄弟が怪しいぜ!」(スロックモートン事件)}} [[大陸を旅行>https://en.wikipedia.org/wiki/Grand_Tour]]するスロックモートン兄弟は「イングランドを追放されたカトリック教徒の窮境」を見て同情しちゃいます。 パリで[[トマス・モーガン>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Morgan_(of_Llantarnam)]](元・女王メアリーの腹心)が「仲間になってちょ♥」とスカウト。 モーガンはスロックモートン兄弟に駐英スペイン大使[[Bernardino de Mendoza>https://en.wikipedia.org/wiki/Bernardino_de_Mendoza]](王フェリペ2世の間諜)を紹介します。 1583年ロンドンに戻ったスロックモートン兄弟は元・女王メアリーと駐英スペイン大使のメッセンジャーになります。 秘書官長フランシス・ウォルシンガムはスロックモートン兄弟を監視。 6ヵ月後に逮捕。駐英スペイン大使への手紙「スペインの侵攻を支持するカトリック教徒の貴族たちのリスト」をゲトします。 &ref(年表_イングランドへ亡命(スロックモートン事件).jpg)駐英スペイン大使Bernardino de Mendozaの追放(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) 女王エリザベス1世は1584年1月駐英スペイン大使を追放します。[[エリザベス朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabethan_era]]の駐英スペイン大使はこれ以降不在。 これも[[英西戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_(1585%E2%80%931604)]](1585–1604年)の前兆なのかしら? 7月フランシス・スロックモートンは[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で処刑。兄弟トマス・スロックモートンはなんとか海外へ逃亡します。 ちなみに王フェリペ2世と駐英スペイン大使は「2人だけに分かる[[暗号>https://en.wikipedia.org/wiki/Code_(cryptography)]]」を使って手紙のやりとりしてました。 数年前に考案したんだって。 陰謀は失敗しちゃったけど2人には有意義だったそーです。追放された駐英スペイン大使は駐仏スペイン大使に就任。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Bernardino_de_Mendoza]] } #blockquote(){&u(){&bold(){秘書官長ウォルシンガム「なんか他にもアレコレあるぜ!」}} 他にも[[J. Somerville>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Somerville_(conspirator)]](1583年)、[[W. Parry>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Parry_(spy)]](1584年)、…の個人的な「女王エリザベス1世を暗殺」もアレコレあります。 J. Somervilleは精神的なご病気。 W. Parryはカトリック教徒に潜入した間諜。「潜入先で取り込まれた?」「借金返済のための自作自演?」だそーです。 &ref(年表_イングランドへ亡命(スロックモートン事件:アレコレ).jpg)パリー事件(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) } #blockquote(){&u(){&bold(){バーリー男爵と秘書官長ウォルシンガム「こーなったら徹底的にやるしかねー!」(女王安全保障の契約)}} スロックモートン事件の後元・女王メアリーは[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]でキビシイ監視下に置かれます。 でも元凶がいる限り…こーなったら徹底的にやるしかねー! ってことで、1584年バーリー男爵と秘書官長フランシス・ウォルシンガムは「[[女王安全保障の契約>http://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]」の契約書を作ります。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:処刑2).jpg)[[Abel de Pujol>https://en.wikipedia.org/wiki/Abel_de_Pujol]]画「La mort de Marie Stuart, 1587」(19世紀:フランス) 「女王安全保障の契約」は「こーゆー計画書に署名してるヤツは&bold(){エライ人もエラくない人も無条件に処刑}だからね!」です。 なんと元・女王メアリーも契約書に署名。 この流れで1585年[[イングランド議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]が「[[Safety of the Queen, etc. Act 1584:女王安全保障法>https://en.wikipedia.org/wiki/Safety_of_the_Queen,_etc._Act_1584]]」を可決してます。 ・王様になる計画をした。 ・計画が成功して王様になれた。 ・女王エリザベス1世の暗殺を計画をした。 ・計画が成功して女王エリザベス1世を暗殺した。 腐ってもスコットランド女王だった元・女王メアリーだって証拠があれば簡単に処罰できちゃいます。 そして[[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]]で証拠ゲト。 女王エリザベス1世が「元・女王メアリーの死刑執行令状」に署名して1587年2月8日元・女王メアリーは処刑されます。 } #endregion #region(close,バーリー男爵と秘書官長ウォルシンガム「元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥」(バビントン事件)) [[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]]は1586年「女王エリザベス1世を暗殺して元・女王メアリーがイングランド女王に即位」の陰謀です。 ・スペインとフランスが軍を率いてイングランドへ侵攻するぜ! ・女王エリザベス1世を暗殺するぜ! ・元・女王メアリーがイングランド女王に即位するぜ! なんかもうワンパターンね…。主な共謀者は文通相手[[アンソニー・バビントン>https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Babington]]と首謀者[[ジョン・バラード>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Ballard]]。 王フェリペ2世と[[カトリック同盟(フランス)>https://en.wikipedia.org/wiki/Catholic_League_(French)]]もノリノリです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]] &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件).jpg)元・女王メアリーが収監されてる[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]] この陰謀もやっぱり秘書官長フランシス・ウォルシンガムが発見しちゃいます。でも今回は元・女王メアリーに罠を張ったの。 だって「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]」があるもーん♥ 元・女王メアリーが「女王エリザベス1世の暗殺に同意」しちゃえばこっちのもんです。うはははは! #blockquote(){&u(){&bold(){秘書官長フランシス・ウォルシンガムのうはははは!な罠}} 秘書官長ウォルシンガムはチャートリー城に収監されてる元・女王メアリーに監視人[[アミアス・ポーレット>https://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]]を付けます。 ついでに二重間諜[[ギルバート・ギフォード>https://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_Gifford]]と暗号解読者[[トマス・フェリペス>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Phelippes]]も潜入。 ビア樽通信網で配達される手紙をチェックして「元・女王メアリーを処刑する証拠♥」を待ちます。うはははは! ・駐英フランス大使ギヨームが[[外交用郵袋>https://en.wikipedia.org/wiki/Diplomatic_bag]]で手紙を受け取って二重間諜ギフォードへ渡す。 ・二重間諜ギフォードが暗号解読者フェリペスへ手紙を渡す。暗号解読者フェリペスが手紙を解読。解読した手紙のコピーは秘書官長ウォルシンガムへ、本物の手紙は封を戻して二重間諜ギフォードへ返す。 ・二重間諜ギフォードが地元のビール醸造者へ手紙を渡す。ビール醸造者が防水ケースに入れた手紙を[[ビア樽>https://en.wikipedia.org/wiki/Barrel]]の[[栓>https://en.wikipedia.org/wiki/Bung]]に隠してチャートリー城へ運ぶ。元・女王メアリーが手紙をゲトする。 元・女王メアリーと文通相手[[アンソニー・バビントン>https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Babington]]の「暗号で書かれた手紙」はこんな感じで配達されます。 ちなみにビア樽通信網を準備したのは二重間諜ギフォード。 応援団[[ロバート・ポウリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Poley]]は陰謀グループに潜入して文通相手バビントンが証拠ゲトの前に逃げ出さないよう励まします。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:罠).png) #region(close,うはははは!な罠の登場人物) #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリー(チャートリー城)}} [[タトベリ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Tutbury_Castle]](窓のないジメジメした寒い部屋)で病気になった元・女王メアリーは[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]へ移動します。 外部との通信はぜーんぶ禁止。 秘書官長ウォルシンガムが信頼する監視人[[アミアス・ポーレット>https://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]]が元・女王メアリーをビシバシ監視します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){首謀者トマス・モーガンとジョン・バラード(元・女王メアリーの支持者)}} [[トマス・モーガン>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Morgan_%28of_Llantarnam%29]](スロックモートン事件にも登場)は熱烈なカトリック教徒です。 元・女王メアリーの監視人[[シュルズベリー伯>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]]の秘書だったとき元・女王メアリーの腹心になったっぽい。 1569-1572年元・女王メアリーのメッセンジャーとしてご奉仕しました。 &italic(){&color(silver){There be many means in hand to remove the beast that troubles the world.(Thomas Morgan to Gilbert Curle, referring to Elizabeth I)}} &italic(){&color(silver){この世を悩ます悪魔(=女王エリザベス1世)を除去する手段は数々ある。(元・女王メアリーの暗号担当秘書G. Curleへの言葉)}} こんな思考の首謀者モーガンはナニカ([[The Parry Plot>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Parry_(spy)]]?)で逮捕されちゃって解放後フランスへ亡命します。 フランスで打倒女王エリザベス1世!をアレコレ画策。 [[ジョン・バラード>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Ballard]]は[[イエズス会>https://en.wikipedia.org/wiki/Society_of_Jesus]]の司祭です。1581年宣教師として[[カトリック神学校>https://en.wikipedia.org/wiki/English_College,_Douai]]([[ランス>https://en.wikipedia.org/wiki/Reims]])から帰国。 宮廷兵士Captain Fortescueに変装して各地で宣教しながら元・女王メアリー支持者を扇動。 同行者の1人はBarnard Maude(秘書官長ウォルシンガムの潜入員)。バビントン事件は最初からバレバレです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){二重間諜ギルバート・ギフォード(秘書官長ウォルシンガムの部下)}} [[ギルバート・ギフォード>http://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_Gifford]]は[[カトリック神学校>http://en.wikipedia.org/wiki/English_College,_Douai]](ドゥエー)の助祭です。秘書官長ウォルシンガムが潜入させた? 1585年10月パリで首謀者モーガンが「仲間になってちょ♥」とスカウト。 12月元・女王メアリーのメッセンジャーとして[[ライ港>https://en.wikipedia.org/wiki/Rye,_East_Sussex]](イングランド)へ戻ります。 でもライ港で秘書官長ウォルシンガムにサクッと捕まっちゃいます。尋問中に[[二重間諜>https://en.wikipedia.org/wiki/Double_agent]]として働くことに同意。 コード名はNo.4。他にColerdin、Pietro、Cornelys、…のお名前も使用。 ビア樽通信網を作って元・女王メアリーと文通相手バビントンの手紙を秘書官長ウォルシンガムに渡します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){暗号解読者トマス・フェリペス(秘書官長ウォルシンガムの部下)}} [[トマス・フェリペス>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Phelippes]]は暗号と偽造の専門家です。詳細は分かりませんでした。 } #blockquote(){&u(){&bold(){駐英フランス大使ギヨーム・ド・ローベスピーヌ}} [[駐英フランス大使>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Ambassadors_of_France_to_England]][[ギヨーム・ド・ローベスピーヌ>https://fr.wikipedia.org/wiki/Guillaume_de_L%27Aubespine]]の詳細は分かりませんでした。 二重間諜ギフォードから「暗号の解読表(秘書官長ウォルシンガムが準備)」を見せられてビア樽通信に参加。 外交官特権の[[外交用郵袋>https://en.wikipedia.org/wiki/Diplomatic_bag]]を使って手紙を配達します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){文通相手アンソニー・バビントン(元・女王メアリーの支持者)}} [[アンソニー・バビントン>http://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Babington]]はカトリック教徒の貴族です。[[バビントン家>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_family]]のモットーは「foy est tout:信仰は全て」。 元・女王メアリーの監視人[[シュルズベリー伯>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]]の[[小姓>https://en.wikipedia.org/wiki/Page_(servant)]]だったとき元・女王メアリーの支持者になったっぽい。 1580年頃大陸を旅行中に首謀者モーガンが「仲間になってちょ♥」とスカウトします。 その後首謀者バラードが「元・女王メアリーのメッセンジャーになってちょ♥」とリクルートします。 首謀者バラードは「準備万端(二重間諜ギフォードのニセ情報)」で自信マンマン。 ってことで、文通相手バビントンと元・女王メアリーのビア樽通信が始まります。あとは処刑の証拠を待つだけ♥ } #blockquote(){&u(){&bold(){応援団ロバート・ポウリー(秘書官長ウォルシンガムの部下)}} [[ロバート・ポウリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Poley]]は1580年代前半から多額のお金を使ってます。秘書官長ウォルシンガムの間諜になった? 1585年フランスへ行って首謀者モーガンの信頼をゲト。 帰国すると首謀者モーガンの間諜を装って秘書官長ウォルシンガム邸の使用人になります。 1586年6月秘書官長ウォルシンガムから「文通相手バビントンに近づいてフランス亡命を阻止しろ」と頼まれます。 文通相手バビントンがビア樽通信にビビリ始めて渡航許可証を申請したの。 ってことで、申請を手伝う親切な仲間を装って「へーきへーき!ビア樽通信を続けようよ!」と励まします。 } #endregion } #blockquote(){&u(){&bold(){あとは処刑の証拠を待つだけ♥ 文通相手バビントンと元・女王メアリーのビア樽通信}} 二重間諜ギフォードは駐英フランス大使ギヨームに元・女王メアリーへの「最初の手紙」を書いて貰います。 ビア樽通信がスタート! 1586年6月28日首謀者モーガンからの手紙に励まされた元・女王メアリーは文通相手バビントンに手紙を送ります。 7月7日文通相手バビントンは元・女王メアリーに「陰謀の詳細計画」の手紙を送ります。 秘書官長ウォルシンガムが手紙をチェックして7月14日元・女王メアリーに到着。 このとき元・女王メアリーは息子[[王ジェームズ6世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]の裏切りでドヨドヨ気分だそーです(1586年7月6日:[[ベリック条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281586%29]])。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:ビア樽通信).jpg)postscript to a letter by Mary Queen of Scots to Anthony Babington |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ウォルシンガムにバレバレのビア樽通信| |BGCOLOR(lightgrey):?&br()駐英フランス大使ギヨーム→元・女王メアリー|&bold(){「最初の手紙」}| |BGCOLOR(lightgrey):1586年6月28日&br()元・女王メアリー→文通相手バビントン|&bold(){「(手紙の内容は分かりませんでした)」}&br()・ビア樽通信は元・女王メアリーから始めるルール| |BGCOLOR(lightgrey):1586年7月7日&br()文通相手バビントン→元・女王メアリー|&bold(){「我々は女王エリザベス1世を暗殺して貴女を女王にする計画してます。」}&br()・7月14日元・女王メアリーに到着| |BGCOLOR(lightgrey):1586年7月17日&br()元・女王メアリー→文通相手バビントン|&bold(){「素晴らしい計画ですわ。外国の助けもあったら成功間違いなしです。}&br()&space(2)&bold(){追伸:仲間のお名前を教えてくださらない?」}&br()・元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥&br()・暗号解読者フェリッペスが追伸を追加したニセモノ手紙を作成| 7月17日元・女王メアリーは文通相手バビントンに「女王エリザベス1世は暗殺しないといけませんわ」の手紙を送ります。 元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥ 秘書官長ウォルシンガムは証拠のオリジナル手紙を保存。ニセモノ手紙に追伸「仲間は誰ですの?」を追加します。 ニセモノ手紙を受け取った文通相手バビントンは元・女王メアリーに仲間の名前を教えるか悩みます。ふえー!もうムリ! ってことで、逃亡を決意してスペイン渡航許可を申請。 秘書官長ウォルシンガムは「コイツはもう使えない」と判断。文通相手バビントンたちを逮捕して陰謀を潰します。 #region(close,「暗号で書かれた手紙」) こちらはバビントン事件の「暗号で書かれた手紙」。たぶん7月17日のニセモノ手紙だと思います。 解読するとこんな感じなんだって。 &italic(){&color(silver){I w be glad to know the names and quelityes of the sixe gentlemen which are to accomplish the dessignement, for that it may be I shall be able uppon knowledge of the parties to give you some further advise necessarye to be followed therein…… as also from time to time particularlye how you proceede and as son as you may for the same purpose who bee alredye and how farr every one privye hereunto.}} 詳細は[[The National Archives>http://www.nationalarchives.gov.uk/]]([[Codes and Ciphers:The Babington Plot>http://www.nationalarchives.gov.uk/spies/ciphers/mary/ma2.htm]])さんをどうぞ。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:ビア樽通信).jpg)postscript to a letter by Mary Queen of Scots to Anthony Babington #blockquote(){&u(){&bold(){バビントン事件で使った暗号}} バビントン事件で使った暗号は[[換字式暗号>https://en.wikipedia.org/wiki/Substitution_cipher]]の1つノーメンクラタ(Nomenclator)です。 お名前や単語を「記号」に置き換えるの。 ノーメンクラタは15-18世紀スパイ活動や外交文書でご利用。16世紀中頃から政府が暗号解読機関を組織してます。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:ビア樽通信_暗号).jpg)暗号解読表([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]]) 16世紀はロウソクで炙ると「牛乳やレモンジュースで書いた見えない文字」が現れる[[あぶり出し>https://en.wikipedia.org/wiki/Invisible_ink]]も人気です。 匂いでバレないようにインクで書かれた手紙に追加するのがポイント。 私たちもミカンの絞り汁で遊びましたよね。詳細は[[BBC>http://www.bbc.com/]](Elizabeth's Spy Network)さんをどうぞ。 } #endregion } #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥ 文通相手バビントンたちの処刑}} 8月4日秘書官長ウォルシンガムは首謀者バラードを逮捕。拷問で文通相手バビントンの関与を吐かせます。 陰謀グループを8月15日までに全員逮捕。 首謀者バラードと文通相手バビントンは[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で有罪。9月20日[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑>https://en.wikipedia.org/wiki/Hanged,_drawn_and_quartered]]で処刑されます。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:処刑).jpg)文通相手バビントンと仲間たち(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) 元・女王メアリーの2人の秘書[[C. Nau>https://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Nau]]とGilbert Curle(「暗号で書かれた手紙」の解読を担当)も事情聴取されます。 圧力に負けて「手紙は元・女王メアリーの正直な気持ちです」と認めちゃったの。 陰謀の関与で裁判を受けることになった元・女王メアリーは9月25日[[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]に移動されます。ビセンテ…。 } #blockquote(){&u(){&bold(){えっ!?応援団ポウリーも逮捕されちゃったの?}} 応援団[[ポウリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Poley]]は陰謀グループに潜入して文通相手バビントンが証拠ゲトの前に逃げ出さないよう励ましてました。 文通相手バビントンに尽くしまくって秘書官長ウォルシンガムに逐一報告。 陰謀グループの中には疑う人もいたけど文通相手バビントンは盲目的に応援団ポウリーを信頼します。 なんやかんやで文通相手バビントンは逮捕されました。8月18日応援団ポウリーも逮捕されてロンドン塔へ収監。えっ!? こちらは文通相手バビントンが応援団ポウリーに送った最後の手紙。 最後まで「もしかして応援団ポウリーは僕を裏切った…の?」と疑ってしまう自分を受け入れられなかったそーです。 Farewell sweet Robyn, if as I take thee, true to me. If not adieu, omnius bipedum nequissimus. さようなら愛しのロビン、僕は尽くしてくれた君を道連れにしてしまうのかもしれない。でもこれでお別れとは思いたくない…ああ、人はなんて残酷な生き物だろう。(訳は超テキトー) 手紙には「ダイヤの指輪を返して」のお願いも書いてます。文通相手バビントンは応援団ポウリーを愛してたっぽい。 カトリック教会は[[男色禁止>https://en.wikipedia.org/wiki/Homosexuality_and_Roman_Catholicism]]。 「指輪を持っていたら愛しのロビンが地獄に落ちてしまう」と心配したのかしら?なんか可哀想になってきた。 &ref(【共通の画】イングランド_クリストファー・マーロウ殺人事件.jpg,【共通】共通の画)Angus McBride画「The killing of the poet, Christopher Marlowe」 逮捕された応援団ポウリーは裏切りの駆け引きに満足しつつも決して陰謀グループたちをバカにしなかったそーです。 ロンドン塔に収監されてる間も秘書官長ウォルシンガムとの連絡は継続。 安全のためにしばらく身を隠せってコトかしら?1588年後半にロンドン塔から解放されます。 解放後も秘書官長ウォルシンガム→秘書官長バーリー男爵→秘書官長[[ロバート・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_1st_Earl_of_Salisbury]]の下で間諜を続けます。 1593年5月30日[[クリストファー・マーロウ>https://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Marlowe]]の死にも関わってるかも? 最後の記録は出張旅費精算書「1601年9月5日パリ出張£10」。支払ったのは秘書官長ロバート・セシルです。 } #endregion #region(close,女王エリザベス1世「元・女王メアリーを処刑ぢゃ!」(残酷な画があるのでご注意下さい)) 元・女王メアリーは秘書官長フランシス・ウォルシンガムが張った罠「ビア樽通信([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]])」で逮捕されちゃいます。 [[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]で「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]を犯した反逆罪」の裁判。 「7月17日のニセモノ手紙(ビア樽通信)」の証拠をババーンと出されて有罪。1587年2月8日打ち首になります。享年44。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑).jpg)元・女王メアリーが収監されてるフォザリンゲイ城 |BGCOLOR(lightgrey):1585年|BGCOLOR(lightgrey):クリスマス前|元・女王メアリーを[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]に移動(監視人:[[アミアス・ポーレット>https://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]])| |BGCOLOR(lightgrey):1586年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){バビントン事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月11日|元・女王メアリーを逮捕。[[ティクソール門楼>https://en.wikipedia.org/wiki/Tixall_Gatehouse]]に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):2週間後|元・女王メアリーをチャートリー城に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月25日|元・女王メアリーを[[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月14日|元・女王メアリーを裁判| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月25日|元・女王メアリーを「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]を犯した反逆罪」で有罪| |BGCOLOR(lightgrey):1587年|BGCOLOR(lightgrey):2月1日|女王エリザベス1世が「元・女王メアリーの死刑執行令状」に署名| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月3日|枢密院が「元・女王メアリーの死刑執行書」を手配| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月8日|&bold(){元・女王メアリーを処刑}| #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーの裁判}} 1586年8月11日乗馬に出かけた元・女王メアリーは突然兵士に囲まれて逮捕。[[ティクソール門楼>https://en.wikipedia.org/wiki/Tixall_Gatehouse]]へ移動させられます。 容疑は「女王エリザベス1世の暗殺に同意した([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]])」。 元・女王メアリーがお留守の間に[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]に残った主要な使用人も逮捕。書類も押収しちゃいます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Tixall_Gatehouse]] 秘書官長フランシス・ウォルシンガムは監視人ポーレットへ「そのままティクソール門楼に収監せよ」と手紙を送りました。 でも手紙が到着する前にチャートリー城に戻っちゃったの。 ティクソール門楼を出発するとき元・女王メアリーは門にたむろす貧しい人々に涙を流しながらこう言ったそうです。 &italic(){&color(silver){I have nothing for you, I am a beggar as well as you, all is taken from me.}} &italic(){&color(silver){私には施せるモノが何もありません。全てを奪われた私は皆さんと同じなのです(訳は超テキトー)。}} &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:裁判).jpg)[[Robert Beale>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Beale_(diplomat)]]画「The Trial of Mary Queen Scots」 元・女王メアリーは[[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]へ移動。10月14日「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]を犯した反逆罪」の裁判を受けます。 証拠を全否定して参審員(36人の貴族)に力説。 &italic(){&color(silver){Look to your consciences and remember that the theatre of the whole world is wider than the kingdom of England.}} &italic(){&color(silver){貴殿の良心(=神に選ばれた女王が弁護士も付けられず外国で裁かれるコト)に問いかけて下さい。そして全世界(=カトリック教会の国々)がイングランド王国より強大であることを思い出して下さい(訳は超テキトー)。}} でも力説も空しく10月25日反逆罪で有罪。反対したのはゾウチ男爵[[Edward la Zouche>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_la_Zouche,_11th_Baron_Zouche]]だけです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「元・女王メアリーの死刑執行令状に署名するぢゃ!」}} 女王エリザベス1世は元・女王メアリーの処刑を躊躇します。 [[イングランド議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]が「陛下、どーか死刑執行令状に署名して下さい」とお願いしても首を縦に振らないの。 躊躇の理由は ・「女王(=元・女王メアリー)を殺した」という不名誉な先例で自分の評判を落としたくない。 ・スコットランド王ジェームズ6世(元・女王メアリーの息子)がカトリック教会の国々と同盟を結んでイングランドに報復するかもしれない。 ・またイングランドでカトリック反乱が起こるかもしれない。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:死刑執行令状).jpg)死刑執行令状 板挟みの女王エリザベス1世は元・女王メアリーの監視人[[アミアス・ポーレット>http://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]]にさりげなく暗殺をお願いしたりしてます。 女王エリザベス1世「ふぅ…彼女の命が縮まないかなぁぢゃ」 監視人ポーレット「陛下、断固拒否いたします」 んが、1587年2月1日とつぜん「元・女王メアリーの死刑執行令状」に署名。なにがあったんでしょね? 2月3日バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]は[[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_England]]を召集。大急ぎで「元・女王メアリーの死刑執行書」を手配します。 女王エリザベス1世のあずかり知らぬところでコッソリ手配。 何年もコツコツ頑張ってきたのに「やっぱヤメぢゃ!」なんて言われたらたヤバイと思っちゃったんでしょか? } #blockquote(){&u(){&bold(){処刑が決まった元・女王メアリーの最後の手紙}} 2月7日夕食を取り終えた元・女王メアリーにとつぜん「明日の朝貴女の死刑が執行されます」のお知らせが届きます。 元・女王メアリーは残された時間を祈りに捧げます。 そして使用人たちに想い出の品を分け与えて義弟フランス王[[アンリ3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_France]]にこちらの手紙を書きます(訳はかなり省略)。 ~[[English History>https://englishhistory.net/]]([[Mary Queen Of Scots Last Letter>http://englishhistory.net/tudor/maryqos-letter.html]])さんより~ &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:最後の手紙).jpg)義弟フランス王アンリ3世への手紙(3/3枚目) 最も尊敬すべき王、私の弟、懐かしい味方へ(訳はテキトー)   朝8時、私は罪人のように処刑されます。 私は無実です。全ての真実は主治医と使用人たちから貴方に伝わることでしょう。 カトリック信仰と神が与えたイングランド女王の権利により、私は有罪となりました。 カトリック信仰の殉教者として死ぬのだと述べる機会も与えられません。 彼らは恐れているのです。 その証拠に、彼らは司祭を連れ去りました。私は告解も終油も受けることを許されません。   どうか私の不運な使用人たちに支払われるべき賃金をお与えくださいますように。 (この心苦い願いは貴方だけが叶えられるのです。) もはや私が守れぬ息子が貴方への恩義に報いる限り、どうかお力添えくださいますように。 勝手ながら、貴方が健康で幸せな人生を遅れるよう願いを込めて宝石を送ります。 願わくば私の使用人たちが貴方の元で働けますように。   水曜日 朝2時 貴方の最も優しい姉メアリーR ←RはRegina(ラテン語:女王) 手紙は主治医によって王アンリ3世へ届けられました。でも王アンリ3世は元・女王メアリーの心苦くも切実な願いをスルー。 願いを叶えたのはスペイン王フェリペ2世。 駐仏スペイン大使[[Bernardino de Mendoza>https://en.wikipedia.org/wiki/Bernardino_de_Mendoza]]([[スロックモートン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Throckmorton_Plot]]で追放された人)を経由して手紙が届いたそうです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーの処刑}} 2月8日元・女王メアリーはコートの下に栗色のヴェルベット製[[ペティコート>https://en.wikipedia.org/wiki/Petticoat]]、黒色のサテン製[[ボディス>https://en.wikipedia.org/wiki/Bodice]]を身に纏います。 カトリックにとって栗色([[crimson-brown>http://en.wikipedia.org/wiki/Maroon_%28color%29]])は殉教者の苦痛を表す色。 きっと女王エリザベス1世に対する無言の抗議ね。そして処刑台が準備されたフォザリンゲイ城の[[大ホール>https://en.wikipedia.org/wiki/Great_hall]]へ向かいます。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:処刑).jpg)Laslett John Pott画「Mary, Queen of Scots, Being Led to Her Execution」(19世紀) 黒布で覆われた高さ2フィートの処刑台には打ち首ブロックと跪くためのクッション、3つの腰掛けが置かれてます。 腰掛けの2つは処刑立会人シュルズベリー伯[[G. Talbot>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]]とケント伯[[H. Grey>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Grey,_6th_Earl_of_Kent]]。 処刑執行人Bullが元・女王メアリーの前に跪いて「処刑の容赦」を請うと元・女王メアリーが答えます。 I forgive you with all my heart, for now, I hope, you shall make an end of all my troubles. 心より赦しましょう。あなたは私の全ての苦しみを終わりにするのですから。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:処刑2).jpg)[[Abel de Pujol>https://en.wikipedia.org/wiki/Abel_de_Pujol]]画「La mort de Marie Stuart, 1587」(19世紀:フランス) 元・女王メアリーはコートを脱がせる侍女[[J. Kennedy>https://en.wikipedia.org/wiki/Jane_Kennedy_(courtier)]]とElizabethに微笑みながら冗談を言って励まします。 J. Kennedyが元・女王メアリーの目を金糸で刺繍された白いベールで覆います。 クッションに跪き打ち首ブロックに頭を置いた元・女王メアリーは両腕を差し出して最後の言葉を言います。 In manus tuas, Domine, commendo spiritum meum. 主よ、汝の手に私の魂をゆだねます。 最後の言葉は聖書の中にある磔になったイエス・キリストの言葉です。 &italic(){&color(silver){et clamans voce magna Iesus ait Pater in manus tuas commendo spiritum meum et haec dicens exspiravit}} &italic(){&color(silver){イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 ~ルカによる福音書23章46節~}} F&B時代のカトリック教会の公式聖書は[[ヴルガータ聖書>http://en.wikipedia.org/wiki/Vulgate]]だから元・女王メアリーが残した最後の言葉もラテン語です。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:処刑3).jpg)[[Adam Blackwood>https://en.wikipedia.org/wiki/Adam_Blackwood]]著「La Mort de La Royne D'Ecosse - The execution of Mary at Fotheringhay Castle on 8 February 1587」(1589年:フランス) 斧は2度振り下ろされました(1度目は失敗しちゃったっぽい)。 処刑執行人Bullは息絶えた元・女王メアリーの首を高く掲げて「[[God save the Queen:神よ女王を護り賜え>https://en.wikipedia.org/wiki/God_Save_the_Queen]]」と宣言。 このとき頭から赤褐色の髪が地面に落ちて短かく切った白髪交じりの地毛が現れたそうです。 } #endregion #region(close,処刑の後始末) 処刑の道具、お洋服、…元・女王メアリーが触れたモノは全てフォザリンゲイ城の大ホールにある暖炉で焼却されたっぽいです。 フォザリンゲイ城も放棄されてどんどん荒廃。 たぶんカトリック教徒の崇拝を恐れたんだと思います。また陰謀する気になったらヤバイもんね。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑).jpg)元・女王メアリーが処刑されたフォザリンゲイ城 #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「私に一切の責任はございませんぢゃ!」}} 処刑の報告を受けた女王エリザベス1世は「枢密院が勝手に処刑したのぢゃ!(私に一切の責任はナシ)」と激怒します。 このとばっちりを受けたのが[[副秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_(England)]][[W. Davison>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Davison_%28diplomat%29]]。 女王は「W. Davisonに『署名した死刑執行令状を手放すな』と注意したぢゃ(私に一切の責任はナシ)」と保身全開です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Davison_%28diplomat%29]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:W. Davison).jpg)Bill Nye著「History of England - Queen Elizabeth signing the Death-Warrant of Mary Queen of Scots, 1587」(1896年) W. Davisonはロンドン塔に収監されちゃいます。えっ!? [[星室庁>https://en.wikipedia.org/wiki/Star_Chamber]]の判決は「[[職務怠慢(Positive misprision)>https://en.wikipedia.org/wiki/Misprision]]で有罪。罰金10,000マルクと女王エリザベス1世が満足するまで投獄」。 とりあえず一切反論しなかったから殺されずに済んだって感じです。 1588年9月バーリー男爵ウィリアム・セシルと秘書官長フランシス・ウォルシンガムの働きでW. Davisonは解放されます。 でも女王エリザベス1世が再雇用を断固拒否。 勤勉で率直なW. Davisonは完全に女王エリザベス1世のスケープゴートになっちゃいました。 } #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーの埋葬}} 元・女王メアリーの希望は「私をフランスへ埋葬して下さい」でした。女王エリザベス1世は希望を完全スルー。 内蔵はフォザリンゲイ城のどこかに密かに埋葬。 ご遺体は[[ピーターバラ大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Peterborough_Cathedral]]にプロテスタント式で埋葬します。1612年王ジェームズ1世が棺を[[ウェストミンスター寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Westminster_Abbey]]へ移葬。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:埋葬).jpg)エンバーミング(ツタンカーメンの[[カノプス壺>http://en.wikipedia.org/wiki/Canopic_jar]]) キリスト教は「[[最後の審判>https://en.wikipedia.org/wiki/Last_Judgment]]で[[復活>https://en.wikipedia.org/wiki/Resurrection_of_the_dead]]するとき体が必要」だから[[埋葬(土葬)>https://en.wikipedia.org/wiki/Burial]]です。[[エンバーミング>https://en.wikipedia.org/wiki/Embalming]]は埋葬の通常プロセス。 エンバーミングしないと棺が爆発しちゃうんだって。 ちなみに英国国教会は1944年から火葬もオケ。火葬1号はカンタベリー大主教[[W. Temple>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Temple_(bishop)]]です。 イングランド王[[リチャード1世>http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_I_of_England]]は棺を[[フォントヴロー修道院>https://en.wikipedia.org/wiki/Fontevraud_Abbey]]、心臓を[[ルーアン>https://en.wikipedia.org/wiki/Rouen]]、内蔵を[[シャルー>https://en.wikipedia.org/wiki/Ch%C3%A2lus]]に埋葬されました。 遺骸・内臓・心臓を分ける三分割埋葬というものだそうで。 だから元・女王メアリーのバラバラ埋葬も女王エリザベス1世の意地悪じゃなくて正式な埋葬だったんだと思います。 } #blockquote(){&u(){&bold(){フォザリンゲイ城の放棄}} 女王エリザベス1世がフォザリンゲイ城を元・女王メアリーの処刑場に選んだ理由はぜーんぜん分かりませんでした。 ちなみにフォザリンゲイ城は[[ヨーク朝>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_York]]の最後の王様[[王リチャード3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_III_of_England]]が生まれたお城。 リッチモンド伯[[ヘンリー・テューダー(王ヘンリー7世)>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VII_of_England]]が王リチャード3世を倒して[[テューダー朝>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Tudor]]が始まります。(1485年:薔薇戦争の1つ[[ボズワースの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Bosworth_Field]]) [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]] なんやかんやで「ヨーク家のフォザリンゲイ城」は王ヘンリー7世(女王エリザベス1世の祖父)が貰っちゃいました。 ってことで、女王エリザベス1世は自分のお城で元・女王メアリーを処刑したの。 貴族の皆さんだって自分のお城を元・女王メアリーの居住地に提供しても処刑場に使われるのはちょっとヤダ…ですよね。 ~[[PastScape>http://www.pastscape.org/]](FOTHERINGHAY CASTLE)さんより~ &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:フォザリンゲイ城).jpg)John Leech画「The Battle of Bosworth Field - A Scene from the Great Drama of History」(1847年頃) ウィリアム・シェイクスピア著「[[リチャード三世>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_III_(play)]]」(1592年頃)は王リチャード3世を「世を乱す悪者」として描きます。 こちらの画は正義の味方リッチモンド伯に殺されちゃうシーン。 T. Legge著「[[Richardus Tertius>https://en.wikipedia.org/wiki/Richardus_Tertius]]」(1580年)、著者不明「[[The True Tragedy of Richard III>https://en.wikipedia.org/wiki/The_True_Tragedy_of_Richard_III]]」(1590年頃)でも悪者です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Cultural_depictions_of_Richard_III_of_England]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:フォザリンゲイ城2).jpg)フォザリンゲイ城(21世紀) 元・女王メアリーが処刑された後、フォザリンゲイ城は放棄されてどんどん荒廃しちゃいます。 1630年代には[[土塁>https://en.wikipedia.org/wiki/Earthworks_(archaeology)]]だけ残して完全に解体。 イングランド王[[ジェームズ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]](元・女王メアリーの息子)が「母が殺された城を破壊せよ」と命じたなんて説もあります。 } #endregion **スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世に即位 晩年になっても女王エリザベス1世は相変わらず「次のイングランド王」を指名しません。でも死は確実に近づいてる。 強い王位継承権を持つのに指名されない王ジェームズ6世はハラハラ。 1603年[[ロバート・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_1st_Earl_of_Salisbury]](女王エリザベス1世の重臣)の働きで円滑にイングランド王ジェームズ1世に即位できます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_I_of_England]] &ref(【共通の画】イングランド_同君連合の国旗.jpg,【共通】共通の画)同君連合の国旗 #include(【共通】イングランド王ジェームズ1世の即位) ---- ----
#contents_line(level=2,sep=/) *スコットランド女王メアリーの系図 &ref(系図_スコットランド.png) *女王メアリーのざっくり年表の登場人物 女王メアリーは生まれたときから居場所も味方も運もナシのお嬢様って感じです。女王としての自覚と知恵もちょびっと足りなかった? お陰様で波瀾万丈の人生。 波瀾万丈に関わった人はワンサカいるけど、ここでは頑張った皆さんに申し訳ないくらい省略しちゃってます。 &ref(年表の登場人物.jpg)[[William Hole>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Hole_(artist)]]画「The Face of Scotland」(1898年:[[スコットランド国立肖像画美術館>http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_National_Portrait_Gallery]]) **女王メアリーの家族 |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:紋章と在位|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:家族| |BGCOLOR(lightgrey):&ref(年表の登場人物_家族(紋章:王ジェームズ5世).jpg)&br()1513–1542年|スコットランド王&br()父親[[ジェームズ5世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_V_of_Scotland]]&br()(1512–1542年)|カトリック教徒| |~|~|●母親は[[マーガレット・テューダー>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Tudor]](イングランドヘンリー8世の姉)&br()●結婚を前提に人妻[[Margaret Erskine>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Erskine]]を略奪(大貴族アースキン卿の娘)&br()●でも国益のためメアリ・オブ・ギーズと結婚&br()&br()●[[ソルウェイ湿原の戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solway_Moss]](1542年)の後急死| |BGCOLOR(lightgrey):|母親[[メアリ・オブ・ギーズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_of_Guise]]&br()(1515–浮腫:1560年)|カトリック教徒| |~|~|●父親は[[ギーズ公クロード>http://en.wikipedia.org/wiki/Claude,_Duke_of_Guise]](フランスの大貴族[[ギーズ家>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Guise]])&br()●母国フランスを頼りまくりながら女王メアリー不在のスコットランドを守る| |BGCOLOR(lightgrey):|マリ伯&br()異母兄[[ジェームズ・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]&br()(1531-暗殺:1570年)|カトリック教徒→プロテスタント教徒| |~|~|●父親は王ジェームズ5世。母親はMargaret Erskine(大貴族アースキン卿の娘)&br()●父親が母親と結婚しなかったので庶子扱い&br()●女王メアリーと王ジェームズ6世の最高政治顧問に就任| |BGCOLOR(lightgrey):&ref(年表の登場人物_家族(紋章:王ジェームズ5世).jpg)&br()1542–1567年|スコットランド女王&br()[[メアリー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]]&br()(1542-処刑:1587年)|カトリック教徒| |~|~|●生後6日でスコットランド女王に即位&br()●イングランドに負けてフランスへ亡命。フランス皇太子フランソワ2世と結婚&br()●フランス王フランソワ2世が死亡。スコットランドへ帰国&br()●異母兄マリ伯に負けてイングランドへ亡命。女王エリザベス1世が処刑| |BGCOLOR(lightgrey):&ref(年表の登場人物_家族(紋章:王ジェームズ6世).jpg)&br()1567–1625年&br()1603–1625年|スコットランド王&br()息子[[ジェームズ6世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]&br()イングランド王&br()ジェームズ1世&br()(1566-赤痢:1625年)|プロテスタント教徒| |~|~|●父親は[[ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]]。名付け親は女王エリザベス1世?&br()●1歳でスコットランド王に即位&br()●イングランドへ亡命した母親とは生涯再会できず&br()&br()●[[王冠連合>http://en.wikipedia.org/wiki/Union_of_the_Crowns]](1人の王様がイングランドとスコットランドを統治)の王様1号| **女王メアリーの結婚 |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:-|イングランド王(皇太子)&br()[[エドワード6世>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England]]|●イングランド王ヘンリー8世の長男&br()●王ヘンリー8世が「息子と結婚させてスコットランドを頂くぜ!」と提案&br()●とーぜんスコットランドはお断り| |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1558-1560年|フランス王(皇太子)&br()[[フランソワ2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_II_of_France]]&br()(1544-脳炎:1560)|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()●フランス王アンリ2世の長男&br()●1559年フランス王に即位。あっという間に死亡| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1565-1567年|ダーンリー卿&br()[[ヘンリー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]]&br()(1545-殺害:1567)|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()●カトリック教徒。スコットランドとイングランドの王位継承権を持つ&br()●周囲の反対を押し切って結婚&br()●殺害されて結婚終了。犯人は夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン?| |~|~|~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:子供| |~|~|~|&bold(){スコットランド王ジェームズ6世(イングランド王ジェームズ1世)}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1567-?年|ボスウェル伯&br()[[ジェームズ・ヘップバーン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]]&br()(1535年-獄死:1578)|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()●プロテスタント教徒。女王メアリーに忠誠を誓う経験豊富で優秀な軍人&br()●周囲の反対を押し切って結婚&br()●逃亡先の[[デンマーク=ノルウェー国王>https://en.wikipedia.org/wiki/Denmark%E2%80%93Norway]]で獄死| *女王メアリーのざっくり年表(スコットランド編) 波瀾万丈な女王メアリーに申し訳ないくらい肝っぽそうな出来事だけ。ホントはもっと複雑でドロッドロで過酷でございます。 あとイングランドとスコットランドの国境は[[ハドリアヌスの長城>http://en.wikipedia.org/wiki/Hadrian%27s_Wall]]のちょっと南。 ハドリアヌスの長城は2世紀[[ブリタンニア島>http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Britain]]を支配してたローマ帝国がケルト人の侵入を防御するために建築しました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Scotland]] &ref(年表(スコットランド編).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) **仲良しのフランスへ亡命 英国国教会のイングランドとカトリック教会のフランスは昔からとーっても仲が悪いです。 このとばっちりを受けたのがカトリック教会のスコットランド。 イングランドにガンガン攻められた女王メアリーは「古い同盟」を結んでるフランスへ亡命するはめに…。波瀾万丈の始まりです。 &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーの亡命.png,【共通】共通の画)女王メアリーの亡命 |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1295年|BGCOLOR(lightgrey):|スコットランドとフランスが「古い同盟」を締結| |~|BGCOLOR(lightgrey):1542年|BGCOLOR(lightgrey):12月8日|皇太女メアリーが誕生| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|&bold(){スコットランド王ジェームズ5世が急死。女王メアリーが即位}&br()アラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_2nd_Earl_of_Arran]](女王メアリーの遠縁で次の王位継承者)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1543年|BGCOLOR(lightgrey):7月1日|イングランド王ヘンリー8世が息子エドワード6世と女王メアリーの婚約に失敗([[グリニッジ条約 >https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Greenwich]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月20日|&bold(){イングランドがスコットランドへ侵攻([[ラフ・ウーイングの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Wooing]])}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):7月7日|フランス王アンリ2世が息子フランソワ2世と女王メアリーの婚約に成功([[ハディントン条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Haddington]])| |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|&bold(){女王メアリーがフランスへ亡命}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月4日|女王メアリーがフランスとの密約書に署名&br()「女王メアリーが死んだらスコットランドとイングランドの王位継承権はフランスに譲る」| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|母親メアリ・オブ・ギーズが死亡| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|フランス王フランソワ2世が病死。[[王シャルル9世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_IX_of_France]]が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1561年|BGCOLOR(lightgrey):8月19日|女王メアリーがスコットランドに帰国| #region(close,スコットランドとフランスは仲良し♥(古い同盟)) イングランドとスコットランド、イングランドとフランスは大昔から戦ってます。スコットランドもフランスも敵が一緒♥ ってことで、1295年スコットランド王[[ジョン・ベイリャル>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Balliol]]とフランス王[[フィリップ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_IV_of_France]]は「古い同盟」を締結。 どちらかの国がイングランドに攻撃されたら「もう一方の国がイングランドに侵攻して助けるね♥」ってお約束です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]] &ref(年表_フランスへ亡命(古い同盟).jpg)イングランドを挟み撃ちの「古い同盟」 「古い同盟」は1560年[[エディンバラ条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]]まで王様が代わる度に更新されます(フランス王[[ルイ11世>https://en.wikipedia.org/wiki/Louis_XI_of_France]]だけ更新しなかった)。 対イングランドの[[スコットランド独立戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_Scottish_Independence]]や[[百年戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Hundred_Years%27_War]]で大活躍♥ 女王メアリーの父親王ジェームズ5世と母親メアリ・オブ・ギーズ(フランスの大貴族)も「古い同盟」の流れで結婚しました。 #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド「うはははは!スクーンの石を頂いちゃったぜ!」}} [[スクーンの石>https://en.wikipedia.org/wiki/Stone_of_Scone]]は何世紀もの間、スコットランド王の[[戴冠式>https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation]](王様に即位するときの儀式)に使われてきた石です。 1296年イングランド王[[エドワード1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_I_of_England]]が戦利品として強奪。 イングランド王の戴冠式に使う[[エドワード王の椅子>https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation_Chair]]([[ウェストミンスター寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Westminster_Abbey]])にハメ込んじゃいました。えっ!? &ref(年表_フランスへ亡命(古い同盟:スクーンの石).jpg)最後にスクーンの石をご使用したのは[[女王エリザベス2世の戴冠式>http://en.wikipedia.org/wiki/Coronation_of_Queen_Elizabeth_II]](1953年6月2日) これは「イングランド王がスコットランド王を兼ねるからね!」って主張だそうです。スコットランドはムカムカ。 1328年イングランドはスクーンの石の返還に同意([[Treaty of Edinburgh–Northampton>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh%E2%80%93Northampton]])。 でもウェストミンスター寺院を囲んだ民衆の大反対で返還できませんでした。1996年やっとスコットランドに返還。 } #endregion #region(close,母親メアリ・オブ・ギーズ「このままでは女王メアリー が危ないわ!フランスへ避難させましょう」(ラフ・ウーイングの戦い)) スコットランドとフランスはカトリック教会で対イングランドの[[古い同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]]も結んでます。イングランドは英国国教会。 イングランド王ヘンリー8世は2国が手を結んで侵略してくるんじゃないかとハラハラ。 ってことで、スコットランドに「息子エドワード6世と女王メアリーを結婚させてスコットランドを頂くぜ!」と提案します。 |BGCOLOR(lightgrey):[[国王至上法>https://en.wikipedia.org/wiki/Acts_of_Supremacy]]|BGCOLOR(lightgrey):1534年|BGCOLOR(lightgrey):|イングランド王ヘンリー8世が英国国教会を作って脱カトリック教会!| |BGCOLOR(lightgrey):[[ソルウェイ湿原の戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Solway_Moss]]|BGCOLOR(lightgrey):1542年|BGCOLOR(lightgrey):11月24日|王ヘンリー8世が「スコットランドも脱カトリック教会しないか?」っとお誘い&br()スコットランド王ジェームズ5世はお誘いをスルー&br()激怒した王ヘンリー8世が宣戦布告。結果はスコットランドの負け| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月8日|&bold(){皇太女メアリーが誕生}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|&bold(){スコットランド王ジェームズ5世が急死。女王メアリーが即位}| |BGCOLOR(lightgrey):[[グリニッジ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Greenwich]]|BGCOLOR(lightgrey):1543年|BGCOLOR(lightgrey):7月1日|王ヘンリー8世が平和協定を提案。内容はスコットランドの実質的支配&br()・女王メアリーのお世話(洗脳)はイングランドの貴族/紳士が担当&br()・女王メアリーは10歳になったらイングランドに移住。息子エドワード6世と結婚&br()・スコットランドの法律はとりあえず使ってもいいよ| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月11日|スコットランド長老制議会が拒否| とーぜんスコットランドは拒否。イングランド王ヘンリー8世は「かー!上手くいかねー!」と実力行使に出ます。 イングランド軍に押されまくりのスコットランド。 母親メアリ・オブ・ギーズは「このままでは娘メアリーが危ないわ!私の祖国フランスへ避難させましょう」と決意します。 |BGCOLOR(lightgrey):[[ラフ・ウーイングの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/The_Rough_Wooing]]|BGCOLOR(lightgrey):1543年|BGCOLOR(lightgrey):12月20日|グリニッジ条約をスルーされて激怒した王ヘンリー8世がまたまた宣戦布告| |~|BGCOLOR(lightgrey):1547年|BGCOLOR(lightgrey):1月28日|イングランド王ヘンリー8世が死亡。王エドワード6世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):2月23日|&bold(){イングランド軍がハディントンの占領を開始([[ハディントン包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Haddington]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月9日|イングランド軍がエディンバラの近所[[マッセルバーグ>http://en.wikipedia.org/wiki/Musselburgh]]まで北上| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月16日|フランス軍がエディンバラに上陸| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月7日|&bold(){女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世と婚約([[ハディントン条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Haddington]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|&bold(){女王メアリーが[[ダンバートン>http://en.wikipedia.org/wiki/Dumbarton]]からフランスへ出航}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1550年|BGCOLOR(lightgrey):3月24日|イングランドとフランスが「ブーローニュ条約(Treaty of Boulogne)」を結ぶ| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):3月29日|イングランドが平和宣言| #blockquote(){&u(){&bold(){フランスでの幸せな生活♥(ハディントン条約)}} イングランド軍に押されまくりのスコットランドはフランスと条約を締結します(1548年:ハディントン条約)。 フランスにとって強力なイングランド王位継承権を持つ女王メアリーは魅力的。 交渉中の摂政アラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]]は王アンリ2世から[[シャテルロー公爵>https://en.wikipedia.org/wiki/Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]]を拝受してます。 ・女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)は婚約する。 ・その代わりフランスは[[ハディントン包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Haddington]](ラフ・ウーイングの戦いの1つ)に援軍を出してあげる。 ってことで、女王メアリーは[[ダンバートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Dumbarton]]から援軍フランス軍の船でフランスへ亡命できます。フランスでの幸せな生活♥ ただしその後のスコットランドはフランスに干渉されまくっちゃうの。 ちなみに摂政アラン伯は1559年脱フランス!脱カトリック教会!の[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]に鞍替え。シャテルロー公爵を剥奪されます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Haddington]] &ref(年表_フランスへ亡命(亡命:幸せな生活).jpg)女王メアリーのお家[[アンボワーズ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Amboise]](フランス) フランスへ亡命した女王メアリーは王アンリ2世の宮廷で[[ヴァージナル>http://en.wikipedia.org/wiki/Virginals]]や[[リュート>http://en.wikipedia.org/wiki/Lute]]を習ったり幸せな日々を送ります。 [[刺繍>http://en.wikipedia.org/wiki/Needlework]]、散文、詩、鷹狩り、馬術に堪能。 フランス語、イタリア語、ラテン語、スペイン語、ギリシア語も流暢。 活発で賢く美しい少女の女王メアリーはみんなのお気に入り。婚約者の皇太子フランソワ2世ともすごく仲良しです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){フランスへ亡命した女王メアリーに同行した皆さん(子供のお話なのでご注意ください)}} フレミング卿夫人[[ジャネット・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Janet_Stewart]]([[王ジェームズ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_IV_of_Scotland]]の庶子)は女王メアリーの[[養育係>https://en.wikipedia.org/wiki/Governess]]/[[子守>https://en.wikipedia.org/wiki/Nursemaid]]です。 フランス王アンリ2世に気に入られて愛人に。 そして妊娠。息子[[アンリ・ダングレーム>https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_d%27Angoul%C3%AAme]](1551–1586年)の出産前後にスコットランドへ送り返されてます。 ちなみに送り返されたフレミング卿夫人は「王アンリ2世に会いたい」とフランスへの渡航を懇願します。 母親メアリ・オブ・ギーズは「王アンリ2世の王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_de%27_Medici]]のご機嫌を損ねてしまうわ」と却下。 1559年王アンリ2世が死亡。1560年6月母親メアリ・オブ・ギーズも死亡。 フレミング卿夫人は1560年8月[[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_Scotland]]の出国許可をゲトして息子と一緒にフランスへ渡航します。 &ref(年表_フランスへ亡命(亡命:同行).jpg)J T Barr著「The Governess」(1875頃:イギリス) 4人のメアリー達は女王メアリーと同じ年頃の[[女官>https://en.wikipedia.org/wiki/Lady-in-waiting]]です。1561年女王メアリーと一緒にスコットランドへ帰国。 ・1564年駐スコットランドのイングランド大使[[T. Randolph>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Randolph_(ambassador)]]はメアリー・ビートンに「俺のために女王メアリーのスパイになってくれ!」と求婚。もちろんお断りされちゃいました。 ・1581年イングランドで軟禁中の元・女王メアリーはイングランド女王エリザベス1世に「メアリー・フレミングが私を訪ねられるよう通行証(safe conduct)を許可して下さい」とお願い。メアリー・フレミングが元・女王メアリーを尋ねた記録はナシです。 |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・ビートン>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Beaton]]&br()(1543–1598年)|●母親はメアリ・オブ・ギーズの女官Joanna Renwall&br()●1566年Alexander Ogilvy of Boyneと結婚| |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・シートン>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Seton]]&br()(1542–1615年)|●母親はメアリ・オブ・ギーズの女官Marie Pieris&br()●メアリー達の中で唯一結婚しないで1585年頃まで女王メアリーにずーっと同行&br()●その後サン=ピエール女子修道院(フランスの[[ランス>https://en.wikipedia.org/wiki/Reims]])へ| |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・フレミング>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Fleming]]&br()(1542-1581年頃)|●フレミング卿夫人ジャネット・ステュアートの娘&br()●1567頃に女王メアリーの秘書官[[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]と結婚&br()●夫Williamはイングランド女王エリザベス1世の命令で投獄。獄死(1573年:[[Lang Siege>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Kirkcaldy_of_Grange]])| |BGCOLOR(lightgrey):[[メアリー・リヴィングストン>http://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Livingston]]&br()(1541–1579年)|●父親[[Alexander Livingston, 5th Lord Livingston>https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Livingston,_5th_Lord_Livingston]]は女王メアリーの[[後見人>https://en.wikipedia.org/wiki/Legal_guardian]]&br()●1565年John Sempill([[Robert Sempill, 3rd Lord Sempill>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Sempill,_3rd_Lord_Sempill]]の息子)とできました結婚| 4人のメアリー達は[[バラッド詩>https://en.wikipedia.org/wiki/Ballad]]「Mary Hamilton:4人のメアリー」(16世紀:スコットランド)にも登場します。 メアリー ・ハミルトンは女王の夫を身籠もった女王の女官。 生まれた子供を殺して有罪になったメアリー ・ハミルトンの人生と死(処刑)が迫った心情死を語る詩です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Hamilton]] &ref(年表_フランスへ亡命(亡命:同行2).jpg)訳はテキトー ちなみにメアリー ・ハミルトンはロシア皇妃[[エカチェリーナ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_I_of_Russia]]の女官[[メアリー ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_Hamilton_(lady_in_waiting)]]って説もあります。 ハミルトン家は16世紀スコットランドからロシアに移住したの。 皇帝[[ピョートル1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_the_Great]](皇妃エカチェリーナ1世の夫)に気に入られて愛人に。1719年生まれた子供を殺して処刑されました。 } #endregion #region(close,フランス王アンリ2世「ウチの嫁(女王メアリー)こそ正当なイングランド女王だ!」) 1558年女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)は結婚します。 女王メアリーはフランスとの密約書「私が死んだらスコットランドとイングランドの王位継承権はフランスに譲る」に署名。 えーっと…ア、アホアホですか?とりあえず2人の結婚で世の中はこんな状況になります。 &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年).jpg,【共通】共通の画)スコットランド女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年) ちなみにこの頃のフランスはイングランド・スペインとイタリアを巡って戦争中です(1551–1559年:[[イタリア戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Italian_War_of_1551%E2%80%9359]])。 イングランド女王メアリー1世とスペイン王フェリペ2世の結婚で2国は同盟国。 フランスを挟み撃ちだぜ!ってことで、フランスは[[イングランド領カレー>https://en.wikipedia.org/wiki/Pale_of_Calais]]を奪還しちゃいました(1558年:[[カレー包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1558)]])。 #blockquote(){&u(){&bold(){フランス王アンリ2世「ウチの嫁(女王メアリー)こそ正当なイングランド女王だ!」}} 女王メアリーが結婚した数ヶ月後イングランド女王メアリー1世は死亡。女王エリザベス1世が即位します。 フランス王アンリ2世は「庶子の娘エリザベス1世なんて女王じゃねー!ウチの嫁こそ正当なイングランド女王だ!」と宣言。 女王メアリーの紋章(Royal arms)にもイングランドを追加しちゃいました。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_coat_of_arms_of_Scotland]] &ref(年表_フランスへ亡命(ウチの嫁:紋章).png)女王メアリーの紋章 王アンリ2世が宣言した「庶子の娘なんて女王じゃねー!」はローマ教皇とカトリック教会の国々の合い言葉です。 なんか「お前の母さんデベソ」みたいね。 問題のイングランド追加紋章は1560年[[エディンバラ条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]]で使用禁止になります。 } #endregion **女王メアリーが居ない間にスコットランドは脱フランス!脱カトリック教会! 摂政になった母親メアリ・オブ・ギーズは母国フランスに頼りまくり。フランスはスコットランドに内政干渉しまくりです。 おまけに女王メアリーはフランス皇太子フランソワ2世と結婚しちゃうし。 「行く末はフランスの属国じゃん」と考えたプロテスタント貴族達は[[会衆指導層>http://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]を結成。脱フランス!脱カトリック教会!を目指します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_Reformation]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!.png) |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1542年|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|スコットランド王ジェームズ5世が急死。女王メアリーが即位 &br()アラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_2nd_Earl_of_Arran]](女王メアリーの遠縁で次の王位継承者)が摂政になる| |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):8月7日|女王メアリーがフランスへ亡命| |~|BGCOLOR(lightgrey):1553年|BGCOLOR(lightgrey):7月|イングランド王エドワード6世が死亡。女王メアリー1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1554年|BGCOLOR(lightgrey):4月12日|母親メアリ・オブ・ギーズが摂政になる| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月25日|イングランド女王メアリー1世がスペイン皇太子フェリペ2世と結婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):1557年|BGCOLOR(lightgrey):12月|会衆指導層が「女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚反対」を直訴| |~|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):5月|ジョン・ノックスがジュネーヴから帰国。会衆指導層に合流| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):9月?10月?|&bold(){会衆指導層が「母親メアリ・オブ・ギーズの摂政クビ」を宣言。臨時政府を樹立}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):2月27日|&bold(){会衆指導層とイングランドが「一緒にフランスを追い出そうね♥」の交渉開始([[ベリック条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281560%29]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):4月|&bold(){「会衆指導層とイングランド」vs「母親メアリ・オブ・ギーズとフランス」([[リース包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Leith]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|母親メアリ・オブ・ギーズが死亡| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|&bold(){会衆指導層とフランスが仲直りして脱フランス!([[エディンバラ条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]])}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):8月17日|&bold(){スコットランド国教会の誕生}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|フランス王フランソワ2世が病死。[[王シャルル9世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_IX_of_France]]が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1561年|BGCOLOR(lightgrey):8月19日|女王メアリーがスコットランドに帰国| #region(close,会衆指導層「ヤバイ!行く末はフランスの属国じゃん」) 16世紀のヨーロッパはアッチコッチで「堕落したカトリック教会からプロテスタントへの[[宗教改革>https://en.wikipedia.org/wiki/Protestant_Reformation]]」が起こってます。 スコットランドでも宗教改革がスタート。 なんやかんやで1557年小さなグループ「First bond:第一信仰盟約」が誕生。その後大きなグループ「[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]」になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Scottish_Reformation]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(会衆指導層).jpg)[[David Wilkie>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Wilkie_(artist)]]画「John Knox Preaching before the Lords of Congregation in [[the cathedral of St. Andrews>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Andrews_Cathedral]], 10 June 1559」(1832年:スコットランド) #blockquote(){&u(){&bold(){会衆指導層「ヤバイ!行く末はフランスの属国じゃん」}} 摂政になった母親メアリ・オブ・ギーズはフランスに頼りまくり。[[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_Scotland]]にフランス大使[[H. Cleutin>https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Cleutin]]の出席オケですわよ。 21世紀の日本で例えると内閣にアメリカも参加って感じ? 対イングランドでスコットランドは一致団結しなくちゃいけないから「とりあえずプロテスタント野郎にも寛容」ですわよ。 &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年).jpg,【共通】共通の画)スコットランド女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年) プロテスタント貴族達は「ヤバイ!行く末はフランスの属国じゃん」と心配して「First bond:第一信仰盟約」を結成します。 &italic(){&color(silver){mutual support against "Sathan and all wicked power that does intend tyranny and truble against the foresaid congregation".}} &italic(){&color(silver){我々に害をなす暴政(=サタンと邪悪な力)と戦うために互いに助け合う。(訳はテキトー)}} メンバーはこちらの皆さん。 ・[[Archibald Campbell, 5th Earl of Argyll>https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Campbell,_5th_Earl_of_Argyll]] ・[[Colin Campbell, 6th Earl of Argyll>https://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Campbell,_6th_Earl_of_Argyll]] ・[[Alexander Cunningham, 5th Earl of Glencairn>https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Cunningham,_5th_Earl_of_Glencairn]] ・[[モートン伯ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]] ・[[John Erskine of Dun>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Erskine_of_Dun]] ・その後マリ伯[[ジェームズ・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]](女王メアリーの異母兄)も参加 第一信仰盟約は「ヤバイ!もっとヤバイ!」と心配して女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚も反対します。 心配する人がどんどん増えて「[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]」に成長。 会衆指導層は脱フランス!脱カトリック教会!を目指しして母親メアリ・オブ・ギーズ、女王メアリーと戦います。 } #endregion #region(close,熱血おやじジョン・ノックス「ひゃっはー!俺も会衆指導層に合流するぜー!」) ジョン・ノックスは亡命先で[[カルヴァン派>https://en.wikipedia.org/wiki/Calvinism]]の[[ジャン・カルヴァン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Calvin]]から「[[長老制>https://en.wikipedia.org/wiki/Presbyterian_polity]]」「宗教改革」を学んだ熱血おやじです。 スコットランドに帰国すると会衆指導層に合流。 会衆指導層と一緒に宗教改革を頑張って1560年カルヴァン派の[[スコットランド国教会>https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_Scotland]]を創設します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Knox]] |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1546年|BGCOLOR(lightgrey):5月29日|プロテスタントたちが[[セント・アンドリューズ城>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Andrews_Castle]]で枢機卿[[David Beaton>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Beaton]]を殺害。籠城| |~|BGCOLOR(lightgrey):1547年|BGCOLOR(lightgrey):4月10日|ジョン・ノックスが籠城するプロテスタントたちに宗教改革を指導| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月31日|フランス軍の[[ガレー船>https://en.wikipedia.org/wiki/Galley]]が城を包囲。ジョン・ノックスたちを逮捕してガレー船の奴隷に| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド&br()(※1)|BGCOLOR(lightgrey):1549年|BGCOLOR(lightgrey):2月頃|釈放されたジョン・ノックスが英国国教会のイングランドへ亡命| |~|BGCOLOR(lightgrey):1553年|BGCOLOR(lightgrey):7月|イングランド王エドワード6世が死亡。カトリック教会の女王メアリー1世が即位| |BGCOLOR(lightgrey):[[ジュネーヴ>https://en.wikipedia.org/wiki/Geneva]]|BGCOLOR(lightgrey):1554年|BGCOLOR(lightgrey):1月|ジョン・ノックスがジャン・カルヴァンの拠点ジュネーヴへ亡命| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月20日|ジョン・ノックスが「イングランド女王メアリー1世を批判」の小冊子を出版| |BGCOLOR(lightgrey):[[フランクフルト>https://en.wikipedia.org/wiki/Free_City_of_Frankfurt]]|~|BGCOLOR(lightgrey):9月24日|[[女王メアリー1世の亡命者>https://en.wikipedia.org/wiki/Marian_exiles]]がジョン・ノックスを招待| |~|BGCOLOR(lightgrey):1555年|BGCOLOR(lightgrey):3月26日|女王メアリー1世の亡命者が「攻撃的な熱血おやじと一緒にはムリ」と決別| |BGCOLOR(lightgrey):ジュネーヴ|~|BGCOLOR(lightgrey):|ジョン・ノックスがジャン・カルヴァンの新設した教会の[[教職者>https://en.wikipedia.org/wiki/Minister_(Christianity)]]に就任| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|~|BGCOLOR(lightgrey):8月|ジョン・ノックスが姑[[Elizabeth Bowes>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Bowes]]のお願いでスコットランドへ帰国| |~|BGCOLOR(lightgrey):1556年|BGCOLOR(lightgrey):|ジョン・ノックスが母親メアリ・オブ・ギーズへ手紙「宗教改革しない?」| |BGCOLOR(lightgrey):ジュネーヴ&br()※2|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):夏|ジョン・ノックスが匿名で「[[婦人の異常な執政に反対する第一声>https://en.wikipedia.org/wiki/The_First_Blast_of_the_Trumpet_Against_the_Monstruous_Regiment_of_Women]]」を出版| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):5月2日|ジョン・ノックスがジュネーヴから帰国| #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックスとイングランド王エドワード6世}} イングランド(※1)へ亡命したジョン・ノックスは[[王エドワード6世>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_VI_of_England]]の英国国教会で働きます。 1551年6人の王室付属牧師(royal chaplain)の1人に就任。 [[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_council]]の前で「聖餐式で跪くとパンとワインを偶像崇拝してるってコト。カトリック教会っぽくてダメダメ」と主張します。 &ref(【共通の画】祈祷書.jpg,【共通】共通の画)英国国教会の[[祈祷書>https://en.wikipedia.org/wiki/Book_of_Common_Prayer]](1596年:ロンドン) この主張でその後の祈祷書には「なぜ跪かなくちゃいけないのか?」の注釈([[Black Rubric>https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Rubric]])が付くようになります。 祈祷書は「祈祷・礼拝・儀式のやり方」が書いてあるハウツー本。 ちなみに1559年女王エリザベス1世は祈祷書からこの注釈を削除してます。穏健な伝統主義者に媚びを売ったっぽい。 } #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックスとイングランド女王メアリー1世}} カトリック教会の[[女王メアリー1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England]]が即位するとジョン・ノックスは「イングランドはヤバイ!」と大陸へ亡命します。 大陸で[[女王メアリー1世の亡命者>https://en.wikipedia.org/wiki/Marian_exiles]](迫害された[[ピューリタン>https://en.wikipedia.org/wiki/Puritans]])を指導。 ちなみに1559年英国国教会の女王エリザベス1世が即位するとピューリタンはイングランドへ帰国します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Puritans_under_Elizabeth_I]] &ref(【共通の画】イングランド内戦.jpg,【共通】共通の画)[[イングランド内戦>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War]](1642–1651年:[[清教徒革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Three_Kingdoms]]の1つ) 女王エリザベス1世はなるべく穏便に英国国教会を復活したいです。そこに大陸に亡命してたピューリタンがどんどん帰国。 英国国教会とカルヴァン派のピューリタンはスタイルが違う。 ってことで、お互いに妥協してそれなりに仲良くやっていきます(1559年:[[Elizabethan Religious Settlement>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabethan_Religious_Settlement]])。 } #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックスとイングランド女王エリザベス1世}} ジュネーヴ(※2)でジョン・ノックスは匿名で「[[婦人の異常な執政に反対する第一声>https://en.wikipedia.org/wiki/The_First_Blast_of_the_Trumpet_Against_the_Monstruous_Regiment_of_Women]]」(1558年)を出版します。 &italic(){&color(silver){how abominable before God is the Empire or Rule of a wicked woman, yea, of a traiteresse and bastard}} &italic(){&color(silver){売国奴と私生児の邪悪な女性による支配は聖書に反してる。なんと忌まわしい(訳はテキトー)}} 女王メアリー、母親メアリ・オブ・ギーズ、イングランド女王メアリー1世を例にカトリック教会の支配を批判した本です。 激怒したイングランドは公式に熱烈抗議。 対象外の皇太女エリザベス1世(女王エリザベス1世)も「女王による支配は聖書に反してる」に激怒します。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(ジョン・ノックス:女王エリザベス1世).jpg)Frarinus Petrus?著「An oration against the vnlawfull insurrections of the protestantes of our time...」(1566年) 1559年女王エリザベス1世が即位するとピューリタンがどんどん帰国。ジョン・ノックスもスコットランドへ帰国します。 女王エリザベス1世は大嫌いなジョン・ノックスのイングランド通行証申請を却下。 ジョン・ノックスは危険なほど扇動的な本だったってコトに気付かなかったの。帰国に4ヶ月もかかっちゃいました。 } #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックス「ひゃっはー!俺も会衆指導層に合流するぜー!」}} スコットランドに帰国したジョン・ノックスはあっちこっちで「スコットランドの宗教改革だー!」と熱血な説教をします。 会衆指導層とも合流。 カトリック教会の修道院も襲撃。金品を強奪して「こいつら贅沢三昧だぞー!」と民衆へのイメージダウンもバッチリです。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(ジョン・ノックス:会衆指導層).jpg)プロテスタントがカトリック教会の修道院を襲撃(1559年:[[パース>https://en.wikipedia.org/wiki/Perth,_Scotland]]) } #endregion #region(close,会衆指導層とイングランド「一緒にスコットランドからフランスを追い出そうね♥」(ベリック条約&リース包囲戦)) 会衆指導層はあっちこっちでカトリック教会の教会や修道院を襲撃。プロテスタントの支持をどんどん広げていきます。 でもフランス軍は強敵…よし!イングランドと手を結ぼう♥(ベリック条約)。 ってことで、「会衆指導層とイングランド」vs「母親メアリ・オブ・ギーズとフランス」が始まります(リース包囲戦)。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦).jpg)リース包囲戦(1560年5月7日) #blockquote(){&u(){&bold(){熱血おやじジョン・ノックス「イングランドと手を結ぼう♥」}} 会衆指導層との戦争を避けたい母親メアリ・オブ・ギーズは「信仰の自由」を約束します([[Articles of Leith>https://en.wikipedia.org/wiki/Articles_of_Leith]])。 でも熱血おやじジョン・ノックスは「どうせフランスに頼って約束を破る」と疑心暗鬼。 ってことで、密かに女王エリザベス1世の重臣バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]に「手を結ぼう♥」の手紙を送ります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Knox]] &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(重臣).jpg,【共通】共通の画)[[William Faithorne>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Faithorne]]画「Queen Elizabeth I; Sir Francis Walsingham; William Cecil, 1st Baron Burghley」(1655年:イングランド) ジョン・ノックスは[[リンディスファーン島>https://en.wikipedia.org/wiki/Lindisfarne]]でイングランドと交渉。でも母親メアリ・オブ・ギーズに察知されて失敗します。 今度は母親メアリ・オブ・ギーズが疑心暗鬼。 ってことで、フランスに応援を要請。フランス軍は[[リース>https://en.wikipedia.org/wiki/Leith]](エディンバラの港町)の常駐軍を増援します。 リースのフランス軍が増援されたので会衆指導層は再びエディンバラを占領します。 摂政の母親メアリ・オブ・ギーズをクビにして臨時政府を樹立。 ちなみに母親メアリ・オブ・ギーズの[[秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_for_Scotland]][[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]は会衆指導層サイドへ鞍替えしてます。 |BGCOLOR(lightgrey):1551-1543年|BGCOLOR(lightgrey):|フランス軍がスコットランドを援護([[ラフ・ウーイングの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Rough_Wooing]])| |BGCOLOR(lightgrey):1548年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){スコットランドがリースの砦を強化。フランス軍が常駐}| |BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):6月30日|会衆指導層がエディンバラ(スコットランド王国の首都)を占領| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月|フランス軍がエディンバラを奪還| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月25日|母親メアリ・オブ・ギーズが会衆指導層に「信仰の自由」を約束(Articles of Leith)| |~|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){ジョン・ノックスがバーリー男爵ウィリアム・セシルに手紙}| |~|BGCOLOR(lightgrey):|フランス軍が[[リース>https://en.wikipedia.org/wiki/Leith]]の常駐軍を増援| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月24日|会衆指導層が「母親メアリ・オブ・ギーズの摂政クビ」を宣言。臨時政府を樹立| |BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):1月|&bold(){イングランド艦隊がうっかりフォース湾に到着}| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月2日|母親メアリ・オブ・ギーズが「邪悪な行い」とイングランドを非難| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月27日|&bold(){会衆指導層とイングランドが「一緒にフランスを追い出そうね♥」の交渉開始(ベリック条約)}| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月6日|&bold(){会衆指導層がレスタリリグに軍事キャンプを設置(リース包囲戦)}| イングランドは[[フォース湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Firth_of_Forth]](エディンバラの湾)にイングランド艦隊を送って母親メアリ・オブ・ギーズに圧力をかけます。 母親メアリ・「はあ!?スコットランドと戦争する気?」 イングランド「イングランド艦隊がうっかり着いちゃったんですぅ(戦争したくなかったらフランス追い出せよ)」 母親メアリ・「フランス追い出さない」 イングランド「だーかーらー『うっかり』ですってばぁ(〃)」 その後、会衆指導層はが[[レスタリリグ>https://en.wikipedia.org/wiki/Restalrig]]に[[軍事キャンプ>https://en.wikipedia.org/wiki/Military_camp]]を設置します。同時に母親メアリ・オブ・ギーズへ和解を提示。 提示したけど母親メアリ・オブ・ギーズは2回とも拒否。 よろしい、ならば戦争だ!こんな感じで戦争が始まっちゃいます(リース包囲戦)。あちゃー。 } #blockquote(){&u(){&bold(){会衆指導層とイングランド「一緒にスコットランドからフランスを追い出そうね♥」(ベリック条約)}} 会衆指導層とイングランドは「一緒にスコットランドからフランスを追い出そうね♥」の交渉を始めます(ベリック条約)。 もちろん母親メアリ・オブ・ギーズは仲間はずれ。 例の女性蔑視本で女王エリザベス1世に嫌われちゃってる熱血おやじジョン・ノックスも仲間はずれです。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281560%29]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg) 左側:会衆指導層代表の[[異母兄マリ伯>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]、... 右側:イングランド代表のノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) ・女王メアリーとフランス王フランソワ2世の結婚で2国がこれ以上の仲良し(=同盟国)にならないこと。 ・もしフランスがスコットランドを侵略しようとしたらイングランドは一緒に戦うこと。逆も同じ。 ・会衆指導層はご子息達を人質としてイングランドへ差し出すこと。人質が届いてから会衆指導層リーダのアラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]](シャテルロー公爵)とイングランド代表のノーフォーク公トマス・ハワードがこの条約書に署名すること。 ・この条約は女王メアリーもフランス王フランソワ2世もキャンセルできません。 えーっと、会衆指導層とイングランドが最終的に「ベリック条約」に調印したのは1560年5月10日です。 でもその前からイングランドはスコットランドへ進軍。 4月から本格的にフランス軍が駐留するリースの包囲を開始します(リース包囲戦)。この辺はたぶん大人の事情ってヤツ。 } #blockquote(){&u(){&bold(){腹が減っては戦ができぬ♥(リース包囲戦)}} 会衆指導層は[[小砦>https://en.wikipedia.org/wiki/Fortification]](Fortlet)とテント(Palzoun)でリースを囲んでフランス軍を[[兵糧攻め(攻城戦)>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege]]にします。 そんな最中に母親メアリ・オブ・ギーズが死亡。 兵糧攻めでお腹ペコペコのフランス軍はこの追い打ちにガッカリ。和平交渉を承諾します(エディンバラ条約)。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Leith]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:リース包囲戦).jpg)イングランド軍も会衆指導層と一緒に戦ってます |BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):4月6日|会衆指導層が[[レスタリリグ>https://en.wikipedia.org/wiki/Restalrig]]に[[軍事キャンプ>https://en.wikipedia.org/wiki/Military_camp]]を建築。母親メアリ・オブ・ギーズへ和解を提示| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月12日|会衆指導層がMount Pelham小砦を建築(指揮官:[[William Pelham>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Pelham_(lord_justice)]])| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月末|会衆指導層がMount Somerset小砦を建築(指揮官:Francis Somerset)| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月27日|会衆指導層が[[Water of Leith川>https://en.wikipedia.org/wiki/Water_of_Leith]]~[[Bonnington>https://en.wikipedia.org/wiki/Bonnington,_Edinburgh]]テントを設置| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月7日|会衆指導層がリースを一斉攻撃。ボロ負け「くそー!もっと囲むぜ!」| |~|BGCOLOR(lightgrey):|会衆指導層がByer's MountテントとMount Falconテント(Byer's Mountテントの近所)を設置| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月12日|会衆指導層と母親メアリ・オブ・ギーズが和平交渉。フランス軍の反対で失敗| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|&bold(){母親メアリ・オブ・ギーズが死亡。フランス軍ガッカリ}| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月17日|会衆指導層とフランス軍が一週間の休戦(エディンバラ条約の交渉)| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|&bold(){会衆指導層とフランスが仲直りして脱フランス!(エディンバラ条約)}| イングランド兵[[P. Carew>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Carew]]は「1560年5月28日フランス軍は3週間水しか飲めなかった」と記録してます。 ちなみにこの頃のフランスは王フランソワ2世が即位したばっかり。 [[ユグノー戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion]](1562–1598年)の前哨戦[[アンボワーズの陰謀>https://en.wikipedia.org/wiki/Amboise_conspiracy]]が起こってます。食料を送る余裕もなかったのかしら? 戦いの裏では情報戦もやってます。イングランドは母親メアリ・オブ・ギーズとフランスの暗号の手紙を横取りして解読。 フランスを監視してたのは在仏イングランド大使[[ニコラス・スロックモートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_Throckmorton]]。 ニコラスは「5月7日の一斉攻撃がバレてる」の情報をキャッチ。リースにスパイ[[N. Cockburn>https://en.wikipedia.org/wiki/Ninian_Cockburn]]の潜入を提案してます。 } #endregion #region(close,会衆指導層とフランスが仲直りして脱フランス!(エディンバラ条約)) 一週間の休戦で「会衆指導層とフランス」「イングランドとフランス」は和平交渉を始めます(1560年6月17日)。 交渉でスコットランドから全てのイングランド軍とフランス軍の撤退を決定(7月5日)。 女王メアリーとフランス王フランソワ2世の表明で締結されます(7月6日:エディンバラ条約)。こちらのピリピリな関係も終了♥ [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Edinburgh]] &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年).jpg,【共通】共通の画)スコットランド女王メアリーとフランス皇太子フランソワ2世の結婚(1558年) #blockquote(){&u(){&bold(){会衆指導層とフランスの「エディンバラ条約」}} エディンバラ条約でリース、[[インチケイス>https://en.wikipedia.org/wiki/Inchkeith]]、[[Dunbar Castle>https://en.wikipedia.org/wiki/Dunbar_Castle]]に駐軍するフランス軍は順次スコットランドから撤退します。 「フランスかぶれ」な女王メアリーの影響力もバッチリ封印。 でも女王メアリーはこれを拒否。ってことで、結局「スコットランド女王の廃位」に追い込まれちゃいます(1567年)。 &ref(年表_フランスへ亡命(古い同盟).jpg)イングランドを挟み撃ちの「[[古い同盟>https://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]]」も終了♥ エディンバラ条約の「フランスかぶれ」な女王メアリーの影響力もバッチリ封印っぽいヤツはこんな感じです。 訳はテキトー。 詳細は[[Renaissance, The Elizabethan World - Life in Tudor England>http://www.elizabethan.org/]](The Treaty of Edinburgh)さんをどうぞ。 ・枢密院(Council of twelve)のメンバーは長老制議会([[Three estates>http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_Scotland]])が作った候補者リストから「女王メアリーが7名」「長老制議会が5名」を選ぶこと。 ・もし長老制議会が必要と思ったら評議会(The number fourteen)を発足。メンバーは長老制議会が作った候補者リストから「女王メアリーが8名」「長老制議会が6名」を選ぶこと。 ・この条約は女王メアリーの同意が必要。もし断ったら会衆指導層と女王メアリーの和解はナシです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランドとフランスの「エディンバラ条約」}} エディンバラ条約で女王メアリーは紋章(Royal arms)にイングランドを使えなくなります。 もう「私がイングランド女王」と言っちゃダメダメ。 でも女王メアリーはこれを拒否してアレコレ陰謀に参加。ってことで、結局「処刑」に追い込まれちゃいます(1587年)。 &ref(年表_フランスへ亡命(ウチの嫁:紋章).png)女王メアリーの紋章 } #endregion #region(close,ちょびっとだけ脱カトリック教会!の「スコットランド国教会の誕生」) 長老制議会は[[サクラメント>http://en.wikipedia.org/wiki/Sacrament]](洗礼とかの儀式)を修正、ミサを禁止、…。脱カトリック教会!でスコットランド国教会を作ります。 でもフランスから帰国したカトリック教会の女王メアリーは断固拒否! 王様が承認したのは1572年。スコットランド王[[ジェームズ6世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]](女王メアリーの息子)が即位してからです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_Scotland]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(スコットランド国教会).jpg)作者不明「John Knox reproves Mary Queen of Scots Date:1563」(1830年頃) 長老制議会は英国国教会を作ったイングランド王ヘンリー8世のようなカトリック教会の一気に排除はしなかったそうです。 ちゃんとしたスコットランド国教会になるのは1690年(1688–1689年:[[名誉革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Glorious_Revolution]])。 司教達がイングランド王[[ウィリアム3世>http://en.wikipedia.org/wiki/William_III_of_England]]への忠誠を断固拒否してウニャウニャ。萌えなかったのでこれ以上は調べてません。 #endregion **様変わりしたスコットランドへ帰国。スコットランドは脱メアリー! 女王メアリーはカトリック教会のフランスで立派な「フランスかぶれ」に育ちます。王フランソワ2世が病死してスコットランドへ帰国。 女王なのにスコットランド国教会に改宗しない。女王なのに勝手に結婚。 「行く末に女王メアリーは邪魔じゃん」と考えたプロテスタント貴族たちは女王メアリーを廃位すことにします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱メアリー!.png) |BGCOLOR(lightgrey):フランス|BGCOLOR(lightgrey):1558年|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|&bold(){&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:フランス).jpg)&br()女王メアリーがフランス皇太子フランソワ2世(王アンリ2世の息子)と結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月17日|イングランド女王メアリー1世が死亡。女王エリザベス1世が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1559年|BGCOLOR(lightgrey):7月10日|フランス王アンリ2世が急死。フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)が即位| |~|BGCOLOR(lightgrey):1560年|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|母親メアリ・オブ・ギーズが死亡| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|フランス王フランソワ2世が病死。[[王シャルル9世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_IX_of_France]]が即位| |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1561年|BGCOLOR(lightgrey):8月19日|&bold(){女王メアリーがスコットランドに帰国。異母兄マリ伯を最高顧問(the chief advisor)にする}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):9月6日|女王メアリーが枢密院のメンバーを指名(カトリック教徒は4名だけ)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1565年|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1566年|BGCOLOR(lightgrey):3月9日|ダヴィッド・リッチオ殺害事件| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月19日|女王メアリーが息子ジェームズ6世を出産| |~|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):2月10日|ダーンリー卿殺害事件| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月15日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|カーバリー・ヒルの戦い| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位。息子ジェームズ6世が即位}&br()・異母兄マリ伯が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月13日|ラングサイドの戦い(45分くらいの戦い)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| #region(close,スコットランドへ帰国) フランス王フランソワ2世(女王メアリーの夫)の病死で女王メアリーはスコットランドへ帰国します。タダイマですわ♥ でも女王メアリーが居ない間にスコットランドは脱フランス!脱カトリック教会! 5歳からフランスで育った女王メアリーは複雑な政治情勢のド素人。最大の味方だった母親メアリ・オブ・ギーズももういません。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリー「お兄ちゃん(異母兄マリ伯)ヨロシクですわ♥」}} 女王メアリーの異母兄マリ伯[[ジェームズ・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]は王ジェームズ5世の愛人[[マーガレット・アースキン>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Erskine]]の息子です。 王位継承権ナシの庶子で[[会衆指導層>https://en.wikipedia.org/wiki/Lords_of_the_Congregation]]の1人。 女王メアリーはプロテスタントの異母兄マリ伯を最高顧問(the chief advisor)にします。お兄ちゃんヨロシクですわ♥ &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(スコットランド国教会).jpg)作者不明「John Knox reproves Mary Queen of Scots Date:1563」(1830年頃) 1561年9月6日女王メアリーは「16人の[[枢密院<https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_Scotland]](21世紀の日本でいう内閣)」を指名。カトリック教徒は4名だけです。 カトリック教会の復活だー!を期待してたカトリック教徒はガッカリ。 とはいえ「フランスかぶれ」な女王メアリーはバリバリのカトリック教徒。永遠にスコットランド国教会へは改宗しません。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド女王エリザベス1世「カトリック教徒の女王メアリーに要注意ぢゃ!」}} 女王メアリーは「[[次のイングランド女王>https://en.wikipedia.org/wiki/Heir_presumptive]]に指名して欲しいですわ♥」と[[秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_(Kingdom_of_Scotland)]][[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]をイングランドへ送ります。 カトリック教徒の陰謀を恐れた女王エリザベス1世は指名拒否。 女王を置き換えてカトリック教会の復活だー!を恐れたの。とりあえず「貴女以外は思いつかないぢゃ」とお茶を濁してます。 &ref(年表_脱メアリー!(帰国:要注意).jpg)Carlyn Beccia著「Raucous Royals」(2008年) 女王たちは1562年8月頃イングランドでの会談を約束します。一方フランスでは[[ユグノー戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion]](1562–1598年)がスタート。 ユグノー戦争を理由に女王エリザベス1世は7月会談キャンセル。 どーゆー大人の事情?ちなみに女王エリザベス1世は[[ユグノー>https://en.wikipedia.org/wiki/Huguenot]]を応援します(1562年9月:[[ハンプトン・コート条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Hampton_Court_(1562)]])。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリー「婚活しますわ♥」}} 女王メアリーはヨーロッパ王族との再婚を考えます。 ・叔父[[枢機卿シャルル・ド・ロレーヌ>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles,_Cardinal_of_Lorraine]](ギーズ家)がオススメのオーストリア大公[[カール2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_II,_Archduke_of_Austria]](神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の三男)…女王メアリーが「私にナイショで交渉するなんてヒドイですわ」と怒ってボツ ・女王メアリーがノリノリのアストゥリアス公[[カルロス>https://en.wikipedia.org/wiki/Carlos,_Prince_of_Asturias]](スペイン王フェリペ2世の長男)…王フェリペ2世が「息子は精神病んでる」と反対してボツ ・女王エリザベス1世がオススメのレスター伯ロ[[バート・ダドリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Dudley,_1st_Earl_of_Leicester]](女王エリザベス1世のお気に入り)…レスター伯が「さすがに女王メアリーがお気の毒」と拒否してボツ 女王エリザベス1世は信頼するレスター伯を使って女王メアリーを操る目論見でした。 「イングランド貴族と結婚したら貴女の王位継承権の調査も前進するでしょうぢゃ♥」と撒き餌もバッチリだったけど失敗。 ちなみに女王メアリーに同情的なレスター伯も1580年中頃から処刑を支持するようになります。 &ref(年表_脱メアリー!(帰国:婚活).jpg)Andrew Duncan画「Pierre de Bocosel de Chatelard or Chastelard playing the lute to Mary, Queen of Scots」(1830年) こちらの画は女王メアリーにメロメロになって暴走したアホアホ詩人[[Pierre de Bocosel de Chastelard>https://en.wikipedia.org/wiki/Pierre_de_Bocosel_de_Chastelard]](フランス人)です。 1563年(1562年?)女王メアリーの部屋に押し入って処刑。 秘書官長W. Maitlandは「女王メアリーの名を貶めるユグノーの策略だ」と主張してます。 } #endregion #region(close,ダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚(ダヴィッド・リッチオ殺害事件)) ダメ夫ダーンリー卿[[ヘンリー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]]は才能も教養もサイコーな美形の伊達男。おまけに血筋もサイコーです。 女王メアリーの一目惚れでスピード結婚。 でも幼稚で傲慢で嫌われ者で酒乱の最低なダメ夫でした。愛が急速冷凍した女王メアリーは速攻でダメ夫との共同統治を拒否。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stuart,_Lord_Darnley]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) |BGCOLOR(lightgrey):1564年|BGCOLOR(lightgrey):9月|[[長老制議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_Scotland]]が父親レノックス伯マシュー・ステュアートの権利とタイトルを復活| |BGCOLOR(lightgrey):1565年|BGCOLOR(lightgrey):2月|ダメ夫ダーンリー卿がスコットランドへ帰国| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月17日|女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿と[[ウィームス城>https://en.wikipedia.org/wiki/Wemyss_Castle]]で再会| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月15日|ダメ夫ダーンリー卿が[[ロス伯>https://en.wikipedia.org/wiki/Earl_of_Ross]]を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月4日|イングランド枢密院が[[キャサリン・グレイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Catherine_Grey]]への不快感(the displeasure shown)を緩和&br()・キャサリン・グレイ(女王エリザベス1世の従姪)は女王メアリーと同等の王位継承権を持つ&br()・1560年12月女王エリザベス1世の許可ナシでハートフォード伯[[エドワード・シーモア>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Seymour,_1st_Earl_of_Hertford]]と結婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):|女王エリザベス1世がダメ夫ダーンリー卿の返還を要求&br()ダメ夫ダーンリー卿の母親マーガレット・ダグラスをロンドン塔へ収監(ダーンリー卿殺害事件で解放)| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月22日|ダメ夫ダーンリー卿が[[オールバニ公>https://en.wikipedia.org/wiki/Duke_of_Albany]]を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月28日|ダメ夫ダーンリー卿がスコットランド王(His Grace The King of Scots)の称号を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚}| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月26日|2人の結婚に反対する異母兄マリ伯が反乱。負けてイングランドへ亡命(Chaseabout Raid)| |BGCOLOR(lightgrey):1566年|BGCOLOR(lightgrey):3月9日|&bold(){ダヴィッド・リッチオ殺害事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月29日|異母兄マリ伯がスコットランドに帰国(3月10日)。女王メアリーと仲直りして枢密院に復帰| #blockquote(){&u(){&bold(){イングランド育ちのダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート}} ダメ夫ダーンリー卿は父親レノックス伯[[マシュー・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Stewart,_4th_Earl_of_Lennox]]と母親[[マーガレット・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Douglas]]の息子です。 父親レノックス伯はスコットランド女王メアリーの遠縁。 母親マーガレットはイングランド女王エリザベス1世の従姉妹。両親の血筋を継ぐダメ夫は「2国の王位継承権」を持ちます。 ちなみに1542年幼い女王メアリーが即位したとき摂政は遠縁のアラン伯[[ジェームズ・ハミルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton,_Duke_of_Ch%C3%A2tellerault]]が選ばれました。 父親レノックス伯は王位継承権がアラン伯より格下で落選…くそー! ってことで、アラン伯をやっつけようとしたけど負けちゃってイングランドへ亡命してます(1544年:[[Battle of Glasgow>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Glasgow_(1544)]])。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:イングランド育ち).jpg)父親レノックス伯は[[王ジェームズ5世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_V_of_Scotland]]のSecond cousin once removed 1559年女王メアリーがフランス王妃に即位したとき父親レノックス伯は「一族の復活を」とダメ夫を即位式に送り込みます。 女王エリザベス1世をスルーして勝手に送り込んだの。 警戒した女王エリザベス1世は一族を逮捕。1563年釈放します(王位継承者が少ないから反逆罪で処刑できなかったっぽい)。 この事件で母親マーガレット・ダグラスのスパイ[[Francis Yaxley>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Yaxley]]が逮捕されてます。1562年2月ロンドン塔での自供は 「スペイン大使から父親レノックス伯とダメ夫ダーンリー卿へのメッセージと資金を預かった」 「俺のミッションは女王メアリーとダメ夫ダーンリー卿の結婚のお膳立て」 ちなみにYaxleyは1549年頃バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]のスパイでした。フランスを旅行して情報をゲトしてたの。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリーとダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートのスピード結婚}} スコットランドへ帰国したダメ夫ダーンリー卿は女王メアリーに猛プッシュします。 [[Sir J. Melville>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Melville_of_Halhill]](2人の結婚を女王エリザベスに認めさせる特使)曰く「女王陛下は今までに出会った男性の中で最も逞しく均整のとれた長身の彼に一目惚れ♥」。 女王メアリーはダメ夫の爵位をガンガン格上げして結婚を準備。[[ホリールード寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Abbey]]で[[カトリックの結婚式>https://en.wikipedia.org/wiki/Marriage_in_the_Catholic_Church]]を挙げます。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:スピード結婚).jpg)イングランド兵士画「[[Holyrood Palace>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Palace]]」(1544:Hertford sketch) } #blockquote(){&u(){&bold(){異母兄マリ伯「2人の結婚はんたーい!」(Chaseabout Raid:追いかけっこ襲撃)}} 1565年8月26日異母兄マリ伯(女王メアリーの最高顧問)は2人の結婚に反対して反乱を起こします([[Chaseabout Raid>https://en.wikipedia.org/wiki/Chaseabout_Raid]])。 反乱軍の主張は ・女王メアリーとダメ夫ダーンリー卿はカトリック教会を復活させようとしてる。 ・宮廷に外国人(イタリア人[[ダヴィッド・リッチオ>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio]]など)を重用してる。ダメ夫ダーンリー卿も外国人だ! イングランド大使[[T. Randolph>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Randolph_(ambassador)]]は「火縄銃兵が足りなくて女王メアリー軍を打ち破るのはムリっぽい」と分析してます。 9月10日異母兄マリ伯は女王エリザベス1世に支援を要請します。 イングランド海軍は「女王メアリー軍がフランスから運んでくる軍用品を阻止するぜ!」と[[Aid号>https://en.wikipedia.org/wiki/English_ship_Aid_(1562)]]を[[フォース湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Firth_of_Forth]]へ。 でもこれ以上の支援ナシ。Aid号は女王メアリー軍にバンバン大砲を撃たれてアタフタ退散しちゃってます。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:Chaseabout Raid).jpg)「The dismission of the Earl of Murray and the Abbot of Kilwinning by Queen Elizabeth」 これ以上の支援ナシの異母兄マリ伯はあっさり負けてイングランドへ亡命します。女王エリザベス1世はプンプン。 &italic(){&color(silver){itt were no Prince's part to think well of your doinges, ... and, she wolde putt allso her helping hande too make them to understand the dutye which the subject owght to bear towarddes the Prynce.}} &italic(){&color(silver){分をわきまえよ!しっかり女王メアリーの手綱を握るのぢゃ!(訳は超テキトー)}} 「下克上は狙ってません」と弁明した異母兄マリ伯は[[ダヴィッド・リッチオ殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio]]の翌日スコットランドへ帰国します。 女王メアリーと仲直りして枢密院に復帰。 ダヴィッド・リッチオ殺害事件は異母兄マリ伯にとって渡りに船な事件だったのでございます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ダメ夫ダーンリー卿への愛が急速冷凍した女王メアリー(ダヴィッド・リッチオ殺害事件)}} スピード結婚したダメ夫ダーンリー卿は幼稚で傲慢で嫌われ者で酒乱の最低なダメ夫でした。国の幸福も脅かす最低の王様。 愛が急速冷凍した女王メアリーは速攻でダメ夫との[[共同統治>https://en.wikipedia.org/wiki/Crown_Matrimonial]]を拒否。 もし女王メアリーが子供ナシで死亡してもダメ夫は単独でスコットランド王になれないってコトです。 &ref(年表_脱メアリー!(ダヴィッド・リッチオ殺害事件:ダヴィッド・リッチオ殺害事件).jpg)[[William Allan>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Allan_(painter)]]画「The Murder of David Rizzio」(1833年:スコットランド) スコットランドへ帰国したとき女王メアリーはお気に入り音楽家[[ダヴィッド・リッチオ>http://en.wikipedia.org/wiki/David_Rizzio]]を一緒に連れて帰りました。 1564年頃リッチオを女王メアリーの対フランス秘書官に抜擢。 1566年3月9日女王メアリーと食事中のリッチオは突然侵入してきた男達にプスプス刺されて死亡します。2時間後には埋葬。 この時の女王メアリーは妊娠7ヶ月です。 イングランド大使[[T. Randolph>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Randolph_(ambassador)]]曰く「ダヴィッド・リッチオ殺害事件はダメ夫ダーンリー卿が共同統治を強要した試みの1つ。リッチオがお腹の子の父親ってウワサあり」 3月20日ダメ夫ダーンリー卿は殺害事件への関与を完全否定してます。 殺人犯の1人モートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]は犯行後イングランドへ亡命します。 3月27日バーリー男爵ウィリアム・セシルに「リッチオに嫉妬したダメ夫ダーンリー卿が計画して俺達を誘った」と主張。 真相は闇の中。とりあえず女王メアリーは更にダメ夫ダーンリー卿への愛が急速冷凍しちゃってます。 } #endregion #region(close,息子ジェームズ6世の誕生とダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートの暗殺(ダーンリー卿殺害事件)) 1566年6月19日女王メアリーとダメ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンの息子[[ジェームズ6世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]が誕生します。 次のスコットランド王(そしてイングランド王)の誕生。 息子ジェームズ6世は[[カトリック式の洗礼>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptism]]を受けます。[[名付け親>https://en.wikipedia.org/wiki/Godparent]]の1人は女王エリザベス1世(名代ベッドフォード伯[[F. Russell>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Russell,_2nd_Earl_of_Bedford]])。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) 女王メアリーは息子ジェームズ6世の洗礼式で「幼児の口へ唾を吐く(スコットランドの習慣)」を拒否しちゃってます。 うーん…「フランスかぶれ」だから耐えられなかったのかしら? ちなみに洗礼式を取り仕切った聖アンドリューズ大司教[[John Hamilton>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hamilton_(archbishop_of_St_Andrews)]]を「a pocky priest:あばたの祭司」と呼んでたそーです。 #blockquote(){&u(){&bold(){洗礼式の夕食会でイングランド人がプンプン}} [[J. Melville>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Melville_of_Halhill]]の回想録によると夕食会で女王メアリーと30人の招待客が[[円卓の騎士>https://en.wikipedia.org/wiki/Round_Table]]のように席に着きます。 出し物は「円卓の上で半人半獣の精霊[[サテュロス>https://en.wikipedia.org/wiki/Satyr]]がお尻フリフリ」 企画したのは女王メアリーの音楽家[[Bastian Pagez>https://en.wikipedia.org/wiki/Bastian_Pagez]](フランス人)です。完璧な振り付けにイングランド人はプンプン。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Bastian_Pagez]] &ref(年表_脱メアリー!(ダーンリー卿殺害事件:洗礼式の夕食会).jpg)Cor Hendriks?画「Engelsman:Staartman(Englishmen have tails)」 中世のスコットランドには「イングランド人には秘密のシッポがある」という侮蔑を込めたお話しがありました。 それで怒っちゃったの。 女王メアリーは「フランスよりイングランドを熱烈にオモテナシしたかっただけなんです」となだめます。 回想録でJ. Melvilleはイングランド人の幼稚なプンプン外交を批判してます。幼稚になっちゃうくらい許せなかったのね。 シッポの起源は[[カンタベリーのアウグスティヌス>https://en.wikipedia.org/wiki/Augustine_of_Canterbury]]の伝説。 年代記[[Walter Bower>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Bower]]著「[[Scotichronicon>https://en.wikipedia.org/wiki/Scotichronicon]]」(1440年頃:スコットランド)によると伝説はこんな感じです。 &italic(){&color(silver){597年アウグスティヌスは神様の言葉を伝えに[[ウェセックス>https://en.wikipedia.org/wiki/Wessex]]のMuglington村へ行きました。}} &italic(){&color(silver){村人たちは魚のシッポをぶら下げてました。}} &italic(){&color(silver){シッポたちはアウグスティヌスの言葉をぜーんぜん聞きません。聞いても「はいはいワロスワロス」と不真面目です。}} &italic(){&color(silver){怒った神様はウェセックスの人々に罰を与えることにします。}} ~[[BBC>http://www.bbc.com/]](Did Edward I Steal the Real Stone of Destiny? )さんより~ } #blockquote(){&u(){&bold(){犯人はイヌ夫ボスウェル伯?の「ダーンリー卿殺害事件」}} 天然痘(梅毒?)が回復したダメ夫ダーンリー卿は女王メアリーがオススメする邸宅カーク・オ・フィールドで療養します。 1567年2月10日早朝に邸宅がドッカーンと爆発。 ご遺体は爆死した使用人Aのみ。ダメ夫と使用人Bのご遺体(無傷で死因は窒息死)は近所の果樹園で発見されます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]] &ref(年表_脱メアリー!(ダーンリー卿殺害事件:ダーンリー卿殺害事件).jpg)バーリー男爵ウィリアム・セシルへの報告書(現場見取り図) 2人の目撃者が「ドッカーンと爆発音を聞いた後に十数人の男達が逃げて行った」と宣誓供述してます。 ちなみに事件当日の異母兄マリ伯はフランス(犯人的な意味で)。 毎日ダメ夫を見舞ってた女王メアリーも寵臣[[バスチアン・パージュ>http://en.wikipedia.org/wiki/Bastian_Pagez]]の結婚式へ出席してました(犯人的な意味で)。 ダメ夫とはいえ殺されちゃったのは王様。枢密院は2月12日「名乗り出た犯人には懸賞金£2,000+特赦」を出します。 容疑者は女王メアリーと彼女が信頼するイヌ夫ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]]。 4月12日殺人犯のリーダとして訴えられたイヌ夫ボスウェル伯は枢密院の裁判で無罪になります。真相は闇の中。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イヌ夫ボスウェル伯と異母兄マリ伯が交わした「エインズリー居酒屋の契約」}} 4月20日頃イヌ夫ボスウェル伯は異母兄マリ伯たちをエインズリー居酒屋(Ainslie's [[tavern>https://en.wikipedia.org/wiki/Tavern]])へ夕食会にご招待します。 招待客はこんな感じの契約書に署名。 ・イヌ夫ボスウェル伯のダーンリー卿殺害事件での無罪判決に納得します。 ・イヌ夫ボスウェル伯を女王メアリーの夫に推薦します。 ・イヌ夫ボスウェル伯と女王メアリーの結婚を全力で応援します。 女王メアリーは事前に招待客が署名するのを了承してたっぽい。5月15日女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯は結婚します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Ainslie_Tavern_Bond]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位2).jpg)T Brown画「On 24 July 1567、Mary was forced to abdicate the Scottish throne in favour of her one-year-old son James」 バーリー男爵ウィリアム・セシルへの報告書によると契約書に署名したのは9人の伯爵、7人の男爵、8人の司祭です。 でも署名した人達は女王メアリーが結婚すると猛反発。 女王メアリーをスコットランド女王の廃位に追い込んじゃいます。うーん、なんかよく分からない契約だなぁ。 } #endregion #region(close,イヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚(カーバリー・ヒルの戦い)) ダメ夫ダーンリー卿殺害事件の直後、女王メアリーはイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚します。 貴族達は「殺人容疑者と結婚なんてありえない!」と予想以上に猛反発。 女王メアリーは猛反発する「反ボスウェル派(the confederate lords)」と戦って負けちゃいます([[カーバリー・ヒルの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Carberry_Hill]])。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) |BGCOLOR(lightgrey):1559年頃|BGCOLOR(lightgrey):|イヌ夫ボスウェル伯([[海軍卿>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_High_Admiral_of_Scotland]])が滞在先で[[Anna Throndsen>http://en.wikipedia.org/wiki/Anna_Throndsen]](ノルウェー海軍大将の娘)と結婚&br()・スコットランドの法律では非合法な結婚&br()・その後さんざん貢いで捨てられたAnna Throndsenがノルウェーに帰国| |BGCOLOR(lightgrey):1566年|BGCOLOR(lightgrey):2月24日|イヌ夫ボスウェル伯が[[Jean Gordon>http://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Gordon,_Countess_of_Bothwell]](ハントリー伯の娘)と結婚。女王メアリーも結婚式に出席| |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):2月10日|[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月12日|イヌ夫ボスウェル伯がダーンリー卿殺害事件の裁判で無罪判決| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月20日頃|[[エインズリー居酒屋の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Ainslie_Tavern_Bond]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月21-23日|女王メアリーが[[スターリング城>https://en.wikipedia.org/wiki/Stirling_Castle]]へ息子ジェームズ6世を訪問| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月24日|イヌ夫ボスウェル伯が女王メアリーを誘拐| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月6日|女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯がエディンバラへ| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月7日|イヌ夫ボスウェル伯が「イヌ夫ボスウェル伯が使用人と不倫した」でJean Gordonと離婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月12日|イヌ夫ボスウェル伯が[[オークニー公爵>https://en.wikipedia.org/wiki/Earl_of_Bothwell]]の称号を拝受| |~|BGCOLOR(lightgrey):5月15日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚}| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|カーバリー・ヒルの戦い| #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンの誘拐結婚}} イヌ夫ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]]は母親メアリ・オブ・ギーズの下で会衆指導層と戦かった優秀な軍人です。 1560年秋フランス宮廷を訪ねて女王メアリーと出会ったっぽい。 いつ女王メアリーと恋人になったかは不明。でもダーンリー卿殺害事件の後「2人は結婚する」と皆さんウワサしてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:誘拐結婚).jpg)William Luson Thomas画「Queen Mary quitting Stirling Castle」(1863年) 女王メアリーは[[スターリング城>https://en.wikipedia.org/wiki/Stirling_Castle]]の息子ジェームズ6世を訪問。エディンバラ城への帰り道イヌ夫に誘拐されます。 誘い文句は「エディンバラ城はキケン![[ダンバー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Dunbar_Castle]]なら安全だぜ」。 ダンバー城に到着した女王メアリーはイヌ夫にレイプ(結婚の理由になるんだって)されたっぽいです。 女王メアリーはイヌ夫の爵位を格上げ。[[ホリールード寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Abbey]]([[ホリールード宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Holyrood_Palace]]?)でプロテスタントの結婚式を挙げます。 絶対に皆さん祝福してくれますわ♥ でも貴族達に「ダメ夫ダーンリー卿殺害事件の殺人容疑者と結婚なんてありえない!」と猛反発されてガヒョーンです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){反ボスウェル派「女王メアリーの息子ジェームズ6世を守れ!」(カーバリー・ヒルの戦い)}} 結婚に猛反発する26人の貴族「反ボスウェル派(the confederate lords)」はイヌ夫ボスウェル伯に宣戦布告します。 王様ダメ夫を殺したイヌ夫ボスウェル伯に復讐を!女王メアリーの息子ジェームズ6世を守れ! 2人の結婚に同意した皆さんも反ボスウェル派です([[エインズリー居酒屋の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Ainslie_Tavern_Bond]])。えへへ、裏切っちゃった。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Carberry_Hill]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:カーバリー・ヒルの戦い).jpg)George Vertue画「The Battle-array of Carberry-hill near Edinburgh with the surrender of Mary Queen of Scots to the confederate lords of Scotland、and the escape of Earl Bothwell、1567」(1742年) ちなみに女王メアリー軍の旗はエディンバラ城に掲げられてるスコットランド王の紋章「[[赤い獅子>https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Standard_of_Scotland]]」です。 反ボスウェル派軍の旗は「ダメ夫ダーンリー卿のご遺体」。 ご遺体の上に「Judge and Revenge my cause, O Lord:主よ、我が大儀『裁きと報復』にお力を」と書いてます。 |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月11日|反ボスウェル派が女王メアリーに宣戦布告| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|11~17時の間にらみ合い&br()・とっても暑い日だけど女王メアリー軍は飲み水を準備してなかったんだって(画の右下は水売り?)| |~|~|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派からの誓言に同意して降伏}| |~|~|反ボスウェル派が女王メアリーをエディンバラ城へ連行| 戦いはずーっと双方にらみ合い。イヌ夫は反ボスウェル派から挑まれた[[一騎討ち>https://en.wikipedia.org/wiki/Single_combat]]をぜーんぶお断りしちゃいます。 「えっ!イヌ夫は戦うつもりナシ?」と思った貴族が女王メアリー軍からどんどん離脱。 女王メアリーは反ボスウェル派からの誓言(なにかアレコレと誓ったっぽい)に同意して降伏。イヌ夫は逃げます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){その後のイヌ夫ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン(資料によって内容が違うのでご注意)}} 女王メアリーの降伏を見届けたイヌ夫ボスウェル伯は[[デンマーク=ノルウェー国王>http://en.wikipedia.org/wiki/Denmark-Norway]]([[ルター派>https://en.wikipedia.org/wiki/Lutheranism]])へ逃げます。 デンマーク王[[フレゼリク2世>http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II_of_Denmark]]の支援で旗を揚げて女王メアリーの王座復活するぜ! 反ボスウェル派は退路の保証(誓言の1つ?)を反故してイヌ夫を追跡。残念ながら失敗しちゃいました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:その後).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):|イヌ夫ボスウェル伯が[[アバディーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Aberdeen]]から[[シェトランド諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Shetland]]へ航海&br()・追跡してきた反ボスウェル派と海戦&br()・嵐で元妻Anna Throndsenが住むノルウェー(デンマークが支配中)に到着。渡航許可書の不所持で逮捕| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月|スコットランド長老制議会がイヌ夫ボスウェル伯の爵位と財産を剥奪| |BGCOLOR(lightgrey):1570年|BGCOLOR(lightgrey):|元妻Anna Throndsenが「持参金返して!」とイヌ夫ボスウェル伯を告訴&br()・イヌ夫ボスウェル伯が元妻Annaに乗ってきた船の管理権(custody)を渡して和解| |BGCOLOR(lightgrey):|BGCOLOR(lightgrey):|王フレゼリク2世がイヌ夫ボスウェル伯を[[コペンハーゲン>https://en.wikipedia.org/wiki/Copenhagen]](デンマーク)へ招待| |BGCOLOR(lightgrey):1578年|BGCOLOR(lightgrey):4月14日|イヌ夫ボスウェル伯がドラグスホルム城で獄死| 王フレゼリク2世は「女王エリザベス1世が殺人容疑者イヌ夫を探してる。コイツは利用できるかも」とイヌ夫を厚遇します。 その後「女王メアリーは二度と王座復活できない」のニュースが到着。 価値ナシになったイヌ夫を悪名高い[[ドラグスホルム城>http://en.wikipedia.org/wiki/Dragsholm_Castle]]に収監。イヌ夫は何も出来ないまま獄死しちゃいます。 } #endregion #region(close,スコットランド女王の廃位で脱メアリー!(小箱の手紙)) 反ボスウェル派の監視下に置かれた女王メアリーはスコットランド女王を[[廃位>https://en.wikipedia.org/wiki/Abdication]]。息子ジェームズ6世(13ヶ月)が即位します。 異母兄マリ伯が摂政に就任。 とーぜん女王エリザベス1世はこの下克上に反対。異母兄マリ伯は反対をスルーしてサクサク政権交代を進めちゃいます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!_登場人物.jpg) |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|反ボスウェル派が誓言。女王メアリーが降伏に同意(カーバリー・ヒルの戦い)| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月16日|反ボスウェル派が女王メアリーをロッホリーヴン城へ監禁| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月20~23日|女王メアリーが双子(イヌ夫ボスウェル伯の子供)を流産| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位。息子ジェームズ6世が即位}| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月25日|女王メアリー派W. Maitlandがイングランド大使ニコラス・スロックモートンを訪問| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)が[[即位式>https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation]]&br()・反ボスウェル派が「女王メアリーは自発的に喜んで廃位した」と宣誓| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月22日|異母兄マリ伯が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月4日|異母兄マリ伯が「元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」と声明(小箱の手紙)| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月2日|元・女王メアリーがロッホリーヴン城を脱出| #blockquote(){&u(){&bold(){女王メアリーを騙した反ボスウェル派(スコットランド女王の廃位)}} 女王メアリーは[[ロッホリーヴン城>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]]へ監禁されます。城主はモートン伯[[ウィリアム・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_6th_Earl_of_Morton]](異母兄マリ伯の異父弟)。 反ボスウェル派は女王メアリーへの誓言を反故したの。 誠意を持って女王メアリーに誓言した反ボスウェル派軍の指揮官[[William Kirkcaldy>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Kirkcaldy_of_Grange]]は仲間の裏切りに激怒してます。 &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位).jpg)拾いモノ「Loch Leven Castle」 監禁された女王メアリーはスコットランド女王を廃位します。署名を貰いに行ったのはリンジー卿[[Patrick Lindsay>https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Lindsay,_6th_Lord_Lindsay]]。 「もし拒否するなら貴女の首が飛ぶだろう。もちろん彼らはそれを望んではいない」と言ったっぽい。 リンジー卿は王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)の即位式で「女王メアリーは自発的に喜んで廃位した」と宣誓します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Patrick_Lindsay,_6th_Lord_Lindsay]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位2).jpg)T Brown画「On 24 July 1567、Mary was forced to abdicate the Scottish throne in favour of her one-year-old son James」 女王エリザベス1世は女王メアリー派[[W. Maitland>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Maitland_of_Lethington]]へ「もし女王メアリーの王座復活計画があるなら」と提案を持ちかけます。 「イングランドはイヌ夫ボスウェル伯の殺害と息子ジェームズ6世の保護を約束するぢゃ!」 とーぜん反ボスウェル派が反発。反発し過ぎてフランスとの[[古い同盟>https://en.wikipedia.org/wiki/Auld_Alliance]]を復活されても困るので諦めるしかなかったです。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Nicholas_Throckmorton]] ちなみに異母兄マリ伯は女王メアリーがイヌ夫ボスウェル伯と結婚した後フランスへ行っちゃってました。 女王メアリーとの衝突を避けたの。 8月11日フランス大使De Lignerollesに護衛してもらいながらスコットランドへ帰国。王ジェームズ6世の摂政になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]] } #blockquote(){&u(){&bold(){脱メアリー!の「王ジェームズ6世の即位は合法条例」(小箱の手紙)}} 「女王メアリーは自発的に喜んで廃位した」で政権交代した反ボスウェル派には下克上の正当性が必要です。 運良く「元・女王メアリーは[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の共犯者」が判明([[小箱の手紙>http://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]])。 あらま!妻が夫を殺したんですって!ってことで、長老制議会は「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Act_Anent_the_demission_of_the_Crown_in_favour_of_our_Sovereign_Lord,_and_his_Majesty%27s_Coronation_1567]] &ref(年表_脱メアリー!(ダーンリー卿殺害事件:ダーンリー卿殺害事件).jpg)バーリー男爵ウィリアム・セシルへの報告書(現場見取り図) 「小箱の手紙」はモートン伯[[ウィリアム・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]](異母兄マリ伯の異父弟)が発見した銀色の小箱です。 小箱には女王メアリーの紋章とF(たぶんフランス王フランソワ2世のF)の彫刻。 中身はこちら。手紙は「女王メアリーとイヌ夫ボスウェル伯が[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の共犯者」を意味する内容だそーです。 ・女王メアリーからイヌ夫ボスウェル伯への8通の手紙(1567年1-4月) ・女王メアリーのソネット ・女王メアリーとボスウェル伯の結婚証明書 手紙は本物?偽物?一部偽造?真相は闇の中。1584年王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)が手紙を処分したっぽいです。 とりあえず手紙のコピーは現存。 小箱はMary Gordon(ダグラス侯爵[[William Douglas>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_1st_Marquess_of_Douglas]]の妻)がゲトしたっぽいです。21世紀は[[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]に展示。 } #blockquote(){&u(){&bold(){どうやってモートン伯ウィリアム・ダグラスは運良く「小箱の手紙」を発見したの?}} 1568年12月モートン伯の証言によると「小箱の手紙」はこんな感じで発見されたそうです。 ・イヌ夫ボスウェル伯がスコットランド脱出を計画。使用人George Dalgleishに「エディンバラ城から手紙をコッソリ回収」「反ボスウェル派に捕まっても絶対に口を割っちゃダメ」と依頼(カーバリー・ヒルの戦い)。 ・反ボスウェル派が使用人George Dalgleishを確保。 ・拷問を恐れた使用人George Dalgleishが「とある家に連れて行きます」と提案。連れて行かれた家(エディンバラのPotterrow)のベッドの下から「小箱の手紙」を発見。 発見された後はまことしやかに噂が流れてるの。ひえー!コワイですねー。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]] &ref(年表_脱メアリー!(廃位:小箱の手紙).jpg)元・女王メアリーの「小箱の手紙」と指輪([[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]) |BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月20日|反ボスウェル派が「小箱の手紙」を発見| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位。息子ジェームズ6世が即位}| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|王ジェームズ6世(女王メアリーの息子)の即位式でウワサが流れる&br()・なんか「都合の悪いヤバイ手紙」が発見されたせいで女王メアリーが廃位したんだって| |~|BGCOLOR(lightgrey):7月末|ロンドンを訪問した異母兄マリ伯が駐英スペイン大使[[Diego Guzmán de Silva>https://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Guzm%C3%A1n_de_Silva]]にウワサを話す&br()・女王メアリーの「ダーンリー卿殺害事件に係わる手紙」が発見されたんだって| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月末|ロンドン主教[[Edmund Grindal>https://en.wikipedia.org/wiki/Edmund_Grindal]]がジュネーブの[[Heinrich Bullinger>https://en.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Bullinger]]に手紙を送る&br()・女王メアリーの「イヌ夫ボスウェル伯にダーンリー卿殺害事件をせっつく手紙」が発見されたんだって| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月4日|異母兄マリ伯が枢密院を召集&br()・「元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」と声明| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月6日|モートン伯が異母兄マリ伯に「小箱の手紙」を渡す| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月7日|イングランドへ「小箱の手紙」を公開(ウエストミンスター会議)| ちなみにその後元・女王メアリーは異母兄マリ伯に負けちゃってイングランドへ亡命します([[ラングサイドの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]])。 異母兄マリ伯はイングランドへ「小箱の手紙」を公開(ウエストミンスター会議)。 「小箱の手紙」は1581年モートン伯が処刑された後も [[ダグラス家>https://en.wikipedia.org/wiki/Clan_Douglas]](モートン伯のお家)が保管したっぽいです。 } #endregion #region(close,イングランドへ亡命(ラングサイドの戦い)) 政権交代しても「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」した元・女王メアリーは王座復活を諦めてません。 元・女王メアリーを支持する貴族だっている。 ってことで、異母兄マリ伯に宣戦布告。でもアッサリ負けちゃってイングランドへ亡命します([[ラングサイドの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]])。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_脱メアリー!(ラングサイドの戦い).jpg)亡命への道のり(地図は21世紀) |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):6月15日|カーバリー・ヒルの戦い| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月16日|反ボスウェル派が女王メアリーをロッホリーヴン城へ監禁| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月2日|元・女王メアリーがロッホリーヴン城を脱出| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):|元・女王メアリーが「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」と声明| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月13日|ラングサイドの戦い(45分くらいの戦い)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}&br()・釣り船でダンドレナン・アビーからワーキントン(イングランド)へ移動| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド|~|BGCOLOR(lightgrey):5月17日|元・女王メアリーがコッカーマスへ移動&br()・国境監督官スクロープ男爵が元・女王メアリーを保護| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月18日|元・女王メアリーがカーライル城へ到着| #blockquote(){&u(){&bold(){ロッホリーヴン城を脱出}} 元・女王メアリーは[[ロッホリーヴン城>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]]に監禁中です。城主はモートン伯[[ウィリアム・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_6th_Earl_of_Morton]](異母兄マリ伯の異父弟)。 政府は£1,289のお世話代を支給(指示したのは異母兄マリ伯)。 お世話してるのはモートン伯の妻[[Agnes Leslie>https://en.wikipedia.org/wiki/Agnes_Leslie,_Countess_of_Morton]]。Agnesが出産すると元・女王メアリーは自由な時間をゲトします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Douglas,_6th_Earl_of_Morton]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位).jpg)拾いモノ「Loch Leven Castle」 元・女王メアリーはGeorge Douglas(モートン伯の兄弟)を味方にします。George Douglasが恋しちゃったっぽい。 ってことで、ロッホリーヴン城をこっそり脱出して[[Niddry城>https://en.wikipedia.org/wiki/Niddry_Castle]]へ。 脱出の話しを聞いたモートン伯はダガーで自分を突き刺そうとしちゃう程ショックを受けてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]] } #blockquote(){&u(){&bold(){異母兄マリ伯を倒して王座復活ですわ♥(ラングサイドの戦い)}} 元・女王メアリーは「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」と声明を出します([[Craignethan城>https://en.wikipedia.org/wiki/Craignethan_Castle]]?)。 支持する貴族「Queen's Men:女王メアリー派」がドンドン集合。 長老制議会(?)も「こんなやり方で摂政になった異母兄マリ伯は反逆者条例」が通過します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]] &ref(年表_脱メアリー!(ラングサイドの戦い:ラングサイドの戦い).jpg)F. Hartwich画「Mary of Scotland mourning over the dying Douglas at the Battle of Langside, 1568」 元・女王メアリーは難攻不落な[[Dumbarton城>https://en.wikipedia.org/wiki/Dumbarton_Castle]]で北からの援軍を待つことにします。力を付けて王座復活を目指しますわ♥ 戦いを避けようと[[Rutherglen城>https://en.wikipedia.org/wiki/Rutherglen_Castle]]の方向へ行進。 でも[[ラングサイド>https://en.wikipedia.org/wiki/Langside]]で異母兄マリ伯軍にバッタリ遭逢しちゃってアッサリ負けます。とりあえず逃げますわ♥ バッタリ遭逢したのは異母兄マリ伯軍が女王メアリー派軍の動向に注意してたからです。ラングサイドで待ち伏せてたの。 逆に女王メアリー派軍の指揮官アーガイル伯[[Archibald Campbell>https://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Campbell,_5th_Earl_of_Argyll]]は軍事初心者。 ってことで、アッサリ負けちゃいました。戦いの詳細は[[urbanglasgow>http://urbanglasgow.co.uk/]](The Battle Of Langside)さんをどうぞ。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イングランドへ亡命}} 異母兄マリ伯は「これ以上の流血は避けたい」と異母兄マリ伯軍の兵士たちに逃げた元・女王メアリー追跡を禁止します。 主要な女王メアリー派軍の兵士たちは連行。 平和なスコットランドを取り戻して「The Gude(=Good) Regent:優れた摂政」と呼ばれます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]] &ref(年表_脱メアリー!(ラングサイドの戦い:亡命).jpg)John Smith画「Solway Firth, Embarkation of Queen Mary」(1837年) アッサリ負けちゃった元・女王メアリーはDumbarton城を諦めて[[ダンドレナン・アビー>https://en.wikipedia.org/wiki/Dundrennan_Abbey]]へ行きます。 きっと女王エリザベス1世が王座復活を助けてくれますわ♥ 夜20人のお伴と一緒に釣り船で[[ソルウェー湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Solway_Firth]]を横切って[[ワーキントン>https://en.wikipedia.org/wiki/Workington]](イングランド)へ亡命します。 元・女王メアリーは[[コッカーマス>https://en.wikipedia.org/wiki/Cockermouth]]で国境監督官スクロープ男爵[[Henry Scrope>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Scrope,_9th_Baron_Scrope_of_Bolton]]に保護されて[[カーライル城>https://en.wikipedia.org/wiki/Carlisle_Castle]]へ行きます。 予想外の亡命にイングランドは超ビックリ! 知らせを聞いた[[北部議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Council_of_the_North]]は大急ぎでノーサンバランド伯[[トマス・パーシー>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Percy,_7th_Earl_of_Northumberland]]をお世話係(監視人)に任命します。 } #endregion #region(close,その後のスコットランド) 1歳で即位した王ジェームズ6世(元・女王メアリーの息子)は[[スコットランド国教会>https://en.wikipedia.org/wiki/Church_of_Scotland]]の王様として育てられます。 国政は摂政が担当。 母親メアリーとは[[スターリング城>https://en.wikipedia.org/wiki/Stirling_Castle]]で会ったのが最後。イングランドへ亡命した母親メアリーとの再会は生涯なかったです。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:誘拐結婚).jpg)William Luson Thomas画「Queen Mary quitting Stirling Castle」(1863年) |BGCOLOR(lightgrey):摂政時代|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|王ジェームズ6世が即位&br()異母兄マリ伯(王ジェームズ6世の伯父)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1570年|BGCOLOR(lightgrey):1月23日|異母兄マリ伯が元・女王メアリー支持派に暗殺される&br()レノックス伯[[マシュー・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Stewart,_4th_Earl_of_Lennox]](王ジェームズ6世の祖父)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1571年|BGCOLOR(lightgrey):9月4日|レノックス伯が元・女王メアリー支持派の襲撃で死亡&br()マー伯[[ジョン・アースキン>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Erskine,_17th_Earl_of_Mar]](妻Annabella Murrayは王ジェームズ6世の世話係)が摂政になる| |~|BGCOLOR(lightgrey):1572年|BGCOLOR(lightgrey):10月28日|マー伯が病気で死亡。モートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]の毒殺説あり&br()モートン伯ジェイムズ・ダグラス(王ジェームズ6世の遠縁)が摂政になる| |BGCOLOR(lightgrey):自立時代|BGCOLOR(lightgrey):1581年|BGCOLOR(lightgrey):6月2日|モートン伯ジェイムズ・ダグラスが反逆罪で処刑| |~|BGCOLOR(lightgrey):1582年|BGCOLOR(lightgrey):8月22日|リヴァンの奇襲| |~|BGCOLOR(lightgrey):1586年|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|スコットランドとイングランドが「侵略されたら一緒に戦うぜ!」と約束(ベリック条約)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1587年|BGCOLOR(lightgrey):2月8日|&bold(){イングランドが元・女王メアリーを処刑}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1589年|BGCOLOR(lightgrey):11月23日|王ジェームズ6世が[[アン・オブ・デンマーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark]](デンマーク王[[フレゼリク2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II_of_Denmark]]の娘)と結婚| |~|BGCOLOR(lightgrey):1603年|BGCOLOR(lightgrey):3月24日|王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世に即位| #blockquote(){&u(){&bold(){志半ばにして暗殺された異母兄マリ伯}} 異母兄マリ伯は王ジェームズ6世の摂政になって政権を握ります。 「反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位」に反発する元・女王メアリー派を鎮圧([[メアリー内戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Marian_civil_war]])。 平和なスコットランドを取り戻して「The Gude(=Good) Regent:優れた摂政」と呼ばれます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]] でも頑張ってる最中に[[J. Hamilton>http://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton_%28assassin%29]]([[ハミルトン家>https://en.wikipedia.org/wiki/Clan_Hamilton]]は元・女王メアリー派)に[[carbine銃>https://en.wikipedia.org/wiki/Arquebus]]で撃たれちゃいます。 史上初の銃による暗殺。 1570年2月14日葬儀で熱血おやじ[[ジョン・ノックス>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Knox]]は特別に[[葬儀説教>https://en.wikipedia.org/wiki/Funeral_Sermon_and_Prayer]](「死者の賛美」「貧富の区別」で禁止中)します。 &ref(年表_脱メアリー!(その後:異母兄マリ伯).jpg)G. Cattermole画「James Hamilton of Bothwellhaugh in the act of assassinating The Earl of Moray at Linlithgow」(1835年) 1月29日までに女王エリザベス1世は「異母兄マリ伯の銃撃」の知らせをゲト。でも死亡の知らせは届きませんでした。 スコットランドが摂政の空白をナイショにしたの。 ナイショのためにバクルー男爵[[W. Scott>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Scott,_4th_Baron_of_Buccleuch]]は意図的にイングランド国境を襲撃します。国境が接してると大変だねー。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hamilton_%28assassin%29]] } #blockquote(){&u(){&bold(){自立に目覚めた王ジェームズ6世(リヴァンの奇襲)}} 王ジェームズ6世(13歳)はレノックス公[[エズメ・ステュアート>http://en.wikipedia.org/wiki/Esm%C3%A9_Stewart,_1st_Duke_of_Lennox]](王ジェームズ6世の遠縁)とBLな関係になります。 レノックス公を枢密院に抜擢、公爵の爵位を授与、…アレコレしてガンガン格上げ。 ちなみにイングランドでBLは財産没収、さいあく処刑です(1533年:[[男色禁止法>http://en.wikipedia.org/wiki/Buggery_Act_1533]])。えーっ!ジェフリー気をつけてー! [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Esm%C3%A9_Stewart,_1st_Duke_of_Lennox]] レノックス公は邪魔な摂政モートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]を「ダーンリー卿殺害事件の立案者」で処刑しちゃいます。 長老制議会はレノックス公(カトリック教徒)にイライラ。 「カトリック教会か?王様への忠誠か?」と問われたレノックス公はあっさりスコットランド国教会に改宗します。 &ref(年表_脱メアリー!(その後:リヴァンの奇襲).jpg)[[William Baxter Collier Fyfe>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Baxter_Collier_Fyfe]]画「The raid of Ruthven, an incident in the life of James VI of Scotland」(1878年) ガウリー伯[[ウィリアム・リヴァン>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Ruthven,_1st_Earl_of_Gowrie]]は「スコットランドの行く末ヤバイ!」と王ジェームズ6世を監禁。政権をゲトします。 レノックス公をフランスへ追放。 スコットランド国教会も貴族もガウリー政権を支持。女王エリザベス1世も王ジェームズ6世の監視費用を援助してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Raid_of_Ruthven]] ガウリー政権が目指したスコットランドは ・スコットランド政府の改革 ・フランスとカトリック教会からの影響力の制限 ・イングランドへ亡命した元・女王メアリーのスコットランド帰国の防止 1583年7月王ジェームズ6世は監禁から脱出。イングランドにベッタリなガウリー政権に頼らず自分で直接統治を目指します。 ガウリー伯は特赦(その後も野望を持ち続けたので1584年[[大反逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で処刑)。 ちなみにフランスへ追放になったレノックス公は異教徒として冷遇されながら1583年5月26日死亡してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){母親メアリーを捨てた?王ジェームズ6世(ベリック条約)}} 王ジェームズ6世(スコットランド国教会)も女王エリザベス1世(英国国教会)もカトリック国からの侵略が心配です。 ってことで、フランスやスペインが侵略したら「一緒に戦うぜ!」と約束(ベリック条約)。 1588年[[アルマダの海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]もスコットランドはイングランドに協力します。どんな協力をしたんでしょうね? [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281586%29]] &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:処刑).jpg)文通相手バビントンと仲間たち(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) イングランドはベリック条約で王ジェームズ6世に年金£4,000も約束。「君が次のイングランド王かも!?」と期待させます。 このとき元・女王メアリーを処刑するためのおとり捜査中([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]])。 年金は「王様になりたかったら母親メアリーの処刑に目を瞑るのぢゃ!」という目論見があったって説があります。 } #blockquote(){&u(){&bold(){BLから目覚めた王ジェームズ6世(アン・オブ・デンマークと結婚)}} 王ジェームズ6世はレノックス公エズメ・ステュアートを失った後も女性よりBLがお好みです。でも王様は王位継承者も必要。 ってことで、[[アン・オブ・デンマーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark]](デンマーク王[[フレゼリク2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_II_of_Denmark]]の娘)と結婚。 王フレゼリク2世はイヌ夫ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Hepburn,_4th_Earl_of_Bothwell]](女王メアリーの夫)を投獄した王様です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_of_Denmark]] &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:その後).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) スコットランドにとって[[デンマーク=ノルウェー国王>http://en.wikipedia.org/wiki/Denmark-Norway]]はプロテスタントだし有益な貿易相手です。 ちなみに女王エリザベス1世がオススメしたのはユグノーの[[カトリーヌ・ド・ブルボン>https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_de_Bourbon]](フランス王[[アンリ4世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_IV_of_France]]の妹)。 カトリーヌはカトリック教徒のロレーヌ公[[アンリ2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_II,_Duke_of_Lorraine]]([[ユグノー戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/French_Wars_of_Religion]]の[[カトリック同盟>https://en.wikipedia.org/wiki/Catholic_League_(French)]])と結婚します。 } #endregion *元・女王メアリーのざっくり年表(イングランド編) イングランドへ亡命した元・女王メアリーはアチコチのお城へ移動させられます(地図にあるお城の位置はテキトー)。 お城はスコットランド、フランス、スペインから離れたトコ。 他にも「お城を掃除しなくちゃ」とかで[[ウィングフィールド荘園>https://en.wikipedia.org/wiki/Wingfield_Manor]]、[[チャッツワース・ハウス>https://en.wikipedia.org/wiki/Chatsworth_House]]、[[ボクストン>https://en.wikipedia.org/wiki/Buxton]]への移動もあります。 &ref(年表(イングランド編).jpg)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Europe about 1560」(1923年:The Historical Atlas) **英国国教会のイングランドへ亡命 元・女王メアリーは「きっと女王エリザベス1世が王座復活を助けてくれますわ♥ 」と信じてイングランドへ亡命します。 でも歓迎したのは「打倒女王エリザベス1世!」のカトリック教徒だけ。 カトリック教徒と一緒にアレコレやらかして元・女王メアリーは処刑されちゃいます。ビセンテはどんな活動をしてたんでしょね? [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(陰謀事件).png,【共通】共通の画) |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|元・女王メアリーがイングランドへ亡命| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド|~|BGCOLOR(lightgrey):5月18日|元・女王メアリーを[[カーライル城>http://en.wikipedia.org/wiki/Carlisle_Castle]]に保護&br()(監視人:ノーサンバランド伯[[トマス・パーシー>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Percy,_7th_Earl_of_Northumberland]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月|元・女王メアリーを[[ボルトン城>http://en.wikipedia.org/wiki/Bolton_Castle]]に移動| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):10月|[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の査問委員会を開催| |~|BGCOLOR(lightgrey):1569年|BGCOLOR(lightgrey):1月26日|元・女王メアリーを[[タトベリ城>http://en.wikipedia.org/wiki/Tutbury_Castle]]に移動(監視人:シュルズベリー伯[[G. Talbot>http://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):11月|&bold(){北部諸侯の乱}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1570年|BGCOLOR(lightgrey):|元・女王メアリーを[[シェフィールド城>http://en.wikipedia.org/wiki/Sheffield_Castle]]に移動| |~|BGCOLOR(lightgrey):1571年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){リドルフィ事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1581年|BGCOLOR(lightgrey):春|&color(red){ビセンテがメアリー・スチュアート救出作戦のリーダに就任}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1583年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){スロックモートン事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1584年|BGCOLOR(lightgrey):10月19日|&bold(){「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]」の作成}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月24日|元・女王メアリーを[[タトベリ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Tutbury_Castle]]に移動| |~|BGCOLOR(lightgrey):1585年|BGCOLOR(lightgrey):クリスマス前|元・女王メアリーを[[チャートリー城>http://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]に移動(監視人:[[アミアス・ポーレット>http://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]])| |~|BGCOLOR(lightgrey):1586年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){バビントン事件}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月6日|スコットランドとイングランドが「侵略されたら一緒に戦うぜ!」と約束([[ベリック条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281586%29]])| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):8月11日|元・女王メアリーを逮捕| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):9月25日|元・女王メアリーを[[フォザリンゲイ城>http://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringay_Castle]]に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1587年|BGCOLOR(lightgrey):2月8日|&bold(){元・女王メアリーを処刑}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):3月(ユ:2月)|&color(red){ビセンテがホーの丘でカイトに出会う}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月|元・女王メアリーを[[ピーターバラ大聖堂>http://en.wikipedia.org/wiki/Peterborough_Cathedral]]に埋葬| |~|BGCOLOR(lightgrey):1588年|BGCOLOR(lightgrey):7-8月|&color(red){スペインがイングランドへ侵攻([[アルマダの海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]])}| #region(close,女王エリザベス1世「ダーンリー卿殺害事件の調査ぢゃ!」(小箱の手紙)) 元・女王メアリーは「ダーンリー卿殺害事件の共犯者」で廃位しました。廃位は正当か?異母兄マリ伯の下克上か? 1568年10月-1569年1月女王エリザベス1世は[[ダーンリー卿殺害事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Kirk_o%27_Field]]の査問委員会を開催。 共犯者の証拠になった[[小箱の手紙>https://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]]を調べます。調査結果は「手紙は本物=元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Casket_letters]] |BGCOLOR(lightgrey):スコットランド|BGCOLOR(lightgrey):1565年|BGCOLOR(lightgrey):7月29日|&ref(年表の登場人物(女王メアリーの結婚:スコットランド).jpg)&br()&bold(){女王メアリーがダメ夫ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):6月19日|女王メアリーが息子ジェームズ6世を出産| |~|BGCOLOR(lightgrey):1567年|BGCOLOR(lightgrey):2月10日|ダーンリー卿殺害事件| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):7月24日|&bold(){女王メアリーが反ボスウェル派に強要されてスコットランド女王を廃位}| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月4日|異母兄マリ伯が「元・女王メアリーはダーンリー卿殺害事件の共犯者」と声明(小箱の手紙)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月12日|&bold(){長老制議会が「王ジェームズ6世の即位は合法条例」を決議}| |~|BGCOLOR(lightgrey):1568年|BGCOLOR(lightgrey):5月13日|[[ラングサイドの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Langside]](45分くらいの戦い)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):5月16日|&bold(){元・女王メアリーがイングランドへ亡命}| |BGCOLOR(lightgrey):イングランド|~|BGCOLOR(lightgrey):10月|スコットランドとイングランドが新しい2国条約を協議(ヨーク会議)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月7日|スコットランドとイングランドが新しい2国条約を協議(ウエストミンスター会議)| |~|~|BGCOLOR(lightgrey):12月14日|ダーンリー卿殺害事件の査問委員会が「小箱の手紙」を調査| #blockquote(){&u(){&bold(){ダーンリー卿殺害事件の査問委員会}} 異母兄マリ伯は1568年10月[[ヨーク>https://en.wikipedia.org/wiki/York]]会議、12月7日[[ウエストミンスター>https://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Westminster]]会議でイングランドに「小箱の手紙」を公開します。 12月14日査問委員会は[[ハンプトン・コート>https://en.wikipedia.org/wiki/Hampton_Court_Palace]]で「小箱の手紙」を調査。 「小箱の手紙」と「女王メアリーが女王エリザベス1世へ送った手紙」の筆跡を比較して「手紙は本物」と判定します。 &ref(年表_脱メアリー!(廃位:小箱の手紙).jpg)元・女王メアリーの「小箱の手紙」と指輪([[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]) 女王エリザベス1世は元・女王メアリーから要求された調査への参加も「小箱の手紙」への接近も拒否しちゃってます。 一方的に「ダーンリー卿殺害事件の共犯者」に決定。 でも腐ってもスコットランド女王だったから簡単に処罰できない。ってことで、元・女王メアリーを起訴も罷免もしません。 &ref(年表_イングランドへ亡命(小箱の手紙:査問委員会).jpg)William Robertson著「The Works of William Robertson, D. D. - Vol. III」(1820年) 1568年10月ロス司教[[J. Lesley>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Lesley]]は元・女王メアリーへ暗号で書かれた手紙を送ってます(訳はテキトー)。 &italic(){&color(silver){the D. determinit purpose not to end your cause at this time, but to hold the same in suspense, and did what was in her power to make.}} &italic(){&color(silver){女王エリザベス1世は現時点で貴女の目的を終わらせるつもりはありません。しかし貴女の力がイングランドを脅かす懸念を抱いてます。}} 情報源はヨーク会議のイングランド代表ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]。 「きっと女王エリザベス1世が王座復活を助けてくれますわ♥ 」と思ってた元・女王メアリーは脳内お花畑だったんですね。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ノーフォーク公トマス・ハワード「元・女王メアリーと結婚するぜ!」}} ヨーク会議でノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]は異母兄マリ伯に「小箱の手紙」の公開中止をお願いしたっぽいです。 公開したら元・女王メアリーの名が永遠に汚れちゃう! 元・女王メアリーの無実を信じてたの。この頃から「元・女王メアリーと結婚するぜ!」と考え始めてたっぽいです。 &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg) 左側:スコットランド代表の[[異母兄マリ伯>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Stewart,_1st_Earl_of_Moray]]、... 右側:イングランド代表のノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) 「ノーフォーク公はニャムニャムっぽい」は1571年11月元・女王メアリーのメッセンジャー[[J. Lesley>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Lesley]]の証言です ちなみにこのときJ. Lesleyは[[リドルフィ事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]]でロンドン塔に収監中。 こんな証言もあってノーフォーク公は1572年1月[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で有罪。6月2日打ち首になっちゃいます。 } #endregion #region(close,ローマ教皇「女王エリザベス1世は破門だ!」(北部諸侯の乱)) [[北部諸侯の乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Rising_of_the_North]]は1569年イングランド北部のカトリック貴族たちが起こした反乱です(北部はカトリック教徒が多い)。 ・女王エリザベス1世を追い出して元・女王メアリーがイングランド女王に即位するぜ! 主な共謀者はウェストモーランド伯[[チャールズ・ネヴィル>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Neville,_6th_Earl_of_Westmorland]]とノーサンバーランド伯[[トーマス・パーシー>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Percy,_7th_Earl_of_Northumberland]]です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Rising_of_the_North]] &ref(年表_イングランドへ亡命(北部諸侯の乱).jpg)北部諸侯の乱(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) 反乱軍は元・女王メアリーを救出しするぜ!と南下。でもサセックス伯爵[[トマス・ラドクリフ>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Radclyffe,_3rd_Earl_of_Sussex]]の政府軍に鎮圧されちゃいます。 国民の支持も得られなくて敗北。 ウェストモーランド伯とノーサンバーランド伯はスコットランドへ逃亡します。 #blockquote(){&u(){&bold(){ローマ教皇も反乱軍を応援します!(レグナンス・イン・エクスケルシス)}} ちょっと間に合わなかったけど、1570年2月25日ローマ教皇[[ピウス5世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_V]]は女王エリザベス1世と関係者を[[破門>https://en.wikipedia.org/wiki/Excommunication]]します。 カトリック教会の王様はローマ教皇の承認がないと王様と認められないの。 ってことで、「破門=王様失格」。背後にはスペイン王フェリペ2世からの圧力もあったっぽいです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Regnans_in_Excelsis]] &ref(年表_イングランドへ亡命(北部諸侯の乱:レグナンス・イン・エクスケルシス).jpg)レグナンス・イン・エクスケルシス(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) ちなみにイングランドは「イングランド国教会の首長は王様。カトリック教会の指図は受けねー!」です([[国王至上法>http://en.wikipedia.org/wiki/Act_of_Supremacy_1559]])。 破門されても女王エリザベス1世は屁のカッパ。 でもカトリック教徒には「破門=女王エリザベス1世の打倒」が正義になっちゃいました。ローマ教皇のお墨付きだもんね。 } #blockquote(){&u(){&bold(){その後のノーサンバーランド伯トーマス・パーシー}} スコットランドに逃亡したノーサンバーランド伯と妻[[アン>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Percy,_Countess_of_Northumberland]]はHector Graham(Harlawの強盗団リーダ)に匿ってもらいます。 Hector Grahamはノーサンバーランド伯をモートン伯[[ジェイムズ・ダグラス>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Douglas,_4th_Earl_of_Morton]]に売却。 モートン伯は[[ロッホリーヴン城>https://en.wikipedia.org/wiki/Loch_Leven_Castle]](元・女王メアリーが監禁されてたお城)にノーサンバーランド伯を拘留します。 Hector Grahamに裏切りられた妻アンは生まれたばかりの娘と一緒に[[ブルッヘ>https://en.wikipedia.org/wiki/Bruges]](スペイン領ネーデルラント)へ行きます。 お願いです、夫の身代金を援助して下さい! ローマ教皇ピウス5世は4,000[[クラウン>https://en.wikipedia.org/wiki/Crown_(British_coin)]]、王フェリペ2世は6,000[[マルク>https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_(currency)]]を彼女へ送ります。でも全ては無駄に終わったの。 &ref(年表_脱メアリー!(カーバリー・ヒルの戦い:廃位).jpg)拾いモノ「Loch Leven Castle」 摂政レノックス伯[[マシュー・ステュアート>https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Stewart,_4th_Earl_of_Lennox]]はイングランドからの「ノーサンバーランド伯引き渡し要求」を拒否しました。 でも次の摂政マー伯[[ジョン・アースキン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Erskine,_Earl_of_Mar_(d._1572)]] が1572年8月£2,000でイングランドに売却。 女王エリザベス1世は「命惜しくばカトリック教会を放棄ぢゃ」を拒否したノーサンバーランド伯を8月22日打ち首にします。 } #blockquote(){&u(){&bold(){その後のウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィル}} スコットランドに逃亡したウェストモーランド伯はKerr卿の自宅[[Ferniehirst Castle>https://en.wikipedia.org/wiki/Ferniehirst_Castle]]に匿ってもらいます。 そこにノーサンバーランド伯を売却のお知らせが到着。 「俺も裏切られたらヤバイじゃん!」と[[フランドル>https://en.wikipedia.org/wiki/Flanders]](スペイン領ネーデルラント)へ亡命します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Neville,_6th_Earl_of_Westmorland]] &ref(【共通の画】アルマダ海戦_スペイン無敵艦隊.jpg,【共通】共通の画)スペイン無敵艦隊(映画「[[Elizabeth:The Golden Age>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth:_The_Golden_Age]]」) 1588年[[アルマダ海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]ではパルマ公[[アレッサンドロ・ファルネーゼ>https://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Farnese,_Duke_of_Parma]]と一緒にイングランド亡命者700人を指揮してます。 その後は王フェリペ2世から年金を貰って細々と生活。 イングランドの財産はもっちろん剥奪されてます(1571年:[[Attainders of Earl of Westmorland and others Act 1571>https://en.wikipedia.org/wiki/Attainders_of_Earl_of_Westmorland_and_others_Act_1571]])。 女王エリザベス1世は一文無しになったウェストモーランド伯の妻[[Jane Neville>https://en.wikipedia.org/wiki/Jane_Howard,_Countess_of_Westmorland]]に年£200の年金を与えて自宅軟禁します。 良い教育は受けてたけど政治には無知だったっぽい。 ちなみに妻Jane Nevilleの弟はノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅)です。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「ノーフォーク公トマス・ハワードを逮捕ぢゃ」}} 1569年女王エリザベス1世はノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]を「元・女王メアリーと結婚しようとしてる」で逮捕します。 なんで分かったんでしょね? 1570年8月特赦されて解放。ちなみに1569年息子[[フィリップ・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Howard,_20th_Earl_of_Arundel]]と[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]が婚約してます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg)右側:ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) 1568年イタリア銀行家[[ロベルト・ディ・リドルフィ>https://en.wikipedia.org/wiki/Roberto_di_Ridolfi]]も「イングランド北部のカトリック貴族たちにお金を調達した」のウワサで逮捕されてます。 ローマ教皇ピウス5世が「反乱に使ってね♥」と12,000クラウンを託してたの。 1570年証拠不十分で解放。その後出所したノーフォーク公を拾って[[リドルフィ事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]]を計画します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]] } #endregion #region(close,女王エリザベス1世「ノーフォーク公トマス・ハワードを処刑ぢゃ!」(リドルフィ事件)) [[リドルフィ事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]]は1571年「女王エリザベス1世を暗殺して元・女王メアリーがイングランド女王に即位」の陰謀です。 ・ネーデルラント総督アルバ公[[Fernando Álvarez de Toledo>http://en.wikipedia.org/wiki/Fernando_%C3%81lvarez_de_Toledo,_3rd_Duke_of_Alba]]が軍を率いてイングランドへ侵攻するぜ!上陸場所は[[ハリッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/Harwich]]か[[ポーツマス>https://en.wikipedia.org/wiki/Portsmouth]]だぜ! ・イングランド北部でカトリック反乱を扇動して女王エリザベス1世を暗殺するぜ! ・元・女王メアリーはノーフォーク公[[トマス・ハワード>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]]と結婚してイングランド女王に即位するぜ! 考案者はロンドン在住のイタリア銀行家[[ロベルト・ディ・リドルフィ>http://en.wikipedia.org/wiki/Roberto_di_Ridolfi]](1567年からローマ教皇[[ピウス5世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Pius_V]]の間諜)。 ローマ教皇ピウス5世と王フェリペ2世もノリノリです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]] &ref(年表_脱フランス!脱カトリック教会!(リース包囲戦:ベリック条約).jpg)右側:ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_4th_Duke_of_Norfolk]](アランデル城[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]の舅) #blockquote(){&u(){&bold(){ジョン・ホーキンス([[フランシス・ドレイク>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]の従兄弟)もスパイやってます♥}} [[ジョン・ホーキンス>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]]は女王エリザベス1世を裏切るフリして駐英スペイン大使[[Guerau de Espés>https://en.wikipedia.org/wiki/Guerau_de_Esp%C3%A9s]]に接近します。 スペイン人捕虜の釈放を手助けしたりアレコレご奉仕。 すっかり信用させて陰謀の計画やメンバーの情報をゲトしちゃいます。もっちろん女王エリザベス1世にぜーんぶ報告。 &ref(【共通の画】イングランド_フランシス・ドレイク.jpg,【共通】共通の画)作者不明「[[Thomas Cavendish>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Cavendish]], Sir Francis Drake and Sir John Hawkins」(17世紀) トスカーナ大公[[コジモ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Cosimo_I_de%27_Medici,_Grand_Duke_of_Tuscany]]も個人的に女王エリザベス1世へ「陰謀に気をつけて!」と警告を送ってます。 リドルフィから陰謀の計画を聞いたの。 なんとリドルフィはヨーロッパ中で陰謀の計画を自慢しちゃってました。えええーっ!? ネーデルラント総督アルバ公「こんなヤツがリーダで大丈夫かなあ?」 駐英スペイン大使Guerau de Espés「ヤツは偉大な誠実と美徳を持ち合わせた仲間だからへーき、へーき」 でも全然へーきじゃなかった。陰謀が失敗した原因の1つは「リドルフィのお喋り」です。 ちなみにパリ出張中に「メッセンジャー[[C. Baillie>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baillie_(papal_agent)]]の逮捕」で陰謀の失敗を知ったリドルフィはイングランドへ戻らずに逃亡。 女王エリザベス1世は1571年1月駐英スペイン大使Guerau de Espésを追放します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「陰謀をぶっ潰すぢゃ!」}} [[C. Baillie>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baillie_(papal_agent)]]は暗号で書かれた元・女王メアリーたち宛の手紙を運ぶリドルフィのメッセンジャーです。 1571年4月12日頃[[ドーバー>https://en.wikipedia.org/wiki/Dover]]で逮捕されて[[マーシャルシー監獄>https://en.wikipedia.org/wiki/Marshalsea]]に収監。 仲良くなった囚人Thomas Herle(バーリー男爵の潜入員)に「全部吐いて楽になろうよ」と説得されて心がグラグラします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Baillie_(papal_agent)]] [[ロンドン塔>https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_London]]へ移されたC. Baillieは「暗号の解読方法を吐けー!」と拷問されます。 ある晩処刑待ちの囚人[[J. Story>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Story]](〃の潜入員Parkerの変装)に「吐かないと俺みたいになるよ」と説得されて心がポキッ。 バーリー男爵に協力します。1573年解放。 &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(重臣).jpg,【共通】共通の画)この時バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]は[[秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_(England)]]、[[フランシス・ウォルシンガム>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Walsingham]]は[[在仏イングランド大使>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_ambassadors_of_the_Kingdom_of_England_to_France]] 1571年8月29日[[シュルーズベリー生地商会>https://en.wikipedia.org/wiki/Shrewsbury_Drapers_Company]]Thomas Browneはノーフォーク公の秘書から「銀貨の袋」の運搬を頼まれます。 銀貨の割に重いし、ノーフォーク公ってアレコレ疑われてるよね…不審に思って中身をチェック。 袋の中から「フランス大使から元・女王メアリーへの£600」「暗号で書かれた手紙」を発見。バーリー男爵に通報します。 バーリー男爵はノーフォーク公の秘書を尋問。手紙の一部を解読してノーフォーク公の邸宅を家宅捜査します。 邸宅で「暗号の解読方法」「暗号で書かれた元・女王メアリーからの手紙」を発見。 ノーフォーク公は「お金は個人的な目的で元・女王メアリーは無関係」と主張。でも解読された手紙が関係を証明してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「ノーフォーク公トマス・ハワードを処刑ぢゃ!」}} 1571年9月7日女王エリザベス1世はノーフォーク公をロンドン塔へ収監します。 ノーフォーク公は「元・女王メアリーへの送金」「スコットランドの元・女王メアリー支持者との通信」をしぶしぶ是認。 1572年1月[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で有罪。6月2日[[タワー・ヒル>https://en.wikipedia.org/wiki/Tower_Hill]](ロンドン塔)で打ち首になります。 「[[ノーフォーク公爵>https://en.wikipedia.org/wiki/Duke_of_Norfolk]]」の爵位も土地も剥奪。残された家族はその後母方の[[アランデル伯>https://en.wikipedia.org/wiki/Earl_of_Arundel]]を名乗ることになります。 ちなみに1571年息子アランデル伯[[フィリップ・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Howard,_20th_Earl_of_Arundel]]と[[アン・デイカー・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Anne_Dacre,_Countess_of_Arundel]]が結婚。 [[ハワード家>https://en.wikipedia.org/wiki/Howard_family]]の復興は1660年ノーフォーク公[[トマス・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Howard,_5th_Duke_of_Norfolk]](アランデル伯のひ孫)までお待ち下さい。 &ref(年表_脱メアリー!(廃位:小箱の手紙).jpg)元・女王メアリーの「小箱の手紙」と指輪([[Lennoxlove House>http://en.wikipedia.org/wiki/Lennoxlove_House]]) 元・女王メアリーは「リドルフィは知ってるけど私は無関係ですわ」と無罪を主張します。 ってことで、女王エリザベスは「小箱の手紙」を公開。 元・女王メアリーの評判を落とします。そして二度と「元・女王メアリーの王座復活」を話題にしなくなったんだって。 } #endregion #region(close,バーリー男爵と秘書官長ウォルシンガム「こーなったら徹底的にやるしかねー!」(スロックモートン事件)(女王安全保障の契約)) [[スロックモートン事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Throckmorton_Plot]]は1583年「女王エリザベス1世を暗殺して元・女王メアリーがイングランド女王に即位」の陰謀です。 ・ギーズ公[[アンリ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_I,_Duke_of_Guise]](1587–1589年:[[三アンリの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/War_of_the_Three_Henrys]]の1人)が軍を率いてイングランドへ侵攻するぜ! ・イングランドでカトリック教徒が反乱起こして女王エリザベス1世を暗殺するぜ! ・元・女王メアリーがイングランド女王に即位するぜ! 主な共謀者は[[フランシス・スロックモートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Throckmorton]]と兄弟トマス・〃。2人は女王の女官[[エリザベス・スロックモートン>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Raleigh]]の従兄弟。 ローマ教皇[[グレゴリウス13世>https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Gregory_XIII]]と王フェリペ2世もノリノリです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Throckmorton_Plot]] &ref(【共通の画】イングランド_女王エリザベス1世(重臣).jpg,【共通】共通の画)[[William Faithorne>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Faithorne]]画「Queen Elizabeth I; Sir Francis Walsingham; William Cecil, 1st Baron Burghley」(1655年:イングランド) #blockquote(){&u(){&bold(){秘書官長ウォルシンガム「なんかスロックモートン兄弟が怪しいぜ!」(スロックモートン事件)}} [[大陸を旅行>https://en.wikipedia.org/wiki/Grand_Tour]]するスロックモートン兄弟は「イングランドを追放されたカトリック教徒の窮境」を見て同情しちゃいます。 パリで[[トマス・モーガン>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Morgan_(of_Llantarnam)]](元・女王メアリーの腹心)が「仲間になってちょ♥」とスカウト。 モーガンはスロックモートン兄弟に駐英スペイン大使[[Bernardino de Mendoza>https://en.wikipedia.org/wiki/Bernardino_de_Mendoza]](王フェリペ2世の間諜)を紹介します。 1583年ロンドンに戻ったスロックモートン兄弟は元・女王メアリーと駐英スペイン大使のメッセンジャーになります。 秘書官長フランシス・ウォルシンガムはスロックモートン兄弟を監視。 6ヵ月後に逮捕。駐英スペイン大使への手紙「スペインの侵攻を支持するカトリック教徒の貴族たちのリスト」をゲトします。 &ref(年表_イングランドへ亡命(スロックモートン事件).jpg)駐英スペイン大使Bernardino de Mendozaの追放(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) 女王エリザベス1世は1584年1月駐英スペイン大使を追放します。[[エリザベス朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabethan_era]]の駐英スペイン大使はこれ以降不在。 これも[[英西戦争>https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_(1585%E2%80%931604)]](1585–1604年)の前兆なのかしら? 7月フランシス・スロックモートンは[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で処刑。兄弟トマス・スロックモートンはなんとか海外へ逃亡します。 ちなみに王フェリペ2世と駐英スペイン大使は「2人だけに分かる[[暗号>https://en.wikipedia.org/wiki/Code_(cryptography)]]」を使って手紙のやりとりしてました。 数年前に考案したんだって。 陰謀は失敗しちゃったけど2人には有意義だったそーです。追放された駐英スペイン大使は駐仏スペイン大使に就任。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Bernardino_de_Mendoza]] } #blockquote(){&u(){&bold(){秘書官長ウォルシンガム「なんか他にもアレコレあるぜ!」}} 他にも[[J. Somerville>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Somerville_(conspirator)]](1583年)、[[W. Parry>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Parry_(spy)]](1584年)、…の個人的な「女王エリザベス1世を暗殺」もアレコレあります。 J. Somervilleは精神的なご病気。 W. Parryはカトリック教徒に潜入した間諜。「潜入先で取り込まれた?」「借金返済のための自作自演?」だそーです。 &ref(年表_イングランドへ亡命(スロックモートン事件:アレコレ).jpg)パリー事件(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) } #blockquote(){&u(){&bold(){バーリー男爵と秘書官長ウォルシンガム「こーなったら徹底的にやるしかねー!」(女王安全保障の契約)}} スロックモートン事件の後元・女王メアリーは[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]でキビシイ監視下に置かれます。 でも元凶がいる限り…こーなったら徹底的にやるしかねー! ってことで、1584年バーリー男爵と秘書官長フランシス・ウォルシンガムは「[[女王安全保障の契約>http://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]」の契約書を作ります。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]] &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリー(処刑).jpg,【共通】共通の画)[[Abel de Pujol>https://en.wikipedia.org/wiki/Abel_de_Pujol]]画「La mort de Marie Stuart, 1587」(19世紀:フランス) 「女王安全保障の契約」は「こーゆー計画書に署名してるヤツは&bold(){エライ人もエラくない人も無条件に処刑}だからね!」です。 なんと元・女王メアリーも契約書に署名。 この流れで1585年[[イングランド議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]が「[[Safety of the Queen, etc. Act 1584:女王安全保障法>https://en.wikipedia.org/wiki/Safety_of_the_Queen,_etc._Act_1584]]」を可決してます。 ・王様になる計画をした。 ・計画が成功して王様になれた。 ・女王エリザベス1世の暗殺を計画をした。 ・計画が成功して女王エリザベス1世を暗殺した。 腐ってもスコットランド女王だった元・女王メアリーだって証拠があれば簡単に処罰できちゃいます。 そして[[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]]で証拠ゲト。 女王エリザベス1世が「元・女王メアリーの死刑執行令状」に署名して1587年2月8日元・女王メアリーは処刑されます。 } #endregion #region(close,バーリー男爵と秘書官長ウォルシンガム「元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥」(バビントン事件)) [[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]]は1586年「女王エリザベス1世を暗殺して元・女王メアリーがイングランド女王に即位」の陰謀です。 ・スペインとフランスが軍を率いてイングランドへ侵攻するぜ! ・女王エリザベス1世を暗殺するぜ! ・元・女王メアリーがイングランド女王に即位するぜ! なんかもうワンパターンね…。主な共謀者は文通相手[[アンソニー・バビントン>https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Babington]]と首謀者[[ジョン・バラード>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Ballard]]。 王フェリペ2世と[[カトリック同盟(フランス)>https://en.wikipedia.org/wiki/Catholic_League_(French)]]もノリノリです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]] &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件).jpg)元・女王メアリーが収監されてる[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]] この陰謀もやっぱり秘書官長フランシス・ウォルシンガムが発見しちゃいます。でも今回は元・女王メアリーに罠を張ったの。 だって「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]」があるもーん♥ 元・女王メアリーが「女王エリザベス1世の暗殺に同意」しちゃえばこっちのもんです。うはははは! #blockquote(){&u(){&bold(){秘書官長フランシス・ウォルシンガムのうはははは!な罠}} 秘書官長ウォルシンガムはチャートリー城に収監されてる元・女王メアリーに監視人[[アミアス・ポーレット>https://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]]を付けます。 ついでに二重間諜[[ギルバート・ギフォード>https://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_Gifford]]と暗号解読者[[トマス・フェリペス>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Phelippes]]も潜入。 ビア樽通信網で配達される手紙をチェックして「元・女王メアリーを処刑する証拠♥」を待ちます。うはははは! ・駐英フランス大使ギヨームが[[外交用郵袋>https://en.wikipedia.org/wiki/Diplomatic_bag]]で手紙を受け取って二重間諜ギフォードへ渡す。 ・二重間諜ギフォードが暗号解読者フェリペスへ手紙を渡す。暗号解読者フェリペスが手紙を解読。解読した手紙のコピーは秘書官長ウォルシンガムへ、本物の手紙は封を戻して二重間諜ギフォードへ返す。 ・二重間諜ギフォードが地元のビール醸造者へ手紙を渡す。ビール醸造者が防水ケースに入れた手紙を[[ビア樽>https://en.wikipedia.org/wiki/Barrel]]の[[栓>https://en.wikipedia.org/wiki/Bung]]に隠してチャートリー城へ運ぶ。元・女王メアリーが手紙をゲトする。 元・女王メアリーと文通相手[[アンソニー・バビントン>https://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Babington]]の「暗号で書かれた手紙」はこんな感じで配達されます。 ちなみにビア樽通信網を準備したのは二重間諜ギフォード。 応援団[[ロバート・ポウリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Poley]]は陰謀グループに潜入して文通相手バビントンが証拠ゲトの前に逃げ出さないよう励まします。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:罠).png) #region(close,うはははは!な罠の登場人物) #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリー(チャートリー城)}} [[タトベリ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Tutbury_Castle]](窓のないジメジメした寒い部屋)で病気になった元・女王メアリーは[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]へ移動します。 外部との通信はぜーんぶ禁止。 秘書官長ウォルシンガムが信頼する監視人[[アミアス・ポーレット>https://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]]が元・女王メアリーをビシバシ監視します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){首謀者トマス・モーガンとジョン・バラード(元・女王メアリーの支持者)}} [[トマス・モーガン>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Morgan_%28of_Llantarnam%29]](スロックモートン事件にも登場)は熱烈なカトリック教徒です。 元・女王メアリーの監視人[[シュルズベリー伯>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]]の秘書だったとき元・女王メアリーの腹心になったっぽい。 1569-1572年元・女王メアリーのメッセンジャーとしてご奉仕しました。 &italic(){&color(silver){There be many means in hand to remove the beast that troubles the world.(Thomas Morgan to Gilbert Curle, referring to Elizabeth I)}} &italic(){&color(silver){この世を悩ます悪魔(=女王エリザベス1世)を除去する手段は数々ある。(元・女王メアリーの暗号担当秘書G. Curleへの言葉)}} こんな思考の首謀者モーガンはナニカ([[The Parry Plot>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Parry_(spy)]]?)で逮捕されちゃって解放後フランスへ亡命します。 フランスで打倒女王エリザベス1世!をアレコレ画策。 [[ジョン・バラード>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Ballard]]は[[イエズス会>https://en.wikipedia.org/wiki/Society_of_Jesus]]の司祭です。1581年宣教師として[[カトリック神学校>https://en.wikipedia.org/wiki/English_College,_Douai]]([[ランス>https://en.wikipedia.org/wiki/Reims]])から帰国。 宮廷兵士Captain Fortescueに変装して各地で宣教しながら元・女王メアリー支持者を扇動。 同行者の1人はBarnard Maude(秘書官長ウォルシンガムの潜入員)。バビントン事件は最初からバレバレです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){二重間諜ギルバート・ギフォード(秘書官長ウォルシンガムの部下)}} [[ギルバート・ギフォード>http://en.wikipedia.org/wiki/Gilbert_Gifford]]は[[カトリック神学校>http://en.wikipedia.org/wiki/English_College,_Douai]](ドゥエー)の助祭です。秘書官長ウォルシンガムが潜入させた? 1585年10月パリで首謀者モーガンが「仲間になってちょ♥」とスカウト。 12月元・女王メアリーのメッセンジャーとして[[ライ港>https://en.wikipedia.org/wiki/Rye,_East_Sussex]](イングランド)へ戻ります。 でもライ港で秘書官長ウォルシンガムにサクッと捕まっちゃいます。尋問中に[[二重間諜>https://en.wikipedia.org/wiki/Double_agent]]として働くことに同意。 コード名はNo.4。他にColerdin、Pietro、Cornelys、…のお名前も使用。 ビア樽通信網を作って元・女王メアリーと文通相手バビントンの手紙を秘書官長ウォルシンガムに渡します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){暗号解読者トマス・フェリペス(秘書官長ウォルシンガムの部下)}} [[トマス・フェリペス>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Phelippes]]は暗号と偽造の専門家です。詳細は分かりませんでした。 } #blockquote(){&u(){&bold(){駐英フランス大使ギヨーム・ド・ローベスピーヌ}} [[駐英フランス大使>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Ambassadors_of_France_to_England]][[ギヨーム・ド・ローベスピーヌ>https://fr.wikipedia.org/wiki/Guillaume_de_L%27Aubespine]]の詳細は分かりませんでした。 二重間諜ギフォードから「暗号の解読表(秘書官長ウォルシンガムが準備)」を見せられてビア樽通信に参加。 外交官特権の[[外交用郵袋>https://en.wikipedia.org/wiki/Diplomatic_bag]]を使って手紙を配達します。 } #blockquote(){&u(){&bold(){文通相手アンソニー・バビントン(元・女王メアリーの支持者)}} [[アンソニー・バビントン>http://en.wikipedia.org/wiki/Anthony_Babington]]はカトリック教徒の貴族です。[[バビントン家>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_family]]のモットーは「foy est tout:信仰は全て」。 元・女王メアリーの監視人[[シュルズベリー伯>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]]の[[小姓>https://en.wikipedia.org/wiki/Page_(servant)]]だったとき元・女王メアリーの支持者になったっぽい。 1580年頃大陸を旅行中に首謀者モーガンが「仲間になってちょ♥」とスカウトします。 その後首謀者バラードが「元・女王メアリーのメッセンジャーになってちょ♥」とリクルートします。 首謀者バラードは「準備万端(二重間諜ギフォードのニセ情報)」で自信マンマン。 ってことで、文通相手バビントンと元・女王メアリーのビア樽通信が始まります。あとは処刑の証拠を待つだけ♥ } #blockquote(){&u(){&bold(){応援団ロバート・ポウリー(秘書官長ウォルシンガムの部下)}} [[ロバート・ポウリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Poley]]は1580年代前半から多額のお金を使ってます。秘書官長ウォルシンガムの間諜になった? 1585年フランスへ行って首謀者モーガンの信頼をゲト。 帰国すると首謀者モーガンの間諜を装って秘書官長ウォルシンガム邸の使用人になります。 1586年6月秘書官長ウォルシンガムから「文通相手バビントンに近づいてフランス亡命を阻止しろ」と頼まれます。 文通相手バビントンがビア樽通信にビビリ始めて渡航許可証を申請したの。 ってことで、申請を手伝う親切な仲間を装って「へーきへーき!ビア樽通信を続けようよ!」と励まします。 } #endregion } #blockquote(){&u(){&bold(){あとは処刑の証拠を待つだけ♥ 文通相手バビントンと元・女王メアリーのビア樽通信}} 二重間諜ギフォードは駐英フランス大使ギヨームに元・女王メアリーへの「最初の手紙」を書いて貰います。 ビア樽通信がスタート! 1586年6月28日首謀者モーガンからの手紙に励まされた元・女王メアリーは文通相手バビントンに手紙を送ります。 7月7日文通相手バビントンは元・女王メアリーに「陰謀の詳細計画」の手紙を送ります。 秘書官長ウォルシンガムが手紙をチェックして7月14日元・女王メアリーに到着。 このとき元・女王メアリーは息子[[王ジェームズ6世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]の裏切りでドヨドヨ気分だそーです(1586年7月6日:[[ベリック条約>https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Berwick_%281586%29]])。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:ビア樽通信).jpg)postscript to a letter by Mary Queen of Scots to Anthony Babington |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ウォルシンガムにバレバレのビア樽通信| |BGCOLOR(lightgrey):?&br()駐英フランス大使ギヨーム→元・女王メアリー|&bold(){「最初の手紙」}| |BGCOLOR(lightgrey):1586年6月28日&br()元・女王メアリー→文通相手バビントン|&bold(){「(手紙の内容は分かりませんでした)」}&br()・ビア樽通信は元・女王メアリーから始めるルール| |BGCOLOR(lightgrey):1586年7月7日&br()文通相手バビントン→元・女王メアリー|&bold(){「我々は女王エリザベス1世を暗殺して貴女を女王にする計画してます。」}&br()・7月14日元・女王メアリーに到着| |BGCOLOR(lightgrey):1586年7月17日&br()元・女王メアリー→文通相手バビントン|&bold(){「素晴らしい計画ですわ。外国の助けもあったら成功間違いなしです。}&br()&space(2)&bold(){追伸:仲間のお名前を教えてくださらない?」}&br()・元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥&br()・暗号解読者フェリッペスが追伸を追加したニセモノ手紙を作成| 7月17日元・女王メアリーは文通相手バビントンに「女王エリザベス1世は暗殺しないといけませんわ」の手紙を送ります。 元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥ 秘書官長ウォルシンガムは証拠のオリジナル手紙を保存。ニセモノ手紙に追伸「仲間は誰ですの?」を追加します。 ニセモノ手紙を受け取った文通相手バビントンは元・女王メアリーに仲間の名前を教えるか悩みます。ふえー!もうムリ! ってことで、逃亡を決意してスペイン渡航許可を申請。 秘書官長ウォルシンガムは「コイツはもう使えない」と判断。文通相手バビントンたちを逮捕して陰謀を潰します。 #region(close,「暗号で書かれた手紙」) こちらはバビントン事件の「暗号で書かれた手紙」。たぶん7月17日のニセモノ手紙だと思います。 解読するとこんな感じなんだって。 &italic(){&color(silver){I w be glad to know the names and quelityes of the sixe gentlemen which are to accomplish the dessignement, for that it may be I shall be able uppon knowledge of the parties to give you some further advise necessarye to be followed therein…… as also from time to time particularlye how you proceede and as son as you may for the same purpose who bee alredye and how farr every one privye hereunto.}} 詳細は[[The National Archives>http://www.nationalarchives.gov.uk/]]([[Codes and Ciphers:The Babington Plot>http://www.nationalarchives.gov.uk/spies/ciphers/mary/ma2.htm]])さんをどうぞ。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:ビア樽通信).jpg)postscript to a letter by Mary Queen of Scots to Anthony Babington #blockquote(){&u(){&bold(){バビントン事件で使った暗号}} バビントン事件で使った暗号は[[換字式暗号>https://en.wikipedia.org/wiki/Substitution_cipher]]の1つノーメンクラタ(Nomenclator)です。 お名前や単語を「記号」に置き換えるの。 ノーメンクラタは15-18世紀スパイ活動や外交文書でご利用。16世紀中頃から政府が暗号解読機関を組織してます。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:ビア樽通信_暗号).jpg)暗号解読表([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]]) 16世紀はロウソクで炙ると「牛乳やレモンジュースで書いた見えない文字」が現れる[[あぶり出し>https://en.wikipedia.org/wiki/Invisible_ink]]も人気です。 匂いでバレないようにインクで書かれた手紙に追加するのがポイント。 私たちもミカンの絞り汁で遊びましたよね。詳細は[[BBC>http://www.bbc.com/]](Elizabeth's Spy Network)さんをどうぞ。 } #endregion } #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーを処刑する証拠が揃った♥ 文通相手バビントンたちの処刑}} 8月4日秘書官長ウォルシンガムは首謀者バラードを逮捕。拷問で文通相手バビントンの関与を吐かせます。 陰謀グループを8月15日までに全員逮捕。 首謀者バラードと文通相手バビントンは[[大逆罪>https://en.wikipedia.org/wiki/High_treason]]で有罪。9月20日[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑>https://en.wikipedia.org/wiki/Hanged,_drawn_and_quartered]]で処刑されます。 &ref(年表_イングランドへ亡命(バビントン事件:処刑).jpg)文通相手バビントンと仲間たち(1630年:[[George Carleton>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Carleton_(bishop)]]著「A thankfull remembrance of Gods mercie」) 元・女王メアリーの2人の秘書[[C. Nau>https://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Nau]]とGilbert Curle(「暗号で書かれた手紙」の解読を担当)も事情聴取されます。 圧力に負けて「手紙は元・女王メアリーの正直な気持ちです」と認めちゃったの。 陰謀の関与で裁判を受けることになった元・女王メアリーは9月25日[[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]に移動されます。ビセンテ…。 } #blockquote(){&u(){&bold(){えっ!?応援団ポウリーも逮捕されちゃったの?}} 応援団[[ポウリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Poley]]は陰謀グループに潜入して文通相手バビントンが証拠ゲトの前に逃げ出さないよう励ましてました。 文通相手バビントンに尽くしまくって秘書官長ウォルシンガムに逐一報告。 陰謀グループの中には疑う人もいたけど文通相手バビントンは盲目的に応援団ポウリーを信頼します。 なんやかんやで文通相手バビントンは逮捕されました。8月18日応援団ポウリーも逮捕されてロンドン塔へ収監。えっ!? こちらは文通相手バビントンが応援団ポウリーに送った最後の手紙。 最後まで「もしかして応援団ポウリーは僕を裏切った…の?」と疑ってしまう自分を受け入れられなかったそーです。 Farewell sweet Robyn, if as I take thee, true to me. If not adieu, omnius bipedum nequissimus. さようなら愛しのロビン、僕は尽くしてくれた君を道連れにしてしまうのかもしれない。でもこれでお別れとは思いたくない…ああ、人はなんて残酷な生き物だろう。(訳は超テキトー) 手紙には「ダイヤの指輪を返して」のお願いも書いてます。文通相手バビントンは応援団ポウリーを愛してたっぽい。 カトリック教会は[[男色禁止>https://en.wikipedia.org/wiki/Homosexuality_and_Roman_Catholicism]]。 「指輪を持っていたら愛しのロビンが地獄に落ちてしまう」と心配したのかしら?なんか可哀想になってきた。 &ref(【共通の画】イングランド_クリストファー・マーロウ殺人事件.jpg,【共通】共通の画)Angus McBride画「The killing of the poet, Christopher Marlowe」 逮捕された応援団ポウリーは裏切りの駆け引きに満足しつつも決して陰謀グループたちをバカにしなかったそーです。 ロンドン塔に収監されてる間も秘書官長ウォルシンガムとの連絡は継続。 安全のためにしばらく身を隠せってコトかしら?1588年後半にロンドン塔から解放されます。 解放後も秘書官長ウォルシンガム→秘書官長バーリー男爵→秘書官長[[ロバート・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_1st_Earl_of_Salisbury]]の下で間諜を続けます。 1593年5月30日[[クリストファー・マーロウ>https://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Marlowe]]の死にも関わってるかも? 最後の記録は出張旅費精算書「1601年9月5日パリ出張£10」。支払ったのは秘書官長ロバート・セシルです。 } #endregion #region(close,女王エリザベス1世「元・女王メアリーを処刑ぢゃ!」(残酷な画があるのでご注意下さい)) 元・女王メアリーは秘書官長フランシス・ウォルシンガムが張った罠「ビア樽通信([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]])」で逮捕されちゃいます。 [[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]で「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]を犯した反逆罪」の裁判。 「7月17日のニセモノ手紙(ビア樽通信)」の証拠をババーンと出されて有罪。1587年2月8日打ち首になります。享年44。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑).jpg)元・女王メアリーが収監されてるフォザリンゲイ城 |BGCOLOR(lightgrey):1585年|BGCOLOR(lightgrey):クリスマス前|元・女王メアリーを[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]に移動(監視人:[[アミアス・ポーレット>https://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]])| |BGCOLOR(lightgrey):1586年|BGCOLOR(lightgrey):|&bold(){バビントン事件}| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月11日|元・女王メアリーを逮捕。[[ティクソール門楼>https://en.wikipedia.org/wiki/Tixall_Gatehouse]]に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):2週間後|元・女王メアリーをチャートリー城に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月25日|元・女王メアリーを[[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]に移動(監視人:アミアス・ポーレット)| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月14日|元・女王メアリーを裁判| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月25日|元・女王メアリーを「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]を犯した反逆罪」で有罪| |BGCOLOR(lightgrey):1587年|BGCOLOR(lightgrey):2月1日|女王エリザベス1世が「元・女王メアリーの死刑執行令状」に署名| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月3日|枢密院が「元・女王メアリーの死刑執行書」を手配| |~|BGCOLOR(lightgrey):2月8日|&bold(){元・女王メアリーを処刑}| #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーの裁判}} 1586年8月11日乗馬に出かけた元・女王メアリーは突然兵士に囲まれて逮捕。[[ティクソール門楼>https://en.wikipedia.org/wiki/Tixall_Gatehouse]]へ移動させられます。 容疑は「女王エリザベス1世の暗殺に同意した([[バビントン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Babington_Plot]])」。 元・女王メアリーがお留守の間に[[チャートリー城>https://en.wikipedia.org/wiki/Chartley_Castle]]に残った主要な使用人も逮捕。書類も押収しちゃいます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Tixall_Gatehouse]] 秘書官長フランシス・ウォルシンガムは監視人ポーレットへ「そのままティクソール門楼に収監せよ」と手紙を送りました。 でも手紙が到着する前にチャートリー城に戻っちゃったの。 ティクソール門楼を出発するとき元・女王メアリーは門にたむろす貧しい人々に涙を流しながらこう言ったそうです。 &italic(){&color(silver){I have nothing for you, I am a beggar as well as you, all is taken from me.}} &italic(){&color(silver){私には施せるモノが何もありません。全てを奪われた私は皆さんと同じなのです(訳は超テキトー)。}} &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:裁判).jpg)[[Robert Beale>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Beale_(diplomat)]]画「The Trial of Mary Queen Scots」 元・女王メアリーは[[フォザリンゲイ城>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]]へ移動。10月14日「[[女王安全保障の契約>https://en.wikipedia.org/wiki/Bond_of_Association]]を犯した反逆罪」の裁判を受けます。 証拠を全否定して参審員(36人の貴族)に力説。 &italic(){&color(silver){Look to your consciences and remember that the theatre of the whole world is wider than the kingdom of England.}} &italic(){&color(silver){貴殿の良心(=神に選ばれた女王が弁護士も付けられず外国で裁かれるコト)に問いかけて下さい。そして全世界(=カトリック教会の国々)がイングランド王国より強大であることを思い出して下さい(訳は超テキトー)。}} でも力説も空しく10月25日反逆罪で有罪。反対したのはゾウチ男爵[[Edward la Zouche>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_la_Zouche,_11th_Baron_Zouche]]だけです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「元・女王メアリーの死刑執行令状に署名するぢゃ!」}} 女王エリザベス1世は元・女王メアリーの処刑を躊躇します。 [[イングランド議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]が「陛下、どーか死刑執行令状に署名して下さい」とお願いしても首を縦に振らないの。 躊躇の理由は ・「女王(=元・女王メアリー)を殺した」という不名誉な先例で自分の評判を落としたくない。 ・スコットランド王ジェームズ6世(元・女王メアリーの息子)がカトリック教会の国々と同盟を結んでイングランドに報復するかもしれない。 ・またイングランドでカトリック反乱が起こるかもしれない。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:死刑執行令状).jpg)死刑執行令状 板挟みの女王エリザベス1世は元・女王メアリーの監視人[[アミアス・ポーレット>http://en.wikipedia.org/wiki/Amias_Paulet]]にさりげなく暗殺をお願いしたりしてます。 女王エリザベス1世「ふぅ…彼女の命が縮まないかなぁぢゃ」 監視人ポーレット「陛下、断固拒否いたします」 んが、1587年2月1日とつぜん「元・女王メアリーの死刑執行令状」に署名。なにがあったんでしょね? 2月3日バーリー男爵[[ウィリアム・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Cecil,_1st_Baron_Burghley]]は[[枢密院>https://en.wikipedia.org/wiki/Privy_Council_of_England]]を召集。大急ぎで「元・女王メアリーの死刑執行書」を手配します。 女王エリザベス1世のあずかり知らぬところでコッソリ手配。 何年もコツコツ頑張ってきたのに「やっぱヤメぢゃ!」なんて言われたらたヤバイと思っちゃったんでしょか? } #blockquote(){&u(){&bold(){処刑が決まった元・女王メアリーの最後の手紙}} 2月7日夕食を取り終えた元・女王メアリーにとつぜん「明日の朝貴女の死刑が執行されます」のお知らせが届きます。 元・女王メアリーは残された時間を祈りに捧げます。 そして使用人たちに想い出の品を分け与えて義弟フランス王[[アンリ3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_France]]にこちらの手紙を書きます(訳はかなり省略)。 ~[[English History>https://englishhistory.net/]]([[Mary Queen Of Scots Last Letter>http://englishhistory.net/tudor/maryqos-letter.html]])さんより~ &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:最後の手紙).jpg)義弟フランス王アンリ3世への手紙(3/3枚目) 最も尊敬すべき王、私の弟、懐かしい味方へ(訳はテキトー)   朝8時、私は罪人のように処刑されます。 私は無実です。全ての真実は主治医と使用人たちから貴方に伝わることでしょう。 カトリック信仰と神が与えたイングランド女王の権利により、私は有罪となりました。 カトリック信仰の殉教者として死ぬのだと述べる機会も与えられません。 彼らは恐れているのです。 その証拠に、彼らは司祭を連れ去りました。私は告解も終油も受けることを許されません。   どうか私の不運な使用人たちに支払われるべき賃金をお与えくださいますように。 (この心苦い願いは貴方だけが叶えられるのです。) もはや私が守れぬ息子が貴方への恩義に報いる限り、どうかお力添えくださいますように。 勝手ながら、貴方が健康で幸せな人生を遅れるよう願いを込めて宝石を送ります。 願わくば私の使用人たちが貴方の元で働けますように。   水曜日 朝2時 貴方の最も優しい姉メアリーR ←RはRegina(ラテン語:女王) 手紙は主治医によって王アンリ3世へ届けられました。でも王アンリ3世は元・女王メアリーの心苦くも切実な願いをスルー。 願いを叶えたのはスペイン王フェリペ2世。 駐仏スペイン大使[[Bernardino de Mendoza>https://en.wikipedia.org/wiki/Bernardino_de_Mendoza]]([[スロックモートン事件>https://en.wikipedia.org/wiki/Throckmorton_Plot]]で追放された人)を経由して手紙が届いたそうです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーの処刑}} 2月8日元・女王メアリーはコートの下に栗色のヴェルベット製[[ペティコート>https://en.wikipedia.org/wiki/Petticoat]]、黒色のサテン製[[ボディス>https://en.wikipedia.org/wiki/Bodice]]を身に纏います。 カトリックにとって栗色([[crimson-brown>http://en.wikipedia.org/wiki/Maroon_%28color%29]])は殉教者の苦痛を表す色。 きっと女王エリザベス1世に対する無言の抗議ね。そして処刑台が準備されたフォザリンゲイ城の[[大ホール>https://en.wikipedia.org/wiki/Great_hall]]へ向かいます。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:処刑).jpg)Laslett John Pott画「Mary, Queen of Scots, Being Led to Her Execution」(19世紀) 黒布で覆われた高さ2フィートの処刑台には打ち首ブロックと跪くためのクッション、3つの腰掛けが置かれてます。 腰掛けの2つは処刑立会人シュルズベリー伯[[G. Talbot>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Talbot,_6th_Earl_of_Shrewsbury]]とケント伯[[H. Grey>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Grey,_6th_Earl_of_Kent]]。 処刑執行人Bullが元・女王メアリーの前に跪いて「処刑の容赦」を請うと元・女王メアリーが答えます。 I forgive you with all my heart, for now, I hope, you shall make an end of all my troubles. 心より赦しましょう。あなたは私の全ての苦しみを終わりにするのですから。 &ref(【共通の画】スコットランド_女王メアリー(処刑).jpg,【共通】共通の画)[[Abel de Pujol>https://en.wikipedia.org/wiki/Abel_de_Pujol]]画「La mort de Marie Stuart, 1587」(19世紀:フランス) 元・女王メアリーはコートを脱がせる侍女[[J. Kennedy>https://en.wikipedia.org/wiki/Jane_Kennedy_(courtier)]]とElizabethに微笑みながら冗談を言って励まします。 J. Kennedyが元・女王メアリーの目を金糸で刺繍された白いベールで覆います。 クッションに跪き打ち首ブロックに頭を置いた元・女王メアリーは両腕を差し出して最後の言葉を言います。 In manus tuas, Domine, commendo spiritum meum. 主よ、汝の手に私の魂をゆだねます。 最後の言葉は聖書の中にある磔になったイエス・キリストの言葉です。 &italic(){&color(silver){et clamans voce magna Iesus ait Pater in manus tuas commendo spiritum meum et haec dicens exspiravit}} &italic(){&color(silver){イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。 ~ルカによる福音書23章46節~}} F&B時代のカトリック教会の公式聖書は[[ヴルガータ聖書>http://en.wikipedia.org/wiki/Vulgate]]だから元・女王メアリーが残した最後の言葉もラテン語です。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑:処刑3).jpg)[[Adam Blackwood>https://en.wikipedia.org/wiki/Adam_Blackwood]]著「La Mort de La Royne D'Ecosse - The execution of Mary at Fotheringhay Castle on 8 February 1587」(1589年:フランス) 斧は2度振り下ろされました(1度目は失敗しちゃったっぽい)。 処刑執行人Bullは息絶えた元・女王メアリーの首を高く掲げて「[[God save the Queen:神よ女王を護り賜え>https://en.wikipedia.org/wiki/God_Save_the_Queen]]」と宣言。 このとき頭から赤褐色の髪が地面に落ちて短かく切った白髪交じりの地毛が現れたそうです。 } #endregion #region(close,処刑の後始末) 処刑の道具、お洋服、…元・女王メアリーが触れたモノは全てフォザリンゲイ城の大ホールにある暖炉で焼却されたっぽいです。 フォザリンゲイ城も放棄されてどんどん荒廃。 たぶんカトリック教徒の崇拝を恐れたんだと思います。また陰謀する気になったらヤバイもんね。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary,_Queen_of_Scots]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑).jpg)元・女王メアリーが処刑されたフォザリンゲイ城 #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世「私に一切の責任はございませんぢゃ!」}} 処刑の報告を受けた女王エリザベス1世は「枢密院が勝手に処刑したのぢゃ!(私に一切の責任はナシ)」と激怒します。 このとばっちりを受けたのが[[副秘書官長>https://en.wikipedia.org/wiki/Secretary_of_State_(England)]][[W. Davison>http://en.wikipedia.org/wiki/William_Davison_%28diplomat%29]]。 女王は「W. Davisonに『署名した死刑執行令状を手放すな』と注意したぢゃ(私に一切の責任はナシ)」と保身全開です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Davison_%28diplomat%29]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:W. Davison).jpg)Bill Nye著「History of England - Queen Elizabeth signing the Death-Warrant of Mary Queen of Scots, 1587」(1896年) W. Davisonはロンドン塔に収監されちゃいます。えっ!? [[星室庁>https://en.wikipedia.org/wiki/Star_Chamber]]の判決は「[[職務怠慢(Positive misprision)>https://en.wikipedia.org/wiki/Misprision]]で有罪。罰金10,000マルクと女王エリザベス1世が満足するまで投獄」。 とりあえず一切反論しなかったから殺されずに済んだって感じです。 1588年9月バーリー男爵ウィリアム・セシルと秘書官長フランシス・ウォルシンガムの働きでW. Davisonは解放されます。 でも女王エリザベス1世が再雇用を断固拒否。 勤勉で率直なW. Davisonは完全に女王エリザベス1世のスケープゴートになっちゃいました。 } #blockquote(){&u(){&bold(){元・女王メアリーの埋葬}} 元・女王メアリーの希望は「私をフランスへ埋葬して下さい」でした。女王エリザベス1世は希望を完全スルー。 内蔵はフォザリンゲイ城のどこかに密かに埋葬。 ご遺体は[[ピーターバラ大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Peterborough_Cathedral]]にプロテスタント式で埋葬します。1612年王ジェームズ1世が棺を[[ウェストミンスター寺院>https://en.wikipedia.org/wiki/Westminster_Abbey]]へ移葬。 &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:埋葬).jpg)エンバーミング(ツタンカーメンの[[カノプス壺>http://en.wikipedia.org/wiki/Canopic_jar]]) キリスト教は「[[最後の審判>https://en.wikipedia.org/wiki/Last_Judgment]]で[[復活>https://en.wikipedia.org/wiki/Resurrection_of_the_dead]]するとき体が必要」だから[[埋葬(土葬)>https://en.wikipedia.org/wiki/Burial]]です。[[エンバーミング>https://en.wikipedia.org/wiki/Embalming]]は埋葬の通常プロセス。 エンバーミングしないと棺が爆発しちゃうんだって。 ちなみに英国国教会は1944年から火葬もオケ。火葬1号はカンタベリー大主教[[W. Temple>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Temple_(bishop)]]です。 イングランド王[[リチャード1世>http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_I_of_England]]は棺を[[フォントヴロー修道院>https://en.wikipedia.org/wiki/Fontevraud_Abbey]]、心臓を[[ルーアン>https://en.wikipedia.org/wiki/Rouen]]、内蔵を[[シャルー>https://en.wikipedia.org/wiki/Ch%C3%A2lus]]に埋葬されました。 遺骸・内臓・心臓を分ける三分割埋葬というものだそうで。 だから元・女王メアリーのバラバラ埋葬も女王エリザベス1世の意地悪じゃなくて正式な埋葬だったんだと思います。 } #blockquote(){&u(){&bold(){フォザリンゲイ城の放棄}} 女王エリザベス1世がフォザリンゲイ城を元・女王メアリーの処刑場に選んだ理由はぜーんぜん分かりませんでした。 ちなみにフォザリンゲイ城は[[ヨーク朝>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_York]]の最後の王様[[王リチャード3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_III_of_England]]が生まれたお城。 リッチモンド伯[[ヘンリー・テューダー(王ヘンリー7世)>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VII_of_England]]が王リチャード3世を倒して[[テューダー朝>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Tudor]]が始まります。(1485年:薔薇戦争の1つ[[ボズワースの戦い>https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Bosworth_Field]]) [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Fotheringhay_Castle]] なんやかんやで「ヨーク家のフォザリンゲイ城」は王ヘンリー7世(女王エリザベス1世の祖父)が貰っちゃいました。 ってことで、女王エリザベス1世は自分のお城で元・女王メアリーを処刑したの。 貴族の皆さんだって自分のお城を元・女王メアリーの居住地に提供しても処刑場に使われるのはちょっとヤダ…ですよね。 ~[[PastScape>http://www.pastscape.org/]](FOTHERINGHAY CASTLE)さんより~ &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:フォザリンゲイ城).jpg)John Leech画「The Battle of Bosworth Field - A Scene from the Great Drama of History」(1847年頃) ウィリアム・シェイクスピア著「[[リチャード三世>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_III_(play)]]」(1592年頃)は王リチャード3世を「世を乱す悪者」として描きます。 こちらの画は正義の味方リッチモンド伯に殺されちゃうシーン。 T. Legge著「[[Richardus Tertius>https://en.wikipedia.org/wiki/Richardus_Tertius]]」(1580年)、著者不明「[[The True Tragedy of Richard III>https://en.wikipedia.org/wiki/The_True_Tragedy_of_Richard_III]]」(1590年頃)でも悪者です。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Cultural_depictions_of_Richard_III_of_England]] &ref(年表_イングランドへ亡命(処刑の後始末:フォザリンゲイ城2).jpg)フォザリンゲイ城(21世紀) 元・女王メアリーが処刑された後、フォザリンゲイ城は放棄されてどんどん荒廃しちゃいます。 1630年代には[[土塁>https://en.wikipedia.org/wiki/Earthworks_(archaeology)]]だけ残して完全に解体。 イングランド王[[ジェームズ1世>https://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]](元・女王メアリーの息子)が「母が殺された城を破壊せよ」と命じたなんて説もあります。 } #endregion **スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世に即位 晩年になっても女王エリザベス1世は相変わらず「次のイングランド王」を指名しません。でも死は確実に近づいてる。 強い王位継承権を持つのに指名されない王ジェームズ6世はハラハラ。 1603年[[ロバート・セシル>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Cecil,_1st_Earl_of_Salisbury]](女王エリザベス1世の重臣)の働きで円滑にイングランド王ジェームズ1世に即位できます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_I_of_England]] &ref(【共通の画】イングランド_同君連合の国旗.jpg,【共通】共通の画)同君連合の国旗 #include(【共通】イングランド王ジェームズ1世の即位) ---- ----

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