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#contents_line(level=2,sep=/) *ガレオン船ゴールデン・ハインド号 [[フランシス・ドレイク>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]](サーはまだ)は、1577年女王エリザベス1世から「マゼラン海峡経由で南米調査するのぢゃ」と任命されます。 ってわけで、ゴールデン・ハインド号(黄金の雌ジカ)で史上2番目の世界一周を達成。 元の名前は&bold(){ペリカン号}。改名は出資者[[クリストファー・ハットン卿>http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hatton]](女王と踊った羊ちゃん)の紋章にちなんだお名前です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Golden_Hind]] |&ref(ゴールデン・ハインド.PNG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:進水|1577年| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[排水量>http://en.wikipedia.org/wiki/Displacement_(ship)]]|300t| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:積載量|100~150t| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗組員|海軍士官:20名&br()水夫:40~60名&br()甲板員:10~12名| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:マスト|3檣| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:帆|横帆:5~6枚&br()縦帆:1枚&br()帆の総面積:386平方米| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:帆を張った時のスピード|15km/h(8ノット)&br()ママチャリの速さくらい| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:大砲|22門| 船の大きさは排水量…うーん、ちんぷんかんぷん。サイズで比べてみたらJALやANAの飛行機よりちっちゃかったです。 水夫は「俺たちは強いんだぜ」と効果を出すために背の高い人を採用。 現地の人に舐められないようにってこと?この時代の平均身長は165cm(5'4")。サー・フランシスは約170cm(5'6")だそうです。 #region(close,断面図) ゴールデン・ハインド号は設計図が残ってないので、皆さんビミョーに違います。 船長室と会議室が繋がってたり、ギャレーが中甲板にあったり…こちらは世の中にいっぱいある中の1つ。 &ref(ゴールデン・ハインド(断面).PNG) #endregion **ゴールデン・ハインド号の公開展示 1580年9月26日世界一周したゴールデン・ハインド号はプリマスに帰港します。生還した乗組員は56/80人。 女王エリザベス1世は船を[[デットフォード王立造船所>http://en.wikipedia.org/wiki/Deptford_Dockyard]](ロンドン)に移動。 F&B時代には珍しい公開展示で「イングランド女王の歴史的な意義」を世間にアピールします。残念ながら1660年朽ち果てて解体。 &ref(ゴールデン・ハインド_公開展示.PNG)デットフォード王立造船所(1581年) #region(close,ゴールデン・ハインド号は朽ち果てちゃったけど) 法曹院[[ミドル・テンプル>http://en.wikipedia.org/wiki/Middle_Temple]](ロンドン)の玄関にあるランタンは、ゴールデン・ハインド号の船尾楼で使ってたものと言われてます。 The roll of membersにあるテーブル「The cupboard」は昇降口の蓋。 [[ボドリアン図書館>http://en.wikipedia.org/wiki/Bodleian_Library]](オックスフォード)にも、どっかの木から作った椅子があります。 &ref(ゴールデン・ハインド_公開展示(遺産).PNG)ランタンはこれかなぁ? #endregion **フランシス・ドレイクのログブック 南米調査の1つは、出資者(Sponsorship)の情報によると「北緯32°~50°で大西洋と太平洋を結ぶ海峡を探す」だったようです。 航海の詳細な記録[[ログブック>http://en.wikipedia.org/wiki/Logbook]]はとーぜん国家最高機密!ロンドン塔に厳重保管されてナイショ。 ゴールデン・ハインド号の牧師[[フランシス・フレッチャー>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Fletcher_(clergyman)]]でさえ、[[カリフォルニア>http://en.wikipedia.org/wiki/California]]周辺の記録はお茶を濁してます。 &ref(ゴールデン・ハインド_ログブック.JPG)点検修理するゴールデン・ハインド号(カリフォルニア) ってわけで、21世紀になっても南米調査の航海は謎だらけ。えっ!ロンドン塔のログブックはどうなっちゃったの? **チャリンチャリンとナイト フランシス・ドレイクが女王エリザベス1世に献上した金銀財宝は£30万以上。当時のイングランド国庫歳入よりも多いです。 出資者への配当は4,700%。 なーんと!1万円が47万円になっちゃうんです。 &ref(ゴールデン・ハインド_チャリンチャリン.JPG)女王が剣でドレイクの肩をポンポンするナイトの授爵式(ゴールデン・ハインド号) 1581年4月4日女王は絶賛公開中ゴールデン・ハインド号でドレイクと一緒にお夕飯を食べ、ナイトの授爵式をしました。 サー・フランシス・ドレイクの誕生に見物人がいっぱい。 Nicola van Sype著「La herdike enterprinse faict par le Signeur Draeck」(1581年)によると「見物人100人いた木製橋が崩壊」です。 **レプリカ ゴールデン・ハインド号は朽ち果てちゃったけど2隻のレプリカが造られてます。 デヴォン州ブリクサムのレプリカ[[The Golden Hind>http://www.goldenhind.co.uk/]]は1963年復元。 ロンドンのレプリカ[[Golden Hinde II>http://www.goldenhinde.com/]]は1973年忠実に復元。1979年アメリカTVドラマ「[[SHOGUN>http://en.wikipedia.org/wiki/Sh%C5%8Dgun_(film)]]」の撮影で日本にも来てます。 &ref(ゴールデン・ハインド_レプリカ.JPG)ゴールデン・ハインドII号の航海経験は世界5周分 *世界一周のルート ルートの日付や地名は資料によってびみょーに違います。 地図と航海年表はこちら[[The Golden Hind>http://www.goldenhind.co.uk/index.php]](Voyage of the Golden Hind)を参考にさせて頂きました。 &ref(世界一周.JPG) #region(close,ざっくり航海年表) |BGCOLOR(lightgrey):1577年|BGCOLOR(lightgrey):11月15日|プリマスを出航したけど、逆風のため断念。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月13日|旗艦Pelican号が4隻の船(Elizabeth,Swan,Marigold,Benedict)と共にプリマスを出航。&br()モロッコ沖で拿捕した小型船をChristopher号と命名。| |BGCOLOR(lightgrey):1578年|BGCOLOR(lightgrey):5月17日|南アメリカ東海岸沖で嵐に遭いChristopher号とSwan号が壊滅。&br()ドレイクに「おまえの呪詛」と責められたThomas Doughty(ハットン卿の秘書)が反乱。←仲が悪かった。| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月20日|[[プエルト・サン・フリアン>http://en.wikipedia.org/wiki/Puerto_San_Juli%C3%A1n]]に上陸。&br()6月30日Doughtyを反抗・反逆罪で起訴&裁判。←女王エリザベス1世から裁判権を与えられている。&br()7月2日Doughtyを斬首刑。&bold(){Pelican号をGolden Hind号に改名}することでDoughty事件を収拾。| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月20日|マゼラン海峡へ入り、9月6日太平洋に到達。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月30日|Marigold号が行方不明。| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月7日|激しい嵐のためElizabeth号が迷子。その後Elizabeth号は合流できず一人で帰国。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|[[バルパライソ>http://en.wikipedia.org/wiki/Valpara%C3%ADso]]を占拠して船を修理。| |BGCOLOR(lightgrey):1579年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:?|スペインの主要港[[カヤオ>http://en.wikipedia.org/wiki/Callao]]港(ペルー)を襲撃。&br()[[リマ>http://en.wikipedia.org/wiki/Lima]]沖(ペルー)でスペイン船を襲撃して、25,000ペソ(21世紀だと£7百万=12億円)を強奪。| |~|BGCOLOR(lightgrey):3月1日|[[エスメラルダス>http://en.wikipedia.org/wiki/Esmeraldas,_Ecuador]]沖(エクアドル)でスペイン商船&bold(){ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン}を襲撃。| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月15日|中央アメリカに到着。6月1日バンクーバーに到着。北西ルートは危険と判断。| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月16日|フィリピンに到着。| |~|BGCOLOR(lightgrey):11月3日|香料諸島([[モルッカ諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Maluku_Islands]])に到着。テルナテ島と友好を結んでクローブ6tを購入。| |BGCOLOR(lightgrey):1580年|BGCOLOR(lightgrey):1月9日|&bold(){船が座礁。大砲8門とクローブ3tを放棄して脱出。}| |~|BGCOLOR(lightgrey):3月26日|ケープ岬に到達。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月26日|プリマスに帰港。(Elizabeth号はまだ到着していない?)| #endregion **マゼラン海峡 マゼラン海峡は、スペインの援助で1520年史上初の世界一周を達成した[[フェルディナンド・マゼラン>http://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_Magellan]]が発見しました。 21世紀になっても熟練者じゃないと通過に苦労する難所で、1914年[[パナマ運河>http://en.wikipedia.org/wiki/Panama_Canal]]が開通するまで太平洋~大西洋の最重要な近道航路。 なーんと、食糧不足だったマゼランはペンギンを捕まえて食べていたそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Strait_of_Magellan]] |&ref(世界一周_マゼラン海峡.JPG,,height=200)マゼラン海峡|&ref(世界一周_マゼラン海峡(ペンギン).PNG)住人| **ドレーク海峡 ドレーク海峡は、南太平洋で暴風雨に遭ったゴールデン・ハインド号がホーン岬付近に漂着して大西洋へ出たことで発見しました。 荒れっぷりが世界屈指の「絶叫する60度(南緯60度にあるから)」の海域。 偏西風や海流をさえぎる陸地がないから風速や波が絶好調になっちゃうんです。ナイジェル!近づかないでー! [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Drake_Passage]] |&ref(世界一周_ドレーク海峡.JPG)絶好調のドレーク海峡|&ref(世界一周_ドレーク海峡(ホーン岬).JPG)ホーン岬| [[ホーン岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Cape_Horn]]にはニセモノがあるのでご注意。[[偽ホーン岬>http://en.wikipedia.org/wiki/False_Cape_Horn]]は西からの航海だとホンモノに誤解されやすい位置にあります。 「わーい、ホーン岬を通過したあ♥」と誤解した船は東へ。 そしてウォラストン諸島に出くわして難破。帆船時代にはこういう船がいっぱいあったそうです。 #region(close,あとちょびっとで南極) ホーン岬から南極半島までの距離は980km。21世紀の船なら2泊3日の距離です。 ドレイクもビックリ。 夏になるとフエゴ島の[[ウシュアイア>http://en.wikipedia.org/wiki/Ushuaia]](アルゼンチン)から南極半島ツアーを絶賛開催。誰でも簡単に行けちゃいます。 |&ref(世界一周_ドレーク海峡(南極).PNG)南極大陸|&ref(世界一周_ドレーク海峡(南極ツアー).PNG)南極半島ツアーの1つ| #blockquote(){&u(){&bold(){南極大陸はっけーん!}} 南極大陸は紀元前150年から「南へずーっとずーっと行くと大陸[[メガラニカ>http://en.wikipedia.org/wiki/Terra_Australis]]があるっぽい」とウワサされてました。 こちらは[[アブラハム・オルテリウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Abraham_Ortelius]]が想像で描いた地図(1570年)。 F&B時代も相変わらずウワサの大陸。どういうわけか19世紀になるとガガガーっと発見されてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Antarctica]] |&ref(世界一周_ドレーク海峡(南極:発見).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):1820年1月28日|ロシア海軍の地図製作者 ベリングスハウゼン&br()南極大陸(69º21'28"S 2º14'50"W)を発見。| |~|BGCOLOR(lightgrey):1820年1月30日|イギリス海軍の船長[[エドワード・ブランスフィールド>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Bransfield]]&br()[[トリニティ半島>http://en.wikipedia.org/wiki/Trinity_Peninsula]]を発見。| |~|BGCOLOR(lightgrey):1820年11月17日|アメリカのアザラシ漁師ナサニエル・パーマー&br()[[サウス・オークニー諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/South_Orkney_Islands]]を発見。| } #endregion **スペイン商船ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン(我らが聖母マリア) スペイン商船ヌエストラはペルー~パナマ間を貿易するガレオン船(120t)です。通称Cagafuego(英語:fireshitter)。 カヤオ港で情報ゲトしたドレイクは、エスメラルダス沖でお目当てのスペイン商船を発見! あーっという間に制圧して36kgの金・26tの銀・金製の[[十字架>http://en.wikipedia.org/wiki/Crucifix]]・宝石・王族の食器(チェスト13箱)を強奪しました。ウハウハ。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Nuestra_Se%C3%B1ora_de_la_Concepci%C3%B3n]] &ref(世界一周_スペイン商船.PNG)ウハウハのドレイクはスペインの士官や貴族達をお夕飯にご招待 #region(close,なんであーっという間だったの?) スペインは「海賊がいるのは[[スパニッシュ・メイン>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Main]] だけ。太平洋はへーき、へーき」と商船の護衛をおろそかにしてました。 ってことで、ゴールデン・ハインド号は仲間のフリをして商船に接近。 スペイン船長San Juan de Antónが降伏拒否するとマストを砲撃、マスケット銃と[[クロスボウ>http://en.wikipedia.org/wiki/Crossbow]]で攻撃、乗り込み、捕獲します。 &ref(世界一周_スペイン商船(インディアス艦隊).JPG)16世紀 ちなみに西インド諸島ルートの[[インディアス艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_treasure_fleet]](スペイン語:Flota de Indias)は金銀財宝を運ぶ商船を海賊から護る船。 ビセンテのお仕事です♥ 海賊に襲われたスペイン商船の一覧はこちら[[wikipedia>http://es.wikipedia.org/wiki/Anexo:Ataques_piratas_sufridos_por_los_barcos_espa%C3%B1oles]]をどうぞ。 #endregion **クローブ クローブはローマ帝国の頃にはナツメグやコショウと共に知られていた香辛料です。 15世紀後半ポルトガルは[[モルッカ諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Maluku_Islands]]から大量に輸入。16世紀マゼランを支援したスペインが参入。17世紀オランダが支配。 とにもかくにも高価で貴重な香辛料で、17~18世紀イングランドではクローブの価値が金の重さと一緒でした。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Clove]] &ref(世界一周_クローブ.PNG)[[ポマンダー>http://en.wikipedia.org/wiki/Pomander]](16世紀:イタリア) 18世紀フランスはモーリシャス(アフリカ)でのクローブ植樹に成功。 ヨーロッパの人達はギアナ・ブラジル・西インド諸島・ザンジバル…っとあちこち植えまくってます。 **関係ないけどセルクナム族 フエゴ島の先住民セルクナム族は、スペイン人の入植で20世紀中頃に絶滅した狩猟民族です。 牧場の牛や羊を狩猟したために殺されてしまった。 スペイン人の感覚では「私有財産」、セルクナム族の感覚ではそこら辺にいるフツーの「獲物」だったんです。そーゆー時代なのね。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Selknam_people]] &ref(世界一周_セルクナム族.JPG)儀式? *そしてイギリス東インド会社 世界一周に成功したイングランドは世界の海へ進出開始。1600年アジアと貿易する勅許会社[[イギリス東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company]]を創設します。 あっちこっちに商館をガンガン開設。 [[ジャック・スパロウ>http://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Sparrow]]も東インド会社の商業用大型船ウィキッド・ウェンチ号(Wicked Wench)の元・船長です。 &ref(イギリス東インド会社.JPG)東インド会社は清(中国)から紅茶を輸入 #region(close,勅許会社ってなに?) 勅許会社は王様から「特別の許可」を貰って継続的に植民地の開発・経営・貿易する会社です。 資本は「大勢の出資者×小口の出資」(リスク分散)。 植民地経営は反乱や沈没…とってもリスキー。もし失敗しても出資者は少々のお金しか出してないから痛手も少々です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Chartered_company]] &ref(イギリス東インド会社(勅許会社).PNG)こんな感じ? イギリス東インド会社は航海の度に出資者を募ってました。航海が終わったら売上金から出資者へ「元本+α」を配分。 でも植民地っていろいろ経費がかかるの。 ってことで、1657年(?)株主へ「α」だけ配分する[[ジョイント・ストック・カンパニー>http://en.wikipedia.org/wiki/Joint-stock_company]](株式会社っぽいやつ)になります。 #blockquote(){&u(){&bold(){フランシス・ドレイクの場合はちょびっと違う}} フランシス・ドレイクも遠征する時は王様から「特別の許可」を貰います。出資者も募ります。でも会社は作りません。 航海の度に資金集め。 スペインの植民地や商船を襲ってビシバシ略奪したら、ピューっとお家へ帰って、出資者に配当金を払って解散です。 &ref(イギリス東インド会社(勅許会社:フランシス・ドレイク).JPG)ドレイクのお家「The [H]erbar」の借家証(1593年) ドレイクは自腹も切ってます。こちらはロンドンのお家を[[ロンドン市会議員>http://en.wikipedia.org/wiki/Court_of_Aldermen]]Paul Banningeへ71年間リースする契約書。 そして1595年[[サン・フアン>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan,_Puerto_Rico]] (プエルトリコ島)へ遠征。 成功したら何倍も回収できちゃうから問題ナシ。ドレイクの「自分の資産を自分へ出資」は1588年から始めたようです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イギリスが創立した勅許会社}} 最初イギリスが[[北東航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northeast_Passage]]([[北極海航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northern_Sea_Route]])/[[北西航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northwest_Passage]]を目指したのは南側をスペインとポルトガルが絶賛独占中だからです。 北側から香料諸島(モルッカ諸島)や中国を目指すぜ! でも極寒過ぎてムリ。北東航路は1878年[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド>http://en.wikipedia.org/wiki/Adolf_Erik_Nordenski%C3%B6ld]](スウェーデン~日本)、北西航路は1906年[[ロアール・アムンセン>http://en.wikipedia.org/wiki/Roald_Amundsen]]までお待ち下さい。 &ref(イギリス東インド会社(勅許会社:創立).JPG)[[シーレーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Sea_lines_of_communication]](2008年) その後、南側は[[スエズ運河>http://en.wikipedia.org/wiki/Suez_Canal]]の開通で時間短縮されます。16世紀大人気だった[[喜望峰>http://en.wikipedia.org/wiki/Cape_of_Good_Hope]]航路は[[大きな船だけがご使用>http://en.wikipedia.org/wiki/Suezmax]]。 ちなみに北東航路は21世紀になって再び大注目! 例えば大連~ロッテルダムの北東航路は35日、スエズ運河航路は48日です(2013年:[[中国遠洋運輸集団>http://en.wikipedia.org/wiki/COSCO]]の貨物船)。 |BGCOLOR(lightgrey):王ヘンリー4世|1407年|[[ロンドン冒険商人会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Company_of_Merchant_Adventurers_of_London]]&br()([[ギルド>http://en.wikipedia.org/wiki/Guild]])|商人がネーデルラントや北ヨーロッパと独占貿易する会社。&br()・1496年皆さんで[[マグヌス・インテルクルスス通商条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Intercursus_Magnus]]を締結。&br()・1560年スペイン王フェリペ2世はネーデルラントの関税を増税。&br()・1563年〃はネーデルラントとイングランドの貿易を禁止。| |BGCOLOR(lightgrey):王エドワード6世|1553年|[[新しい土地への冒険商人会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Company_of_Merchant_Adventurers_to_New_Lands]]|商人が[[モスクワ大公国>http://en.wikipedia.org/wiki/Grand_Duchy_of_Moscow]]と独占貿易する会社。&br()・1553年[[リチャード・チャンセラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Chancellor]]が[[北東航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northeast_Passage]]を開拓。| |BGCOLOR(lightgrey):女王メアリー1世|1555年|[[モスクワ会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Muscovy_Company]]|~| |BGCOLOR(lightgrey):女王エリザベス1世|1577年|[[スペイン会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Company]]|商人がスペインやポルトガルと独占貿易する会社。&br()・1530年と1577年に設立。&br()・英西戦争中(1585–1604年)は中断っぽい。1605年に再確認。| |~|1579年|[[イーストランド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Eastland_Company]]|北ヨーロッパを独占中の[[ハンザ同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Hanseatic_League]]に対抗する会社。| |~|1581年|[[トルコ会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Levant_Company]]|商人が[[オスマン帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire]]と独占貿易する会社。&br()・スペイン王フェリペ2世はイングランド貨物船の拿捕を開始。| |~|1588年|[[モロッコ会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Barbary_Company]]|レスター伯[[ロバート・シドニー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Sidney,_1st_Earl_of_Leicester]]がモロッコと独占貿易する会社。| |~|1600年|[[イギリス東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company]]|アジアに植民地を作る会社。&br()・1602年オランダもオランダ東インド会社を設立。&br()・1604年フランスもフランス東インド会社を設立。&br()・1616年デンマークもデンマーク東インド会社を設立。&br()・1628年ポルトガルもポルトガル東インド会社を設立。| |BGCOLOR(lightgrey):王ジェームズ1世|1604年|New River Company|| |~|1606年|[[バージニア会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Virginia_Company]]|アメリカに植民地[[ニューイングランド>http://en.wikipedia.org/wiki/New_England]]を作る会社。&br()・最初の挑戦者は1584年[[ウォルター・ローリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Raleigh]]。でも失敗。&br()・1776年[[13植民地>http://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Colonies]]がイギリスから独立。| |~|>|CENTER:||| } #endregion **そして紅茶 最初にヨーロッパで紅茶を楽しんだのは16世紀貿易の先進国ポルトガル。イングランドに紅茶が登場したのは17世紀中頃です。 1662年ポルトガル王女[[キャサリン・オブ・ブラガンザ>http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Braganza]]が紅茶持参で[[イングランド王>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_II_of_England]]に嫁いだのが始まり。 毎日ガブガブ飲んでいた。っといっても紅茶は超高級品。平民の皆様は17世紀末イギリス東インド会社が輸入するまでお待ち下さい。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/British_tea_culture]] &ref(イギリス東インド会社_紅茶.JPG)[[トムズ・コーヒーハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Tom_King%27s_Coffee_House]](1735年頃:[[コヴェント・ガーデン>http://en.wikipedia.org/wiki/Covent_Garden]]) 東インド会社の社員[[トーマス・トワイニング>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Twining_(merchant)]]([[Twinings>http://en.wikipedia.org/wiki/Twinings]]創設者)は、1706年世界初の紅茶店トムズ・コーヒーハウスをオープン。 この時代の[[コーヒーハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Coffeehouse]]は女人禁制が一般的で、どんな階級の女性も出入り自由なお店は大人気。 紅茶習慣が平民の皆様にもどんどん浸透して、1717年にはイギリス初の紅茶専門店ゴールデン・ライオンもオープンします。 ~トワイニングさんHPより~ #region(close,イギリスの紅茶への道のり) [[太陽の沈まぬ帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/The_empire_on_which_the_sun_never_sets]]の[[スペイン帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Empire]]が沈むとイギリス([[大英帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Empire]])が頭角を現します。あっちこっちを植民地化。 西インド諸島から砂糖、中国(その後インドも)から紅茶をゲト。 紅茶貿易はイギリス東インド会社が独占。中国は1834年、インドは1833年民間会社に解放されます([[Saint Helena Act 1833>http://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Helena_Act_1833]])。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易).JPG)大英帝国の貿易(1886年) #blockquote(){&u(){&bold(){中国のお茶が紅茶にへんしーん!}} 中国から船で運ばれる[[チャノキ>http://en.wikipedia.org/wiki/Camellia_sinensis]]の茶葉は赤道で発酵して紅茶に変身します。あっ、「紅茶」はヨーロッパでは「黒茶」です。 これは発酵した茶葉が黒色だから。 最初に運んだ人は「うげー!なんじゃこりゃー!」だったのかしら?アジアはお茶が紅色だから「紅茶」です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Black_tea]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:紅茶).JPG)[[Pieter Gerritsz van Roestraten>http://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Gerritsz_van_Roestraten]]画「Still Life with Tea Cups」(1670年頃:オランダ) 17世紀になるとヨーロッパは紅茶と一緒に中国茶器も輸入します。日本の伊万里焼も輸入してます。 中国も日本も茶器に取っ手がナイ。 ってことで、その頃のヨーロッパもティーカップに取っ手がナイです。取っ手は19世紀までお待ち下さい。 } #blockquote(){&u(){&bold(){最初にヨーロッパに紅茶を紹介したのはアジア制覇するポルトガル}} 1513年ポルトガル探検家[[ジョルジョ・アルヴァレス>http://en.wikipedia.org/wiki/Jorge_%C3%81lvares]]が広州(中国)を発見。1557年マカオに取引所を設置します。 ってことで、ポルトガルと[[明>http://en.wikipedia.org/wiki/Ming_dynasty]](中国)は貿易を開始。 ドミニコ会宣教師[[Gaspar da Cruz>http://en.wikipedia.org/wiki/Gaspar_da_Cruz]]が「Tratado das cousas da China」(1569年)でお茶(葡語:Chá)を紹介しています。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/China%E2%80%93Portugal_relations]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:ポルトガル).JPG)200[[エスクード>http://en.wikipedia.org/wiki/Portuguese_escudo]](1996年:ポルトガル) お茶は紹介したけど、この本の中で「ポルトガルが紅茶を輸入した」という記録はありません。 その後ちびちび輸入してたという資料もあるけどビシっとは分かりませんでした。 } #blockquote(){&u(){&bold(){最初にヨーロッパに紅茶を輸入したのはアジア制覇するオランダ(ネーデルラント)}} 1596年オランダ探検家[[コルネリス・ドゥ・ハウトマン>http://en.wikipedia.org/wiki/Cornelis_de_Houtman]]が[[バンテン王国>http://en.wikipedia.org/wiki/Banten_Sultanate]](モルッカ諸島)の到着に成功します。 目的はポルトガルが絶賛独占中の香辛料。 秘密の航海路を白日の下に晒したぜ!ってことで、オランダは貿易を開始。1602年[[オランダ東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_East_India_Company]]を設立します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Dutch_Expedition_to_Indonesia]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:オランダ).PNG)オランダ東インド会社の貿易(1650年) 紅茶は1606年頃マカオ(ポルトガルのマカオ取引所?)経由でアムステルダム(オランダ)へ輸入したのが最初っぽいです。 1610年頃バンテン王国からも輸入。 この辺のお話しは資料によってぜーんぜん違うのでビシっとは分かりませんでした。あっ!日本からも輸入してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){進出に出遅れたイギリス(イングランド)}} フランシス・ドレイクがモルッカ諸島に到着したのは1579年。イングランドはオランダよりずーっと前に成功してます。 でもスペインとの海戦に大忙し(1585–1604:[[英西戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_(1585%E2%80%931604)]])。 イングランドにしてみれば「俺達が矢面に立ってる間に『補佐のオランダ』がちゃっかり先に進出しやがった」です。 &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:出遅れたイギリス).JPG)英西戦争の終結(1604年) スペインとの海戦が終わって余裕ができたイングランドは1615年頃[[アンボン島>http://en.wikipedia.org/wiki/Ambon_Island]](モルッカ諸島)に進出します。巻き返すぜ! でもオランダに虐殺されて退散(1623年:[[アンボイナ事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Amboyna_massacre]])。 東南アジアを諦めてインドに進出します。もっちろん悔しいからイギリス海峡を通るオランダ商船も襲っちゃいます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){そしてアジア制覇するイギリスが中国から紅茶を輸入}} ってことで、イギリスはオランダ東インド会社経由で紅茶を輸入してました。でもそれで満足するイギリスじゃない! 1672年台湾(中国)との直接貿易に成功。 ついでにオランダと海戦(1652–54年、1665–67年、1672–74年、…:[[英蘭戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Dutch_Wars]])。オランダの制海権をぶっ潰します。[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tea_in_the_United_Kingdom]]/[[大英図書館>http://www.bl.uk/]](China Trade and the East India Company) &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:中国).JPG)[[広東十三行>http://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Factories]]外貿易特区(1780年頃:広州) 台湾の[[商館>http://en.wikipedia.org/wiki/Trading_post]]は1684年広州に移設されます([[広東システム>http://en.wikipedia.org/wiki/Canton_System]])。イギリスと中国の貿易はイギリス東インド会社が担当。 中国の紅茶、絹、磁器はイギリスで大人気。 でもイギリスのお高級品(時計や望遠鏡)は中国で不人気。インドへの輸出で稼いだ銀が中国へ流れちゃいます。 &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:中国_阿片戦争).PNG)中国の阿片輸入量(ton) ってことで、ご不満のイギリスは中国への支払いをインド産阿片に切り替えます。阿片は中国で大人気。貿易黒字になったわ♥ 1839年中国は阿片取り締まりを強化。 怒ったイギリスは大砲ドーン(1839–1842年:[[阿片戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Opium_War]])。ついでに中国の東南アジア支配をぶっ潰します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_opium_in_China]] } #blockquote(){&u(){&bold(){インドで紅茶を作っちゃおー!}} 紅茶(チャノキ)は中国の独占販売です。でもそれで満足するイギリスじゃない! 1820年頃[[アッサム>http://en.wikipedia.org/wiki/Assam]]([[英国領インド>http://en.wikipedia.org/wiki/Presidencies_and_provinces_of_British_India]])の地元貴族[[マニラム・デワン>http://en.wikipedia.org/wiki/Maniram_Dewan]]が「[[シンポー族>http://en.wikipedia.org/wiki/Singpho_people]]もお茶を作ってるんだよー」とご紹介。 教えて貰った探検家[[チャールズ ・ブルース>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Alexander_Bruce]]は大喜びです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_tea_in_India]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:インド).JPG)ガンガン生産 残念ながらシンポー族のお茶はチャノキじゃなかった。ってことで、ブルースはチャノキを探しまくります。 そしてアッサムのチャノキ(アッサムチャ)を発見♥ 1835年イギリス東インド会社に雇用されてアッサムで本格的に生産を開始。インドはイギリス東インド会社が統治します。 &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:インド_紅茶).PNG)イギリスの紅茶輸入率(%) お茶を紹介したマニラム・デワン達は植民地化に反発します。怒ったイギリスは大砲ドーン(1857年:[[インド大反乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_Rebellion_of_1857]])。 もう広大なインドをイギリス東インド会社だけで統治するのはムリ。 ってことで、1858年からイギリス王が直接統治します([[イギリス領インド帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Raj]])。デワン達は絞首刑。 } #endregion #region(close,紅茶といえばアフタヌーン・ティー) アフタヌーン・ティーは1840年頃ベッドフォード公爵夫人[[アンナ・ラッセル>http://en.wikipedia.org/wiki/Anna_Russell,_Duchess_of_Bedford]]が発案したと言われてます。 イギリスの昼食は簡素で、お夕飯までの長い午後はとっても空腹。 空腹を癒すにはケーキやサンドイッチが最高ですわ♥と思ったそうです。なぜお昼をガッツリ食べようと思わないのか不思議。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tea_(meal)]] &ref(イギリス東インド会社(アフタヌーン・ティー).JPG,,height=200)ホテル[[The Savoy >http://en.wikipedia.org/wiki/Savoy_Hotel]](ロンドン)の伝統的なアフタヌーン・ティー #blockquote(){&u(){&bold(){ぜお昼をガッツリ食べようと思わないのか不思議}} 21世紀のイギリス英語は「lunch:昼食または夕食」「dinner:昼食または夕食」です。 ・lunch…軽い食事 ・dinner…1日の中でガッツリ食べるメインの食事 電気ナシの中世は太陽に合わせて早寝早起きの生活。正午までに6時間くらいガッツリ働いて「夕食」を食べます。 夕食はbeever/noonshine(パンとチーズ)。 灯りが発達してくると夕食も遅くなる。ってことで、日中に「昼食っぽい軽い食事」が必要になってきます。 &ref(イギリス東インド会社(ガッツリ).JPG)[[中世料理>https://en.wikipedia.org/wiki/Medieval_cuisine]]([[ソップ>https://en.wikipedia.org/wiki/Sop]]:パンを牛乳・スープ・ワインに浸して食べる料理) ちなみに「lunch」の語源はアングロサクソン語の「nuncheon:食事の間の大急ぎのおやつ」です。 16~17世紀に「nuch:大きなパン」が誕生。 なんやかんやで「lunch」に進化します。でも19世紀までは一般的な言葉じゃなかったの。 19世紀のイギリスといえば[[産業革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Industrial_Revolution]]。ながーい時間働くとお腹が空く!ってことで、正午の「昼食」が重要になります。 労働者は露店のパイをサクサクお食事。 裕福な労働者は肉料理店で1時間ユックリお食事。昼食が習慣化されて1日の食事は「朝食」「昼食」「夕食」になります。 &ref(イギリス東インド会社(ガッツリ2).JPG)フル・ブレックファスト 「朝食」「昼食」「夕食」の詳細は[[BBC News>http://www.bbc.com/news]](Breakfast, lunch and dinner: Have we always eaten them?)さんをどうぞ。 ちなみにイギリスの朝食[[フル・ブレックファスト>https://en.wikipedia.org/wiki/Full_breakfast]]も産業革命の頃に誕生。 あと21世紀のイギリス英語は軽い夕食を「tea」「supper」と呼んだりするコトもあるそうです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにホテル「The Savoy」のダイニング}} The Savoyは1889年設立のロンドン老舗の高級ホテルです。カイトが言ってた「サヴォイ」はこのホテルのコトかしら? [[テムズ川>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Thames]]からの眺めがとっても素敵。 アーサー・コナン・ドイル著[[シャーロック・ホームズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Sherlock_Holmes]]やアガサ・クリスティ原作[[名探偵ポワロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Agatha_Christie%27s_Poirot]]にも登場します。 &ref(イギリス東インド会社(ザ・サボイ).JPG) こちらはホテル内にあるレストランの1つ[[シンプソンズ・イン・ザ・ストランド>http://en.wikipedia.org/wiki/Simpson%27s-in-the-Strand]]です。 } #endregion **そしてティーバッグ ティーバッグは、勘違いした誰かが紅茶の袋詰めサンプルをそのまま煮出しちゃったのが始まりだそうです。こりゃ楽チンだ! 1904年頃には世間に出回って、ニューヨークのコーヒー貿易商Thomas Sullivanが大々的に販売。 作法にこだわるイギリスは1953年[[テトレー>http://en.wikipedia.org/wiki/Tetley]]が販売。こりゃ楽チンだ!と、あーっという間に人気者になりました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tea_bag]] &ref(イギリス東インド会社_ティーバッグ.JPG)ティーバッグ1100袋入り テトレーは1837年創設のイギリス紅茶会社。イギリス、アメリカ、オーストラリア…40ヶ国以上で販売してます。 2000年インドのタタ財閥[[タタ・グローバル・ビバレッジズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Tata_Tea]]の傘下へ。 昔のCM動画はこちら[[http://www.youtube.com/watch?v=g1gUxFXqcG8]](1989年)をどうぞ。出演は[[Tetley Tea Folk>http://en.wikipedia.org/wiki/Tetley_Tea_Folk]]の皆様。 *サー・フランシス・ドレイク フランシス・ドレイク(1540頃–1596年)は船長、[[私掠船>http://en.wikipedia.org/wiki/Privateer]]、海洋探検家、奴隷商人です。 El Draque(悪魔の竜)と恐れられ、スペイン王フェリペ2世はお尋ね者ドレイクに20,000[[ダカット>http://en.wikipedia.org/wiki/Ducat]](≒7億円)の賞金を出したらしい。 最終階級はイギリス海軍[[中将>http://en.wikipedia.org/wiki/Vice_admiral_(Royal_Navy)]]。ドレイク一族の子孫[[Francis William Drake>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_William_Drake]](1724–1788年)も中将です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]] &ref(フランシス・ドレイク.JPG,,height=200)作者不明「[[Thomas Cavendish>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Cavendish]], Sir Francis Drake and Sir John Hawkins」(17世紀) **ドレイク船長の誕生 ドレイクは1540年頃[[タビストック>http://en.wikipedia.org/wiki/Tavistock,_Devon]]で誕生。12人兄弟の長男。名付け親はベドフォード伯[[フランシス・ラッセル>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Russell,_2nd_Earl_of_Bedford]]らしいです。 父エドマンド・ドレイクはプロテスタントの農民。 1549年[[祈祷書反乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Prayer_Book_Rebellion]]で一家は[[ケント>http://en.wikipedia.org/wiki/Kent]]に避難。ドレイクは近所でフランス貿易をしてる船長の下で働きます。 &ref(フランシス・ドレイク_誕生.JPG,,height=200)Samuel Fisher画「タヴィストック修道院」(1830年) 子供がいなかった船長はドレイクの仕事っぷりに大満足して、自分の[[バーク>http://en.wikipedia.org/wiki/Barque]]船をドレイクに遺産相続。 ぱんぱかぱーん♪ドレイク船長の誕生であーる。 **奴隷貿易 23歳になったドレイクは、従兄[[ジョン・ホーキンス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]](デットフォード王立造船所の人)の奴隷貿易に参加します。 イングランドの奴隷貿易は1554年[[John Lok>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Lok]]、1557年William Towersonに続いて3番目。 もっちろん誘拐や強制連行は法律で禁止されてるけど、奴隷・プロテスタント以外・犯罪者は対象外です。そーゆー時代なのね。 &ref(フランシス・ドレイク_奴隷貿易.JPG,,height=200)[[ディエゴ・リベラ>http://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Rivera]]画「スペインの[[コンキスタドール>http://en.wikipedia.org/wiki/Conquistador]]」(1945年:メキシコ) |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ざっくり従兄ジョン・ホーキンスの履歴書| |BGCOLOR(lightgrey):1562–1563年&br()第1回奴隷貿易|ドレイクと一緒に船団3隻で出港。&br()ポルトガルの奴隷船を拿捕。西インド諸島で奴隷301人を売買。[[サントドミンゴ>http://en.wikipedia.org/wiki/Santo_Domingo]]で奴隷を売却。&br()スペイン当局に仲間2隻が捕まる。&br()・1562年10月スペイン王フェリペ2世は[[スパニッシュ・メイン>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Main]]でイングランド船の貿易を禁止。| |BGCOLOR(lightgrey):1564–1565年&br()第2回奴隷貿易|ドレイクと一緒に船団4隻で出港。女王エリザベス1世がJesus of Lubeck号(700t)を提供。&br()どっかの商船を拿捕。西アフリカ奴隷400人と商品(商船のやつ?)を[[バルブラタ>http://en.wikipedia.org/wiki/Borburata]](ベネズエラ)で売却。&br()スペイン当局の公認会計士Diego Ruiz de Vallejoは[[Almojarifazgo税>http://es.wikipedia.org/wiki/Almojarifazgo]]7.5%を支払うことで許可してる。| |~|その後[[リオ・デ・ラ・ハチャ>http://en.wikipedia.org/wiki/Riohacha]](コロンビア)へ。&br()スペイン当局がとんでもない税金で奴隷売却を妨害。「そんなの払わん。街焼くぞ」と脅して強引に売却。&br()出資者への配当は60%(?)。 | |BGCOLOR(lightgrey):1567–1569年&br()第3回奴隷貿易|ドレイクと一緒に船団7隻(?)で出港。&br()ポルトガル奴隷船Madre de Deusを拿捕。[[ドミニカ>http://en.wikipedia.org/wiki/Dominica]]、[[マルガリータ島>http://en.wikipedia.org/wiki/Isla_Margarita]]、バルブラタでアフリカ奴隷400人を売却。| |~|その後[[サン・フアン・デ・ウルア>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan_de_Ul%C3%BAa]]でメキシコ独立運動を調査するスペイン海軍に遭遇。&br()仲間5隻を失って死者500名の大敗。([[サン・フアン・デ・ウルアの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_de_Ul%C3%BAa_(1568)]])。| |BGCOLOR(lightgrey):1571年|[[リドルフィ事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]](女王エリザベス1世の暗殺計画)で女王を裏切るフリをして在英スペイン大使に接近。 &br()すっかり信用させて、計画者やスペインの侵入計画をゲト。もちろんぜーんぶ女王に報告。| |~|プリマス[[立法府?>http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]の庶民院議員。| |BGCOLOR(lightgrey):1582年1月1日|[[イングランド海軍会計係>http://en.wikipedia.org/wiki/Treasurer_of_the_Navy]]に任命。水夫達のお給料・造船技術・船の装備…ビシバシ改善。&br()ちなみにホーキンスは1567年イングランド海軍会計係[[Benjamin Gonson>http://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_Gonson]]の娘キャサリンと結婚してます。| |BGCOLOR(lightgrey):1588年7月26日|ナイトを授爵。| **ドレイクとホーキンスの最後の航海 ドレイクとホーキンスは[[サン・フアン>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan,_Puerto_Rico]](プエルトリコ島)に停泊中の2百万ダカット相当を積んだ商船の略奪に向かいます。 でもスペインのインディアス艦隊に苦戦。 ケチョンケチョンにやられてる最中、2人は病(ドレイクは[[赤痢>http://en.wikipedia.org/wiki/Dysentery]])に倒れて亡くなります。 [[wikipedia>http://es.wikipedia.org/wiki/Expedici%C3%B3n_de_Drake_y_Hawkins]] |>|&ref(フランシス・ドレイク_最後の航海.JPG)| |BGCOLOR(lightgrey):1595年8月28日|プリマスを出航| |BGCOLOR(lightgrey):1595年10月|[[ラス・パルマスの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Las_Palmas]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1595年11月8日|[[グアドループの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Guadalupe_Island_(1595)]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1595年11月12日|ジョン・ホーキンスが死亡。遺体は[[ポルト・ベロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Porto_Belo]](ブラジル)の沖合に埋葬| |BGCOLOR(lightgrey):1595年11月22日|[[サン・フアンの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_(1595)]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1596年1月27日|フランシス・ドレイクが死亡(享年55歳くらい)。遺体は[[ポルトベロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Portobelo,_Col%C3%B3n]](パナマ)の沖合に埋葬| |BGCOLOR(lightgrey):1596年3月11日|[[ピノスの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Pinos]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1596年5月|プリマスに帰港| #region(close,ドレイクの埋葬) ドレイクは死に際に「フル装備の甲冑を身につけたい」と希望。鉛の棺に入れられて[[ポルトベロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Portobelo]]沖に水葬されたと伝わってます。 ケチョンケチョンにやられたイングランドは撤退。 [[ドレイクの太鼓>http://en.wikipedia.org/wiki/Drake%27s_Drum]]は妻エリザベスの元へ届けられます。そして400年後カイトが太鼓の音を聴いたのね。 &ref(フランシス・ドレイク_最後の航海(埋葬).JPG)ドレイクの水葬([[弔砲>http://en.wikipedia.org/wiki/Three-volley_salute]]したかも?) #blockquote(){&u(){&bold(){もうすぐドレイクの棺をはっけーん!?}} 2011年起業家[[Pat Croce>http://en.wikipedia.org/wiki/Pat_Croce]]さん(アメリカ)がパナマ沖で2隻の沈没船を発見しました。 本人曰く「これはフランシス・ドレイクが死亡した直後に沈められた船だ!きっとこの近くにドレイクの棺もある」。 2隻はElizabeth号とDelight号だそうです。 &ref(フランシス・ドレイク_最後の航海(棺).JPG)Pat Croceさんと沈没船 } #endregion ---- ----
#contents_line(level=2,sep=/) *ガレオン船ゴールデン・ハインド号 [[フランシス・ドレイク>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]](サーはまだ)は、1577年女王エリザベス1世から「マゼラン海峡経由で南米調査するのぢゃ」と任命されます。 ってわけで、ゴールデン・ハインド号(黄金の雌ジカ)で史上2番目の世界一周を達成。 元の名前は&bold(){ペリカン号}。改名は出資者[[クリストファー・ハットン卿>http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hatton]](女王と踊った羊ちゃん)の紋章にちなんだお名前です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Golden_Hind]] |&ref(ゴールデン・ハインド.PNG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:進水|1577年| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[排水量>http://en.wikipedia.org/wiki/Displacement_(ship)]]|300t| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:積載量|100~150t| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:乗組員|海軍士官:20名&br()水夫:40~60名&br()甲板員:10~12名| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:マスト|3檣| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:帆|横帆:5~6枚&br()縦帆:1枚&br()帆の総面積:386平方米| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:帆を張った時のスピード|15km/h(8ノット)&br()ママチャリの速さくらい| |~|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:大砲|22門| 船の大きさは排水量…うーん、ちんぷんかんぷん。サイズで比べてみたらJALやANAの飛行機よりちっちゃかったです。 水夫は「俺たちは強いんだぜ」と効果を出すために背の高い人を採用。 現地の人に舐められないようにってこと?この時代の平均身長は165cm(5'4")。サー・フランシスは約170cm(5'6")だそうです。 #region(close,断面図) ゴールデン・ハインド号は設計図が残ってないので、皆さんビミョーに違います。 船長室と会議室が繋がってたり、ギャレーが中甲板にあったり…こちらは世の中にいっぱいある中の1つ。 &ref(ゴールデン・ハインド(断面).PNG) #endregion **ゴールデン・ハインド号の公開展示 1580年9月26日世界一周したゴールデン・ハインド号はプリマスに帰港します。生還した乗組員は56/80人。 女王エリザベス1世は船を[[デットフォード王立造船所>http://en.wikipedia.org/wiki/Deptford_Dockyard]](ロンドン)に移動。 F&B時代には珍しい公開展示で「イングランド女王の歴史的な意義」を世間にアピールします。残念ながら1660年朽ち果てて解体。 &ref(ゴールデン・ハインド_公開展示.PNG)デットフォード王立造船所(1581年) #region(close,ゴールデン・ハインド号は朽ち果てちゃったけど) 法曹院[[ミドル・テンプル>http://en.wikipedia.org/wiki/Middle_Temple]](ロンドン)の玄関にあるランタンは、ゴールデン・ハインド号の船尾楼で使ってたものと言われてます。 The roll of membersにあるテーブル「The cupboard」は昇降口の蓋。 [[ボドリアン図書館>http://en.wikipedia.org/wiki/Bodleian_Library]](オックスフォード)にも、どっかの木から作った椅子があります。 &ref(ゴールデン・ハインド_公開展示(遺産).PNG)ランタンはこれかなぁ? #endregion **フランシス・ドレイクのログブック 南米調査の1つは、出資者(Sponsorship)の情報によると「北緯32°~50°で大西洋と太平洋を結ぶ海峡を探す」だったようです。 航海の詳細な記録[[ログブック>http://en.wikipedia.org/wiki/Logbook]]はとーぜん国家最高機密!ロンドン塔に厳重保管されてナイショ。 ゴールデン・ハインド号の牧師[[フランシス・フレッチャー>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Fletcher_(clergyman)]]でさえ、[[カリフォルニア>http://en.wikipedia.org/wiki/California]]周辺の記録はお茶を濁してます。 &ref(ゴールデン・ハインド_ログブック.JPG)点検修理するゴールデン・ハインド号(カリフォルニア) ってわけで、21世紀になっても南米調査の航海は謎だらけ。えっ!ロンドン塔のログブックはどうなっちゃったの? **チャリンチャリンとナイト フランシス・ドレイクが女王エリザベス1世に献上した金銀財宝は£30万以上。当時のイングランド国庫歳入よりも多いです。 出資者への配当は4,700%。 なーんと!1万円が47万円になっちゃうんです。 &ref(ゴールデン・ハインド_チャリンチャリン.JPG)女王が剣でドレイクの肩をポンポンするナイトの授爵式(ゴールデン・ハインド号) 1581年4月4日女王は絶賛公開中ゴールデン・ハインド号でドレイクと一緒にお夕飯を食べ、ナイトの授爵式をしました。 サー・フランシス・ドレイクの誕生に見物人がいっぱい。 Nicola van Sype著「La herdike enterprinse faict par le Signeur Draeck」(1581年)によると「見物人100人いた木製橋が崩壊」です。 **レプリカ ゴールデン・ハインド号は朽ち果てちゃったけど2隻のレプリカが造られてます。 デヴォン州ブリクサムのレプリカ[[The Golden Hind>http://www.goldenhind.co.uk/]]は1963年復元。 ロンドンのレプリカ[[Golden Hinde II>http://www.goldenhinde.com/]]は1973年忠実に復元。1979年アメリカTVドラマ「[[SHOGUN>http://en.wikipedia.org/wiki/Sh%C5%8Dgun_(film)]]」の撮影で日本にも来てます。 &ref(ゴールデン・ハインド_レプリカ.JPG)ゴールデン・ハインドII号の航海経験は世界5周分 *世界一周のルート ルートの日付や地名は資料によってびみょーに違います。 地図と航海年表はこちら[[The Golden Hind>http://www.goldenhind.co.uk/index.php]](Voyage of the Golden Hind)を参考にさせて頂きました。 &ref(世界一周.JPG) #region(close,ざっくり航海年表) |BGCOLOR(lightgrey):1577年|BGCOLOR(lightgrey):11月15日|プリマスを出航したけど、逆風のため断念。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月13日|旗艦Pelican号が4隻の船(Elizabeth,Swan,Marigold,Benedict)と共にプリマスを出航。&br()モロッコ沖で拿捕した小型船をChristopher号と命名。| |BGCOLOR(lightgrey):1578年|BGCOLOR(lightgrey):5月17日|南アメリカ東海岸沖で嵐に遭いChristopher号とSwan号が壊滅。&br()ドレイクに「おまえの呪詛」と責められたThomas Doughty(ハットン卿の秘書)が反乱。←仲が悪かった。| |~|BGCOLOR(lightgrey):6月20日|[[プエルト・サン・フリアン>http://en.wikipedia.org/wiki/Puerto_San_Juli%C3%A1n]]に上陸。&br()6月30日Doughtyを反抗・反逆罪で起訴&裁判。←女王エリザベス1世から裁判権を与えられている。&br()7月2日Doughtyを斬首刑。&bold(){Pelican号をGolden Hind号に改名}することでDoughty事件を収拾。| |~|BGCOLOR(lightgrey):8月20日|マゼラン海峡へ入り、9月6日太平洋に到達。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月30日|Marigold号が行方不明。| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月7日|激しい嵐のためElizabeth号が迷子。その後Elizabeth号は合流できず一人で帰国。| |~|BGCOLOR(lightgrey):12月5日|[[バルパライソ>http://en.wikipedia.org/wiki/Valpara%C3%ADso]]を占拠して船を修理。| |BGCOLOR(lightgrey):1579年|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:?|スペインの主要港[[カヤオ>http://en.wikipedia.org/wiki/Callao]]港(ペルー)を襲撃。&br()[[リマ>http://en.wikipedia.org/wiki/Lima]]沖(ペルー)でスペイン船を襲撃して、25,000ペソ(21世紀だと£7百万=12億円)を強奪。| |~|BGCOLOR(lightgrey):3月1日|[[エスメラルダス>http://en.wikipedia.org/wiki/Esmeraldas,_Ecuador]]沖(エクアドル)でスペイン商船&bold(){ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン}を襲撃。| |~|BGCOLOR(lightgrey):4月15日|中央アメリカに到着。6月1日バンクーバーに到着。北西ルートは危険と判断。| |~|BGCOLOR(lightgrey):10月16日|フィリピンに到着。| |~|BGCOLOR(lightgrey):11月3日|香料諸島([[モルッカ諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Maluku_Islands]])に到着。テルナテ島と友好を結んでクローブ6tを購入。| |BGCOLOR(lightgrey):1580年|BGCOLOR(lightgrey):1月9日|&bold(){船が座礁。大砲8門とクローブ3tを放棄して脱出。}| |~|BGCOLOR(lightgrey):3月26日|ケープ岬に到達。| |~|BGCOLOR(lightgrey):9月26日|プリマスに帰港。(Elizabeth号はまだ到着していない?)| #endregion **マゼラン海峡 マゼラン海峡は、スペインの援助で1520年史上初の世界一周を達成した[[フェルディナンド・マゼラン>http://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_Magellan]]が発見しました。 21世紀になっても熟練者じゃないと通過に苦労する難所で、1914年[[パナマ運河>http://en.wikipedia.org/wiki/Panama_Canal]]が開通するまで太平洋~大西洋の最重要な近道航路。 なーんと、食糧不足だったマゼランはペンギンを捕まえて食べていたそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Strait_of_Magellan]] |&ref(世界一周_マゼラン海峡.JPG,,height=200)マゼラン海峡|&ref(世界一周_マゼラン海峡(ペンギン).PNG)住人| **ドレーク海峡 ドレーク海峡は、南太平洋で暴風雨に遭ったゴールデン・ハインド号がホーン岬付近に漂着して大西洋へ出たことで発見しました。 荒れっぷりが世界屈指の「絶叫する60度(南緯60度にあるから)」の海域。 偏西風や海流をさえぎる陸地がないから風速や波が絶好調になっちゃうんです。ナイジェル!近づかないでー! [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Drake_Passage]] |&ref(世界一周_ドレーク海峡.JPG)絶好調のドレーク海峡|&ref(世界一周_ドレーク海峡(ホーン岬).JPG)ホーン岬| [[ホーン岬>http://en.wikipedia.org/wiki/Cape_Horn]]にはニセモノがあるのでご注意。[[偽ホーン岬>http://en.wikipedia.org/wiki/False_Cape_Horn]]は西からの航海だとホンモノに誤解されやすい位置にあります。 「わーい、ホーン岬を通過したあ♥」と誤解した船は東へ。 そしてウォラストン諸島に出くわして難破。帆船時代にはこういう船がいっぱいあったそうです。 #region(close,あとちょびっとで南極) ホーン岬から南極半島までの距離は980km。21世紀の船なら2泊3日の距離です。 ドレイクもビックリ。 夏になるとフエゴ島の[[ウシュアイア>http://en.wikipedia.org/wiki/Ushuaia]](アルゼンチン)から南極半島ツアーを絶賛開催。誰でも簡単に行けちゃいます。 |&ref(世界一周_ドレーク海峡(南極).PNG)南極大陸|&ref(世界一周_ドレーク海峡(南極ツアー).PNG)南極半島ツアーの1つ| #blockquote(){&u(){&bold(){南極大陸はっけーん!}} 南極大陸は紀元前150年から「南へずーっとずーっと行くと大陸[[メガラニカ>http://en.wikipedia.org/wiki/Terra_Australis]]があるっぽい」とウワサされてました。 こちらは[[アブラハム・オルテリウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Abraham_Ortelius]]が想像で描いた地図(1570年)。 F&B時代も相変わらずウワサの大陸。どういうわけか19世紀になるとガガガーっと発見されてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Antarctica]] |&ref(世界一周_ドレーク海峡(南極:発見).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):1820年1月28日|ロシア海軍の地図製作者 ベリングスハウゼン&br()南極大陸(69º21'28"S 2º14'50"W)を発見。| |~|BGCOLOR(lightgrey):1820年1月30日|イギリス海軍の船長[[エドワード・ブランスフィールド>http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Bransfield]]&br()[[トリニティ半島>http://en.wikipedia.org/wiki/Trinity_Peninsula]]を発見。| |~|BGCOLOR(lightgrey):1820年11月17日|アメリカのアザラシ漁師ナサニエル・パーマー&br()[[サウス・オークニー諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/South_Orkney_Islands]]を発見。| } #endregion **スペイン商船ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・コンセプシオン(我らが聖母マリア) スペイン商船ヌエストラはペルー~パナマ間を貿易するガレオン船(120t)です。通称Cagafuego(英語:fireshitter)。 カヤオ港で情報ゲトしたドレイクは、エスメラルダス沖でお目当てのスペイン商船を発見! あーっという間に制圧して36kgの金・26tの銀・金製の[[十字架>http://en.wikipedia.org/wiki/Crucifix]]・宝石・王族の食器(チェスト13箱)を強奪しました。ウハウハ。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Nuestra_Se%C3%B1ora_de_la_Concepci%C3%B3n]] &ref(世界一周_スペイン商船.PNG)ウハウハのドレイクはスペインの士官や貴族達をお夕飯にご招待 #region(close,なんであーっという間だったの?) スペインは「海賊がいるのは[[スパニッシュ・メイン>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Main]] だけ。太平洋はへーき、へーき」と商船の護衛をおろそかにしてました。 ってことで、ゴールデン・ハインド号は仲間のフリをして商船に接近。 スペイン船長San Juan de Antónが降伏拒否するとマストを砲撃、マスケット銃と[[クロスボウ>http://en.wikipedia.org/wiki/Crossbow]]で攻撃、乗り込み、捕獲します。 &ref(世界一周_スペイン商船(インディアス艦隊).JPG)16世紀 ちなみに西インド諸島ルートの[[インディアス艦隊>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_treasure_fleet]](スペイン語:Flota de Indias)は金銀財宝を運ぶ商船を海賊から護る船。 ビセンテのお仕事です♥ 海賊に襲われたスペイン商船の一覧はこちら[[wikipedia>http://es.wikipedia.org/wiki/Anexo:Ataques_piratas_sufridos_por_los_barcos_espa%C3%B1oles]]をどうぞ。 #endregion **クローブ クローブはローマ帝国の頃にはナツメグやコショウと共に知られていた香辛料です。 15世紀後半ポルトガルは[[モルッカ諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Maluku_Islands]]から大量に輸入。16世紀マゼランを支援したスペインが参入。17世紀オランダが支配。 とにもかくにも高価で貴重な香辛料で、17~18世紀イングランドではクローブの価値が金の重さと一緒でした。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Clove]] &ref(世界一周_クローブ.PNG)[[ポマンダー>http://en.wikipedia.org/wiki/Pomander]](16世紀:イタリア) 18世紀フランスはモーリシャス(アフリカ)でのクローブ植樹に成功。 ヨーロッパの人達はギアナ・ブラジル・西インド諸島・ザンジバル…っとあちこち植えまくってます。 **関係ないけどセルクナム族 フエゴ島の先住民セルクナム族は、スペイン人の入植で20世紀中頃に絶滅した狩猟民族です。 牧場の牛や羊を狩猟したために殺されてしまった。 スペイン人の感覚では「私有財産」、セルクナム族の感覚ではそこら辺にいるフツーの「獲物」だったんです。そーゆー時代なのね。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Selknam_people]] &ref(世界一周_セルクナム族.JPG)儀式? *そしてイギリス東インド会社 世界一周に成功したイングランドは世界の海へ進出開始。1600年アジアと貿易する勅許会社[[イギリス東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company]]を創設します。 あっちこっちに商館をガンガン開設。 [[ジャック・スパロウ>http://en.wikipedia.org/wiki/Jack_Sparrow]]も東インド会社の商業用大型船ウィキッド・ウェンチ号(Wicked Wench)の元・船長です。 &ref(イギリス東インド会社.JPG)東インド会社は清(中国)から紅茶を輸入 #region(close,勅許会社ってなに?) 勅許会社は王様から「特別の許可」を貰って継続的に植民地の開発・経営・貿易する会社です。 資本は「大勢の出資者×小口の出資」(リスク分散)。 植民地経営は反乱や沈没…とってもリスキー。もし失敗しても出資者は少々のお金しか出してないから痛手も少々です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Chartered_company]] &ref(イギリス東インド会社(勅許会社).PNG)こんな感じ? イギリス東インド会社は航海の度に出資者を募ってました。航海が終わったら売上金から出資者へ「元本+α」を配分。 でも植民地っていろいろ経費がかかるの。 ってことで、1657年(?)株主へ「α」だけ配分する[[ジョイント・ストック・カンパニー>http://en.wikipedia.org/wiki/Joint-stock_company]](株式会社っぽいやつ)になります。 #blockquote(){&u(){&bold(){フランシス・ドレイクの場合はちょびっと違う}} フランシス・ドレイクも遠征する時は王様から「特別の許可」を貰います。出資者も募ります。でも会社は作りません。 航海の度に資金集め。 スペインの植民地や商船を襲ってビシバシ略奪したら、ピューっとお家へ帰って、出資者に配当金を払って解散です。 &ref(イギリス東インド会社(勅許会社:フランシス・ドレイク).JPG)ドレイクのお家「The [H]erbar」の借家証(1593年) ドレイクは自腹も切ってます。こちらはロンドンのお家を[[ロンドン市会議員>http://en.wikipedia.org/wiki/Court_of_Aldermen]]Paul Banningeへ71年間リースする契約書。 そして1595年[[サン・フアン>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan,_Puerto_Rico]] (プエルトリコ島)へ遠征。 成功したら何倍も回収できちゃうから問題ナシ。ドレイクの「自分の資産を自分へ出資」は1588年から始めたようです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){イギリスが創立した勅許会社}} 最初イギリスが[[北東航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northeast_Passage]]([[北極海航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northern_Sea_Route]])/[[北西航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northwest_Passage]]を目指したのは南側をスペインとポルトガルが絶賛独占中だからです。 北側から香料諸島(モルッカ諸島)や中国を目指すぜ! でも極寒過ぎてムリ。北東航路は1878年[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド>http://en.wikipedia.org/wiki/Adolf_Erik_Nordenski%C3%B6ld]](スウェーデン~日本)、北西航路は1906年[[ロアール・アムンセン>http://en.wikipedia.org/wiki/Roald_Amundsen]]までお待ち下さい。 &ref(イギリス東インド会社(勅許会社:創立).JPG)[[シーレーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Sea_lines_of_communication]](2008年) その後、南側は[[スエズ運河>http://en.wikipedia.org/wiki/Suez_Canal]]の開通で時間短縮されます。16世紀大人気だった[[喜望峰>http://en.wikipedia.org/wiki/Cape_of_Good_Hope]]航路は[[大きな船だけがご使用>http://en.wikipedia.org/wiki/Suezmax]]。 ちなみに北東航路は21世紀になって再び大注目! 例えば大連~ロッテルダムの北東航路は35日、スエズ運河航路は48日です(2013年:[[中国遠洋運輸集団>http://en.wikipedia.org/wiki/COSCO]]の貨物船)。 |BGCOLOR(lightgrey):王ヘンリー4世|1407年|[[ロンドン冒険商人会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Company_of_Merchant_Adventurers_of_London]]&br()([[ギルド>http://en.wikipedia.org/wiki/Guild]])|商人がネーデルラントや北ヨーロッパと独占貿易する会社。&br()・1496年皆さんで[[マグヌス・インテルクルスス通商条約>http://en.wikipedia.org/wiki/Intercursus_Magnus]]を締結。&br()・1560年スペイン王フェリペ2世はネーデルラントの関税を増税。&br()・1563年〃はネーデルラントとイングランドの貿易を禁止。| |BGCOLOR(lightgrey):王エドワード6世|1553年|[[新しい土地への冒険商人会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Company_of_Merchant_Adventurers_to_New_Lands]]|商人が[[モスクワ大公国>http://en.wikipedia.org/wiki/Grand_Duchy_of_Moscow]]と独占貿易する会社。&br()・1553年[[リチャード・チャンセラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Chancellor]]が[[北東航路>http://en.wikipedia.org/wiki/Northeast_Passage]]を開拓。| |BGCOLOR(lightgrey):女王メアリー1世|1555年|[[モスクワ会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Muscovy_Company]]|~| |BGCOLOR(lightgrey):女王エリザベス1世|1577年|[[スペイン会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Company]]|商人がスペインやポルトガルと独占貿易する会社。&br()・1530年と1577年に設立。&br()・英西戦争中(1585–1604年)は中断っぽい。1605年に再確認。| |~|1579年|[[イーストランド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Eastland_Company]]|北ヨーロッパを独占中の[[ハンザ同盟>http://en.wikipedia.org/wiki/Hanseatic_League]]に対抗する会社。| |~|1581年|[[トルコ会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Levant_Company]]|商人が[[オスマン帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire]]と独占貿易する会社。&br()・スペイン王フェリペ2世はイングランド貨物船の拿捕を開始。| |~|1588年|[[モロッコ会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Barbary_Company]]|レスター伯[[ロバート・シドニー>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Sidney,_1st_Earl_of_Leicester]]がモロッコと独占貿易する会社。| |~|1600年|[[イギリス東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/East_India_Company]]|アジアに植民地を作る会社。&br()・1602年オランダもオランダ東インド会社を設立。&br()・1604年フランスもフランス東インド会社を設立。&br()・1616年デンマークもデンマーク東インド会社を設立。&br()・1628年ポルトガルもポルトガル東インド会社を設立。| |BGCOLOR(lightgrey):王ジェームズ1世|1604年|New River Company|| |~|1606年|[[バージニア会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Virginia_Company]]|アメリカに植民地[[ニューイングランド>http://en.wikipedia.org/wiki/New_England]]を作る会社。&br()・最初の挑戦者は1584年[[ウォルター・ローリー>http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Raleigh]]。でも失敗。&br()・1776年[[13植民地>http://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Colonies]]がイギリスから独立。| |~|>|CENTER:||| } #endregion **そして紅茶 最初にヨーロッパで紅茶を楽しんだのは16世紀貿易の先進国ポルトガル。イングランドに紅茶が登場したのは17世紀中頃です。 1662年ポルトガル王女[[キャサリン・オブ・ブラガンザ>http://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_of_Braganza]]が紅茶持参で[[イングランド王>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_II_of_England]]に嫁いだのが始まり。 毎日ガブガブ飲んでいた。っといっても紅茶は超高級品。平民の皆様は17世紀末イギリス東インド会社が輸入するまでお待ち下さい。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/British_tea_culture]] &ref(イギリス東インド会社_紅茶.JPG)[[トムズ・コーヒーハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Tom_King%27s_Coffee_House]](1735年頃:[[コヴェント・ガーデン>http://en.wikipedia.org/wiki/Covent_Garden]]) 東インド会社の社員[[トーマス・トワイニング>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Twining_(merchant)]]([[Twinings>http://en.wikipedia.org/wiki/Twinings]]創設者)は、1706年世界初の紅茶店トムズ・コーヒーハウスをオープン。 この時代の[[コーヒーハウス>http://en.wikipedia.org/wiki/Coffeehouse]]は女人禁制が一般的で、どんな階級の女性も出入り自由なお店は大人気。 紅茶習慣が平民の皆様にもどんどん浸透して、1717年にはイギリス初の紅茶専門店ゴールデン・ライオンもオープンします。 ~トワイニングさんHPより~ #region(close,イギリスの紅茶への道のり) [[太陽の沈まぬ帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/The_empire_on_which_the_sun_never_sets]]の[[スペイン帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Empire]]が沈むとイギリス([[大英帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Empire]])が頭角を現します。あっちこっちを植民地化。 西インド諸島から砂糖、中国(その後インドも)から紅茶をゲト。 紅茶貿易はイギリス東インド会社が独占。中国は1834年、インドは1833年民間会社に解放されます([[Saint Helena Act 1833>http://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Helena_Act_1833]])。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Triangular_trade]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易).JPG)大英帝国の貿易(1886年) #blockquote(){&u(){&bold(){中国のお茶が紅茶にへんしーん!}} 中国から船で運ばれる[[チャノキ>http://en.wikipedia.org/wiki/Camellia_sinensis]]の茶葉は赤道で発酵して紅茶に変身します。あっ、「紅茶」はヨーロッパでは「黒茶」です。 これは発酵した茶葉が黒色だから。 最初に運んだ人は「うげー!なんじゃこりゃー!」だったのかしら?アジアはお茶が紅色だから「紅茶」です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Black_tea]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:紅茶).JPG)[[Pieter Gerritsz van Roestraten>http://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Gerritsz_van_Roestraten]]画「Still Life with Tea Cups」(1670年頃:オランダ) 17世紀になるとヨーロッパは紅茶と一緒に中国茶器も輸入します。日本の伊万里焼も輸入してます。 中国も日本も茶器に取っ手がナイ。 ってことで、その頃のヨーロッパもティーカップに取っ手がナイです。取っ手は19世紀までお待ち下さい。 } #blockquote(){&u(){&bold(){最初にヨーロッパに紅茶を紹介したのはアジア制覇するポルトガル}} 1513年ポルトガル探検家[[ジョルジョ・アルヴァレス>http://en.wikipedia.org/wiki/Jorge_%C3%81lvares]]が広州(中国)を発見。1557年マカオに取引所を設置します。 ってことで、ポルトガルと[[明>http://en.wikipedia.org/wiki/Ming_dynasty]](中国)は貿易を開始。 ドミニコ会宣教師[[Gaspar da Cruz>http://en.wikipedia.org/wiki/Gaspar_da_Cruz]]が「Tratado das cousas da China」(1569年)でお茶(葡語:Chá)を紹介しています。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/China%E2%80%93Portugal_relations]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:ポルトガル).JPG)200[[エスクード>http://en.wikipedia.org/wiki/Portuguese_escudo]](1996年:ポルトガル) お茶は紹介したけど、この本の中で「ポルトガルが紅茶を輸入した」という記録はありません。 その後ちびちび輸入してたという資料もあるけどビシっとは分かりませんでした。 } #blockquote(){&u(){&bold(){最初にヨーロッパに紅茶を輸入したのはアジア制覇するオランダ(ネーデルラント)}} 1596年オランダ探検家[[コルネリス・ドゥ・ハウトマン>http://en.wikipedia.org/wiki/Cornelis_de_Houtman]]が[[バンテン王国>http://en.wikipedia.org/wiki/Banten_Sultanate]](モルッカ諸島)の到着に成功します。 目的はポルトガルが絶賛独占中の香辛料。 秘密の航海路を白日の下に晒したぜ!ってことで、オランダは貿易を開始。1602年[[オランダ東インド会社>http://en.wikipedia.org/wiki/Dutch_East_India_Company]]を設立します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Dutch_Expedition_to_Indonesia]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:オランダ).PNG)オランダ東インド会社の貿易(1650年) 紅茶は1606年頃マカオ(ポルトガルのマカオ取引所?)経由でアムステルダム(オランダ)へ輸入したのが最初っぽいです。 1610年頃バンテン王国からも輸入。 この辺のお話しは資料によってぜーんぜん違うのでビシっとは分かりませんでした。あっ!日本からも輸入してます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){進出に出遅れたイギリス(イングランド)}} フランシス・ドレイクがモルッカ諸島に到着したのは1579年。イングランドはオランダよりずーっと前に成功してます。 でもスペインとの海戦に大忙し(1585–1604:[[英西戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Spanish_War_(1585%E2%80%931604)]])。 イングランドにしてみれば「俺達が矢面に立ってる間に『補佐のオランダ』がちゃっかり先に進出しやがった」です。 &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:出遅れたイギリス).JPG)英西戦争の終結(1604年) スペインとの海戦が終わって余裕ができたイングランドは1615年頃[[アンボン島>http://en.wikipedia.org/wiki/Ambon_Island]](モルッカ諸島)に進出します。巻き返すぜ! でもオランダに虐殺されて退散(1623年:[[アンボイナ事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Amboyna_massacre]])。 東南アジアを諦めてインドに進出します。もっちろん悔しいからイギリス海峡を通るオランダ商船も襲っちゃいます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){そしてアジア制覇するイギリスが中国から紅茶を輸入}} ってことで、イギリスはオランダ東インド会社経由で紅茶を輸入してました。でもそれで満足するイギリスじゃない! 1672年台湾(中国)との直接貿易に成功。 ついでにオランダと海戦(1652–54年、1665–67年、1672–74年、…:[[英蘭戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Dutch_Wars]])。オランダの制海権をぶっ潰します。[[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tea_in_the_United_Kingdom]]/[[大英図書館>http://www.bl.uk/]](China Trade and the East India Company) &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:中国).JPG)[[広東十三行>http://en.wikipedia.org/wiki/Thirteen_Factories]]外貿易特区(1780年頃:広州) 台湾の[[商館>http://en.wikipedia.org/wiki/Trading_post]]は1684年広州に移設されます([[広東システム>http://en.wikipedia.org/wiki/Canton_System]])。イギリスと中国の貿易はイギリス東インド会社が担当。 中国の紅茶、絹、磁器はイギリスで大人気。 でもイギリスのお高級品(時計や望遠鏡)は中国で不人気。インドへの輸出で稼いだ銀が中国へ流れちゃいます。 &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:中国_阿片戦争).PNG)中国の阿片輸入量(ton) ってことで、ご不満のイギリスは中国への支払いをインド産阿片に切り替えます。阿片は中国で大人気。貿易黒字になったわ♥ 1839年中国は阿片取り締まりを強化。 怒ったイギリスは大砲ドーン(1839–1842年:[[阿片戦争>http://en.wikipedia.org/wiki/First_Opium_War]])。ついでに中国の東南アジア支配をぶっ潰します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_opium_in_China]] } #blockquote(){&u(){&bold(){インドで紅茶を作っちゃおー!}} 紅茶(チャノキ)は中国の独占販売です。でもそれで満足するイギリスじゃない! 1820年頃[[アッサム>http://en.wikipedia.org/wiki/Assam]]([[英国領インド>http://en.wikipedia.org/wiki/Presidencies_and_provinces_of_British_India]])の地元貴族[[マニラム・デワン>http://en.wikipedia.org/wiki/Maniram_Dewan]]が「[[シンポー族>http://en.wikipedia.org/wiki/Singpho_people]]もお茶を作ってるんだよー」とご紹介。 教えて貰った探検家[[チャールズ ・ブルース>http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Alexander_Bruce]]は大喜びです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_tea_in_India]] &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:インド).JPG)ガンガン生産 残念ながらシンポー族のお茶はチャノキじゃなかった。ってことで、ブルースはチャノキを探しまくります。 そしてアッサムのチャノキ(アッサムチャ)を発見♥ 1835年イギリス東インド会社に雇用されてアッサムで本格的に生産を開始。インドはイギリス東インド会社が統治します。 &ref(イギリス東インド会社(三角貿易:インド_紅茶).PNG)イギリスの紅茶輸入率(%) お茶を紹介したマニラム・デワン達は植民地化に反発します。怒ったイギリスは大砲ドーン(1857年:[[インド大反乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Indian_Rebellion_of_1857]])。 もう広大なインドをイギリス東インド会社だけで統治するのはムリ。 ってことで、1858年からイギリス王が直接統治します([[イギリス領インド帝国>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Raj]])。デワン達は絞首刑。 } #endregion #region(close,紅茶といえばアフタヌーン・ティー) アフタヌーン・ティーは1840年頃ベッドフォード公爵夫人[[アンナ・ラッセル>http://en.wikipedia.org/wiki/Anna_Russell,_Duchess_of_Bedford]]が発案したと言われてます。 イギリスの昼食は簡素で、お夕飯までの長い午後はとっても空腹。 空腹を癒すにはケーキやサンドイッチが最高ですわ♥と思ったそうです。なぜお昼をガッツリ食べようと思わないのか不思議。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tea_(meal)]] &ref(イギリス東インド会社(アフタヌーン・ティー).JPG,,height=200)ホテル[[The Savoy >http://en.wikipedia.org/wiki/Savoy_Hotel]](ロンドン)の伝統的なアフタヌーン・ティー #blockquote(){&u(){&bold(){ぜお昼をガッツリ食べようと思わないのか不思議}} 21世紀のイギリス英語は「lunch:昼食または夕食」「dinner:昼食または夕食」です。 ・lunch…軽い食事 ・dinner…1日の中でガッツリ食べるメインの食事 電気ナシの中世は太陽に合わせて早寝早起きの生活。正午までに6時間くらいガッツリ働いて「夕食」を食べます。 夕食はbeever/noonshine(パンとチーズ)。 灯りが発達してくると夕食も遅くなる。ってことで、日中に「昼食っぽい軽い食事」が必要になってきます。 &ref(イギリス東インド会社(ガッツリ).JPG)[[中世料理>https://en.wikipedia.org/wiki/Medieval_cuisine]]([[ソップ>https://en.wikipedia.org/wiki/Sop]]:パンを牛乳・スープ・ワインに浸して食べる料理) ちなみに「lunch」の語源はアングロサクソン語の「nuncheon:食事の間の大急ぎのおやつ」です。 16~17世紀に「nuch:大きなパン」が誕生。 なんやかんやで「lunch」に進化します。でも19世紀までは一般的な言葉じゃなかったの。 19世紀のイギリスといえば[[産業革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Industrial_Revolution]]。ながーい時間働くとお腹が空く!ってことで、正午の「昼食」が重要になります。 労働者は露店のパイをサクサクお食事。 裕福な労働者は肉料理店で1時間ユックリお食事。昼食が習慣化されて1日の食事は「朝食」「昼食」「夕食」になります。 &ref(イギリス東インド会社(ガッツリ2).JPG)フル・ブレックファスト 「朝食」「昼食」「夕食」の詳細は[[BBC News>http://www.bbc.com/news]](Breakfast, lunch and dinner: Have we always eaten them?)さんをどうぞ。 ちなみにイギリスの朝食[[フル・ブレックファスト>https://en.wikipedia.org/wiki/Full_breakfast]]も産業革命の頃に誕生。 あと21世紀のイギリス英語は軽い夕食を「tea」「supper」と呼んだりするコトもあるそうです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにホテル「The Savoy」のダイニング}} The Savoyは1889年設立のロンドン老舗の高級ホテルです。カイトが言ってた「サヴォイ」はこのホテルのコトかしら? [[テムズ川>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Thames]]からの眺めがとっても素敵。 アーサー・コナン・ドイル著[[シャーロック・ホームズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Sherlock_Holmes]]やアガサ・クリスティ原作[[名探偵ポワロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Agatha_Christie%27s_Poirot]]にも登場します。 &ref(イギリス東インド会社(ザ・サボイ).JPG) こちらはホテル内にあるレストランの1つ[[シンプソンズ・イン・ザ・ストランド>http://en.wikipedia.org/wiki/Simpson%27s-in-the-Strand]]です。 } #endregion **そしてティーバッグ ティーバッグは、勘違いした誰かが紅茶の袋詰めサンプルをそのまま煮出しちゃったのが始まりだそうです。こりゃ楽チンだ! 1904年頃には世間に出回って、ニューヨークのコーヒー貿易商Thomas Sullivanが大々的に販売。 作法にこだわるイギリスは1953年[[テトレー>http://en.wikipedia.org/wiki/Tetley]]が販売。こりゃ楽チンだ!と、あーっという間に人気者になりました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tea_bag]] &ref(イギリス東インド会社_ティーバッグ.JPG)ティーバッグ1100袋入り テトレーは1837年創設のイギリス紅茶会社。イギリス、アメリカ、オーストラリア…40ヶ国以上で販売してます。 2000年インドのタタ財閥[[タタ・グローバル・ビバレッジズ>http://en.wikipedia.org/wiki/Tata_Tea]]の傘下へ。 昔のCM動画はこちら[[http://www.youtube.com/watch?v=g1gUxFXqcG8]](1989年)をどうぞ。出演は[[Tetley Tea Folk>http://en.wikipedia.org/wiki/Tetley_Tea_Folk]]の皆様。 *サー・フランシス・ドレイク フランシス・ドレイク(1540頃–1596年)は船長、[[私掠船>http://en.wikipedia.org/wiki/Privateer]]、海洋探検家、奴隷商人です。 El Draque(悪魔の竜)と恐れられ、スペイン王フェリペ2世はお尋ね者ドレイクに20,000[[ダカット>http://en.wikipedia.org/wiki/Ducat]](≒7億円)の賞金を出したらしい。 最終階級はイギリス海軍[[中将>http://en.wikipedia.org/wiki/Vice_admiral_(Royal_Navy)]]。ドレイク一族の子孫[[Francis William Drake>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_William_Drake]](1724–1788年)も中将です。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]] &ref(【共通の画】イングランド_フランシス・ドレイク.JPG,【共通】共通の画)作者不明「[[Thomas Cavendish>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Cavendish]], Sir Francis Drake and Sir John Hawkins」(17世紀) **ドレイク船長の誕生 ドレイクは1540年頃[[タビストック>http://en.wikipedia.org/wiki/Tavistock,_Devon]]で誕生。12人兄弟の長男。名付け親はベドフォード伯[[フランシス・ラッセル>http://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Russell,_2nd_Earl_of_Bedford]]らしいです。 父エドマンド・ドレイクはプロテスタントの農民。 1549年[[祈祷書反乱>http://en.wikipedia.org/wiki/Prayer_Book_Rebellion]]で一家は[[ケント>http://en.wikipedia.org/wiki/Kent]]に避難。ドレイクは近所でフランス貿易をしてる船長の下で働きます。 &ref(フランシス・ドレイク_誕生.JPG,,height=200)Samuel Fisher画「タヴィストック修道院」(1830年) 子供がいなかった船長はドレイクの仕事っぷりに大満足して、自分の[[バーク>http://en.wikipedia.org/wiki/Barque]]船をドレイクに遺産相続。 ぱんぱかぱーん♪ドレイク船長の誕生であーる。 **奴隷貿易 23歳になったドレイクは、従兄[[ジョン・ホーキンス>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hawkins_(naval_commander)]](デットフォード王立造船所の人)の奴隷貿易に参加します。 イングランドの奴隷貿易は1554年[[John Lok>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Lok]]、1557年William Towersonに続いて3番目。 もっちろん誘拐や強制連行は法律で禁止されてるけど、奴隷・プロテスタント以外・犯罪者は対象外です。そーゆー時代なのね。 &ref(フランシス・ドレイク_奴隷貿易.JPG,,height=200)[[ディエゴ・リベラ>http://en.wikipedia.org/wiki/Diego_Rivera]]画「スペインの[[コンキスタドール>http://en.wikipedia.org/wiki/Conquistador]]」(1945年:メキシコ) |>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:ざっくり従兄ジョン・ホーキンスの履歴書| |BGCOLOR(lightgrey):1562–1563年&br()第1回奴隷貿易|ドレイクと一緒に船団3隻で出港。&br()ポルトガルの奴隷船を拿捕。西インド諸島で奴隷301人を売買。[[サントドミンゴ>http://en.wikipedia.org/wiki/Santo_Domingo]]で奴隷を売却。&br()スペイン当局に仲間2隻が捕まる。&br()・1562年10月スペイン王フェリペ2世は[[スパニッシュ・メイン>http://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Main]]でイングランド船の貿易を禁止。| |BGCOLOR(lightgrey):1564–1565年&br()第2回奴隷貿易|ドレイクと一緒に船団4隻で出港。女王エリザベス1世がJesus of Lubeck号(700t)を提供。&br()どっかの商船を拿捕。西アフリカ奴隷400人と商品(商船のやつ?)を[[バルブラタ>http://en.wikipedia.org/wiki/Borburata]](ベネズエラ)で売却。&br()スペイン当局の公認会計士Diego Ruiz de Vallejoは[[Almojarifazgo税>http://es.wikipedia.org/wiki/Almojarifazgo]]7.5%を支払うことで許可してる。| |~|その後[[リオ・デ・ラ・ハチャ>http://en.wikipedia.org/wiki/Riohacha]](コロンビア)へ。&br()スペイン当局がとんでもない税金で奴隷売却を妨害。「そんなの払わん。街焼くぞ」と脅して強引に売却。&br()出資者への配当は60%(?)。 | |BGCOLOR(lightgrey):1567–1569年&br()第3回奴隷貿易|ドレイクと一緒に船団7隻(?)で出港。&br()ポルトガル奴隷船Madre de Deusを拿捕。[[ドミニカ>http://en.wikipedia.org/wiki/Dominica]]、[[マルガリータ島>http://en.wikipedia.org/wiki/Isla_Margarita]]、バルブラタでアフリカ奴隷400人を売却。| |~|その後[[サン・フアン・デ・ウルア>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan_de_Ul%C3%BAa]]でメキシコ独立運動を調査するスペイン海軍に遭遇。&br()仲間5隻を失って死者500名の大敗。([[サン・フアン・デ・ウルアの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_de_Ul%C3%BAa_(1568)]])。| |BGCOLOR(lightgrey):1571年|[[リドルフィ事件>http://en.wikipedia.org/wiki/Ridolfi_plot]](女王エリザベス1世の暗殺計画)で女王を裏切るフリをして在英スペイン大使に接近。 &br()すっかり信用させて、計画者やスペインの侵入計画をゲト。もちろんぜーんぶ女王に報告。| |~|プリマス[[立法府?>http://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]の庶民院議員。| |BGCOLOR(lightgrey):1582年1月1日|[[イングランド海軍会計係>http://en.wikipedia.org/wiki/Treasurer_of_the_Navy]]に任命。水夫達のお給料・造船技術・船の装備…ビシバシ改善。&br()ちなみにホーキンスは1567年イングランド海軍会計係[[Benjamin Gonson>http://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_Gonson]]の娘キャサリンと結婚してます。| |BGCOLOR(lightgrey):1588年7月26日|ナイトを授爵。| **ドレイクとホーキンスの最後の航海 ドレイクとホーキンスは[[サン・フアン>http://en.wikipedia.org/wiki/San_Juan,_Puerto_Rico]](プエルトリコ島)に停泊中の2百万ダカット相当を積んだ商船の略奪に向かいます。 でもスペインのインディアス艦隊に苦戦。 ケチョンケチョンにやられてる最中、2人は病(ドレイクは[[赤痢>http://en.wikipedia.org/wiki/Dysentery]])に倒れて亡くなります。 [[wikipedia>http://es.wikipedia.org/wiki/Expedici%C3%B3n_de_Drake_y_Hawkins]] |>|&ref(フランシス・ドレイク_最後の航海.JPG)| |BGCOLOR(lightgrey):1595年8月28日|プリマスを出航| |BGCOLOR(lightgrey):1595年10月|[[ラス・パルマスの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Las_Palmas]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1595年11月8日|[[グアドループの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Guadalupe_Island_(1595)]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1595年11月12日|ジョン・ホーキンスが死亡。遺体は[[ポルト・ベロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Porto_Belo]](ブラジル)の沖合に埋葬| |BGCOLOR(lightgrey):1595年11月22日|[[サン・フアンの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_San_Juan_(1595)]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1596年1月27日|フランシス・ドレイクが死亡(享年55歳くらい)。遺体は[[ポルトベロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Portobelo,_Col%C3%B3n]](パナマ)の沖合に埋葬| |BGCOLOR(lightgrey):1596年3月11日|[[ピノスの戦い>http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Pinos]]。イングランド負け| |BGCOLOR(lightgrey):1596年5月|プリマスに帰港| #region(close,ドレイクの埋葬) ドレイクは死に際に「フル装備の甲冑を身につけたい」と希望。鉛の棺に入れられて[[ポルトベロ>http://en.wikipedia.org/wiki/Portobelo]]沖に水葬されたと伝わってます。 ケチョンケチョンにやられたイングランドは撤退。 [[ドレイクの太鼓>http://en.wikipedia.org/wiki/Drake%27s_Drum]]は妻エリザベスの元へ届けられます。そして400年後カイトが太鼓の音を聴いたのね。 &ref(フランシス・ドレイク_最後の航海(埋葬).JPG)ドレイクの水葬([[弔砲>http://en.wikipedia.org/wiki/Three-volley_salute]]したかも?) #blockquote(){&u(){&bold(){もうすぐドレイクの棺をはっけーん!?}} 2011年起業家[[Pat Croce>http://en.wikipedia.org/wiki/Pat_Croce]]さん(アメリカ)がパナマ沖で2隻の沈没船を発見しました。 本人曰く「これはフランシス・ドレイクが死亡した直後に沈められた船だ!きっとこの近くにドレイクの棺もある」。 2隻はElizabeth号とDelight号だそうです。 &ref(フランシス・ドレイク_最後の航海(棺).JPG)Pat Croceさんと沈没船 } #endregion ---- ----

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