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#contents_line(level=2,sep=/) *イングランド王国 イングランドは1541年[[王ヘンリー8世>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England]](女王エリザベス1世の父親)から勝手にアイルランド王も名乗ってます。 女王エリザベス1世が亡くなった1603年スコットランド王[[ジェームズ6世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]がイングランドも統治。 1707年合併して[[グレートブリテン王国>http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Great_Britain]]。1801年アイルランド王国も合併して[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国>http://en.wikipedia.org/wiki/United_Kingdom_of_Great_Britain_and_Ireland]]になります。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_England]] &ref(イングランド王国.JPG) *イングランド &ref(イングランド.JPG) **ランズ・エンド ペンウィズ半島の左端っこにあるランズ・エンドは、[[ブリテン島>http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Britain]]([[ブリテン諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Isles]]で一番大きい島)の最西端です。 イギリスの最西端はもうちょっと左にある[[シリー諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Isles_of_Scilly]]。 2012年ロンドン・オリンピックの聖火リレーはランズ・エンドからスタートしてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Land%27s_End]] &ref(イングランド_ランズ・エンド.JPG) **エディストーン ナイジェルも避けるエディストーンはプリマスの22.5km南にある岩礁です。イギリス海峡からプリマス港に入る時にとっても危険。 座礁したらアウト。 ってことで、灯台を建築。引退したスミートン灯台の先っぽ([[スミートン・タワー>https://en.wikipedia.org/wiki/Smeaton%27s_Tower]])は[[ホーの丘>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Hoe]]にあります。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Rocks]] |&ref(イングランド_エディストーン.JPG,,height=200)|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[歴代の灯台>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Lighthouse]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):1698-1703年|ウィンスタンレイ灯台(Winstanley's lighthouse)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1705-1755年|ラディヤード灯台(Rudyard's lighthouse)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1759-1877年|スミートン灯台(Smeaton's lighthouse)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1882年-現在|ダグラス灯台(Douglass's lighthouse)| *イングランドとフランス &ref(イングランドとフランス.JPG) **白い崖 白い崖はイングランド南東部に広がる、白くて柔らかいチョーク(石灰質プランクトンの遺骸)の壁です。 有名な『ドーバーの白い崖』は最高110mの高さで、1年に1cmくらい成長。たまに崩壊するからご注意。ここから落ちたら痛いです。 昔ブリテン島(イングランドがある島)が『アルビオン』と呼ばれたのは、白い崖のalbus(ラテン語:白い)が語源。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/White_Cliffs_of_Dover]] &ref(イングランドとフランス_白い崖.JPG) #region(close,イギリスのスゴイ自然ベスト10) こんなスゴイのに3位だなんて…。 BBC出版のTV番組雑誌『Radio Times』2005年の調査です。 |BGCOLOR(lightgrey):1|Dan yr Ogof(ダンアオゴヴ鍾乳洞)|BGCOLOR(lightgrey):2|Cheddar Gorge(チェダー渓谷)| |BGCOLOR(lightgrey):3|White Cliffs of Dover(ドーバーの白い崖)|BGCOLOR(lightgrey):4|Giant's Causeway(ジャイアンツ・コーズウェー)| |BGCOLOR(lightgrey):5|Jurassic Coast(ジュラシック・コースト)|BGCOLOR(lightgrey):6|Loch Lomond(ローモンド湖)| |BGCOLOR(lightgrey):7|Cwm Idwal(イドゥアル谷に囲まれた湖)|BGCOLOR(lightgrey):8|The Island of Staffa(スタファ島)| |BGCOLOR(lightgrey):9|St Kilda(セントキルダ島)|BGCOLOR(lightgrey):10|Lundy Island(ランディ島)|    #endregion **イングランド領カレー イングランド領カレーはイングランド王[[エドワード3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_III_of_England]]が1346年[[カレー包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1346)]]でゲトした大陸唯一のイングランド領です。 イングランドにとっての「重要な軍事拠点」。逆にフランスにとっての「致命的な弱点」。 ってことで、ギーズ公[[フランソワ>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis,_Duke_of_Guise]]が1558年[[カレー包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1558)]]で奪還。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Pale_of_Calais]] &ref(イングランドとフランス_イングランド領カレー.JPG)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Central Europe about 1477」(1926年:The Historical Atlas) *プリマス &ref(プリマス.JPG) **ホーの丘 ホーの丘はプリマスの公共スペース。伝説によると[[巨人ゴグとマゴグ>https://en.wikipedia.org/wiki/Gog_and_Magog]]が白い石灰岩を掘って芝地を露出させたそうです。 うーん、16世紀の画が見つからない…。 1588年[[アルマダ海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]でスペイン艦隊がイングランドに現れたとき[[フランシス・ドレイク>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]]はここで[[ボウルズ>https://en.wikipedia.org/wiki/Bowls]]をやってました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Hoe]] &ref(プリマス_ホーの丘.JPG) 上側:ホーの丘(21世紀:[[Mount Batten>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Hoe]]から) 左下:Thomas Allom画「The Hoe&Citadel、Plymouth - The Regatta Starting」(1831年) 右下:Paul Girardet画「The Armada is in Sight!」(1882年) #region(close,案内マップ) [[ロイヤル城塞>http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Citadel,_Plymouth]](シタデル)は1660年代後半に建てられた[[プリマス・サウンド湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Sound]]を見渡す城塞。F&B時代は砦が建ってます。 プリマス・ドームは歴史展示場。 2013年資金不足になって現在は有名なシェフ[[Gary Rhodes>https://en.wikipedia.org/wiki/Gary_Rhodes]]所有のレストランになってます。なんと!ホーの丘の先っぽは[[プール>https://en.wikipedia.org/wiki/Tinside_Pool]]。 &ref(プリマス_ホーの丘(案内マップ).PNG) #blockquote(){&u(){&bold(){スミートン・タワー}} [[スミートン・タワー>https://en.wikipedia.org/wiki/Smeaton%27s_Tower]](1759-1877年)はエディストーンに建てられた灯台です。土木工学者[[ジョン・スミートン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Smeaton]]が設計。 土台の岩が波で浸食されて1877年引退。 現在は記念に灯台の先っぽ(高さ約22m)がホーの丘に移動。ランタン室からプリマス・サウンド湾と街を見渡せます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Smeaton%27s_Tower]] &ref(プリマス_ホーの丘(スミートン・タワー).JPG,,height=200) } #blockquote(){&u(){&bold(){ハリエニシダ(ゴース)とヘザー(ヒース)}} 黄色の[[ハリエニシダ>http://en.wikipedia.org/wiki/Ulex_europaeus]]、紫色の[[カルーナ属ヘザー>https://en.wikipedia.org/wiki/Calluna]]や[[エリカ属ヘザー>https://en.wikipedia.org/wiki/Erica]]はヨーロッパの寒くてジメジメした[[荒地>https://en.wikipedia.org/wiki/Heath]]に群生します。 背が低くてトゲトゲ。 21世紀ホーの丘には咲いてないっぽい。こちらは[[マン島>https://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_Man]](女王エリザベス2世が所有)のハリエニシダとヘザーです。 &ref(プリマス_ホーの丘(ハリエニシダとヘザー).JPG) ハリエニシダは「和名:ハリエニシダ(針金雀枝)」「英名:ゴース」です。明治初期に日本へ渡来して河川敷などに生息。 繁殖力が強い困り者。 観たことない方も「木からハリエニシダの茂みに落ちて棘が刺さった[[くまのプーさん>https://en.wikipedia.org/wiki/Winnie-the-Pooh]]」で観てるかもしれません。 &ref(プリマス_ホーの丘(ハリエニシダとヘザー_くまのプーさん).JPG)[[A・A・ミルン>https://en.wikipedia.org/wiki/A._A._Milne]]著「[[Winnie-the-Pooh >https://en.wikipedia.org/wiki/Winnie-the-Pooh_(book)]]」(1926年:イギリス) ヘザー(ヒース)はすごーい種類があります。ヘザーとヒースの違いを調べたらいっぱいあり過ぎてナニガナイヤラ。 ちなみにヒースには[[荒地>https://en.wikipedia.org/wiki/Heath]]って意味もアリ。 ご興味ある方は[[イギリスの花>https://en.wikipedia.org/wiki/County_flowers_of_the_United_Kingdom]]や[[コーンウォールの花>https://en.wikipedia.org/wiki/Flora_and_fauna_of_Cornwall]]をどうぞ。日本だと「エリカ(漢字ナシ)」でお馴染みかも。 } #endregion **バックランド・アビー バックランド・アビーは1278年デボン伯爵夫人[[Amice de Clare>http://en.wikipedia.org/wiki/Amice_de_Clare]]が建築した[[シトー会>http://en.wikipedia.org/wiki/Cistercians]](カトリック教会の修道会)の修道院です。 英国国教会を作った王ヘンリー8世は、カトリック教会の排除で修道院も没収。 [[リチャード・グレンヴィル>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Grenville]](ウォルター・ローリーの従兄弟)が購入して住居に改造します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Buckland_Abbey]] &ref(プリマス_バックランド・アビー.JPG) リチャード・グレンヴィルは[[ロアノーク植民地>http://en.wikipedia.org/wiki/Roanoke_Colony]](北アメリカの植民事業)に失敗。1581年フランシス・ドレイクに売却します。 ドレイクの子孫は1946年までここに居住。 21世紀は誰でも訪問オケ。サー・フランシスの[[ドレイクの太鼓>https://en.wikipedia.org/wiki/Drake%27s_Drum]]もケースに入って展示中です。 **プリマスの市壁 プリマスの[[市壁>http://en.wikipedia.org/wiki/Defensive_wall]]は15世紀初期には街を囲んでいたらしいです。外敵の攻撃から街を守る壁なんだけど…街を守るには軟弱。 1593年ジョン・スパーク市長は「スペイン人が街を燃やすってウワサが!」と強化を嘆願。 枢密院は嘆願をスルー。とーってもその後、市壁は次々と道路に立て替えられて1765年消滅しました。 &ref(プリマス_プリマスの市壁.JPG) 左側:[[Wenceslaus Hollar>https://en.wikipedia.org/wiki/Wenceslaus_Hollar]]画「Siege of Plymouth」(1643年) 右側:消滅したホー・ゲート(21世紀:hoegate street) **ドレイクス島(セント・ニコラス島) ドレイクス島はセント・ミカエル島→セント・ニコラス島→ドレイクス島(ここ100年前頃)と名前が変わった島です。 1135年島に[[セント・ミカエル>http://en.wikipedia.org/wiki/St_Michael]]教会を建築。その後[[セント・ニコラス>http://en.wikipedia.org/wiki/St_Nicholas]]教会になって島の名前も変更。 ゴールデン・ハインド号は1577年ここから出発して1580年ここに帰国しました。1583年フランシス・ドレイクは島の総督に就任。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Drake%27s_Island]] &ref(プリマス_ドレイクス島.JPG,,height=200)ドレイクス島([[エッジカム山>http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Edgcumbe_Country_Park]]から) **狼煙台(のろしだい)/ビーコン イギリスのあちこちにある小高い丘[[ビーコン・ヒル>http://en.wikipedia.org/wiki/Beacon_Hill]]のように地名に「ビーコン」が付く場所は狼煙台の名残だそうです。 [[灯台>https://en.wikipedia.org/wiki/Lighthouse]]が登場するまでは狼煙台が灯台。 プリマスのどこに狼煙台があるのか分かりませんでした。街の中にBeacon Parkという地名があったけど詳細不明。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Beacon]] &ref(プリマス_狼煙台.JPG) 左側:プリマスのどこかにある狼煙台 右側:映画監督[[シェーカル・カプール>https://en.wikipedia.org/wiki/Shekhar_Kapur]]の狼煙台コンセプト(2007年:[[Elizabeth:The Golden Age>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth:_The_Golden_Age]]) **乾ドック/船渠(せんきょ) F&B時代の乾ドックはぜーんぜん分かりませんでした。どうも街の近くにプリマス・ドックというのがあったみたいです。 アルマダ海戦の後、イングランドはドレーク海軍基地(21世紀のデヴォンポート海軍基地)を建築。 1690年[[王ウィリアム3世>http://en.wikipedia.org/wiki/William_III_of_England]]が「ここは狭い!」っとデヴォンポートへ移築。ヨーロッパ初の石製(それまでは木製)の階段式ドック。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/HMNB_Devonport]] &ref(プリマス_乾ドック.JPG)デヴォンポート海軍基地(1765年頃) [[乾ドック>http://en.wikipedia.org/wiki/Drydock]]は船を造ったり、修理したりする工場。 この浮式ドックは著者不明『Descrittione dell'artifitiosa machina』に描かれてるのもで、特許を取るための解説らしいです。 上からロープで船を引き上げる仕組み。たいへんだー! &ref(プリマス_乾ドック(浮式).JPG,,height=200)浮式ドック(1560年:イタリアのヴェニス) **セント・アンドリュー教会 セント・アンドリュー教会は15世紀中頃に建てられた教会です。 第二次世界大戦の真っ最中、1941年3月ナチス・ドイツの爆撃([[プリマス・ブリッツ>http://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Blitz]])で大きく破損。 1957年に修復(というか新築)が完成しました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Minster]] &ref(プリマス_セント・アンドリュー教会.JPG) 左側:プリマス・ブリッツで破壊されたセント・アンドリュー教会(1940年代) 右側:[[William George Hoskins>https://en.wikipedia.org/wiki/William_George_Hoskins]]著「A New Survey of England:Devon」(1954年) **ハーフ・ティンバー様式のお家 ハーフティンバー様式は材木(Timber)で組んだ軸組(Framing)の間を漆喰、煉瓦、石で埋める[[木骨造建築>https://en.wikipedia.org/wiki/Timber_framing]]です。 軸組は隠さないでお披露目。 右側は16世紀プリマスに建てられた私掠船船長&商人[[William Parker>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Parker_(privateer)]]のハーフ・ティンバー様式のお家[[Merchant’s House, Plymouth>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_museums_in_Devon]]。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_architecture]] &ref(プリマス_お家.JPG) #region(close,お家の中はどうなってるの?) こちらは[[チューダー朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_period]](1485-1603年)のハーフ・ティンバー様式のお家。日本人だと強度を心配しちゃいますよね。 ちなみにイギリスは地震が少ないらしい。 庶民のお家は軸組の間を[[荒打ち漆喰>https://en.wikipedia.org/wiki/Wattle_and_daub]]、貴族やお金持ちは[[煉瓦>https://en.wikipedia.org/wiki/Brick]]や[[石>https://en.wikipedia.org/wiki/Stonemasonry]]で埋めます。でも貴族のお家は石造りの方が多いんだって。 &ref(プリマス_お家(お家の中).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){荒打ち漆喰ってなに?}} 荒打ち漆喰は古代から皆さんが利用してる木で編んだ[[木舞(こまい)>https://en.wikipedia.org/wiki/Wattle_(construction)]]に粘着性の材料を塗り付ける工法です。 日本でいう土壁。 ハーフ・ティンバー様式は粘土、[[チョーク(石灰岩)>https://en.wikipedia.org/wiki/Chalk]]、粘着剤(草や藁に水や尿を混ぜたモノ)の混合物を塗り付けます。 &ref(プリマス_お家(お家の中_荒打ち漆喰).JPG) プリマスに建てられた私掠船船長&商人William Parkerのお家はたぶん壁の外側を更に[[石灰岩>https://en.wikipedia.org/wiki/Limestone]]で覆ってるんだと思います。 その方が壁の保温性も耐久性も向上。 より耐久性がある煉瓦が一般的になると、荒打ち漆喰より煉瓦の方が人気者になっていきます。 &ref(プリマス_お家(お家の中_荒打ち漆喰2).JPG) } #blockquote(){&u(){&bold(){羽目板でお部屋がポカポカ}} ハーフ・ティンバー様式のお家は部屋の内壁も「軸組と荒打ち漆喰のまま」でご使用できます。素敵なお部屋♥ でも軸組の材木は伸縮するから隙間ができる。 生活に余裕がある方は内壁に[[羽目板>https://en.wikipedia.org/wiki/Clapboard_(architecture)]]や[[漆喰塗り>https://en.wikipedia.org/wiki/Plaster]]でシールド(ceiled)すると保温性が向上します。見た目もスッキリ。 &ref(プリマス_お家(お家の中_羽目板).JPG) 左側:シールドしてないウィリアム・シェイクスピアが通ったグラマースクール[[King Edward VI School>https://en.wikipedia.org/wiki/King_Edward_VI_School,_Stratford-upon-Avon]] 右側:シールドしてる[[ウィリアム・シェイクスピアの生家>https://en.wikipedia.org/wiki/Shakespeare%27s_Birthplace]] } #endregion #region(close,ついでにウィリアム・シェイクスピアの生家) [[ウィリアム・シェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Shakespeare]](1564–1616年)は[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン>https://en.wikipedia.org/wiki/Stratford-upon-Avon]]にある父[[ジョン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Shakespeare]]のお家で生まれました。 16世紀中頃に建築されたハーフ・ティンバー様式のお家。 シェイクスピアは幼少時代をここで過ごしたと考えられてます。1601年父ジョンが亡くなってシェイクスピアが相続。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Shakespeare%27s_Birthplace]] &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){平面図}} シェイクスピアの生家は簡素な間取りで、家族の居住部屋と父ジョンの仕事部屋(手袋製造とウール販売)に分かれてます。 16世紀後半としてはかなり大きいお家。 地元[[アーデンの森>https://en.wikipedia.org/wiki/Arden,_Warwickshire]]のオークと[[ウィルムコート>https://en.wikipedia.org/wiki/Wilmcote]]の青灰色の石(Blue-grey stone)で建築。軸組の間は荒打ち漆喰です。 &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家_平面図).JPG)Richard Savage著「Catalogue of the books, manuscripts, works of art, antiquities and relics at present exhibited in Shakespeare's birthplace」(1910年) Joan Hart’s Cottageは後から増築。シェイクスピアが住んでいた頃は長方形のお家です。 1階は左から暖炉付き[[応接間>https://en.wikipedia.org/wiki/Parlour]]、炉(Open hearth)付き続き部室(Adjoining hall)、廊下(Cross passage)、仕事部屋。 2階は3部屋。階段は続き部室にあると考えられてます。 &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家_平面図2).JPG)1945年 } #blockquote(){&u(){&bold(){ウィリアム・シェイクスピアが相続したお家は宿に変身}} 既に持ち家[[New Place>https://en.wikipedia.org/wiki/New_Place]]があったシェイクスピアは1601年父ジョンが亡くなって相続したお家をLewis Hiccoxに貸します。 Hiccoxはここで宿The Maidenheadを経営。 Joan Hart’s Cottageは家族の居住部屋。お家は1616年シェイクスピアが亡くなると妹[[ジョアン・ハート>https://en.wikipedia.org/wiki/Joan_Shakespeare]]が相続します。 &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家_宿).JPG) } #endregion *ロンドン &ref(ロンドン.JPG) **16世紀のロンドン もともとのロンドンは建物の半分がカトリック教会のお屋敷や修道院です。人口の1/3が修道士。 1534年王ヘンリー8世は[[英国国教会へ宗教改革>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Reformation]]。 ってことで、カトリック教会を排除したついでにカトリック教会が持ってるお屋敷も修道院も建物はぜーんぶ没収します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_London]] &ref(ロンドン_16世紀のロンドン.JPG,,height=300)1580年頃 スペインは重要な商業都市アントワープ(ネーデルラント)を破壊。ロンドンはヨーロッパの重要な商業都市に様変わりします。 ネーデルラントやフランスのプロテスタントもロンドンへガンガン亡命。 ロンドンは街も人口もガンガン大きくなっていきます。1530年50,000人だった人口は、1600年200,000人に増加。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_London]]。 #region(close,ちょびっとだけど街はこんな感じ) ジェフリーが「剣の腕を磨くぜ!」と言ってた「bloody bowl alley:血の杯横丁」は21世紀の「Hanging Sword Alley」っぽいです。 剣の学校があった場所。 それ以上は分かりませんでした。 |>|>|BGCOLOR(lightgrey):ロンドンの街並み(イメージ)| |>|>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(CG街並み).PNG)| |>|>|BGCOLOR(lightgrey):ロンドン橋の入り口(イメージ)| |>|>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(CGロンドン橋).JPG)| |>|>|BGCOLOR(lightgrey):[[セント・ポール大聖堂>http://en.wikipedia.org/wiki/Old_St_Paul%27s_Cathedral]](前がポールズヤード?)| |>|>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(ポールズ・ヤード).JPG,,height=200)| |>|BGCOLOR(lightgrey):劇場|BGCOLOR(lightgrey):劇場『[[薔薇座>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rose_%28theatre%29]]』(1592年)| |>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(劇場).JPG,,height=200)|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(劇場薔薇座).JPG,,height=200)| &ref(ロンドン_16世紀のロンドン(通り).JPG,,height=200)通りでサッカー &ref(ロンドン_16世紀のロンドン(居酒屋).JPG,,height=200)居酒屋で飲んだりゲームしたり(16世紀:版画) &ref(ロンドン_16世紀のロンドン(タイバーン).JPG,,height=200)[[タイバーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Tyburn]] #endregion **ホワイト・ホール宮殿 ホワイト・ホール宮殿は白色の石を使った建物。もともと[[ヨーク大司教>https://en.wikipedia.org/wiki/Archbishop_of_York]]のロンドン公邸「York Place」です。 1240年頃ヨーク大司教[[ウォルター・ド・グレイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_de_Gray]]は政治の中心[[ウェストミンスター宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Westminster]]の近所に土地を購入して邸宅を建築。 ヨーク大司教になった[[トマス・ウルジー枢機卿>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Wolsey]]が手間暇かけて大邸宅にグレードアップします。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Whitehall]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿.JPG)[[John Thomas Smith>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Thomas_Smith_(engraver)]]著「Antiquities of Westminster」(1807年) ある日王ウルジー枢機卿は「ローマ教皇へ王様の離婚を説得」で失敗。怒ったヘンリー8世はウルジー枢機卿の全財産を没収します。 どさくさに紛れて財産じゃないロンドン公邸まで没収。 政治の中心はホワイト・ホール宮殿に移ります。1691年と1698年の火災で宮殿の大半が焼失。お金が無くて再建できませんでした。 #region(close,平面図) 敷地は東京ドーム7個分(50坪の一戸建て:563軒、70平米のマンション:1329戸)の広さで、部屋は1,500以上です。 [[ボウルズ芝生>https://en.wikipedia.org/wiki/Bowling_green]]、[[ジュ・ド・ポーム>https://en.wikipedia.org/wiki/Real_tennis]]、[[闘鶏場>https://en.wikipedia.org/wiki/Cockfight]]、[[馬上試合場>https://en.wikipedia.org/wiki/Tiltyard]]も完備。 ホワイト・ホール宮殿は1つの建物というより小さな街って感じです。女王エリザベス1世がどこに住んでるでしょね? &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図).JPG)George Vertue画「Plan of the Old Palace of Whitehall as it was in 1680」 #blockquote(){&u(){&bold(){バンケティング・ハウス}} バンケティング・ハウスはホワイト・ホール宮殿の火災で唯一残った晩餐会や舞踏会をする建物です。 [[イニゴー・ジョーンズ>https://en.wikipedia.org/wiki/Inigo_Jones]]の設計で1622年完成。 イングランド初の[[新古典主義建築>https://en.wikipedia.org/wiki/Neoclassical_architecture]]。イングランド初の窓ガラスに[[クラウンガラス>http://en.wikipedia.org/wiki/Crown_glass_%28window%29]]を使用してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Banqueting_House,_Whitehall]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_バンケティング・ハウス).JPG) 新古典主義建築は18世紀に誕生した荘厳さや崇高美を備えた建築です。外観は地味だけど中はとーっても豪華。 21世紀は庶民の皆さんが結婚式会場にご利用。 メインホールの天井は[[ピーテル・パウル・ルーベンス>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Paul_Rubens]]画「The Apotheosis of James I」(1635年)です。 &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_バンケティング・ハウス_メインホール).JPG)メインホール } #blockquote(){&u(){&bold(){クラウンガラスってなに?}} クラウンガラスは19世紀までご使用した初期の窓ガラス。熱いガラスをくっつけた棒をグルグル回して遠心力で広げます。 1320年代フランスのガラス職人が発明して主に[[ルーアン>https://en.wikipedia.org/wiki/Rouen]]で製造。もっちろん企業秘密。 イングランドは1678年から自分で製造します。あと[[馬車>https://en.wikipedia.org/wiki/Carriage]]や鏡に使われるガラスはプープー吹いて広げる高価な[[吹きガラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Blown_plate_glass]]。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Crown_glass_%28window%29]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_クラウンガラス).JPG) 左側:クラウンガラスの作り方(1751–72年:フランスの百科事典[[Encyclopédie>https://en.wikipedia.org/wiki/Encyclop%C3%A9die]]) 右側:現存するクラウンガラス(イギリスのお家) イングランドは1567年Jean Carré(アンドワープ)にvessel glassとgreen glassのガラス製造の特許を与えてます。 瓶や鏡はvessel glass、窓ガラスはgreen glassをご使用。 ステンドグラスはフランスから輸入。窓は21世紀みたいに大きいガラス1枚じゃなくて小さいガラスの組合せっぽいです。  [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Early_modern_glass_in_England]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_クラウンガラス2).JPG) 左側:ガラス工場(1751–72年:フランスの百科事典[[Encyclopédie>https://en.wikipedia.org/wiki/Encyclop%C3%A9die]]) 右側:たぶんElizabethan window(1604年:作者不明「[[The Somerset House Conference, 1604>https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_House_Conference_(painting)]]」) } #blockquote(){&u(){&bold(){ノット・ガーデン}} ノット・ガーデンは[[エリザベス朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabethan_era]]に誕生した幾何学模様のお庭です。[[ルネサンス期>https://en.wikipedia.org/wiki/Renaissance]](14-17世紀)は四角が流行。 香りの良いお花やハーブを植えて通路にはお高級な砂利を施工。 ホワイト・ホール宮殿はバンケティング・ハウスの隣にある幾何学模様のお庭がノット・ガーデンでしょか? [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Knot_garden]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_ノット・ガーデン ).JPG) 右側:ホワイト・ホール宮殿のノット・ガーデン? 左側:ハットフィールド宮殿オールド・パレスのノット・ガーデン } #endregion **ウェストミンスター宮殿 11世紀に建てられた最初のウェストミンスター宮殿はイングランド王のお家です。1512年の火災で宮殿のアチコチ焼失。 ってことで、王ヘンリー8世はお家をホワイト・ホール宮殿に引っ越し。 焼失を免れたウェストミンスター・ホールを[[イングランド議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]と[[王立裁判所>https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Courts_of_Justice]]に使用します。[[星室庁(Star Chamber)>http://en.wikipedia.org/wiki/Star_Chamber]]もこちら。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Westminster]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿.JPG)Henry William Brewer画「Palace of Westminster in the reign of Henry VIII」 どんどん拡大したウェストミンスター宮殿は1834年の火災で宮殿の大半が焼失します。 焼失を逃れたのはウェストミンスター・ホール、[[聖ステファン教会>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Stephen%27s_Chapel]]回廊と[[聖メアリー礼拝堂地下室>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Mary_Undercroft]]、[[ジュエル・タワー>https://en.wikipedia.org/wiki/Jewel_Tower]]だけ。 1840年から30年かけて再建。21世紀は[[貴族院>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Lords]]と[[庶民院>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Commons_of_the_United_Kingdom]]の[[イギリス議会議事堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_the_United_Kingdom]]に使ってます。 #region(close,平面図) F&B時代のウェストミンスター宮殿はもう少し小規模。肝心の星室庁がどこにあるのかは分かりませんでした。 たぶんウェストミンスター・ホール以外のどこか。 大きな画は[[British Library>http://www.bl.uk/onlinegallery/index.html]](Foundation plan of the ancient Palace of Westminster)をどうぞ。 &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(平面図).JPG)I. T. Smith画「plan of the ancient Palace of Westminster」(1807年) #blockquote(){&u(){&bold(){星室庁(Star Chamber)}} 星室庁は15世紀後半~17世紀中頃(1641年頃)まで活動した一般の裁判所では扱えない案件を裁く特別な裁判所です。 権力者の意に沿わない貴族達もビシバシお裁き。 [[John Stow>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Stow]]著「Survey of London」(1598年)によると天井は金色の星で飾られてます。これは中世の一般的手法。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Star_Chamber]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(平面図_星室庁).JPG)こんな感じ? 左側:作者不明「Interior of the Star Chamber, Westminster」(1836年) 右側:青色の天井に金色の星(イタリア:[[スクロヴェーニ礼拝堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Scrovegni_Chapel]]) 17世紀から被告人は強制的に「[[星室庁の誓い>https://en.wikipedia.org/wiki/Ex_officio_oath]](私は全ての質問に正直に答えます)」を宣誓させられます。 自分に不利な質問でも必ず答えが必要ってコト。 いちおう「[[自己負罪拒否特権>https://en.wikipedia.org/wiki/Self-incrimination]](私は答えたくありません)」はあるけど、黙秘や原告人に不満な答えだと偽証罪になります。 } #endregion #region(close,女王エリザベス1世はウェストミンスター宮殿へ歩いて行くの?) 女王エリザベス1世がどうやってウェストミンスター宮殿へ行ったのかは分からなかったけど、たぶん徒歩じゃないですよね。 こちらは輿(こし)に乗った女王エリザベス1世。 スペインは植民地のインドやメキシコで使われていた輿を導入。その後フランスやイングランドで登場します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Litter_(vehicle)]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(女王エリザベス1世).JPG)[[Robert Peake the elder>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Peake_the_elder]]画「Procession portrait of Elizabeth I of England」(1600年頃) #blockquote(){&u(){&bold(){それともコーチ(馬車)?}} コーチ(馬車)がイングランドに登場したのは16世紀中頃です。 フランスを旅行した[[第19代アランデル伯爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_FitzAlan,_19th_Earl_of_Arundel]](レディ・アンの夫フィリップ・ハワードの祖父)がイングランドに紹介。 こちらの[[ノンサッチ宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Nonsuch_Palace]]は1538年王ヘンリー8世が建てたお城です。左は女王エリザベス1世のコーチ? [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Coach_%28carriage%29]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(女王エリザベス1世_コーチ).JPG)[[Joris Hoefnagel>https://en.wikipedia.org/wiki/Joris_Hoefnagel]]画「Nonsuch, Surrey. View from the south」(1568年) } #endregion **ニューゲート監獄 ニューゲート監獄(1188-1902年)は[[ロンドン市城壁>https://en.wikipedia.org/wiki/London_Wall]]に7つある門の1つ[[ニューゲート>https://en.wikipedia.org/wiki/Newgate]]の敷地にある刑務所です。 1188年[[王ヘンリー2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_II_of_England]]の命令で建築。 イギリス史上最悪の刑務所で賄賂や虐待が横行してます。これを改善したのが19世紀キリスト教の慈善家[[エリザベス・フライ>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Fry]]。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Newgate_Prison]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄.JPG) 左側:Henry William Brewer画「Poster of Newgate in the sixteenth century」 右側:[[5ポンド紙幣>https://en.wikipedia.org/wiki/Banknotes_of_the_pound_sterling]]のエリザベス・フライ(発行:2002年5月21日-現在) #region(close,平面図(残酷な画があるのでご注意下さい)) 最初のニューゲート監獄(建築;1188年)は1236年にかなり大きく拡張工事しました。1666年[[ロンドン大火>https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Fire_of_London]]で焼失。 1672年ニューゲート通りの南側に再建。 こちらは1782年に再建した[[George Dance the younger>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Dance_the_Younger]]設計のニューゲート監獄です。 &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図).JPG)George Dance the younger画「Newgate Prison」(1800年) この監獄は真ん中から左右にお貧乏の「Common」と快適な「State area」に分かれてます。それぞれ重罪犯罪者と債務者で区別。 死刑囚は狭くて薄暗い独房。 囚人との面接は[[ロンドン市長>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Mayor_of_London]]か[[町会議長(?)>https://en.wikipedia.org/wiki/Sheriff]]の許可が下りれば可能です。 #blockquote(){&u(){&bold(){最初のニューゲート監獄}} ニューゲート監獄は中世の法規(Medieval statute)によって選任された2人の町会議長(?)が管理してます。 実際の仕事は町会議長が民間の下請け「Keepers(Gaolers)」へ発注。 Keepersは囚人からお金を貰って便宜を図ってもオケなので、ロンドンでの美味しい仕事の1つです。 &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図_牢獄).JPG)こんな感じ? 左側:J. Damhoudere画「justice, penitentiary system, prison, admission of a femal prisoner」(16世紀:フランス) 右側:J F Slattery著「Wisdom and Rubies: A tale of crime and misadventure in nineteenth century London」 ってことで、必然的にKeepersは「おらおら!お金払わないと虐めちゃうよぉ」と囚人を虐待するようになります。 鎖をはめた新入り囚人はお金を貰わないと外してもらえない。 悪名高いKeepersのHugh De Croydon(14世紀)は囚人を恐喝しすぎて有罪判決を受けちゃってます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ラックってなに?}} ラックは拷問装置の1つ。長方形の木箱の両端(または片方)に付いたローラで犠牲者をにょーんと伸ばします。 とっても痛い。 この様子を他の囚人に見せるのも効果的です。他にもアレコレな装置があるけど以下略ってことで。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Rack_(torture)]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図_ラック).JPG) 左側:イングランド女王[[メアリー1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England]]の宗教政策でラックにかけられたプロテスタント(1784年:John Foxe著「The Book of Martyrs」) 右側:作者不明「The Prison」(16世紀:イタリア) } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにタイバーン}} タイバーンは「タイバーンといえば処刑」「処刑といえばタイバーン」の公開処刑場です。 ニューゲート監獄で取り調べを受けた囚人は[[聖ジャイルズ教会>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Giles_in_the_Fields]]から[[オックスフォード・ストリート>https://en.wikipedia.org/wiki/Oxford_Street]]を通ってタイバーンへ。 ご遺体は近所に埋められるか解剖学者の献体になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Tyburn]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図_タイバーン).JPG)[[Raphael Holinshed>https://en.wikipedia.org/wiki/Raphael_Holinshed]]著「First Volume of the Chronicles of England」(1577年) 最古の記録は1196年貧民救済活動家[[ウィリアム・フィッツ・オズバーン>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Fitz_Osbert]]です。裸で馬に引かれてタイバーンの小川で絞首刑。 絞首台は1571年[[マーブル・アーチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Marble_Arch]](21世紀)辺りへ移動。 16世紀~1759年の絞首台は「Tyburn Tree:三角形の絞首台」です。絞首台は1783年ニューゲート監獄へ移動。 } #endregion #region(close,クリンク監獄(残酷な画があるのでご注意下さい)) クリンク監獄(12世紀-1780年)は[[ウィンチェスター宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester_Palace]](サザーク)の隣にある悪名高いイギリス最古の刑務所です。 どちらも[[ウィンチェスター主教>https://en.wikipedia.org/wiki/Bishop_of_Winchester]]が所有。 16世紀は主教に歯向かう異教徒や宗教犯罪の人を収監。その後お金を返さない人の[[債務者監獄>https://en.wikipedia.org/wiki/Debtors%27_prison]]になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Clink]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(クリンク監獄).JPG) 左側:[[Wenceslaus Hollar>https://en.wikipedia.org/wiki/Wenceslaus_Hollar]]?画「Winchester Palace」(1660年) 右側:中世の手足枷(The Clink Prison Museum) #blockquote(){&u(){&bold(){地獄の沙汰も金次第}} 看守はお給料がすごく安いので囚人にベッド、寝具、ロウソク、薪炭を貸し出して収入を補ってます。飲食物は定価の2倍。 囚人の友人からのワイロも大好き。 お金がナイ囚人は支払いのために外に出て働いたり物乞いをしてもオケ。女性は売春宿で働いたりしてます。 &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(クリンク監獄_地獄の沙汰).JPG)[[William Hogarth>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Hogarth]]画「[[放蕩一代記>https://en.wikipedia.org/wiki/A_Rake%27s_Progress]]」(1732-1735年) こちらはギャンブルで財産を全て失って借金を抱えたトム・レイクウェルが[[フリート債務者監獄>https://en.wikipedia.org/wiki/Fleet_Prison]]に収監されたシーンです。 看守と小男はトムに金銭を要求中。 目を見開いてアワアワしてるトムの顔には狂気の兆候が表れてます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにベドラム}} ベドラムは現存するヨーロッパ最古の精神病院。The New Order of St Mary of Bethlem小修道院が1330年病院になりました。 14世紀後半から精神異常者を受け入れたっぽい。 資金繰りが厳しいので1598年利益を上げるために病院を一般人に開放(患者を見世物にする)します。差し入れも歓迎。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Bethlem_Royal_Hospital]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(クリンク監獄_ベドラム).JPG)William Hogarth画「放蕩一代記」(1732-1735年) こちらは精神を病み粗暴になったトム・レイクウェルが精神病院ベドラムに収監されて最後の日々を送っているシーンです。 周囲には音楽家、天文学者、王様、…と思い込んでる患者。 流行のドレスを着たご婦人達が精神病院ベドラムを訪れて患者の奇妙な行動を見物。そーゆー時代です。 } #endregion **劇場 イングランド初の劇場は[[レッド・ライオン>https://en.wikipedia.org/wiki/Red_Lion_(theatre)]](1567–1568年:[[ホワイトチャペル>https://en.wikipedia.org/wiki/Whitechapel]])です。でもあっという間に失敗。 初の成功は大きな劇場[[シアター座>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Theatre]](1576年:[[ショアディッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Shoreditch]])。 シアター座の成功でその後どーんどん劇場が建てられます。ってことで、劇団は劇場、[[宿>https://en.wikipedia.org/wiki/Inn-yard_theatre]]や[[法曹院>https://en.wikipedia.org/wiki/Inns_of_Court]]で公演♥ [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Renaissance_theatre]] &ref(ロンドン_劇場.JPG)薔薇座([[The Rose Playhouse>http://www.rosetheatre.org.uk/]]さんより) #region(close,後援者がいない劇団は「放浪者」) 16~17世紀イングランドの法律は[[浮浪者>https://en.wikipedia.org/wiki/Vagrancy_(people)]](Master less men)を焼印、鞭打ち、軍隊へ徴兵、…などなどの厳しい罰に処します。 ちなみにこの時代は「働けない」「働かない」の区別ナシ。 お仕事が見つからない浮浪者は旅に出て就職活動しなくちゃいけません。地方は浮浪者を歓迎しないからけっこう大変。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Playing_company]] &ref(ロンドン_劇団.JPG)作者不明「Vagrant being punished in the streets in Tudor England」(1536年) ロンドンの公式公演許可が貰えない劇団(俳優の一座)は地方巡業が中心なので「放浪者」の扱いになっちゃいます。 劇団はとーっても立場が弱い。 ちゃんとした後援者が付けば少なくとも「社会のお役に立つプロの劇団(The legal fig leaf)」として認められます。 #blockquote(){&u(){&bold(){エリザベス朝の劇団}} 劇団には約10人の[[出資者>https://en.wikipedia.org/wiki/Shareholder]](株主)がいます。出資者は俳優と裏方を雇用して劇団をマネージメント。 収入の大部分は地方巡業。 最大のコストは王様や貴族の衣装代。脚本家が貰える代金はとーっても安い(21世紀だとスーツ2着分くらい)です。 |&ref(ロンドン_劇団(エリザベス朝).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:F&B時代の劇団|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:後援者| |~|[[海軍大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Admiral%27s_Men]]|[[初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard%2C_1st_Earl_of_Nottingham]]| |~|[[Lord Strange's Men>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Strange%27s_Men]]|[[第5代ダービー伯Ferdinando Stanley>https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinando_Stanley%2C_5th_Earl_of_Derby]]| |~|[[ペンブルック一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Pembroke%27s_Men]]|[[第2代ペンブルック伯Henry Herbert>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Herbert%2C_2nd_Earl_of_Pembroke]]| |~|[[女王一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Elizabeth%27s_Men]]|女王エリザベス1世| |~|[[レスター伯一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Leicester%27s_Men]]|[[初代レスター伯ロバート・ダドリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Dudley,_1st_Earl_of_Leicester]]| |~|[[ウスター一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Worcester%27s_Men]]|[[第3代ウスター伯William Somerset>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Somerset%2C_3rd_Earl_of_Worcester]]| |~|[[サセックス一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Sussex%27s_Men]]|[[第3代サセックス伯Thomas Radclyffe>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Radclyffe,_3rd_Earl_of_Sussex]]| |~|[[セント・ポール少年劇団>https://en.wikipedia.org/wiki/Children_of_Paul%27s]]|Thomas Giles| こちらは[[クリストファー・マーロウ>https://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Marlowe]]著「[[タンバレイン大王>https://en.wikipedia.org/wiki/Tamburlaine]]」(1587-1588年)の本だと思います。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世の女王一座}} #include(【共通】女王一座) } #endregion #region(close,よーし!劇場を建てちゃうぞー!(残酷な画があるのでご注意下さい)) まだ劇場がなかった頃、[[劇団>https://en.wikipedia.org/wiki/Playing_company]]はロンドン中心街にある[[宿>https://en.wikipedia.org/wiki/Inn-yard_theatre]]や[[法曹院>https://en.wikipedia.org/wiki/Inns_of_Court]]で公演してました。地方や海外への巡業もアリ。 1575年ロンドン市長は中心街から全ての役者達を追放。 ってことで、郊外に劇場の建設して大盛況。[[清教徒革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Three_Kingdoms]]で1642年「娯楽は罪」になると公演は禁止、劇場は破壊されます。 &ref(ロンドン_劇場(建築).JPG)[[George Walter Thornbury>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Walter_Thornbury]]著「A Play in a London Inn Yard, in the Time of Queen Elizabeth」(1873年) #blockquote(){&u(){&bold(){カーテン座}} カーテン座(1577–1622年頃)は小区画Curtain Close([[ショアディッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Shoreditch]])にある劇場です。シアター座のご近所。 所有者はたぶんHenry Lanman。 1585年シアター座の所有者[[ジェイムズ・バーベッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Burbage]](有名な俳優[[リチャード・バーベッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Burbage]]の父親)に経営を委託します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Curtain_Theatre]] &ref(ロンドン_劇場(建築_カーテン座).JPG)???画「The View of the City of london from the North towards the South」(1598年頃) [[宮内大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Chamberlain%27s_Men]]は1597~1599年カーテン座を第一劇場にご利用します。 [[ウィリアム・シェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Shakespeare]]脚本「[[ロミオとジュリエット>https://en.wikipedia.org/wiki/Romeo_and_Juliet]]」や「[[ヘンリー五世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_V_(play)]]」を公演。 1599年グローブ座の完成でカーテン座を去ります。 } #blockquote(){&u(){&bold(){薔薇座}} 薔薇座(1587-1606年頃)は[[バンクサイド>https://en.wikipedia.org/wiki/Bankside]]([[サザーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Southwark]])にある劇場です。最初にサザークにできた劇場の1つ。 所有者は[[フィリップ・ヘンズロー>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Henslowe]]。 1585年聖ミルドレッド教区の屋敷Little Rose(バラ園がある14面多角形と茅葺き屋根の2つの建物)を借りて劇場にします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rose_(theatre)]] &ref(ロンドン_劇場(建築_薔薇座).JPG)[[John Norden>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Norden]]画「Map of London」(1593年) ヘンズローは屋敷を倉庫と[[売春宿>https://en.wikipedia.org/wiki/Brothel]]に使用。1587年劇場に変更(舞台会社へ貸したのかも)したっぽいです。 劇場は外径22mの14面多角形で他より小規模。 ってことで、1592年[[ストレンジ卿一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Strange%27s_Men]]と[[海軍大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Admiral%27s_Men]]のためにステージを拡張します。でも使いづらいステージで不評。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにベアガーデン}} ベアガーデン(1576-1682年頃)はサザークにある[[熊攻め>https://en.wikipedia.org/wiki/Bear-baiting]]や[[牛攻め>https://en.wikipedia.org/wiki/Bull-baiting]]の会場です。愛称は「The Paris garden」。 熊や牛が犬と戦うっぽい。 熱烈なファンの女王エリザベス1世は1573年「Master of Her Majesty 's Game at Paris Garden」に任命されてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Beargarden]] &ref(ロンドン_劇場(建築_ベアガーデン).JPG)German School画「Bull and bear Baiting」(?年) ベアガーデンは地図の年代によって位置がズレてるから正確な場所が分からないそうです。 地図を見ても悩まないでね。 } #endregion #region(close,よーし!グローブ座も建てちゃうぞー!) グローブ座(1599-1642年)はサザークにある宮内大臣一座が建てた劇場です。 土地は所有者[[Thomas Brend>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Brend]]の息子達から借地。 1613年火事で焼失して1614年再建。 お名前の由来は古代ローマの文筆家[[ペトロニウス>https://en.wikipedia.org/wiki/Petronius]]の格言「totus mundus agit histrionem:全世界が劇場」かもしれません。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Globe_Theatre]] &ref(ロンドン_劇場(グローブ座).JPG)[[Wenceslaus Hollar>https://en.wikipedia.org/wiki/Wenceslaus_Hollar]]画「Long View of London from Bankside」(1647年) #blockquote(){&u(){&bold(){よーし!テムズ川を渡ってお引っ越しだー!}} 1576年ジェイムズ・バーベッジ(有名な俳優 リチャード・バーベッジ の父親)は[[ショアディッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Shoreditch]]に[[シアター座>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Theatre]]を建てます。 土地は所有者Giles Allenから借地。 Allenは21年の借地期間が終了すると「この劇場も俺のものだ」と主張。とーぜんバーベッジはプンプンです。 &ref(ロンドン_劇場(グローブ座_引っ越し).JPG) 1598年12月28日Allenがクリスマスで帰郷してる間、バーベッジは大工[[Peter Street>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Street_(carpenter)]]達の助けでシアター座を解体します。 解体した木材は[[矯正院>https://en.wikipedia.org/wiki/Bridewell_Palace]]近くの倉庫へ。 翌年の春にテムズ川の対岸へ運んで新しい劇場グローブ座を建築します。たぶん1599年の夏までに完成♥ } #blockquote(){&u(){&bold(){ウィリアム・シェイクスピアもグローブ座の所有者}} グローブ座は[[宮内大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Chamberlain%27s_Men]]の株主6人(最初は[[William Kempe>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Kempe]]を含めた7人)で所有してます。 [[リチャード・バーベッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Burbage]]と[[Cuthbert Burbage>https://en.wikipedia.org/wiki/Cuthbert_Burbage]]がそれぞれ25%。 [[ウィリアム・シェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Shakespeare]]、[[John Heminges>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Heminges]]、[[Augustine Phillips>https://en.wikipedia.org/wiki/Augustine_Phillips]]、[[Thomas Pope>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Pope_(16th-century_actor)]]がそれぞれ12.5%の配分です。 &ref(ロンドン_劇場(グローブ座_所有者).JPG)[[Shakespeare's Globe>https://en.wikipedia.org/wiki/Shakespeare%27s_Globe]](21世紀) 1613年グローブ座はシェイクスピア脚本[[ヘンリー8世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_(play)]]の公演中に大砲が不発。木の梁や藁葺き屋根に着火して焼失します。 現存する記録によると被害者1名。 火がズボンに燃え移ったけどエール瓶で消火したから大事にはならなかったそうです。グローブ座は翌年に再建。 } #endregion **ロンドン橋 ロンドン橋が石の橋になったのは1209年です。それまでは何度も崩壊を繰り返した木製で[[London Bridge is broken down ♪>http://en.wikipedia.org/wiki/London_Bridge_Is_Falling_Down]]。 橋の上に住宅、商店、礼拝堂を建築。 なんか画のテムズ川が激流っぽいけど、水流が狭いアーチを通るので実際すさまじい急流だったそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/London_Bridge]] &ref(ロンドン_ロンドン橋.JPG)Peter Jackson画「Old London Bridge, c 1600」 #region(close,凍るテムズ川) 14~19世紀の地球は[[ミニ氷河期>http://en.wikipedia.org/wiki/Little_Ice_Age]]。昔のテムズ川は広くて流れがゆっくりだったせいもあって凍ってました。 最悪だった1684年の記録では氷の厚さ28cmで輸送が2ヶ月間ストップ。 とはいえ、凍っちゃうもんはしょーがない。王ヘンリー8世はソリで氷上旅行、女王エリザベス1世は氷上祭りを開催します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Thames_frost_fairs]] |>|&ref(ロンドン_ロンドン橋(凍るテムズ川).JPG)映画「[[もうひとりのシェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/Anonymous_(film)]]」(2011年)| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:テムズ川が凍った年(カッコは多少凍った年)|1408、1435| |~|1506、1514、1537、1565、1595| |~|1608、1621、1635、1649、1655、1663、1666、1677、1684、1695| |~|1709、1716、1740、(1768)、1776、(1785)、1788、1795| |~|1814| #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドン橋で余計に凍るテムズ川}} ロンドン橋の狭いアーチはテムズ川の[[潮汐>https://en.wikipedia.org/wiki/Tide]]による浮き沈みを邪魔します。橋の上流側にお水が溜まっちゃう状態。 ってことで、冬になると凍りやすい。 16世紀アーチに揚水ポンプと製粉機の[[水車>https://en.wikipedia.org/wiki/Water_wheel]]が設置されると更に流れが悪くなります。橋を挟んだ両サイドの水位の差は2m。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(凍るテムズ川_氷上祭り2).JPG)Claes Van Visscher画「Panorama of London」(1616年) } #blockquote(){&u(){&bold(){テムズ川が凍ったら氷上祭り}} 氷上祭りの最初の記録は1608年です。最も有名な1683–84年の氷上祭りは[[John Evelyn>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Evelyn]]によると &italic(){&color(silver){「馬車は[[ウェストミンスター>https://en.wikipedia.org/wiki/Westminster]]から[[ミドル・テンプル>https://en.wikipedia.org/wiki/Middle_Temple]](ロンドン橋の近所)へ走って行く。通りには同じような馬車があちこちにいた。テムズ川にはソリ、スケート、牛攻め、馬車レース、人形劇、出店、酒場、…まるで[[古代ローマのバッカス祭>https://en.wikipedia.org/wiki/Bacchanalia]]のようだぁ!」}} とっても賑わってました。牛攻めはブルドッグと雄牛が戦う流血スポーツで1835年禁止。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(凍るテムズ川_氷上祭り).JPG) 左側:T. Dekker画「The great frost」(1608年) 右側:William Warter画「An Exact and Lively Mapp or Representation of Booths and all the varieties of showes and humours upon the Ice on the River of Thames by London」(1684年) 最後の氷上祭りは1814年2月1日から4日間開催。[[ブラックフライアーズ橋>https://en.wikipedia.org/wiki/Blackfriars_Bridge]]の下を象が歩いて渡りました。 そして地球はだんだん温暖に。 1831年すさまじい急流のロンドン橋は破壊。新しい橋は広いアーチで水の流れを自由にしてテムズ川は凍らなくなります。 } #endregion #region(close,16世紀のロンドン橋) ロンドン橋は不規則な間隔で19個のアーチに支えられてます。だから橋の上には建物をいっぱい建てられるのね。 車道(2m×2車線)をカート、ワゴン、馬車、歩行者が通行。 混雑すると渡るのに1時間かかるのでお急ぎの人は有料の渡し船をどうぞ。大型帆船が川を通るときは[[跳ね橋>https://en.wikipedia.org/wiki/Drawbridge]]が上がります。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(16世紀).JPG)Claude de Jongh画「View of London Bridge」(1632年頃) #blockquote(){&u(){&bold(){橋の上には建物がいっぱい}} [[チューダー朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_period]](1485-1603年)はロンドン橋の上に約200の建物が建ってます。7階建てや橋をはみ出す建物まであった。 建物の賃貸は橋の維持費に。 [[聖トマス礼拝堂>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Magnus-the-Martyr]](chapel of St Thomas Becket)は王ヘンリー8世の宗教改革でお家(その後倉庫)になってます。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(16世紀_建物).JPG)Peter Jackson画 ちなみに建物のトイレは橋の欄干(らんかん)に突き出した穴から川へ直行する[[落下式トイレ>https://en.wikipedia.org/wiki/Latrine]]です。ある意味水洗トイレ。 無数にある住宅や商店の穴から川へ…。 1382年頃橋の北側に公衆トイレを作ってるけど16世紀にもあるのかは分かりませんでした。 } #endregion **デットフォード王立造船所 デットフォード王立造船所は英国海軍の重要な造船所&海軍基地です。別名「海軍の揺りかご」。 1513年王ヘンリー8世(女王エリザベス1世の父親)が創立。 その後どーんどん拡大。軍艦が大きくなってくると浅瀬のテムズ川では不便になって1869年に閉鎖します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Deptford_Dockyard]] &ref(ロンドン_デットフォード王立造船所.JPG) 左側:絶賛展示中のゴールデン・ハインド号(1581年頃) 右側:[[John Evelyn>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Evelyn]]画「Map of Deptford Strond or West Greenwich belonging」(1623年) 女王エリザベス1世は世界一周を終えた[[ゴールデン・ハインド号>https://en.wikipedia.org/wiki/Golden_Hind]]をデットフォード王立造船所で公開展示しました。 残念ながら1660年朽ち果てて解体。 1581年[[フランシス・ドレイク>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]]は展示中の船内でナイトの爵位を授与してます。サー・フランシス・ドレイクになったの。 #region(close,ウォルター・ローリーの外套) デットフォード王立造船所はウォルター・ローリーと女王エリザベス1世の伝説「足元の水溜まりに外套を置いた」の候補地です。 この伝説は歴史家[[トーマス・フラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Fuller]]の創作かもしてないってウワサあり。 詳しくは分かりませんでした。とりあえず[[ウォルター・スコット>http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Scott]]著「Kenilworth. A Romance」(1821年)にも登場。 &ref(ロンドン_デットフォード王立造船所(ウォルター・ローリー).JPG)[[Emanuel Leutze>http://en.wikipedia.org/wiki/Emanuel_Leutze]]画「Queen Elizabeth I and Sir Walter Raleigh」(1848年:ドイツ) #endregion **ロンドン塔 ロンドン塔は女王陛下の宮殿にして要塞です。造幣所、天文台、銀行、監獄、王立動物園を装備。 13世紀から身分の高い人々専用の監獄&処刑場にご使用。 最後の住人は王ジェームズ1世。21世紀は徳川秀忠(江戸幕府の2代目将軍)がジェームズ1世に贈った甲冑が展示されてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_London]] &ref(ロンドン_ロンドン塔.JPG)[[Anton van den Wyngaerde>https://en.wikipedia.org/wiki/Anton_van_den_Wyngaerde]]画「Panorama of the Tower and Greenwich」(1543年) #region(close,平面図) ()は幽閉や処刑された人。ちょっと調べただけでもこんなに…。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_prisoners_of_the_Tower_of_London]] &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図).JPG)GULIELMUS HAIWARD and J. GASCOYNE画「A True and Exact Draught of the TOWER LIBERTIES」(1597年) |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:外堀| |BGCOLOR(lightgrey):a1|反逆者達の門|BGCOLOR(lightgrey):a2|ミドル・タワー|BGCOLOR(lightgrey):a3|ライオン・タワー|BGCOLOR(lightgrey):a4|タワー・ヒル&br()(ジェーン・グレイ)| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:外城壁| |BGCOLOR(lightgrey):b1|バイワード・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b2|ヨーマン看守の家|BGCOLOR(lightgrey):b3|レッゲス・マウント|BGCOLOR(lightgrey):b4|ブラス・マウント| |BGCOLOR(lightgrey):b5|デヴリン・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b6|ウェル・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b7|クレイドル・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b8|セント・トマス・タワー| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:内城壁| |BGCOLOR(lightgrey):c1|ベル・タワー&br()(エリザベス1世)|BGCOLOR(lightgrey):c2|ビーチャム・タワー&br()(フィリップ・ハワード)|BGCOLOR(lightgrey):c3|デヴェルー・タワー&br()(ロバート・デヴェルー)|BGCOLOR(lightgrey):c4|フリント・タワー| |BGCOLOR(lightgrey):c5|バウヤー・タワー|BGCOLOR(lightgrey):c6|ブリック・タワー |BGCOLOR(lightgrey):c7|マーティン・タワー|BGCOLOR(lightgrey):c8|コンスタブル・タワー| |BGCOLOR(lightgrey):c9|ブロード・アロー・タワー |BGCOLOR(lightgrey):c10|ソルト・タワー|BGCOLOR(lightgrey):c11|クイーンズ・ギャラリー|BGCOLOR(lightgrey):c12|ランタン・タワー| |BGCOLOR(lightgrey):c13|ウェイクフィールド・タワー||||||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:城内| |BGCOLOR(lightgrey):d1|クイーンズ・ハウス&br()(アン・ブーリン)|BGCOLOR(lightgrey):d2|タワー・グリーン|BGCOLOR(lightgrey):d3|処刑場|BGCOLOR(lightgrey):d4|セント・ピーター礼拝堂| |BGCOLOR(lightgrey):d5|ウォータールー兵舎|BGCOLOR(lightgrey):d6|ワードローブ・タワー|BGCOLOR(lightgrey):d7|クイーンズ・ロッジ|BGCOLOR(lightgrey):d8|ジュエル・ハウス| |BGCOLOR(lightgrey):d9|ブラッディー・タワー&br()(ウォルター・ローリー)|BGCOLOR(lightgrey):d10|ホワイト・タワー||||| #blockquote(){&u(){&bold(){王立動物園(a3:ライオン・タワー)}} ロンドン塔の[[動物園>https://en.wikipedia.org/wiki/Menagerie]]は[[王ヘンリー3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_England]](在位:1216-1272年)の時代に最初の記録があります。正確な場所は不明。 北極グマ、象、ライオン、…がお住まい。 神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_III,_Holy_Roman_Emperor]]は王ヘンリー3世の結婚に3匹のヒョウをプレゼント。動物は外交的な贈り物で増えます。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図_王立動物園).JPG)[[Marcus Gheeraerts the Elder>https://en.wikipedia.org/wiki/Marcus_Gheeraerts_the_Elder]]著「De warachtighe fabulen der dieren」(1567年:イングランド) 動物園は18世紀までに一般公開されます。入場料は3.5ペンスまたはライオンのご飯(犬や猫)。えっ!? 1835年ライオンが兵士を噛んだので閉鎖。 ってことで、60種280匹の動物達は[[リージェンツ・パーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Regent%27s_Park]]にお引っ越しします。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドン塔のカラス(レイヴン)}} ロンドン塔にはレイヴンマスターがお世話する7羽の[[ワタリガラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Common_raven]]が住んでます。色違いの足バントでお名前を識別。 週休1日制で平均寿命は40歳。チーズが大好き。 伝説によると「カラスが迷うか飛び去ると王やイギリスは崩壊する」。[[風切羽>https://en.wikipedia.org/wiki/Flight_feather]]が1本切られてるので遠くまで飛べません。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Ravens_of_the_Tower_of_London]] &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図_カラス).JPG)レイヴンマスターと新入社員のカラスRockyさん(2012年) ロンドン塔とカラスを結びつけるお話しは沢山あります。 初期のお話しだとウェールズ神話「[[Brân the Blessed:祝福されたブラン>https://en.wikipedia.org/wiki/Br%C3%A2n_the_Blessed]](ウェールズ語:Bendigeidfran)」。 お名前の「Brân:ブラン」はウェールズ語だと「カラス(ワタリガラス)」ってコトです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ウェールズ神話「祝福されたブラン」}} ウェールズ王ブランは妹[[ブランウェン>https://en.wikipedia.org/wiki/Branwen]]を虐めるアイルランド王[[マソルッフ>https://en.wikipedia.org/wiki/Matholwch]](妹の夫)をコテンパンにします。 致命傷を負った王様は部下に「頭だけ祖国に持ち帰れ」と命令。 持ち帰った頭はGwynfryn(白い丘:その後ロンドン塔が建つ)に埋められます。顔はフランスの方を向いて侵入を阻止。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図_カラス2).JPG)巨人の王ブラン ウェールズの伝承や神話の詩群「[[ウェールズのトライアド>https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Triads]]」には「白い丘に埋められた王ブランの頭」の続きがあります。 なんと![[アーサー王>https://en.wikipedia.org/wiki/King_Arthur]]が頭を掘り起こしちゃった! アーサー王は「この国は&bold(){俺の強さだけ}で護ってるからへーきへーき」とキッパリ断言します。 } #endregion #region(close,ロンドン塔に収監された王女エリザベス1世) [[女王メアリー1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England]]と王フェリペ2世の結婚に不満の[[トマス・ワイアット>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Wyatt_the_Younger]]は1554年[[ワイアットの乱>https://en.wikipedia.org/wiki/Wyatt%27s_rebellion]]を起こします。そして失敗。 共謀を疑われたエリザベス1世はベル・タワーへ収監。 厳しい尋問を受けます。下手したら処刑される可能性もあったけど賢明な供述と不屈の精神で無罪放免。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(エリザベス1世).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドン塔へ収監。ウッドストック宮殿へ軟禁。そして解放}} 1554年3月エリザベス1世はボートで[[反逆者達の門>https://en.wikipedia.org/wiki/Traitors%27_Gate]]を通ってロンドン塔に連行されます。入り口から精神的責めの開始。 とーぜん「私は反逆者じゃないです!」と抗議。 そんな毎日じゃ疲れちゃう。ベル・タワーの近くにある[[胸壁>https://en.wikipedia.org/wiki/Battlement]](Princess Elizabeth's Walk)でのお散歩は許可されてました。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(エリザベス1世_収監).JPG) 左側:George Cruikshank画「Queen Jane and Lord Guilford Dudley brought back to the Tower through Traitors Gate」(1840年) 右側:Robert Alexander Hillingford画「The Princess Elizabeth in the Tower of London」 5月共謀の証拠がなかったエリザベス1世はロンドン塔から[[ウッドストック宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Woodstock_Palace]](オックスフォードシャー)に移されます。 宮殿は荒廃してたのでロッジに軟禁。 1555年4月エリザベス1世は軟禁を解かれて女王メアリー1世の出産立ち会い人として宮殿に召喚されます。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(エリザベス1世_収監2).JPG)English School画「Philip and Mary I」(1555年頃) 女王メアリー1世の子供は王位継承者になります。議会は「もし女王が亡くなったら王フェリペ2世が摂政でオケ」まで可決。 準備万端だー!でも誰もが想像しなかった想像妊娠。 王位継承が確実になったエリザベス1世は10月まで宮殿に滞在して支持を回復。その後[[ハットフィールド宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Hatfield_House]]へ帰ります。 } #endregion **21世紀のハムステッド ハムステッドは[[チャリング・クロス>https://en.wikipedia.org/wiki/Charing_Cross]]の北西4マイル(6.4 km)にあるロンドンの最高級住宅街の1つです。大富豪が大勢お住まい。 お名前の由来は[[古英語>https://en.wikipedia.org/wiki/Old_English]]の「ham+stede」(homestead)。 丘がある広大な公園[[ハムステッド・ヒース>https://en.wikipedia.org/wiki/Hampstead_Heath]]では皆さんピクニックを楽しんでます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Hampstead]] &ref(ロンドン_ハムステッド.JPG)ハムステッド・ヒース ハムステッドは開発は17世紀になってから。16世紀は丘しかない「非常に景色が良い場所」「非常に空気が健康に良い場所」です。 1603年[[ロンドンの大疫病>https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Plague_of_London]]が発生。 政治家[[William Wade>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Wade_(English_politician)]]の記録によると大勢のロンドン市民がハムステッドに避難したそうです。 ~[[British History Online>http://www.british-history.ac.uk/]](Hampstead: Settlement and Growth)さんより~ #region(close,アパートメント) こちらはハムステッドにある3ベッドルームのアパートメントです。カイトのお父さんが支社長だからプール&ジム付きで検索。 お家賃は£845pw(≒158,250円:2015年8月)。 イギリスの賃貸アパートメントはpw(per week:週単位)とpcm(per calendar month:月単位)があります。 &ref(ロンドン_ハムステッド(アパートメント).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドンのアパートメントといえばホワイトヘブン(当社比)}} ホワイトヘブンはアガサ・クリスティ著「[[名探偵ポワロ>https://en.wikipedia.org/wiki/Agatha_Christie%27s_Poirot]]」の主人公[[エルキュール・ポワロ>https://en.wikipedia.org/wiki/Hercule_Poirot]]が住むアパートメントです。 ロケ地はロンドンの中心[[スミスフィールド>https://en.wikipedia.org/wiki/Smithfield,_London]]の[[Florin Court>https://en.wikipedia.org/wiki/Florin_Court]]。 1936年に建築された[[アールデコ調>https://en.wikipedia.org/wiki/Art_Deco]]のアパートメント。お家賃は分かりませんでした。 &ref(ロンドン_ハムステッド(アパートメント_名探偵ポワロ).JPG) 右側は名探偵ポワロのシーズン1~5の想像間取り図(実際のFlorin Courtの間取り図とは違います)です。 キッチンの場所は謎らしい。 詳細は[[Investigating Agatha Christie’s Poirot>http://investigatingpoirot.blogspot.jp/]]さん(The Apartment - Another floor plan)をどうぞ。 } #endregion *ポーツマス &ref(ポーツマス.JPG) **ウィンチェスター大聖堂 ウィンチェスター大聖堂は642年ウェセックス王[[チェンワルフ>https://en.wikipedia.org/wiki/Cenwalh_of_Wessex]]が十字形の教会[[オールド・ミンスター>https://en.wikipedia.org/wiki/Old_Minster,_Winchester]] を建てたのが始まりです。 11世紀ノルマン人がイングランドを征服([[ノルマン征服>https://en.wikipedia.org/wiki/Norman_conquest_of_England]])。 [[主教ウォークリン>https://en.wikipedia.org/wiki/Walkelin]](たぶん[[ルーアン大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Rouen_Cathedral]]の司祭)は1093年オールド・ミンスターを破壊してウィンチェスター大聖堂を建てます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester_Cathedral]] &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂.JPG)大聖堂 左側:オールド・ミンスター 右側:ウィンチェスター大聖堂(21世紀) 1534年王ヘンリー8世の宗教改革で[[ベネディクト会>https://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Saint_Benedict]]の[[修道院>https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester_Cathedral_Priory]]は解散。ウィンチェスター大聖堂は英国国教会の大聖堂になります。 女王メアリー1世は1554年大聖堂で王フェリペ2世と結婚。 ちなみにF&B時代ウィンチェスター大聖堂の主教は元気ハツラツな[[Thomas Cooper>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Cooper_(bishop)]](任期:1584–1594年)です。 #region(close,平面図) 1093年に完成したウィンチェスター大聖堂はその後どーんどん拡大していきます。 理由は分からなかったけど、[[主教Robert Horne>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Horne_(bishop)]](任期:1560-1580年)は[[回廊>https://en.wikipedia.org/wiki/Cloister]]や[[参事会会議場>https://en.wikipedia.org/wiki/Chapter_house]]など修道院の建物を破壊。 1632年[[主教Walter Curle>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Curle]]は身廊を通らないで往来できるカールの通路(Curle 's Passage)を建てます。 |>|>|>|>|>|>|>|&ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図).JPG)| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:身廊| |BGCOLOR(lightgrey):a1|洗礼盤|BGCOLOR(lightgrey):a2|主教Wykehamの小礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):a3|主教Edingtonの小礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):a4|カールの通路| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:北翼廊| |BGCOLOR(lightgrey):b1|エピファニー礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):b2|[[地下聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Crypt]]の入り口||||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:聖歌隊席| |BGCOLOR(lightgrey):c1|聖墳墓礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):c2|[[王ウィリアム2世>https://en.wikipedia.org/wiki/William_II_of_England]]の墓|BGCOLOR(lightgrey):c3|[[修道士の椅子>https://en.wikipedia.org/wiki/Monks_bench]]||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:南翼廊| |BGCOLOR(lightgrey):d1|[[アイザック・ウォルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/Izaak_Walton]]の墓|BGCOLOR(lightgrey):d2|[[モーレイ>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Morley]]の図書室||||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:聖職者席| |BGCOLOR(lightgrey):e1|[[主祭壇>https://en.wikipedia.org/wiki/Altar]]|BGCOLOR(lightgrey):e2|[[聖スウィザン>https://en.wikipedia.org/wiki/Swithun]]の廟|BGCOLOR(lightgrey):e3|[[守護天使>https://en.wikipedia.org/wiki/Guardian_angel]]の礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):e4|聖母礼拝堂| #blockquote(){&u(){&bold(){身廊(しんろう)}} ウィンチェスター大聖堂の[[身廊>https://en.wikipedia.org/wiki/Nave]](長さ74m×幅27m×高さ24m)はヨーロッパにある[[ゴシック建築>https://en.wikipedia.org/wiki/Gothic_architecture]]の大聖堂で最長です。 14世紀[[主教William Edington>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Edington]]は西側の[[柱間>https://en.wikipedia.org/wiki/Bay_(architecture)]]を壊してロマネスク式の身廊を建築。 [[主教William of Wykeham>https://en.wikipedia.org/wiki/William_of_Wykeham]]は1394年ロマネスク式の身廊を垂直様式に改造。天井も木製から石製[[ヴォールト>https://en.wikipedia.org/wiki/Vault_(architecture)]]にします。 &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図_身廊).JPG) 左側:身廊(入り口から聖歌隊席へ) 右側:身廊のヴォールト ロマネスク式(Romanesque style)は初期、垂直様式(Perpendicular style)は後期の[[英国ゴシック建築>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Gothic_architecture]]です。 垂直様式は縦長の大きな窓や柱間を強調。へー。 ちなみにイングランド最長の身廊は[[セント・オールバンズ大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Albans_Cathedral]](長さ84m×幅23m×高さ?m)です。 } #blockquote(){&u(){&bold(){a1:洗礼盤(聖水盤)}} 身廊の北側にある洗礼盤はキリスト教の[[洗礼>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptism]]で使う[[聖水>https://en.wikipedia.org/wiki/Holy_water]]が入った器です。 たぶん1150年頃[[トゥルネー>https://en.wikipedia.org/wiki/Tournai]](ベルギー)から1.5トンの大理石(実は[[石炭系石灰岩>https://en.wikipedia.org/wiki/Carboniferous_Limestone]])を運んでイングランドで加工。 21世紀も洗礼に使われてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptismal_font]] &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図_洗礼盤).JPG) 左側:作者不明「Winchester Cathedral. View across the nave, showing the font and Wykeham's monument」(1836年頃) 右上:聖水盤 右下:聖水盤の聖ニコラス こちらは聖水盤の西側側面に彫られた[[聖ニコラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Nicholas]]の伝説です。 左側は肉屋の告白(3人の迷子を殺して塩漬け樽に漬けた)を聞いた聖ニコラスが子供達を生き返らせる伝説。 右側は嵐で海中に沈んだ子供を聖ニコラスが救出して貴族の父親の元へ届ける伝説。 &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図_洗礼盤2).JPG) } #endregion **アランデル城 アランデル城は1067年初代アランデル伯(第1期)ロジャー・デ・モンゴメリーによって建てられたお城。 持ち主はオービニー家→王様→フィッツァラン家と代わり、1556年第19代アランデル伯(第2期)の娘メアリー・フィッツァランが第4代ノーフォーク公トマス・ハワード(レディ・アンの舅)と結婚してハワード家が城主となった。 リドルフィ陰謀事件とかいろいろあったけど、現在もハワード家が住んでいる。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Arundel_Castle]] |&ref(ポーツマス_アランデル城.JPG,,height=200)アラン川|&ref(ポーツマス_アランデル城(図書室).JPG,,height=200)図書室| ※リドルフィ陰謀事件 ロベルト・ディ・リドルフィ(1531–1612)の「女王エリザベス1世を暗殺してメアリー・スチュアートをイングランド女王にする」という計画。ウォルシンガムに阻止されて失敗。 第4代ノーフォーク公は1569年「メアリーと結婚」の嫌疑で逮捕。解放後に今度は「スペイン王フェリペ2世と一緒にリドルフィ陰謀事件に参加」の嫌疑で逮捕。 爵位もお城も没収されて処刑。その後お城は後継者に返還された。 ←wikipedia要出典の内容。 *ハートフォードシャー &ref(ハートフォードシャー.JPG) ※[[ニュー川>http://en.wikipedia.org/wiki/New_River_%28England%29]]は1613年ロンドンの飲料水のために作られた人工水路です。F&B時代の最寄りはリー川? **ティバルト・ハウス ティバルト・ハウスはCullynges→Tongs→William de Tongge→Thebaudes(1440年)→Tibbolds→Theobaldsと名前が変わったお屋敷。 バーリー男爵ウィリアム・セシルは、1564~1585年ここにお屋敷を建築。 庭は[[フォンテーヌブロー宮殿>http://en.wikipedia.org/wiki/Ch%C3%A2teau_de_Fontainebleau]](フランス)にならって、植物学者[[ジョン・ジェラード>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Gerard]]が設計。 バーリー男爵の宮廷での地位にふさわしい建物で、女王エリザベス1世は1572~1596年の間に8回訪問してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Theobalds]] |&ref(ハートフォードシャー_ティバルト・ハウス.JPG,,height=200)王ジェームズ1世の頃|&ref(ハートフォードシャー_ティバルト・ハウス(内部).JPG,,height=200)1630年| 1607年ソールズベリー伯ロバート・セシルと王ジェームズ1世は、ティバルト・ハウスとハットフィールド宮殿を交換。 ティバルト・ハウスは王様のお気に入りだったそうです。 その後ティバルト・ハウスを相続したのは、王チャールズ1世(王ジェームズ1世の息子)。 [[ピューリタン革命>http://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Three_Kingdoms]]で処刑されて、ついでに王様の財産ティバルト・ハウスも1650年頃破壊。なんということを…。 **ハットフィールド宮殿 オールド・パレスは1485年頃イーリー大司教[[ジョン・モートン>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Morton_%28archbishop%29]]が建築したお屋敷。 英国国教会を作った王ヘンリー8世は、カトリック教会の排除でお屋敷も没収。 王様の子供達(メアリー1世、エリザベス1世、エドワード6世)はここで幸せな子供時代を送ったそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Hatfield_House]] 1553年女王メアリー1世が即位して、英国国教会だったイングランドはカトリック教会に逆戻り。 女王様は「英国国教会がエリザベス1世を女王にしようと計画するかも?ヤバイ!」と、エリザベス1世をハットフィールド宮殿に監禁。 そんな女王様も1558年死亡。エリザベス1世は庭のオークの下で、この知らせを聞いたそうです。 |&ref(ハートフォードシャー_ハットフィールド宮殿.JPG,,height=200)オールド・パレス|&ref(ハートフォードシャー_ハットフィールド宮殿(上空).JPG,,height=200)ハウス| ティバルト・ハウスと交換したソールズベリー伯ロバート・セシルは、1611年近所にジャコビアン様式の豪華なハウスを建築。 オールド・パレスは3/4を破壊して厩舎(馬のお家)に使用してます。なんということを…。 **リー川 リー川は16世紀までロンドンへ穀物を運ぶ重要なルート。川がグニャグニャしているので12世紀頃からアレコレ改良されてます。 1577年[[ウォーサン・アビー>http://en.wikipedia.org/wiki/Waltham_Abbey,_Essex]]に[[閘門>http://en.wikipedia.org/wiki/Lock_%28water_transport%29]](こうもん:段差のある川で船を上げ下げする装置)第一号も建築。 F&B時代はもっとシンプルな川だったのか?詳細は分からなかったです。あと[[ボウ・クリーク>http://en.wikipedia.org/wiki/Bow_Creek]]はリー川とテムズ川の合流点。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Lea]] |&ref(ハートフォードシャー_リー川(上流).JPG,,height=200)ハートフォードの上流|&ref(ハートフォードシャー_リー川(テムズ川と合流).JPG,,height=200)ボウ・クリーク| 需要なさそうだけど21世紀のリー川はこんな感じです。 &ref(ハートフォードシャー(リー川).JPG) ---- ----
#contents_line(level=2,sep=/) *イングランド王国 イングランドは1541年[[王ヘンリー8世>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_of_England]](女王エリザベス1世の父親)から勝手にアイルランド王も名乗ってます。 女王エリザベス1世が亡くなった1603年スコットランド王[[ジェームズ6世>http://en.wikipedia.org/wiki/James_VI_and_I]]がイングランドも統治。 1707年合併して[[グレートブリテン王国>http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Great_Britain]]。1801年アイルランド王国も合併して[[グレートブリテン及びアイルランド連合王国>http://en.wikipedia.org/wiki/United_Kingdom_of_Great_Britain_and_Ireland]]になります。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_England]] &ref(イングランド王国.JPG) *イングランド &ref(イングランド.JPG) **ランズ・エンド ペンウィズ半島の左端っこにあるランズ・エンドは、[[ブリテン島>http://en.wikipedia.org/wiki/Great_Britain]]([[ブリテン諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/British_Isles]]で一番大きい島)の最西端です。 イギリスの最西端はもうちょっと左にある[[シリー諸島>http://en.wikipedia.org/wiki/Isles_of_Scilly]]。 2012年ロンドン・オリンピックの聖火リレーはランズ・エンドからスタートしてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Land%27s_End]] &ref(イングランド_ランズ・エンド.JPG) **エディストーン ナイジェルも避けるエディストーンはプリマスの22.5km南にある岩礁です。イギリス海峡からプリマス港に入る時にとっても危険。 座礁したらアウト。 ってことで、灯台を建築。引退したスミートン灯台の先っぽ([[スミートン・タワー>https://en.wikipedia.org/wiki/Smeaton%27s_Tower]])は[[ホーの丘>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Hoe]]にあります。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Rocks]] |&ref(イングランド_エディストーン.JPG,,height=200)|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:[[歴代の灯台>http://en.wikipedia.org/wiki/Eddystone_Lighthouse]]| |~|BGCOLOR(lightgrey):1698-1703年|ウィンスタンレイ灯台(Winstanley's lighthouse)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1705-1755年|ラディヤード灯台(Rudyard's lighthouse)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1759-1877年|スミートン灯台(Smeaton's lighthouse)| |~|BGCOLOR(lightgrey):1882年-現在|ダグラス灯台(Douglass's lighthouse)| *イングランドとフランス &ref(イングランドとフランス.JPG) **白い崖 白い崖はイングランド南東部に広がる、白くて柔らかいチョーク(石灰質プランクトンの遺骸)の壁です。 有名な『ドーバーの白い崖』は最高110mの高さで、1年に1cmくらい成長。たまに崩壊するからご注意。ここから落ちたら痛いです。 昔ブリテン島(イングランドがある島)が『アルビオン』と呼ばれたのは、白い崖のalbus(ラテン語:白い)が語源。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/White_Cliffs_of_Dover]] &ref(イングランドとフランス_白い崖.JPG) #region(close,イギリスのスゴイ自然ベスト10) こんなスゴイのに3位だなんて…。 BBC出版のTV番組雑誌『Radio Times』2005年の調査です。 |BGCOLOR(lightgrey):1|Dan yr Ogof(ダンアオゴヴ鍾乳洞)|BGCOLOR(lightgrey):2|Cheddar Gorge(チェダー渓谷)| |BGCOLOR(lightgrey):3|White Cliffs of Dover(ドーバーの白い崖)|BGCOLOR(lightgrey):4|Giant's Causeway(ジャイアンツ・コーズウェー)| |BGCOLOR(lightgrey):5|Jurassic Coast(ジュラシック・コースト)|BGCOLOR(lightgrey):6|Loch Lomond(ローモンド湖)| |BGCOLOR(lightgrey):7|Cwm Idwal(イドゥアル谷に囲まれた湖)|BGCOLOR(lightgrey):8|The Island of Staffa(スタファ島)| |BGCOLOR(lightgrey):9|St Kilda(セントキルダ島)|BGCOLOR(lightgrey):10|Lundy Island(ランディ島)|    #endregion **イングランド領カレー イングランド領カレーはイングランド王[[エドワード3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_III_of_England]]が1346年[[カレー包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1346)]]でゲトした大陸唯一のイングランド領です。 イングランドにとっての「重要な軍事拠点」。逆にフランスにとっての「致命的な弱点」。 ってことで、ギーズ公[[フランソワ>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis,_Duke_of_Guise]]が1558年[[カレー包囲戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Siege_of_Calais_(1558)]]で奪還。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Pale_of_Calais]] &ref(イングランドとフランス_イングランド領カレー.JPG)[[William Robert Shepherd>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Robert_Shepherd]]画「Central Europe about 1477」(1926年:The Historical Atlas) *プリマス &ref(プリマス.JPG) **ホーの丘 ホーの丘はプリマスの公共スペース。伝説によると[[巨人ゴグとマゴグ>https://en.wikipedia.org/wiki/Gog_and_Magog]]が白い石灰岩を掘って芝地を露出させたそうです。 うーん、16世紀の画が見つからない…。 1588年[[アルマダ海戦>https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_Armada]]でスペイン艦隊がイングランドに現れたとき[[フランシス・ドレイク>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]]はここで[[ボウルズ>https://en.wikipedia.org/wiki/Bowls]]をやってました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Hoe]] &ref(プリマス_ホーの丘.JPG) 上側:ホーの丘(21世紀:[[Mount Batten>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Hoe]]から) 左下:Thomas Allom画「The Hoe&Citadel、Plymouth - The Regatta Starting」(1831年) 右下:Paul Girardet画「The Armada is in Sight!」(1882年) #region(close,案内マップ) [[ロイヤル城塞>http://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Citadel,_Plymouth]](シタデル)は1660年代後半に建てられた[[プリマス・サウンド湾>https://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Sound]]を見渡す城塞。F&B時代は砦が建ってます。 プリマス・ドームは歴史展示場。 2013年資金不足になって現在は有名なシェフ[[Gary Rhodes>https://en.wikipedia.org/wiki/Gary_Rhodes]]所有のレストランになってます。なんと!ホーの丘の先っぽは[[プール>https://en.wikipedia.org/wiki/Tinside_Pool]]。 &ref(プリマス_ホーの丘(案内マップ).PNG) #blockquote(){&u(){&bold(){スミートン・タワー}} [[スミートン・タワー>https://en.wikipedia.org/wiki/Smeaton%27s_Tower]](1759-1877年)はエディストーンに建てられた灯台です。土木工学者[[ジョン・スミートン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Smeaton]]が設計。 土台の岩が波で浸食されて1877年引退。 現在は記念に灯台の先っぽ(高さ約22m)がホーの丘に移動。ランタン室からプリマス・サウンド湾と街を見渡せます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Smeaton%27s_Tower]] &ref(プリマス_ホーの丘(スミートン・タワー).JPG,,height=200) } #blockquote(){&u(){&bold(){ハリエニシダ(ゴース)とヘザー(ヒース)}} 黄色の[[ハリエニシダ>http://en.wikipedia.org/wiki/Ulex_europaeus]]、紫色の[[カルーナ属ヘザー>https://en.wikipedia.org/wiki/Calluna]]や[[エリカ属ヘザー>https://en.wikipedia.org/wiki/Erica]]はヨーロッパの寒くてジメジメした[[荒地>https://en.wikipedia.org/wiki/Heath]]に群生します。 背が低くてトゲトゲ。 21世紀ホーの丘には咲いてないっぽい。こちらは[[マン島>https://en.wikipedia.org/wiki/Isle_of_Man]](女王エリザベス2世が所有)のハリエニシダとヘザーです。 &ref(プリマス_ホーの丘(ハリエニシダとヘザー).JPG) ハリエニシダは「和名:ハリエニシダ(針金雀枝)」「英名:ゴース」です。明治初期に日本へ渡来して河川敷などに生息。 繁殖力が強い困り者。 観たことない方も「木からハリエニシダの茂みに落ちて棘が刺さった[[くまのプーさん>https://en.wikipedia.org/wiki/Winnie-the-Pooh]]」で観てるかもしれません。 &ref(プリマス_ホーの丘(ハリエニシダとヘザー_くまのプーさん).JPG)[[A・A・ミルン>https://en.wikipedia.org/wiki/A._A._Milne]]著「[[Winnie-the-Pooh >https://en.wikipedia.org/wiki/Winnie-the-Pooh_(book)]]」(1926年:イギリス) ヘザー(ヒース)はすごーい種類があります。ヘザーとヒースの違いを調べたらいっぱいあり過ぎてナニガナイヤラ。 ちなみにヒースには[[荒地>https://en.wikipedia.org/wiki/Heath]]って意味もアリ。 ご興味ある方は[[イギリスの花>https://en.wikipedia.org/wiki/County_flowers_of_the_United_Kingdom]]や[[コーンウォールの花>https://en.wikipedia.org/wiki/Flora_and_fauna_of_Cornwall]]をどうぞ。日本だと「エリカ(漢字ナシ)」でお馴染みかも。 } #endregion **バックランド・アビー バックランド・アビーは1278年デボン伯爵夫人[[Amice de Clare>http://en.wikipedia.org/wiki/Amice_de_Clare]]が建築した[[シトー会>http://en.wikipedia.org/wiki/Cistercians]](カトリック教会の修道会)の修道院です。 英国国教会を作った王ヘンリー8世は、カトリック教会の排除で修道院も没収。 [[リチャード・グレンヴィル>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Grenville]](ウォルター・ローリーの従兄弟)が購入して住居に改造します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Buckland_Abbey]] &ref(プリマス_バックランド・アビー.JPG) リチャード・グレンヴィルは[[ロアノーク植民地>http://en.wikipedia.org/wiki/Roanoke_Colony]](北アメリカの植民事業)に失敗。1581年フランシス・ドレイクに売却します。 ドレイクの子孫は1946年までここに居住。 21世紀は誰でも訪問オケ。サー・フランシスの[[ドレイクの太鼓>https://en.wikipedia.org/wiki/Drake%27s_Drum]]もケースに入って展示中です。 **プリマスの市壁 プリマスの[[市壁>http://en.wikipedia.org/wiki/Defensive_wall]]は15世紀初期には街を囲んでいたらしいです。外敵の攻撃から街を守る壁なんだけど…街を守るには軟弱。 1593年ジョン・スパーク市長は「スペイン人が街を燃やすってウワサが!」と強化を嘆願。 枢密院は嘆願をスルー。とーってもその後、市壁は次々と道路に立て替えられて1765年消滅しました。 &ref(プリマス_プリマスの市壁.JPG) 左側:[[Wenceslaus Hollar>https://en.wikipedia.org/wiki/Wenceslaus_Hollar]]画「Siege of Plymouth」(1643年) 右側:消滅したホー・ゲート(21世紀:hoegate street) **ドレイクス島(セント・ニコラス島) ドレイクス島はセント・ミカエル島→セント・ニコラス島→ドレイクス島(ここ100年前頃)と名前が変わった島です。 1135年島に[[セント・ミカエル>http://en.wikipedia.org/wiki/St_Michael]]教会を建築。その後[[セント・ニコラス>http://en.wikipedia.org/wiki/St_Nicholas]]教会になって島の名前も変更。 ゴールデン・ハインド号は1577年ここから出発して1580年ここに帰国しました。1583年フランシス・ドレイクは島の総督に就任。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Drake%27s_Island]] &ref(プリマス_ドレイクス島.JPG,,height=200)ドレイクス島([[エッジカム山>http://en.wikipedia.org/wiki/Mount_Edgcumbe_Country_Park]]から) **狼煙台(のろしだい)/ビーコン イギリスのあちこちにある小高い丘[[ビーコン・ヒル>http://en.wikipedia.org/wiki/Beacon_Hill]]のように地名に「ビーコン」が付く場所は狼煙台の名残だそうです。 [[灯台>https://en.wikipedia.org/wiki/Lighthouse]]が登場するまでは狼煙台が灯台。 プリマスのどこに狼煙台があるのか分かりませんでした。街の中にBeacon Parkという地名があったけど詳細不明。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Beacon]] &ref(プリマス_狼煙台.JPG) 左側:プリマスのどこかにある狼煙台 右側:映画監督[[シェーカル・カプール>https://en.wikipedia.org/wiki/Shekhar_Kapur]]の狼煙台コンセプト(2007年:[[Elizabeth:The Golden Age>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth:_The_Golden_Age]]) **乾ドック/船渠(せんきょ) F&B時代の乾ドックはぜーんぜん分かりませんでした。どうも街の近くにプリマス・ドックというのがあったみたいです。 アルマダ海戦の後、イングランドはドレーク海軍基地(21世紀のデヴォンポート海軍基地)を建築。 1690年[[王ウィリアム3世>http://en.wikipedia.org/wiki/William_III_of_England]]が「ここは狭い!」っとデヴォンポートへ移築。ヨーロッパ初の石製(それまでは木製)の階段式ドック。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/HMNB_Devonport]] &ref(プリマス_乾ドック.JPG)デヴォンポート海軍基地(1765年頃) [[乾ドック>http://en.wikipedia.org/wiki/Drydock]]は船を造ったり、修理したりする工場。 この浮式ドックは著者不明『Descrittione dell'artifitiosa machina』に描かれてるのもで、特許を取るための解説らしいです。 上からロープで船を引き上げる仕組み。たいへんだー! &ref(プリマス_乾ドック(浮式).JPG,,height=200)浮式ドック(1560年:イタリアのヴェニス) **セント・アンドリュー教会 セント・アンドリュー教会は15世紀中頃に建てられた教会です。 第二次世界大戦の真っ最中、1941年3月ナチス・ドイツの爆撃([[プリマス・ブリッツ>http://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Blitz]])で大きく破損。 1957年に修復(というか新築)が完成しました。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Plymouth_Minster]] &ref(プリマス_セント・アンドリュー教会.JPG) 左側:プリマス・ブリッツで破壊されたセント・アンドリュー教会(1940年代) 右側:[[William George Hoskins>https://en.wikipedia.org/wiki/William_George_Hoskins]]著「A New Survey of England:Devon」(1954年) **ハーフ・ティンバー様式のお家 ハーフティンバー様式は材木(Timber)で組んだ軸組(Framing)の間を漆喰、煉瓦、石で埋める[[木骨造建築>https://en.wikipedia.org/wiki/Timber_framing]]です。 軸組は隠さないでお披露目。 右側は16世紀プリマスに建てられた私掠船船長&商人[[William Parker>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Parker_(privateer)]]のハーフ・ティンバー様式のお家[[Merchant’s House, Plymouth>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_museums_in_Devon]]。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_architecture]] &ref(プリマス_お家.JPG) #region(close,お家の中はどうなってるの?) こちらは[[チューダー朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_period]](1485-1603年)のハーフ・ティンバー様式のお家。日本人だと強度を心配しちゃいますよね。 ちなみにイギリスは地震が少ないらしい。 庶民のお家は軸組の間を[[荒打ち漆喰>https://en.wikipedia.org/wiki/Wattle_and_daub]]、貴族やお金持ちは[[煉瓦>https://en.wikipedia.org/wiki/Brick]]や[[石>https://en.wikipedia.org/wiki/Stonemasonry]]で埋めます。でも貴族のお家は石造りの方が多いんだって。 &ref(プリマス_お家(お家の中).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){荒打ち漆喰ってなに?}} 荒打ち漆喰は古代から皆さんが利用してる木で編んだ[[木舞(こまい)>https://en.wikipedia.org/wiki/Wattle_(construction)]]に粘着性の材料を塗り付ける工法です。 日本でいう土壁。 ハーフ・ティンバー様式は粘土、[[チョーク(石灰岩)>https://en.wikipedia.org/wiki/Chalk]]、粘着剤(草や藁に水や尿を混ぜたモノ)の混合物を塗り付けます。 &ref(プリマス_お家(お家の中_荒打ち漆喰).JPG) プリマスに建てられた私掠船船長&商人William Parkerのお家はたぶん壁の外側を更に[[石灰岩>https://en.wikipedia.org/wiki/Limestone]]で覆ってるんだと思います。 その方が壁の保温性も耐久性も向上。 より耐久性がある煉瓦が一般的になると、荒打ち漆喰より煉瓦の方が人気者になっていきます。 &ref(プリマス_お家(お家の中_荒打ち漆喰2).JPG) } #blockquote(){&u(){&bold(){羽目板でお部屋がポカポカ}} ハーフ・ティンバー様式のお家は部屋の内壁も「軸組と荒打ち漆喰のまま」でご使用できます。素敵なお部屋♥ でも軸組の材木は伸縮するから隙間ができる。 生活に余裕がある方は内壁に[[羽目板>https://en.wikipedia.org/wiki/Clapboard_(architecture)]]や[[漆喰塗り>https://en.wikipedia.org/wiki/Plaster]]でシールド(ceiled)すると保温性が向上します。見た目もスッキリ。 &ref(プリマス_お家(お家の中_羽目板).JPG) 左側:シールドしてないウィリアム・シェイクスピアが通ったグラマースクール[[King Edward VI School>https://en.wikipedia.org/wiki/King_Edward_VI_School,_Stratford-upon-Avon]] 右側:シールドしてる[[ウィリアム・シェイクスピアの生家>https://en.wikipedia.org/wiki/Shakespeare%27s_Birthplace]] } #endregion #region(close,ついでにウィリアム・シェイクスピアの生家) [[ウィリアム・シェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Shakespeare]](1564–1616年)は[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン>https://en.wikipedia.org/wiki/Stratford-upon-Avon]]にある父[[ジョン>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Shakespeare]]のお家で生まれました。 16世紀中頃に建築されたハーフ・ティンバー様式のお家。 シェイクスピアは幼少時代をここで過ごしたと考えられてます。1601年父ジョンが亡くなってシェイクスピアが相続。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Shakespeare%27s_Birthplace]] &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){平面図}} シェイクスピアの生家は簡素な間取りで、家族の居住部屋と父ジョンの仕事部屋(手袋製造とウール販売)に分かれてます。 16世紀後半としてはかなり大きいお家。 地元[[アーデンの森>https://en.wikipedia.org/wiki/Arden,_Warwickshire]]のオークと[[ウィルムコート>https://en.wikipedia.org/wiki/Wilmcote]]の青灰色の石(Blue-grey stone)で建築。軸組の間は荒打ち漆喰です。 &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家_平面図).JPG)Richard Savage著「Catalogue of the books, manuscripts, works of art, antiquities and relics at present exhibited in Shakespeare's birthplace」(1910年) Joan Hart’s Cottageは後から増築。シェイクスピアが住んでいた頃は長方形のお家です。 1階は左から暖炉付き[[応接間>https://en.wikipedia.org/wiki/Parlour]]、炉(Open hearth)付き続き部室(Adjoining hall)、廊下(Cross passage)、仕事部屋。 2階は3部屋。階段は続き部室にあると考えられてます。 &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家_平面図2).JPG)1945年 } #blockquote(){&u(){&bold(){ウィリアム・シェイクスピアが相続したお家は宿に変身}} 既に持ち家[[New Place>https://en.wikipedia.org/wiki/New_Place]]があったシェイクスピアは1601年父ジョンが亡くなって相続したお家をLewis Hiccoxに貸します。 Hiccoxはここで宿The Maidenheadを経営。 Joan Hart’s Cottageは家族の居住部屋。お家は1616年シェイクスピアが亡くなると妹[[ジョアン・ハート>https://en.wikipedia.org/wiki/Joan_Shakespeare]]が相続します。 &ref(プリマス_お家(シェイクスピアの生家_宿).JPG) } #endregion *ロンドン &ref(ロンドン.JPG) **16世紀のロンドン もともとのロンドンは建物の半分がカトリック教会のお屋敷や修道院です。人口の1/3が修道士。 1534年王ヘンリー8世は[[英国国教会へ宗教改革>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Reformation]]。 ってことで、カトリック教会を排除したついでにカトリック教会が持ってるお屋敷も修道院も建物はぜーんぶ没収します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_London]] &ref(ロンドン_16世紀のロンドン.JPG,,height=300)1580年頃 スペインは重要な商業都市アントワープ(ネーデルラント)を破壊。ロンドンはヨーロッパの重要な商業都市に様変わりします。 ネーデルラントやフランスのプロテスタントもロンドンへガンガン亡命。 ロンドンは街も人口もガンガン大きくなっていきます。1530年50,000人だった人口は、1600年200,000人に増加。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_London]]。 #region(close,ちょびっとだけど街はこんな感じ) ジェフリーが「剣の腕を磨くぜ!」と言ってた「bloody bowl alley:血の杯横丁」は21世紀の「Hanging Sword Alley」っぽいです。 剣の学校があった場所。 それ以上は分かりませんでした。 |>|>|BGCOLOR(lightgrey):ロンドンの街並み(イメージ)| |>|>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(CG街並み).PNG)| |>|>|BGCOLOR(lightgrey):ロンドン橋の入り口(イメージ)| |>|>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(CGロンドン橋).JPG)| |>|>|BGCOLOR(lightgrey):[[セント・ポール大聖堂>http://en.wikipedia.org/wiki/Old_St_Paul%27s_Cathedral]](前がポールズヤード?)| |>|>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(ポールズ・ヤード).JPG,,height=200)| |>|BGCOLOR(lightgrey):劇場|BGCOLOR(lightgrey):劇場『[[薔薇座>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rose_%28theatre%29]]』(1592年)| |>|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(劇場).JPG,,height=200)|&ref(ロンドン_16世紀のロンドン(劇場薔薇座).JPG,,height=200)| &ref(ロンドン_16世紀のロンドン(通り).JPG,,height=200)通りでサッカー &ref(ロンドン_16世紀のロンドン(居酒屋).JPG,,height=200)居酒屋で飲んだりゲームしたり(16世紀:版画) &ref(ロンドン_16世紀のロンドン(タイバーン).JPG,,height=200)[[タイバーン>http://en.wikipedia.org/wiki/Tyburn]] #endregion **ホワイト・ホール宮殿 ホワイト・ホール宮殿は白色の石を使った建物。もともと[[ヨーク大司教>https://en.wikipedia.org/wiki/Archbishop_of_York]]のロンドン公邸「York Place」です。 1240年頃ヨーク大司教[[ウォルター・ド・グレイ>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_de_Gray]]は政治の中心[[ウェストミンスター宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Westminster]]の近所に土地を購入して邸宅を建築。 ヨーク大司教になった[[トマス・ウルジー枢機卿>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Wolsey]]が手間暇かけて大邸宅にグレードアップします。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Whitehall]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿.JPG)[[John Thomas Smith>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Thomas_Smith_(engraver)]]著「Antiquities of Westminster」(1807年) ある日王ウルジー枢機卿は「ローマ教皇へ王様の離婚を説得」で失敗。怒ったヘンリー8世はウルジー枢機卿の全財産を没収します。 どさくさに紛れて財産じゃないロンドン公邸まで没収。 政治の中心はホワイト・ホール宮殿に移ります。1691年と1698年の火災で宮殿の大半が焼失。お金が無くて再建できませんでした。 #region(close,平面図) 敷地は東京ドーム7個分(50坪の一戸建て:563軒、70平米のマンション:1329戸)の広さで、部屋は1,500以上です。 [[ボウルズ芝生>https://en.wikipedia.org/wiki/Bowling_green]]、[[ジュ・ド・ポーム>https://en.wikipedia.org/wiki/Real_tennis]]、[[闘鶏場>https://en.wikipedia.org/wiki/Cockfight]]、[[馬上試合場>https://en.wikipedia.org/wiki/Tiltyard]]も完備。 ホワイト・ホール宮殿は1つの建物というより小さな街って感じです。女王エリザベス1世がどこに住んでるでしょね? &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図).JPG)George Vertue画「Plan of the Old Palace of Whitehall as it was in 1680」 #blockquote(){&u(){&bold(){バンケティング・ハウス}} バンケティング・ハウスはホワイト・ホール宮殿の火災で唯一残った晩餐会や舞踏会をする建物です。 [[イニゴー・ジョーンズ>https://en.wikipedia.org/wiki/Inigo_Jones]]の設計で1622年完成。 イングランド初の[[新古典主義建築>https://en.wikipedia.org/wiki/Neoclassical_architecture]]。イングランド初の窓ガラスに[[クラウンガラス>http://en.wikipedia.org/wiki/Crown_glass_%28window%29]]を使用してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Banqueting_House,_Whitehall]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_バンケティング・ハウス).JPG) 新古典主義建築は18世紀に誕生した荘厳さや崇高美を備えた建築です。外観は地味だけど中はとーっても豪華。 21世紀は庶民の皆さんが結婚式会場にご利用。 メインホールの天井は[[ピーテル・パウル・ルーベンス>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Paul_Rubens]]画「The Apotheosis of James I」(1635年)です。 &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_バンケティング・ハウス_メインホール).JPG)メインホール } #blockquote(){&u(){&bold(){クラウンガラスってなに?}} クラウンガラスは19世紀までご使用した初期の窓ガラス。熱いガラスをくっつけた棒をグルグル回して遠心力で広げます。 1320年代フランスのガラス職人が発明して主に[[ルーアン>https://en.wikipedia.org/wiki/Rouen]]で製造。もっちろん企業秘密。 イングランドは1678年から自分で製造します。あと[[馬車>https://en.wikipedia.org/wiki/Carriage]]や鏡に使われるガラスはプープー吹いて広げる高価な[[吹きガラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Blown_plate_glass]]。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Crown_glass_%28window%29]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_クラウンガラス).JPG) 左側:クラウンガラスの作り方(1751–72年:フランスの百科事典[[Encyclopédie>https://en.wikipedia.org/wiki/Encyclop%C3%A9die]]) 右側:現存するクラウンガラス(イギリスのお家) イングランドは1567年Jean Carré(アンドワープ)にvessel glassとgreen glassのガラス製造の特許を与えてます。 瓶や鏡はvessel glass、窓ガラスはgreen glassをご使用。 ステンドグラスはフランスから輸入。窓は21世紀みたいに大きいガラス1枚じゃなくて小さいガラスの組合せっぽいです。  [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Early_modern_glass_in_England]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_クラウンガラス2).JPG) 左側:ガラス工場(1751–72年:フランスの百科事典[[Encyclopédie>https://en.wikipedia.org/wiki/Encyclop%C3%A9die]]) 右側:たぶんElizabethan window(1604年:作者不明「[[The Somerset House Conference, 1604>https://en.wikipedia.org/wiki/Somerset_House_Conference_(painting)]]」) } #blockquote(){&u(){&bold(){ノット・ガーデン}} ノット・ガーデンは[[エリザベス朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabethan_era]]に誕生した幾何学模様のお庭です。[[ルネサンス期>https://en.wikipedia.org/wiki/Renaissance]](14-17世紀)は四角が流行。 香りの良いお花やハーブを植えて通路にはお高級な砂利を施工。 ホワイト・ホール宮殿はバンケティング・ハウスの隣にある幾何学模様のお庭がノット・ガーデンでしょか? [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Knot_garden]] &ref(ロンドン_ホワイト・ホール宮殿(平面図_ノット・ガーデン ).JPG) 右側:ホワイト・ホール宮殿のノット・ガーデン? 左側:ハットフィールド宮殿オールド・パレスのノット・ガーデン } #endregion **ウェストミンスター宮殿 11世紀に建てられた最初のウェストミンスター宮殿はイングランド王のお家です。1512年の火災で宮殿のアチコチ焼失。 ってことで、王ヘンリー8世はお家をホワイト・ホール宮殿に引っ越し。 焼失を免れたウェストミンスター・ホールを[[イングランド議会>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England]]と[[王立裁判所>https://en.wikipedia.org/wiki/Royal_Courts_of_Justice]]に使用します。[[星室庁(Star Chamber)>http://en.wikipedia.org/wiki/Star_Chamber]]もこちら。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Palace_of_Westminster]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿.JPG)Henry William Brewer画「Palace of Westminster in the reign of Henry VIII」 どんどん拡大したウェストミンスター宮殿は1834年の火災で宮殿の大半が焼失します。 焼失を逃れたのはウェストミンスター・ホール、[[聖ステファン教会>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Stephen%27s_Chapel]]回廊と[[聖メアリー礼拝堂地下室>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Mary_Undercroft]]、[[ジュエル・タワー>https://en.wikipedia.org/wiki/Jewel_Tower]]だけ。 1840年から30年かけて再建。21世紀は[[貴族院>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Lords]]と[[庶民院>https://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Commons_of_the_United_Kingdom]]の[[イギリス議会議事堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_the_United_Kingdom]]に使ってます。 #region(close,平面図) F&B時代のウェストミンスター宮殿はもう少し小規模。肝心の星室庁がどこにあるのかは分かりませんでした。 たぶんウェストミンスター・ホール以外のどこか。 大きな画は[[British Library>http://www.bl.uk/onlinegallery/index.html]](Foundation plan of the ancient Palace of Westminster)をどうぞ。 &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(平面図).JPG)I. T. Smith画「plan of the ancient Palace of Westminster」(1807年) #blockquote(){&u(){&bold(){星室庁(Star Chamber)}} 星室庁は15世紀後半~17世紀中頃(1641年頃)まで活動した一般の裁判所では扱えない案件を裁く特別な裁判所です。 権力者の意に沿わない貴族達もビシバシお裁き。 [[John Stow>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Stow]]著「Survey of London」(1598年)によると天井は金色の星で飾られてます。これは中世の一般的手法。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Star_Chamber]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(平面図_星室庁).JPG)こんな感じ? 左側:作者不明「Interior of the Star Chamber, Westminster」(1836年) 右側:青色の天井に金色の星(イタリア:[[スクロヴェーニ礼拝堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Scrovegni_Chapel]]) 17世紀から被告人は強制的に「[[星室庁の誓い>https://en.wikipedia.org/wiki/Ex_officio_oath]](私は全ての質問に正直に答えます)」を宣誓させられます。 自分に不利な質問でも必ず答えが必要ってコト。 いちおう「[[自己負罪拒否特権>https://en.wikipedia.org/wiki/Self-incrimination]](私は答えたくありません)」はあるけど、黙秘や原告人に不満な答えだと偽証罪になります。 } #endregion #region(close,女王エリザベス1世はウェストミンスター宮殿へ歩いて行くの?) 女王エリザベス1世がどうやってウェストミンスター宮殿へ行ったのかは分からなかったけど、たぶん徒歩じゃないですよね。 こちらは輿(こし)に乗った女王エリザベス1世。 スペインは植民地のインドやメキシコで使われていた輿を導入。その後フランスやイングランドで登場します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Litter_(vehicle)]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(女王エリザベス1世).JPG)[[Robert Peake the elder>http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Peake_the_elder]]画「Procession portrait of Elizabeth I of England」(1600年頃) #blockquote(){&u(){&bold(){それともコーチ(馬車)?}} コーチ(馬車)がイングランドに登場したのは16世紀中頃です。 フランスを旅行した[[第19代アランデル伯爵>http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_FitzAlan,_19th_Earl_of_Arundel]](レディ・アンの夫フィリップ・ハワードの祖父)がイングランドに紹介。 こちらの[[ノンサッチ宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Nonsuch_Palace]]は1538年王ヘンリー8世が建てたお城です。左は女王エリザベス1世のコーチ? [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Coach_%28carriage%29]] &ref(ロンドン_ウェストミンスター宮殿(女王エリザベス1世_コーチ).JPG)[[Joris Hoefnagel>https://en.wikipedia.org/wiki/Joris_Hoefnagel]]画「Nonsuch, Surrey. View from the south」(1568年) } #endregion **ニューゲート監獄 ニューゲート監獄(1188-1902年)は[[ロンドン市城壁>https://en.wikipedia.org/wiki/London_Wall]]に7つある門の1つ[[ニューゲート>https://en.wikipedia.org/wiki/Newgate]]の敷地にある刑務所です。 1188年[[王ヘンリー2世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_II_of_England]]の命令で建築。 イギリス史上最悪の刑務所で賄賂や虐待が横行してます。これを改善したのが19世紀キリスト教の慈善家[[エリザベス・フライ>https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Fry]]。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Newgate_Prison]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄.JPG) 左側:Henry William Brewer画「Poster of Newgate in the sixteenth century」 右側:[[5ポンド紙幣>https://en.wikipedia.org/wiki/Banknotes_of_the_pound_sterling]]のエリザベス・フライ(発行:2002年5月21日-現在) #region(close,平面図(残酷な画があるのでご注意下さい)) 最初のニューゲート監獄(建築;1188年)は1236年にかなり大きく拡張工事しました。1666年[[ロンドン大火>https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Fire_of_London]]で焼失。 1672年ニューゲート通りの南側に再建。 こちらは1782年に再建した[[George Dance the younger>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Dance_the_Younger]]設計のニューゲート監獄です。 &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図).JPG)George Dance the younger画「Newgate Prison」(1800年) この監獄は真ん中から左右にお貧乏の「Common」と快適な「State area」に分かれてます。それぞれ重罪犯罪者と債務者で区別。 死刑囚は狭くて薄暗い独房。 囚人との面接は[[ロンドン市長>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Mayor_of_London]]か[[町会議長(?)>https://en.wikipedia.org/wiki/Sheriff]]の許可が下りれば可能です。 #blockquote(){&u(){&bold(){最初のニューゲート監獄}} ニューゲート監獄は中世の法規(Medieval statute)によって選任された2人の町会議長(?)が管理してます。 実際の仕事は町会議長が民間の下請け「Keepers(Gaolers)」へ発注。 Keepersは囚人からお金を貰って便宜を図ってもオケなので、ロンドンでの美味しい仕事の1つです。 &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図_牢獄).JPG)こんな感じ? 左側:J. Damhoudere画「justice, penitentiary system, prison, admission of a femal prisoner」(16世紀:フランス) 右側:J F Slattery著「Wisdom and Rubies: A tale of crime and misadventure in nineteenth century London」 ってことで、必然的にKeepersは「おらおら!お金払わないと虐めちゃうよぉ」と囚人を虐待するようになります。 鎖をはめた新入り囚人はお金を貰わないと外してもらえない。 悪名高いKeepersのHugh De Croydon(14世紀)は囚人を恐喝しすぎて有罪判決を受けちゃってます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ラックってなに?}} ラックは拷問装置の1つ。長方形の木箱の両端(または片方)に付いたローラで犠牲者をにょーんと伸ばします。 とっても痛い。 この様子を他の囚人に見せるのも効果的です。他にもアレコレな装置があるけど以下略ってことで。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Rack_(torture)]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図_ラック).JPG) 左側:イングランド女王[[メアリー1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England]]の宗教政策でラックにかけられたプロテスタント(1784年:John Foxe著「The Book of Martyrs」) 右側:作者不明「The Prison」(16世紀:イタリア) } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにタイバーン}} タイバーンは「タイバーンといえば処刑」「処刑といえばタイバーン」の公開処刑場です。 ニューゲート監獄で取り調べを受けた囚人は[[聖ジャイルズ教会>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Giles_in_the_Fields]]から[[オックスフォード・ストリート>https://en.wikipedia.org/wiki/Oxford_Street]]を通ってタイバーンへ。 ご遺体は近所に埋められるか解剖学者の献体になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Tyburn]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(平面図_タイバーン).JPG)[[Raphael Holinshed>https://en.wikipedia.org/wiki/Raphael_Holinshed]]著「First Volume of the Chronicles of England」(1577年) 最古の記録は1196年貧民救済活動家[[ウィリアム・フィッツ・オズバーン>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Fitz_Osbert]]です。裸で馬に引かれてタイバーンの小川で絞首刑。 絞首台は1571年[[マーブル・アーチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Marble_Arch]](21世紀)辺りへ移動。 16世紀~1759年の絞首台は「Tyburn Tree:三角形の絞首台」です。絞首台は1783年ニューゲート監獄へ移動。 } #endregion #region(close,クリンク監獄(残酷な画があるのでご注意下さい)) クリンク監獄(12世紀-1780年)は[[ウィンチェスター宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester_Palace]](サザーク)の隣にある悪名高いイギリス最古の刑務所です。 どちらも[[ウィンチェスター主教>https://en.wikipedia.org/wiki/Bishop_of_Winchester]]が所有。 16世紀は主教に歯向かう異教徒や宗教犯罪の人を収監。その後お金を返さない人の[[債務者監獄>https://en.wikipedia.org/wiki/Debtors%27_prison]]になります。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Clink]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(クリンク監獄).JPG) 左側:[[Wenceslaus Hollar>https://en.wikipedia.org/wiki/Wenceslaus_Hollar]]?画「Winchester Palace」(1660年) 右側:中世の手足枷(The Clink Prison Museum) #blockquote(){&u(){&bold(){地獄の沙汰も金次第}} 看守はお給料がすごく安いので囚人にベッド、寝具、ロウソク、薪炭を貸し出して収入を補ってます。飲食物は定価の2倍。 囚人の友人からのワイロも大好き。 お金がナイ囚人は支払いのために外に出て働いたり物乞いをしてもオケ。女性は売春宿で働いたりしてます。 &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(クリンク監獄_地獄の沙汰).JPG)[[William Hogarth>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Hogarth]]画「[[放蕩一代記>https://en.wikipedia.org/wiki/A_Rake%27s_Progress]]」(1732-1735年) こちらはギャンブルで財産を全て失って借金を抱えたトム・レイクウェルが[[フリート債務者監獄>https://en.wikipedia.org/wiki/Fleet_Prison]]に収監されたシーンです。 看守と小男はトムに金銭を要求中。 目を見開いてアワアワしてるトムの顔には狂気の兆候が表れてます。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにベドラム}} ベドラムは現存するヨーロッパ最古の精神病院。The New Order of St Mary of Bethlem小修道院が1330年病院になりました。 14世紀後半から精神異常者を受け入れたっぽい。 資金繰りが厳しいので1598年利益を上げるために病院を一般人に開放(患者を見世物にする)します。差し入れも歓迎。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Bethlem_Royal_Hospital]] &ref(ロンドン_ニューゲート監獄(クリンク監獄_ベドラム).JPG)William Hogarth画「放蕩一代記」(1732-1735年) こちらは精神を病み粗暴になったトム・レイクウェルが精神病院ベドラムに収監されて最後の日々を送っているシーンです。 周囲には音楽家、天文学者、王様、…と思い込んでる患者。 流行のドレスを着たご婦人達が精神病院ベドラムを訪れて患者の奇妙な行動を見物。そーゆー時代です。 } #endregion **劇場 イングランド初の劇場は[[レッド・ライオン>https://en.wikipedia.org/wiki/Red_Lion_(theatre)]](1567–1568年:[[ホワイトチャペル>https://en.wikipedia.org/wiki/Whitechapel]])です。でもあっという間に失敗。 初の成功は大きな劇場[[シアター座>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Theatre]](1576年:[[ショアディッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Shoreditch]])。 シアター座の成功でその後どーんどん劇場が建てられます。ってことで、劇団は劇場、[[宿>https://en.wikipedia.org/wiki/Inn-yard_theatre]]や[[法曹院>https://en.wikipedia.org/wiki/Inns_of_Court]]で公演♥ [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Renaissance_theatre]] &ref(ロンドン_劇場.JPG)薔薇座([[The Rose Playhouse>http://www.rosetheatre.org.uk/]]さんより) #region(close,後援者がいない劇団は「放浪者」) 16~17世紀イングランドの法律は[[浮浪者>https://en.wikipedia.org/wiki/Vagrancy_(people)]](Master less men)を焼印、鞭打ち、軍隊へ徴兵、…などなどの厳しい罰に処します。 ちなみにこの時代は「働けない」「働かない」の区別ナシ。 お仕事が見つからない浮浪者は旅に出て就職活動しなくちゃいけません。地方は浮浪者を歓迎しないからけっこう大変。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Playing_company]] &ref(ロンドン_劇団.JPG)作者不明「Vagrant being punished in the streets in Tudor England」(1536年) ロンドンの公式公演許可が貰えない劇団(俳優の一座)は地方巡業が中心なので「放浪者」の扱いになっちゃいます。 劇団はとーっても立場が弱い。 ちゃんとした後援者が付けば少なくとも「社会のお役に立つプロの劇団(The legal fig leaf)」として認められます。 #blockquote(){&u(){&bold(){エリザベス朝の劇団}} 劇団には約10人の[[出資者>https://en.wikipedia.org/wiki/Shareholder]](株主)がいます。出資者は俳優と裏方を雇用して劇団をマネージメント。 収入の大部分は地方巡業。 最大のコストは王様や貴族の衣装代。脚本家が貰える代金はとーっても安い(21世紀だとスーツ2着分くらい)です。 |&ref(ロンドン_劇団(エリザベス朝).JPG)|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:F&B時代の劇団|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:後援者| |~|[[海軍大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Admiral%27s_Men]]|[[初代ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード>https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Howard%2C_1st_Earl_of_Nottingham]]| |~|[[Lord Strange's Men>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Strange%27s_Men]]|[[第5代ダービー伯Ferdinando Stanley>https://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinando_Stanley%2C_5th_Earl_of_Derby]]| |~|[[ペンブルック一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Pembroke%27s_Men]]|[[第2代ペンブルック伯Henry Herbert>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Herbert%2C_2nd_Earl_of_Pembroke]]| |~|[[女王一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Elizabeth%27s_Men]]|女王エリザベス1世| |~|[[レスター伯一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Leicester%27s_Men]]|[[初代レスター伯ロバート・ダドリー>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Dudley,_1st_Earl_of_Leicester]]| |~|[[ウスター一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Worcester%27s_Men]]|[[第3代ウスター伯William Somerset>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Somerset%2C_3rd_Earl_of_Worcester]]| |~|[[サセックス一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Sussex%27s_Men]]|[[第3代サセックス伯Thomas Radclyffe>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Radclyffe,_3rd_Earl_of_Sussex]]| |~|[[セント・ポール少年劇団>https://en.wikipedia.org/wiki/Children_of_Paul%27s]]|Thomas Giles| こちらは[[クリストファー・マーロウ>https://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Marlowe]]著「[[タンバレイン大王>https://en.wikipedia.org/wiki/Tamburlaine]]」(1587-1588年)の本だと思います。 } #blockquote(){&u(){&bold(){女王エリザベス1世の女王一座}} #include(【共通】女王一座) } #endregion #region(close,よーし!劇場を建てちゃうぞー!(残酷な画があるのでご注意下さい)) まだ劇場がなかった頃、[[劇団>https://en.wikipedia.org/wiki/Playing_company]]はロンドン中心街にある[[宿>https://en.wikipedia.org/wiki/Inn-yard_theatre]]や[[法曹院>https://en.wikipedia.org/wiki/Inns_of_Court]]で公演してました。地方や海外への巡業もアリ。 1575年ロンドン市長は中心街から全ての役者達を追放。 ってことで、郊外に劇場の建設して大盛況。[[清教徒革命>https://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Three_Kingdoms]]で1642年「娯楽は罪」になると公演は禁止、劇場は破壊されます。 &ref(ロンドン_劇場(建築).JPG)[[George Walter Thornbury>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Walter_Thornbury]]著「A Play in a London Inn Yard, in the Time of Queen Elizabeth」(1873年) #blockquote(){&u(){&bold(){カーテン座}} カーテン座(1577–1622年頃)は小区画Curtain Close([[ショアディッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Shoreditch]])にある劇場です。シアター座のご近所。 所有者はたぶんHenry Lanman。 1585年シアター座の所有者[[ジェイムズ・バーベッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/James_Burbage]](有名な俳優[[リチャード・バーベッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Burbage]]の父親)に経営を委託します。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Curtain_Theatre]] &ref(ロンドン_劇場(建築_カーテン座).JPG)???画「The View of the City of london from the North towards the South」(1598年頃) [[宮内大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Chamberlain%27s_Men]]は1597~1599年カーテン座を第一劇場にご利用します。 [[ウィリアム・シェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Shakespeare]]脚本「[[ロミオとジュリエット>https://en.wikipedia.org/wiki/Romeo_and_Juliet]]」や「[[ヘンリー五世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_V_(play)]]」を公演。 1599年グローブ座の完成でカーテン座を去ります。 } #blockquote(){&u(){&bold(){薔薇座}} 薔薇座(1587-1606年頃)は[[バンクサイド>https://en.wikipedia.org/wiki/Bankside]]([[サザーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Southwark]])にある劇場です。最初にサザークにできた劇場の1つ。 所有者は[[フィリップ・ヘンズロー>https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_Henslowe]]。 1585年聖ミルドレッド教区の屋敷Little Rose(バラ園がある14面多角形と茅葺き屋根の2つの建物)を借りて劇場にします。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Rose_(theatre)]] &ref(ロンドン_劇場(建築_薔薇座).JPG)[[John Norden>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Norden]]画「Map of London」(1593年) ヘンズローは屋敷を倉庫と[[売春宿>https://en.wikipedia.org/wiki/Brothel]]に使用。1587年劇場に変更(舞台会社へ貸したのかも)したっぽいです。 劇場は外径22mの14面多角形で他より小規模。 ってことで、1592年[[ストレンジ卿一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Strange%27s_Men]]と[[海軍大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Admiral%27s_Men]]のためにステージを拡張します。でも使いづらいステージで不評。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ついでにベアガーデン}} ベアガーデン(1576-1682年頃)はサザークにある[[熊攻め>https://en.wikipedia.org/wiki/Bear-baiting]]や[[牛攻め>https://en.wikipedia.org/wiki/Bull-baiting]]の会場です。愛称は「The Paris garden」。 熊や牛が犬と戦うっぽい。 熱烈なファンの女王エリザベス1世は1573年「Master of Her Majesty 's Game at Paris Garden」に任命されてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Beargarden]] &ref(ロンドン_劇場(建築_ベアガーデン).JPG)German School画「Bull and bear Baiting」(?年) ベアガーデンは地図の年代によって位置がズレてるから正確な場所が分からないそうです。 地図を見ても悩まないでね。 } #endregion #region(close,よーし!グローブ座も建てちゃうぞー!) グローブ座(1599-1642年)はサザークにある宮内大臣一座が建てた劇場です。 土地は所有者[[Thomas Brend>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Brend]]の息子達から借地。 1613年火事で焼失して1614年再建。 お名前の由来は古代ローマの文筆家[[ペトロニウス>https://en.wikipedia.org/wiki/Petronius]]の格言「totus mundus agit histrionem:全世界が劇場」かもしれません。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Globe_Theatre]] &ref(ロンドン_劇場(グローブ座).JPG)[[Wenceslaus Hollar>https://en.wikipedia.org/wiki/Wenceslaus_Hollar]]画「Long View of London from Bankside」(1647年) #blockquote(){&u(){&bold(){よーし!テムズ川を渡ってお引っ越しだー!}} 1576年ジェイムズ・バーベッジ(有名な俳優 リチャード・バーベッジ の父親)は[[ショアディッチ>https://en.wikipedia.org/wiki/Shoreditch]]に[[シアター座>https://en.wikipedia.org/wiki/The_Theatre]]を建てます。 土地は所有者Giles Allenから借地。 Allenは21年の借地期間が終了すると「この劇場も俺のものだ」と主張。とーぜんバーベッジはプンプンです。 &ref(ロンドン_劇場(グローブ座_引っ越し).JPG) 1598年12月28日Allenがクリスマスで帰郷してる間、バーベッジは大工[[Peter Street>https://en.wikipedia.org/wiki/Peter_Street_(carpenter)]]達の助けでシアター座を解体します。 解体した木材は[[矯正院>https://en.wikipedia.org/wiki/Bridewell_Palace]]近くの倉庫へ。 翌年の春にテムズ川の対岸へ運んで新しい劇場グローブ座を建築します。たぶん1599年の夏までに完成♥ } #blockquote(){&u(){&bold(){ウィリアム・シェイクスピアもグローブ座の所有者}} グローブ座は[[宮内大臣一座>https://en.wikipedia.org/wiki/Lord_Chamberlain%27s_Men]]の株主6人(最初は[[William Kempe>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Kempe]]を含めた7人)で所有してます。 [[リチャード・バーベッジ>https://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Burbage]]と[[Cuthbert Burbage>https://en.wikipedia.org/wiki/Cuthbert_Burbage]]がそれぞれ25%。 [[ウィリアム・シェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Shakespeare]]、[[John Heminges>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Heminges]]、[[Augustine Phillips>https://en.wikipedia.org/wiki/Augustine_Phillips]]、[[Thomas Pope>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Pope_(16th-century_actor)]]がそれぞれ12.5%の配分です。 &ref(ロンドン_劇場(グローブ座_所有者).JPG)[[Shakespeare's Globe>https://en.wikipedia.org/wiki/Shakespeare%27s_Globe]](21世紀) 1613年グローブ座はシェイクスピア脚本[[ヘンリー8世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_VIII_(play)]]の公演中に大砲が不発。木の梁や藁葺き屋根に着火して焼失します。 現存する記録によると被害者1名。 火がズボンに燃え移ったけどエール瓶で消火したから大事にはならなかったそうです。グローブ座は翌年に再建。 } #endregion **ロンドン橋 ロンドン橋が石の橋になったのは1209年です。それまでは何度も崩壊を繰り返した木製で[[London Bridge is broken down ♪>http://en.wikipedia.org/wiki/London_Bridge_Is_Falling_Down]]。 橋の上に住宅、商店、礼拝堂を建築。 なんか画のテムズ川が激流っぽいけど、水流が狭いアーチを通るので実際すさまじい急流だったそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/London_Bridge]] &ref(ロンドン_ロンドン橋.JPG)Peter Jackson画「Old London Bridge, c 1600」 #region(close,凍るテムズ川) 14~19世紀の地球は[[ミニ氷河期>http://en.wikipedia.org/wiki/Little_Ice_Age]]。昔のテムズ川は広くて流れがゆっくりだったせいもあって凍ってました。 最悪だった1684年の記録では氷の厚さ28cmで輸送が2ヶ月間ストップ。 とはいえ、凍っちゃうもんはしょーがない。王ヘンリー8世はソリで氷上旅行、女王エリザベス1世は氷上祭りを開催します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Thames_frost_fairs]] |>|&ref(ロンドン_ロンドン橋(凍るテムズ川).JPG)映画「[[もうひとりのシェイクスピア>https://en.wikipedia.org/wiki/Anonymous_(film)]]」(2011年)| |BGCOLOR(lightgrey):CENTER:テムズ川が凍った年(カッコは多少凍った年)|1408、1435| |~|1506、1514、1537、1565、1595| |~|1608、1621、1635、1649、1655、1663、1666、1677、1684、1695| |~|1709、1716、1740、(1768)、1776、(1785)、1788、1795| |~|1814| #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドン橋で余計に凍るテムズ川}} ロンドン橋の狭いアーチはテムズ川の[[潮汐>https://en.wikipedia.org/wiki/Tide]]による浮き沈みを邪魔します。橋の上流側にお水が溜まっちゃう状態。 ってことで、冬になると凍りやすい。 16世紀アーチに揚水ポンプと製粉機の[[水車>https://en.wikipedia.org/wiki/Water_wheel]]が設置されると更に流れが悪くなります。橋を挟んだ両サイドの水位の差は2m。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(凍るテムズ川_氷上祭り2).JPG)Claes Van Visscher画「Panorama of London」(1616年) } #blockquote(){&u(){&bold(){テムズ川が凍ったら氷上祭り}} 氷上祭りの最初の記録は1608年です。最も有名な1683–84年の氷上祭りは[[John Evelyn>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Evelyn]]によると &italic(){&color(silver){「馬車は[[ウェストミンスター>https://en.wikipedia.org/wiki/Westminster]]から[[ミドル・テンプル>https://en.wikipedia.org/wiki/Middle_Temple]](ロンドン橋の近所)へ走って行く。通りには同じような馬車があちこちにいた。テムズ川にはソリ、スケート、牛攻め、馬車レース、人形劇、出店、酒場、…まるで[[古代ローマのバッカス祭>https://en.wikipedia.org/wiki/Bacchanalia]]のようだぁ!」}} とっても賑わってました。牛攻めはブルドッグと雄牛が戦う流血スポーツで1835年禁止。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(凍るテムズ川_氷上祭り).JPG) 左側:T. Dekker画「The great frost」(1608年) 右側:William Warter画「An Exact and Lively Mapp or Representation of Booths and all the varieties of showes and humours upon the Ice on the River of Thames by London」(1684年) 最後の氷上祭りは1814年2月1日から4日間開催。[[ブラックフライアーズ橋>https://en.wikipedia.org/wiki/Blackfriars_Bridge]]の下を象が歩いて渡りました。 そして地球はだんだん温暖に。 1831年すさまじい急流のロンドン橋は破壊。新しい橋は広いアーチで水の流れを自由にしてテムズ川は凍らなくなります。 } #endregion #region(close,16世紀のロンドン橋) ロンドン橋は不規則な間隔で19個のアーチに支えられてます。だから橋の上には建物をいっぱい建てられるのね。 車道(2m×2車線)をカート、ワゴン、馬車、歩行者が通行。 混雑すると渡るのに1時間かかるのでお急ぎの人は有料の渡し船をどうぞ。大型帆船が川を通るときは[[跳ね橋>https://en.wikipedia.org/wiki/Drawbridge]]が上がります。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(16世紀).JPG)Claude de Jongh画「View of London Bridge」(1632年頃) #blockquote(){&u(){&bold(){橋の上には建物がいっぱい}} [[チューダー朝>https://en.wikipedia.org/wiki/Tudor_period]](1485-1603年)はロンドン橋の上に約200の建物が建ってます。7階建てや橋をはみ出す建物まであった。 建物の賃貸は橋の維持費に。 [[聖トマス礼拝堂>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Magnus-the-Martyr]](chapel of St Thomas Becket)は王ヘンリー8世の宗教改革でお家(その後倉庫)になってます。 &ref(ロンドン_ロンドン橋(16世紀_建物).JPG)Peter Jackson画 ちなみに建物のトイレは橋の欄干(らんかん)に突き出した穴から川へ直行する[[落下式トイレ>https://en.wikipedia.org/wiki/Latrine]]です。ある意味水洗トイレ。 無数にある住宅や商店の穴から川へ…。 1382年頃橋の北側に公衆トイレを作ってるけど16世紀にもあるのかは分かりませんでした。 } #endregion **デットフォード王立造船所 デットフォード王立造船所は英国海軍の重要な造船所&海軍基地です。別名「海軍の揺りかご」。 1513年王ヘンリー8世(女王エリザベス1世の父親)が創立。 その後どーんどん拡大。軍艦が大きくなってくると浅瀬のテムズ川では不便になって1869年に閉鎖します。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Deptford_Dockyard]] &ref(ロンドン_デットフォード王立造船所.JPG) 左側:絶賛展示中のゴールデン・ハインド号(1581年頃) 右側:[[John Evelyn>https://en.wikipedia.org/wiki/John_Evelyn]]画「Map of Deptford Strond or West Greenwich belonging」(1623年) 女王エリザベス1世は世界一周を終えた[[ゴールデン・ハインド号>https://en.wikipedia.org/wiki/Golden_Hind]]をデットフォード王立造船所で公開展示しました。 残念ながら1660年朽ち果てて解体。 1581年[[フランシス・ドレイク>https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Drake]]は展示中の船内でナイトの爵位を授与してます。サー・フランシス・ドレイクになったの。 #region(close,ウォルター・ローリーの外套) デットフォード王立造船所はウォルター・ローリーと女王エリザベス1世の伝説「足元の水溜まりに外套を置いた」の候補地です。 この伝説は歴史家[[トーマス・フラー>http://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Fuller]]の創作かもしてないってウワサあり。 詳しくは分かりませんでした。とりあえず[[ウォルター・スコット>http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Scott]]著「Kenilworth. A Romance」(1821年)にも登場。 &ref(ロンドン_デットフォード王立造船所(ウォルター・ローリー).JPG)[[Emanuel Leutze>http://en.wikipedia.org/wiki/Emanuel_Leutze]]画「Queen Elizabeth I and Sir Walter Raleigh」(1848年:ドイツ) #endregion **ロンドン塔 ロンドン塔は女王陛下の宮殿にして要塞です。造幣所、天文台、銀行、監獄、王立動物園を装備。 13世紀から身分の高い人々専用の監獄&処刑場にご使用。 最後の住人は王ジェームズ1世。21世紀は徳川秀忠(江戸幕府の2代目将軍)がジェームズ1世に贈った甲冑が展示されてます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Tower_of_London]] &ref(ロンドン_ロンドン塔.JPG)[[Anton van den Wyngaerde>https://en.wikipedia.org/wiki/Anton_van_den_Wyngaerde]]画「Panorama of the Tower and Greenwich」(1543年) #region(close,平面図) ()は幽閉や処刑された人。ちょっと調べただけでもこんなに…。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_prisoners_of_the_Tower_of_London]] &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図).JPG)GULIELMUS HAIWARD and J. GASCOYNE画「A True and Exact Draught of the TOWER LIBERTIES」(1597年) |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:外堀| |BGCOLOR(lightgrey):a1|反逆者達の門|BGCOLOR(lightgrey):a2|ミドル・タワー|BGCOLOR(lightgrey):a3|ライオン・タワー|BGCOLOR(lightgrey):a4|タワー・ヒル&br()(ジェーン・グレイ)| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:外城壁| |BGCOLOR(lightgrey):b1|バイワード・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b2|ヨーマン看守の家|BGCOLOR(lightgrey):b3|レッゲス・マウント|BGCOLOR(lightgrey):b4|ブラス・マウント| |BGCOLOR(lightgrey):b5|デヴリン・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b6|ウェル・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b7|クレイドル・タワー|BGCOLOR(lightgrey):b8|セント・トマス・タワー| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:内城壁| |BGCOLOR(lightgrey):c1|ベル・タワー&br()(エリザベス1世)|BGCOLOR(lightgrey):c2|ビーチャム・タワー&br()(フィリップ・ハワード)|BGCOLOR(lightgrey):c3|デヴェルー・タワー&br()(ロバート・デヴェルー)|BGCOLOR(lightgrey):c4|フリント・タワー| |BGCOLOR(lightgrey):c5|バウヤー・タワー|BGCOLOR(lightgrey):c6|ブリック・タワー |BGCOLOR(lightgrey):c7|マーティン・タワー|BGCOLOR(lightgrey):c8|コンスタブル・タワー| |BGCOLOR(lightgrey):c9|ブロード・アロー・タワー |BGCOLOR(lightgrey):c10|ソルト・タワー|BGCOLOR(lightgrey):c11|クイーンズ・ギャラリー|BGCOLOR(lightgrey):c12|ランタン・タワー| |BGCOLOR(lightgrey):c13|ウェイクフィールド・タワー||||||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:城内| |BGCOLOR(lightgrey):d1|クイーンズ・ハウス&br()(アン・ブーリン:処刑前)|BGCOLOR(lightgrey):d2|タワー・グリーン|BGCOLOR(lightgrey):d3|処刑場|BGCOLOR(lightgrey):d4|セント・ピーター礼拝堂| |BGCOLOR(lightgrey):d5|ウォータールー兵舎|BGCOLOR(lightgrey):d6|ワードローブ・タワー|BGCOLOR(lightgrey):d7|クイーンズ・ロッジ|BGCOLOR(lightgrey):d8|ジュエル・ハウス| |BGCOLOR(lightgrey):d9|ブラッディー・タワー&br()(ウォルター・ローリー)|BGCOLOR(lightgrey):d10|ホワイト・タワー&br()(アン・ブーリン:処刑)||||| #blockquote(){&u(){&bold(){王立動物園(a3:ライオン・タワー)}} ロンドン塔の[[動物園>https://en.wikipedia.org/wiki/Menagerie]]は[[王ヘンリー3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_III_of_England]](在位:1216-1272年)の時代に最初の記録があります。正確な場所は不明。 北極グマ、象、ライオン、…がお住まい。 神聖ローマ皇帝[[フリードリヒ3世>https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_III,_Holy_Roman_Emperor]]は王ヘンリー3世の結婚に3匹のヒョウをプレゼント。動物は外交的な贈り物で増えます。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図_王立動物園).JPG)[[Marcus Gheeraerts the Elder>https://en.wikipedia.org/wiki/Marcus_Gheeraerts_the_Elder]]著「De warachtighe fabulen der dieren」(1567年:イングランド) 動物園は18世紀までに一般公開されます。入場料は3.5ペンスまたはライオンのご飯(犬や猫)。えっ!? 1835年ライオンが兵士を噛んだので閉鎖。 ってことで、60種280匹の動物達は[[リージェンツ・パーク>https://en.wikipedia.org/wiki/Regent%27s_Park]]にお引っ越しします。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドン塔のカラス(レイヴン)}} ロンドン塔にはレイヴンマスターがお世話する7羽の[[ワタリガラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Common_raven]]が住んでます。色違いの足バントでお名前を識別。 週休1日制で平均寿命は40歳。チーズが大好き。 伝説によると「カラスが迷うか飛び去ると王やイギリスは崩壊する」。[[風切羽>https://en.wikipedia.org/wiki/Flight_feather]]が1本切られてるので遠くまで飛べません。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Ravens_of_the_Tower_of_London]] &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図_カラス).JPG)レイヴンマスターと新入社員のカラスRockyさん(2012年) ロンドン塔とカラスを結びつけるお話しは沢山あります。 初期のお話しだとウェールズ神話「[[Brân the Blessed:祝福されたブラン>https://en.wikipedia.org/wiki/Br%C3%A2n_the_Blessed]](ウェールズ語:Bendigeidfran)」。 お名前の「Brân:ブラン」はウェールズ語だと「カラス(ワタリガラス)」ってコトです。 } #blockquote(){&u(){&bold(){ウェールズ神話「祝福されたブラン」}} ウェールズ王ブランは妹[[ブランウェン>https://en.wikipedia.org/wiki/Branwen]]を虐めるアイルランド王[[マソルッフ>https://en.wikipedia.org/wiki/Matholwch]](妹の夫)をコテンパンにします。 致命傷を負った王様は部下に「頭だけ祖国に持ち帰れ」と命令。 持ち帰った頭はGwynfryn(白い丘:その後ロンドン塔が建つ)に埋められます。顔はフランスの方を向いて侵入を阻止。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(平面図_カラス2).JPG)巨人の王ブラン ウェールズの伝承や神話の詩群「[[ウェールズのトライアド>https://en.wikipedia.org/wiki/Welsh_Triads]]」には「白い丘に埋められた王ブランの頭」の続きがあります。 なんと![[アーサー王>https://en.wikipedia.org/wiki/King_Arthur]]が頭を掘り起こしちゃった! アーサー王は「この国は&bold(){俺の強さだけ}で護ってるからへーきへーき」とキッパリ断言します。 } #endregion #region(close,ロンドン塔に収監された王女エリザベス1世) [[女王メアリー1世>https://en.wikipedia.org/wiki/Mary_I_of_England]]と王フェリペ2世の結婚に不満の[[トマス・ワイアット>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Wyatt_the_Younger]]は1554年[[ワイアットの乱>https://en.wikipedia.org/wiki/Wyatt%27s_rebellion]]を起こします。そして失敗。 共謀を疑われたエリザベス1世はベル・タワーへ収監。 厳しい尋問を受けます。下手したら処刑される可能性もあったけど賢明な供述と不屈の精神で無罪放免。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(エリザベス1世).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドン塔へ収監。ウッドストック宮殿へ軟禁。そして解放}} 1554年3月エリザベス1世はボートで[[反逆者達の門>https://en.wikipedia.org/wiki/Traitors%27_Gate]]を通ってロンドン塔に連行されます。入り口から精神的責めの開始。 とーぜん「私は反逆者じゃないです!」と抗議。 そんな毎日じゃ疲れちゃう。ベル・タワーの近くにある[[胸壁>https://en.wikipedia.org/wiki/Battlement]](Princess Elizabeth's Walk)でのお散歩は許可されてました。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(エリザベス1世_収監).JPG) 左側:George Cruikshank画「Queen Jane and Lord Guilford Dudley brought back to the Tower through Traitors Gate」(1840年) 右側:Robert Alexander Hillingford画「The Princess Elizabeth in the Tower of London」 5月共謀の証拠がなかったエリザベス1世はロンドン塔から[[ウッドストック宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Woodstock_Palace]](オックスフォードシャー)に移されます。 宮殿は荒廃してたのでロッジに軟禁。 1555年4月エリザベス1世は軟禁を解かれて女王メアリー1世の出産立ち会い人として宮殿に召喚されます。 &ref(ロンドン_ロンドン塔(エリザベス1世_収監2).JPG)English School画「Philip and Mary I」(1555年頃) 女王メアリー1世の子供は王位継承者になります。議会は「もし女王が亡くなったら王フェリペ2世が摂政でオケ」まで可決。 準備万端だー!でも誰もが想像しなかった想像妊娠。 王位継承が確実になったエリザベス1世は10月まで宮殿に滞在して支持を回復。その後[[ハットフィールド宮殿>https://en.wikipedia.org/wiki/Hatfield_House]]へ帰ります。 } #endregion **21世紀のハムステッド ハムステッドは[[チャリング・クロス>https://en.wikipedia.org/wiki/Charing_Cross]]の北西4マイル(6.4 km)にあるロンドンの最高級住宅街の1つです。大富豪が大勢お住まい。 お名前の由来は[[古英語>https://en.wikipedia.org/wiki/Old_English]]の「ham+stede」(homestead)。 丘がある広大な公園[[ハムステッド・ヒース>https://en.wikipedia.org/wiki/Hampstead_Heath]]では皆さんピクニックを楽しんでます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Hampstead]] &ref(ロンドン_ハムステッド.JPG)ハムステッド・ヒース ハムステッドは開発は17世紀になってから。16世紀は丘しかない「非常に景色が良い場所」「非常に空気が健康に良い場所」です。 1603年[[ロンドンの大疫病>https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Plague_of_London]]が発生。 政治家[[William Wade>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Wade_(English_politician)]]の記録によると大勢のロンドン市民がハムステッドに避難したそうです。 ~[[British History Online>http://www.british-history.ac.uk/]](Hampstead: Settlement and Growth)さんより~ #region(close,アパートメント) こちらはハムステッドにある3ベッドルームのアパートメントです。カイトのお父さんが支社長だからプール&ジム付きで検索。 お家賃は£845pw(≒158,250円:2015年8月)。 イギリスの賃貸アパートメントはpw(per week:週単位)とpcm(per calendar month:月単位)があります。 &ref(ロンドン_ハムステッド(アパートメント).JPG) #blockquote(){&u(){&bold(){ロンドンのアパートメントといえばホワイトヘブン(当社比)}} ホワイトヘブンはアガサ・クリスティ著「[[名探偵ポワロ>https://en.wikipedia.org/wiki/Agatha_Christie%27s_Poirot]]」の主人公[[エルキュール・ポワロ>https://en.wikipedia.org/wiki/Hercule_Poirot]]が住むアパートメントです。 ロケ地はロンドンの中心[[スミスフィールド>https://en.wikipedia.org/wiki/Smithfield,_London]]の[[Florin Court>https://en.wikipedia.org/wiki/Florin_Court]]。 1936年に建築された[[アールデコ調>https://en.wikipedia.org/wiki/Art_Deco]]のアパートメント。お家賃は分かりませんでした。 &ref(ロンドン_ハムステッド(アパートメント_名探偵ポワロ).JPG) 右側は名探偵ポワロのシーズン1~5の想像間取り図(実際のFlorin Courtの間取り図とは違います)です。 キッチンの場所は謎らしい。 詳細は[[Investigating Agatha Christie’s Poirot>http://investigatingpoirot.blogspot.jp/]]さん(The Apartment - Another floor plan)をどうぞ。 } #endregion *ポーツマス &ref(ポーツマス.JPG) **ウィンチェスター大聖堂 ウィンチェスター大聖堂は642年ウェセックス王[[チェンワルフ>https://en.wikipedia.org/wiki/Cenwalh_of_Wessex]]が十字形の教会[[オールド・ミンスター>https://en.wikipedia.org/wiki/Old_Minster,_Winchester]] を建てたのが始まりです。 11世紀ノルマン人がイングランドを征服([[ノルマン征服>https://en.wikipedia.org/wiki/Norman_conquest_of_England]])。 [[主教ウォークリン>https://en.wikipedia.org/wiki/Walkelin]](たぶん[[ルーアン大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Rouen_Cathedral]]の司祭)は1093年オールド・ミンスターを破壊してウィンチェスター大聖堂を建てます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester_Cathedral]] &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂.JPG)大聖堂 左側:オールド・ミンスター 右側:ウィンチェスター大聖堂(21世紀) 1534年王ヘンリー8世の宗教改革で[[ベネディクト会>https://en.wikipedia.org/wiki/Order_of_Saint_Benedict]]の[[修道院>https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester_Cathedral_Priory]]は解散。ウィンチェスター大聖堂は英国国教会の大聖堂になります。 女王メアリー1世は1554年大聖堂で王フェリペ2世と結婚。 ちなみにF&B時代ウィンチェスター大聖堂の主教は元気ハツラツな[[Thomas Cooper>https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Cooper_(bishop)]](任期:1584–1594年)です。 #region(close,平面図) 1093年に完成したウィンチェスター大聖堂はその後どーんどん拡大していきます。 理由は分からなかったけど、[[主教Robert Horne>https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Horne_(bishop)]](任期:1560-1580年)は[[回廊>https://en.wikipedia.org/wiki/Cloister]]や[[参事会会議場>https://en.wikipedia.org/wiki/Chapter_house]]など修道院の建物を破壊。 1632年[[主教Walter Curle>https://en.wikipedia.org/wiki/Walter_Curle]]は身廊を通らないで往来できるカールの通路(Curle 's Passage)を建てます。 |>|>|>|>|>|>|>|&ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図).JPG)| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:身廊| |BGCOLOR(lightgrey):a1|洗礼盤|BGCOLOR(lightgrey):a2|主教Wykehamの小礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):a3|主教Edingtonの小礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):a4|カールの通路| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:北翼廊| |BGCOLOR(lightgrey):b1|エピファニー礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):b2|[[地下聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/Crypt]]の入り口||||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:聖歌隊席| |BGCOLOR(lightgrey):c1|聖墳墓礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):c2|[[王ウィリアム2世>https://en.wikipedia.org/wiki/William_II_of_England]]の墓|BGCOLOR(lightgrey):c3|[[修道士の椅子>https://en.wikipedia.org/wiki/Monks_bench]]||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:南翼廊| |BGCOLOR(lightgrey):d1|[[アイザック・ウォルトン>https://en.wikipedia.org/wiki/Izaak_Walton]]の墓|BGCOLOR(lightgrey):d2|[[モーレイ>https://en.wikipedia.org/wiki/George_Morley]]の図書室||||| |>|>|>|>|>|>|>|BGCOLOR(lightgrey):CENTER:聖職者席| |BGCOLOR(lightgrey):e1|[[主祭壇>https://en.wikipedia.org/wiki/Altar]]|BGCOLOR(lightgrey):e2|[[聖スウィザン>https://en.wikipedia.org/wiki/Swithun]]の廟|BGCOLOR(lightgrey):e3|[[守護天使>https://en.wikipedia.org/wiki/Guardian_angel]]の礼拝堂|BGCOLOR(lightgrey):e4|聖母礼拝堂| #blockquote(){&u(){&bold(){身廊(しんろう)}} ウィンチェスター大聖堂の[[身廊>https://en.wikipedia.org/wiki/Nave]](長さ74m×幅27m×高さ24m)はヨーロッパにある[[ゴシック建築>https://en.wikipedia.org/wiki/Gothic_architecture]]の大聖堂で最長です。 14世紀[[主教William Edington>https://en.wikipedia.org/wiki/William_Edington]]は西側の[[柱間>https://en.wikipedia.org/wiki/Bay_(architecture)]]を壊してロマネスク式の身廊を建築。 [[主教William of Wykeham>https://en.wikipedia.org/wiki/William_of_Wykeham]]は1394年ロマネスク式の身廊を垂直様式に改造。天井も木製から石製[[ヴォールト>https://en.wikipedia.org/wiki/Vault_(architecture)]]にします。 &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図_身廊).JPG) 左側:身廊(入り口から聖歌隊席へ) 右側:身廊のヴォールト ロマネスク式(Romanesque style)は初期、垂直様式(Perpendicular style)は後期の[[英国ゴシック建築>https://en.wikipedia.org/wiki/English_Gothic_architecture]]です。 垂直様式は縦長の大きな窓や柱間を強調。へー。 ちなみにイングランド最長の身廊は[[セント・オールバンズ大聖堂>https://en.wikipedia.org/wiki/St_Albans_Cathedral]](長さ84m×幅23m×高さ?m)です。 } #blockquote(){&u(){&bold(){a1:洗礼盤(聖水盤)}} 身廊の北側にある洗礼盤はキリスト教の[[洗礼>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptism]]で使う[[聖水>https://en.wikipedia.org/wiki/Holy_water]]が入った器です。 たぶん1150年頃[[トゥルネー>https://en.wikipedia.org/wiki/Tournai]](ベルギー)から1.5トンの大理石(実は[[石炭系石灰岩>https://en.wikipedia.org/wiki/Carboniferous_Limestone]])を運んでイングランドで加工。 21世紀も洗礼に使われてます。 [[wikipedia>https://en.wikipedia.org/wiki/Baptismal_font]] &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図_洗礼盤).JPG) 左側:作者不明「Winchester Cathedral. View across the nave, showing the font and Wykeham's monument」(1836年頃) 右上:聖水盤 右下:聖水盤の聖ニコラス こちらは聖水盤の西側側面に彫られた[[聖ニコラス>https://en.wikipedia.org/wiki/Saint_Nicholas]]の伝説です。 左側は肉屋の告白(3人の迷子を殺して塩漬け樽に漬けた)を聞いた聖ニコラスが子供達を生き返らせる伝説。 右側は嵐で海中に沈んだ子供を聖ニコラスが救出して貴族の父親の元へ届ける伝説。 &ref(ポーツマス_ウィンチェスター大聖堂(平面図_洗礼盤2).JPG) } #endregion **アランデル城 アランデル城は1067年初代アランデル伯(第1期)ロジャー・デ・モンゴメリーによって建てられたお城。 持ち主はオービニー家→王様→フィッツァラン家と代わり、1556年第19代アランデル伯(第2期)の娘メアリー・フィッツァランが第4代ノーフォーク公トマス・ハワード(レディ・アンの舅)と結婚してハワード家が城主となった。 リドルフィ陰謀事件とかいろいろあったけど、現在もハワード家が住んでいる。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Arundel_Castle]] |&ref(ポーツマス_アランデル城.JPG,,height=200)アラン川|&ref(ポーツマス_アランデル城(図書室).JPG,,height=200)図書室| ※リドルフィ陰謀事件 ロベルト・ディ・リドルフィ(1531–1612)の「女王エリザベス1世を暗殺してメアリー・スチュアートをイングランド女王にする」という計画。ウォルシンガムに阻止されて失敗。 第4代ノーフォーク公は1569年「メアリーと結婚」の嫌疑で逮捕。解放後に今度は「スペイン王フェリペ2世と一緒にリドルフィ陰謀事件に参加」の嫌疑で逮捕。 爵位もお城も没収されて処刑。その後お城は後継者に返還された。 ←wikipedia要出典の内容。 *ハートフォードシャー &ref(ハートフォードシャー.JPG) ※[[ニュー川>http://en.wikipedia.org/wiki/New_River_%28England%29]]は1613年ロンドンの飲料水のために作られた人工水路です。F&B時代の最寄りはリー川? **ティバルト・ハウス ティバルト・ハウスはCullynges→Tongs→William de Tongge→Thebaudes(1440年)→Tibbolds→Theobaldsと名前が変わったお屋敷。 バーリー男爵ウィリアム・セシルは、1564~1585年ここにお屋敷を建築。 庭は[[フォンテーヌブロー宮殿>http://en.wikipedia.org/wiki/Ch%C3%A2teau_de_Fontainebleau]](フランス)にならって、植物学者[[ジョン・ジェラード>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Gerard]]が設計。 バーリー男爵の宮廷での地位にふさわしい建物で、女王エリザベス1世は1572~1596年の間に8回訪問してます。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Theobalds]] |&ref(ハートフォードシャー_ティバルト・ハウス.JPG,,height=200)王ジェームズ1世の頃|&ref(ハートフォードシャー_ティバルト・ハウス(内部).JPG,,height=200)1630年| 1607年ソールズベリー伯ロバート・セシルと王ジェームズ1世は、ティバルト・ハウスとハットフィールド宮殿を交換。 ティバルト・ハウスは王様のお気に入りだったそうです。 その後ティバルト・ハウスを相続したのは、王チャールズ1世(王ジェームズ1世の息子)。 [[ピューリタン革命>http://en.wikipedia.org/wiki/Wars_of_the_Three_Kingdoms]]で処刑されて、ついでに王様の財産ティバルト・ハウスも1650年頃破壊。なんということを…。 **ハットフィールド宮殿 オールド・パレスは1485年頃イーリー大司教[[ジョン・モートン>http://en.wikipedia.org/wiki/John_Morton_%28archbishop%29]]が建築したお屋敷。 英国国教会を作った王ヘンリー8世は、カトリック教会の排除でお屋敷も没収。 王様の子供達(メアリー1世、エリザベス1世、エドワード6世)はここで幸せな子供時代を送ったそうです。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/Hatfield_House]] 1553年女王メアリー1世が即位して、英国国教会だったイングランドはカトリック教会に逆戻り。 女王様は「英国国教会がエリザベス1世を女王にしようと計画するかも?ヤバイ!」と、エリザベス1世をハットフィールド宮殿に監禁。 そんな女王様も1558年死亡。エリザベス1世は庭のオークの下で、この知らせを聞いたそうです。 |&ref(ハートフォードシャー_ハットフィールド宮殿.JPG,,height=200)オールド・パレス|&ref(ハートフォードシャー_ハットフィールド宮殿(上空).JPG,,height=200)ハウス| ティバルト・ハウスと交換したソールズベリー伯ロバート・セシルは、1611年近所にジャコビアン様式の豪華なハウスを建築。 オールド・パレスは3/4を破壊して厩舎(馬のお家)に使用してます。なんということを…。 **リー川 リー川は16世紀までロンドンへ穀物を運ぶ重要なルート。川がグニャグニャしているので12世紀頃からアレコレ改良されてます。 1577年[[ウォーサン・アビー>http://en.wikipedia.org/wiki/Waltham_Abbey,_Essex]]に[[閘門>http://en.wikipedia.org/wiki/Lock_%28water_transport%29]](こうもん:段差のある川で船を上げ下げする装置)第一号も建築。 F&B時代はもっとシンプルな川だったのか?詳細は分からなかったです。あと[[ボウ・クリーク>http://en.wikipedia.org/wiki/Bow_Creek]]はリー川とテムズ川の合流点。 [[wikipedia>http://en.wikipedia.org/wiki/River_Lea]] |&ref(ハートフォードシャー_リー川(上流).JPG,,height=200)ハートフォードの上流|&ref(ハートフォードシャー_リー川(テムズ川と合流).JPG,,height=200)ボウ・クリーク| 需要なさそうだけど21世紀のリー川はこんな感じです。 &ref(ハートフォードシャー(リー川).JPG) ---- ----

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